青天の霹靂
2
豆腐屋の朝は早い。
誠志朗は、毎朝、午前4時に起きてボイラーのスイッチを入れる。
豆乳を作る小型プラントは水蒸気を熱源にしている。最初に、煮釜に水を入れ水蒸気で温めてお湯を沸かし、豆乳が通るパイプや絞り網に流して熱湯消毒する。その後、お湯を完全に排水して製造の準備が完了となる。
排水弁をすべて閉めて、グラインダーの上のホッパーに、前日から水に浸しておいた大豆を投入する。スイッチを入れると、グラインダーが回り出しコンピューターで計量された水が注入され、大豆が磨り潰される。この磨り潰された大豆を『呉』と言い、加熱する前のものは『生呉』、加熱した後のものは『煮呉』と言う。
一般的には、磨り潰した生呉を煮釜で加熱して煮呉を作り、それをステンレス製の絞り網で絞って温かい豆乳を作る『煮絞り製法』が主流だが、それだと大豆の皮の部分まで煮てしまうので、えぐ味や青臭さが出てしまう。
そのため、恋し屋豆腐店では、加熱する前の生呉を先に絞ってから煮釜で加熱する『生絞り製法』を採っている。これであれば、えぐ味や青臭さの少ない豆乳が出来る。ただし、加熱していない生呉は絞り網で絞り難いので網が破れやすくなり、同じ量の大豆から取れる豆乳量が少なくなる、いわゆる『歩留りが悪くなる』という欠点がある。
まあ、味を優先するなら、断然、生絞り製法ということになる。
そうやって出来た豆乳を、『微塵袋』と言う漉し袋をセットしたズンドーに取って、更に、その微塵袋も絞って、絞り網で取り切れなかった『おから』を取り除いたら1回分が終了となる。
時間にして20分くらいの作業だ。1回分は6キログラムの大豆を使い、大体23リットルの豆乳が取れる。豆乳濃度は大体14パーセントで、ちょっと濃い目の豆乳である。
続けて2回目の作業を始める。ホッパーに大豆を入れたら、1回目と同じように自動で豆乳が出てくる。
その間に、並行して別の作業を始める。
まずは豆乳をペットボトルに詰める。『豆腐柄杓』という片手鍋の大きいようなもので豆乳をすくい、ペットボトルに『漏斗』を使って熱い豆乳を注ぐ。ペットボトルの肩の高さよりちょっと上まで注いだら作業台の上でトントンして泡を抜き、キャップをカチッとなるまで閉めたら完成。『チラー水槽』という電気で冷たい水を作る水槽に放り込んで冷たくなるまで放っておけばオーケー。凄く簡単である。
次に絹豆腐を仕込む。これは真剣勝負だ。いきなり本日のメインイベントだ。なぜなら、ほかの豆腐に比べて、絹豆腐は断トツで圧倒的に失敗する可能性が高いからだ。誠志朗も絹豆腐は中々上手に作ることが出来なかった。巷の豆腐屋さんでも、木綿豆腐と寄せ豆腐は置いてあっても絹豆腐はないというところが結構ある。
絹豆腐は、『キヌ缶』という、あらかじめ絹豆腐6丁分のサイズに合わせて作ってある四角いステンレス製のバケットで豆乳と『にがり』を混ぜる。
にがりとは、海水から塩を精製する際に出来る副産物で、漢字で苦汁と書く。主成分は塩化マグネシウムであるが、そのほかにもカリウム・カルシウムなどのミネラル成分を多く含んでいる。味は、その名のとおり苦いので、くれぐれも興味本位でなめたりしてはいけない。
豆乳をキヌ缶に注いだら、すくい網で泡を取り除きながら混ぜ、温度計で温度を計る。69℃になるまで冷ますのだが、熱すぎる時にはホースでキヌ缶の周りに水を掛けながら冷ましたりする。
69℃になったら計量カップに用意したにがりを左手に持ち、右手には渡し船をこぐような木製の『櫂』の小さいものを持ち、心を落ち着けて、にがりをキヌ缶に一気に回し入れ、透かさず泡を立てないように丁寧かつ迅速にかき混ぜる。このかき混ぜるスピードや回数が重要なポイントで、豆乳の濃度・温度・苦汁の量などで微妙に変えなければいけない。かき混ぜ足りないと固まらず、かき混ぜ過ぎると固まるところと固まらないところが出来てしまい、どちらも売り物にはならない。
誠志朗も何度失敗したか分からない。父親に教えてもらったとおりにやっても全然きちんと出来ないのだ。本気で豆腐屋をやめようと、何度思ったか分からない。
それでも何百回とやっているとだんだんコツがつかめてきて、最近ではほとんど失敗しなくなった。もっとも、失敗ばかりしていたのでは商売上がったりである。
続いて、2回目の豆乳が出来たら、同じ要領で3回目の作業を始める。
その間に、2回目の豆乳で木綿豆腐を仕込む。木綿豆腐は『ワンツー寄せ』という道具を使う。ズンドーの直径に合わせた丸いステンレス製の金属板にいくつかの穴が開けてあり、それにはズンドーの高さよりも10センチメートルくらい長い持ち手が付いている。
あらかじめ、ワンツー寄せをズンドーの中に沈めておいて、豆乳の温度を69℃に調整し、表面の泡をすくったら、にがりをズンドーに回し入れ、ワンツー寄せをゆっくり底から豆乳の表面近くまで引き上げ、次に底までゆっくり押し下げて、再度、ゆっくり引き上げたら取り出す。やはり、この上げ下げのスピードが重要なポイントなのだが、絹豆腐ほどは難しくないので、ほとんど失敗することはない。
次に寄せ豆腐を仕込むのだが、寄せ豆腐は、木綿豆腐に比べてにがりの量を1割減らすだけで、ほとんど同じ要領で出来る。
こうやって仕込んだ豆腐の生地は、それぞれ30分から1時間そのまま熟成させる。
誠志朗は、最初のうちは、キヌ缶やズンドーに仕込んだ時間を書いた紙を貼っていたが、慣れてくると一連の流れで出来るようになった。
熟成が終わると、仕込んだ順から豆腐にしていく。
絹豆腐は、『ワンタッチカッター』という、上から見ると2行3列になったマス目のカッターをキヌ缶に上から差し込み、縦方向にカットする。ワンタッチカッターを引き抜いたら、あらかじめ水を張った水槽にキヌ缶を沈め、そーっと豆腐の生地を水槽に出していく。そうすると6本の豆腐の生地が出てくるので、最後に、『すくい式カッター』という、35ミリメートル幅のピアノ線が張ってあるカッターで豆腐の生地をすくうようにして切って出来上がり。
木綿豆腐は、穴の開いたステンレス板にアルミの型枠をセットして、その上にポリプロピレンの布を敷き、豆腐柄杓でズンドーから豆腐の生地をすくってはその布の上に敷き詰める。一定の高さに敷き詰めたら平に均し、その上にも布を掛け、上からプレス用のアルミ板を載せて、プレス機で30分から1時間プレスする。
プレスが終わったものを、『豆腐カッター』という、ステンレスの棒に庖丁の刃が一定の間隔で挟んであるもので縦横それぞれをカットして、水槽に放って出来上がり。
寄せ豆腐は、ズンドーに入っている豆腐の生地を、味噌汁を作る時に使う『お玉』ですくって豆腐パックに詰めて、包装機でフィルムを掛け、チラー水槽で急速冷蔵したら出来上がり。ふんわりと丸い姿がおぼろ月のようなので『おぼろ豆腐』とも言われる。
木綿豆腐も絹豆腐も、水槽から手ですくって豆腐パックに詰め、包装機でフィルムを掛け、チラー水槽で急速冷蔵したら完成。
この後、豆腐製造メーカーであれば、日持ちをさせるため『ボイルクール槽』という大きな機械で低音殺菌するのだが、豆腐の味や風味が飛んでしまうため、恋し屋豆腐店では低音殺菌しない『ノンボイル』で提供している。そのため、恋し屋豆腐店の豆腐は消費期限が翌日限りなのである。
ここまで一連の流れでやって大体2時間30分掛かる。朝4時から始めて6時30分くらいになる。予約などで注文の多い日は、更に1~3回やるので20分から1時間余計に掛かる。
「おはよう、誠志朗君」
母親の美也子が豆腐製造室のドアから顔をのぞかせている。
「おはよ」
額の汗を拭いながら誠志朗も挨拶する。6月下旬とは言え、鬼怒川温泉の朝は吐く息が白くなるくらい寒いのだが、豆腐製造室は常に蒸気と出来立ての豆乳の熱でサウナ状態だ。おまけに、首から足首くらいまであるビニール製の厚手のエプロンを着けているものだから、誠志朗の白衣の背中は汗でびっしょりだ。
「終わったら朝ご飯にしてね。今日はお弁当も作っておいたわよ」
エプロンを着けながら美也子が言った。
「うん、ありがと。もうちょっとだから……」
後は、掃除をして誠志朗の作業はお仕舞いである。煮釜にお湯を沸かし『苛性ソーダ』と呼ばれる水酸化ナトリウムの洗浄剤を入れて、パイプや絞り網の中を循環洗浄している間に、器具や道具を洗って、最後にお湯と水ですすいで完了。
美也子の方は、揚げ出し豆腐・生揚げ・がんもどき・豆乳ドーナツ・豆乳プリンといった揚げ物やスウィーツを作る作業を始めた。
「じゃあ、上がるね」
「お疲れ様、誠志朗君」
いつも美也子は、誠志朗に「お疲れ様」と言う。親が子に言う労いの言葉は「ご苦労様」でよいと思うのだが……
エプロンと長靴を洗剤で洗ってからアルコール消毒して、エプロンは豆腐製造室のドアの外側の壁に掛けて、長靴を脱ぎ、作業着の上着を脱ぎながら脱衣所に行った。背中に『恋し屋』とプリントされたTシャツを脱いで、ほかの洗濯物と一緒に洗濯機に放り込む。
Tシャツに書かれた流麗な文字は、書道は師範の腕前という華なりの宿しずかの先代の女将、つまり、静の母親に書いてもらったもので、恋し屋豆腐店を始める時に、誠志朗の父親が、白地と黒地の2種類のTシャツを、何を考えたのか100枚ずつも作ってしまったのだ。誠志朗は割りと気に入っていて仕事の時はいつも着ているが、澪は今まで一度も袖を通したことがない。
シャワーを浴びてジャージに着替えたら、やっと朝食だ。朝4時から働いているので可成りお腹が空いている。
居間のテーブルの上には朝食のおかずが並べられていた。ハムエッグと炒り豆腐と焼き海苔と香のものに豆腐と若布の味噌汁。朝食のおかずの品数が多いほど子供の頭がよくなるというテレビの特集を見た美也子が、時間に余裕のない時でも手を抜かずに沢山のおかずを用意してくれているのだ。効果のほどはまだ現れていない……
猫達に襲撃されないように、おかずにはプラスチックの大きな蓋がしてある。茶トラ猫のちゃあ君はお行儀がよいのだが、黒猫のシャア君は食道炎で流動食しか食べられないからか、すぐお腹が空いてしまうらしく、食べ物があるとついつい食べてしまう。それでいつも澪に「駄目でしょ! シャア君」と怒られているのだが、3秒経つと忘れてしまうらしい。
誠志朗は、テレビのスイッチを入れ、大盛りのご飯をよそい、食べながらニュース番組や天気予報をチェックする。天候によって売れる数量やアイテムが変わるので、翌日のお天気のチェックは最も重要だ。
明日は曇りで気温も低目の予報なので、豆腐より揚げ物が出るだろうから、揚げ出し豆腐とがんもどきを増やそうとか。因みに、がんもどきは木綿豆腐や絹豆腐の出来損ないやカットした豆腐の切れ端を使って、出来るだけロスを出さないようにしている。そうすれば生ごみも少なくて一石二鳥だからだ。
誠志朗が朝ご飯を食べていると、黒猫のシャア君が誠志朗の膝に乗ってきて、「なんか頂戴」と口では言っているようだが、声は出ない。
「もうすぐご主人様が来るからちょっと待ってな」
と言って膝から下ろすと、「何だ、くれないの?」と口では言っているようだが、やはり声は出ない。
誠志朗が食べ終わって食器を片付け始めると、茶トラ猫のちゃあ君もやってきて、2匹で誠志朗の足に体を擦り付ける。
そのうち、ちゃあ君はごろんと横になり、お腹を見せて「なでて、なでて」という格好をする。そうすると澪になでてもらえるので、すぐに覚えてしまったようだ。仕方がないので少しなでてあげてから食器を洗った。
それから、2階に上がって、自分の部屋に入る前に澪に声を掛けた。
「おーい、澪、そろそろ時間だぞーっ」
「ふあーい」
あくびと返事が一緒に返ってきた。
自分の部屋に入り、デイパックの中身を取り出した時、誠志朗は1枚のプリントを見付けた。経営実習の希望届。昨日、静の余りの勢いに、断るのを忘れてしまったことを思い出した。
「……朝一で謝らないと……」
思わずため息が漏れた。断ったら、静のあの性格だから、必ず理由を聞かれるだろう。そこで常盤のところに行くなんて言ったら「あっそう、どこへでも行けばいいわ」とか、「どうしてその場で言わないの」とか、とがめられるに決まっている。
「あー、めんどくさっ」
考えるのも嫌になったので、プリントは白紙のまま、今日使う教科書と一緒にデイパックに放り込んだ。
制服に着替えてライダースジャケットに袖を通し、デイパックを肩に掛けて部屋を出た。まだ起きてこない澪にもう一度声を掛けたが、「ふあーい」と、さっきと同じ返事だったので「もう知らないぞっ」と捨て台詞を残して1階に下りた。
玄関から出てバイクのエンジンを掛け暖機運転している間に、豆腐製造室にいる美也子に「いってきます。澪がまだ寝てるよ」と声を掛け、母の手作り弁当をデイパックの底に詰め込んで、ヘルメットとグラブを装着して出発した。
今日は豆腐の配達がないので時間に少し余裕がある。学校への最短距離は、会津西街道を只管南へ行くルートだが、誠志朗はちょっと回り道をすることにした。家の前の通称『小原通り』を左に出て学校とは反対方向に向かい、東武鉄道の踏切を渡ってすぐのT字路を左折し会津西街道に入り、線路と並行して温泉街方面に向かった。右手には鬼怒川の対岸の河原にあるオートキャンプ場が見える。
少し走ると小原の交差点になり、直進すれば東武鉄道の鬼怒川高原駅、右折すれば国道121号線のバイパス方面となる。ここを右折し『鬼怒岩橋』を渡ってすぐの交差点を左折する。因みに、その交差点右折すれば川治・塩原方面への近道、片道150円の日塩有料道路・龍王峡ラインとなる。
左折した後、バイパスを少し走ると、左手に『結の滝』が望める『滝見橋』という吊り橋のある『滝見公園』があり、少し先の左手奥に常盤のきぬやホテルが見えてくる。きぬやホテルに通じる路地に入りホテルの玄関前を通過すると、まだ早い時間なのにチェックアウトする宿泊客がちらほら見えた。
緩い右カーブときつい左カーブをゆっくりと下り、明治時代の終わりに東京電力下滝発電所の建設資材を運ぶために造られた『くろがね橋』を渡って、無料の足湯『鬼怒子の湯』を右に見て、急な坂を上った交差点を右折すると再び会津西街道に出る。そのまま直進して消防署、市役所支所の先を左折し線路を渡り、東武鉄道鬼怒川温泉駅を右に見ながら今市方面へ向かった。
朝の温泉街は、浴衣姿で散策する宿泊客の姿が見受けられたりして、何気に温泉情緒が感じられるものだ。
そこからはいつもの通学路を行く。10分くらい走ったところで、鬼怒川温泉駅から出ている学園行きのバスが少し先を走っているのが見えた。この時間のバスなら右側の後ろから3列目の席に常盤が座っている筈だ。
誠志朗は、片側2車線の道路の右側の車線に進路変更し、少しスピードを落としてバスにゆっくり近付くように走り、後ろから3列目の席に目をやった。
チョコミント柄のリボンを結んだ栗色のポニーテールを見付けた。マシュマロのように柔らかそうな白い肌とあどけない横顔。教科書か何かを眺めているのか目線は下に落としていた。
ほんの数秒程度の僅かな時間ではあるが、誠志朗にとっては、時間に余裕のある朝のささやかな楽しみだ。
ずっと並行して走っていたかったが、後ろから来る車にせつかれ、仕方なくバイクのアクセルを開き、エンジンの咆哮と共に一瞬でバスを追い越して先を急いだ。
スーパーひらたやの従業員駐輪場にバイクを停めたら、普段はダッシュで上っていく長い坂道を、今日はゆっくり歩いていった。
教室に着くと、まだ時間が早い所為か数人の生徒しかいなかった。取り敢えず、自分の席に座り、デイパックから教科書とノートを取り出し机の中に仕舞って、例のプリントを机の上に置いた。
「さあて、どうするかなぁ……」
ペンケースからシャープペンを取り出したものの、誠志朗は考えあぐねてしまった。取り敢えず書けるのは第1希望の欄にきぬやホテル、そうなると次は第2希望の欄に華なりの宿しずかになるが……、「受付順ならそうなるな」などと言い訳が浮かんできた。
考えたからといって名案の方は浮かんでこなそうだったので、誠志朗は気晴らしに屋上にでも行ってみることにした。階段を上って屋上に出ると、陽の光を全身に浴びた男体山が迎えてくれた。向かって右の方に寄り添うのが女峰山。その間にも山が2つ。男体山側が大真名子山で、女峰山側が小真名子山だ。因みに日光三山は、男体山と女峰山と太郎山なのだが、太郎山は大真名子山と小真名子山の奥にあって、屋上からは見ることが出来ない。これら5つの山で火山一家を成しているのだ。
今日は、柔らかな初夏の風が心地よい穏やかな陽気だ。栃木県人としては男体山に向かって何か叫びたくなる衝動に駆られるが、誠志朗は、誰かに聞かれでもしたら恥ずかしいと思い、やっばりやめた。
すると、屋上のドアが開き、肉付きのよいすらっとした御御足と9センチメートルの黒のピンヒールが現れた。
「おはよう、阿久津君。今日は早いのね」
担任の睦美先生だ。今日の御召し物は、薄いグレーのスーツに淡いピンクのブラウスのボタンを第2ボタンまで外して、もちろんスカートは超ミニ! 金色のソバージュがふわりと風に揺れた。
「あっ、おはようございます。」
「どうしたの、こんな早くに屋上なんかに来て……?」
「えっ、先生こそどうしてここに?」
「さっき阿久津君が階段を上っていくのが見えたの。それでちょっと気になって……」
「……」
「何かあったの?」
「……いえ、何もないですよ……」
「そうなの? だったらいいけど……」
「……心配して態々来てくれたんですか?」
「そうよ。だって、かわいい教え子だもの」
睦美先生は、本当に誠志朗を心配して様子を見にきたようだ。2年前はその優しさが仇になって生徒になめられる破目になってしまったというのに……
「……すみません」
「いいのよ。謝る必要なんてないわ。……今日は景色がいいわね。男体山が凄く奇麗!」
睦美先生は、そう言いながら、両手を上げて軽く伸びをした。
「……じゃあ、そろそろ戻りましょうか?」
「はい」
誠志朗は、睦美先生に連れられるように階段を下りた。途中、2階の廊下で、「職員室に行ってくるわ」と言って、睦美先生は振り向かずに手を振った。
教室に戻ると、隣の席の永一が、机の上に両足を投げ出して自慢のオールバックの髪を銀の板櫛で整えていた。
「よー、職員室に呼び出しか?」
「どうしてそうなる?」
「それを机の上に出しっ放しで、どこに行ったのかと思ってよっ」
銀の板櫛で経営実習の希望届を指しながら永一が言った。
「……ああ、……決められなくてさ……」
「そんじゃ、俺んとこ来れば?」
「やめてくれよ。これ以上悩みの種を増やすなよ」
「ああ、そういうこと!」
頭の回転の速い永一は、すぐに誠志朗の置かれている状況を理解したようだ。
「湯澤んとこは決まりとして、そのほかはどこよ?……まあ、一つに決められなければ全部行っちゃえば」
「いい加減なこと言うなよ。まったく、人ごとだと思って……」
「それより、霧降高原はいつにするよ?」
「だから、お前の助手席は乗らないって言っただろっ」
「何だよ、付き合いわりーな」
そんな脈絡のない会話をしていたら、栗色のポニーテールを揺らしながら常盤が教室に入ってきた。誠志朗が自分より早く来ているのでちょっと驚いた様子だったが、胸の前で小さく右手を振りながら、声に出さずに「おはよ」と口を動かした。誠志朗も右手の手首だけを上げて挨拶を返した。
「はあーっ、締りのねー顔ーっ」
「うるせー、そんなんじゃねーよっ」
あきれ顔をした永一が茶化してきたので、誠志朗は少し声を荒らげてしまった。
「はいはい、ご馳走さん。じゃあ、湯澤んとこで決まりだなっ」
「…………」
「だーかーらー、何を悩んでんだよ? …………まさか、お前、星野に誘われてんのかよ?」
永一の声がちょっと大きかったので、二人は慌てて静の席を見た。――が、まだ静が来ている筈はなかった。
「……はあーっ……」
誠志朗は大きくため息を吐いた。
「あらららららーっ、ご愁傷様ーっ。そりゃ断りづれーわなっ」
永一が、流石にそれはきついなーという顔をした。
「だけどよー、どういう流れでそんな話になんだよ?」
頭の回転が速い永一でも、とても想像し難いシチュエーションだったらしく、誠志朗に問い掛けてきた時、ホームルームのチャイムとほぼ同時に担任の睦美先生が教室にやってきた。
今日もまた、男子生徒の歓声が上がる。
「みなさん、おはようございます」
廊下側から2列目、前から3番目の席に視線を移し、教室を見回してから睦美先生が言った。
「星野さんは仕事の都合で遅れるそうです。――ほかに遅刻の人はいませんね」
静が遅れる連絡をしてくるのは珍しいと、誠志朗は思った。いつも、時間限り限りまで宿泊客のお見送りをしてくるので、バス1本分くらい遅れることはしょっちゅうなのだが――。それに昨日は、経営実習のことしか話さなかったし、特に変わった様子もなかった筈だ。
それ以外、ホームルームでの話は何もなかった。何もなかったので、睦美先生は、「朝、屋上に上がったら男体山が凄く奇麗だった」などと、誠志朗の方を見て話すものだから、誠志朗は、「頼むから余計なことは言わないでくれ」と念を送り続けていた。
ホームルームが終わると、早速、常盤が誠志朗のところにやってきた。
「ねえねえ、お兄ちゃん、静ちゃんどうしたのかな?」
「うーん、昨日、配達に行った時は特に変わった様子はなかったけどなー」
静に経営実習に来いって言われたなんて、常盤には口が裂けても言えない。
「そうなんだ。よかった。……あのね、お兄ちゃん? 昨日のお話、大丈夫だよね?」
「……ああ、うん。大丈夫だよ」
常盤の目を見てそう言いながら、誠志朗は静にきちんと謝ろうと決めた。
「よかった。ありがと」
常盤は、パーの形に広げた両手の指先同士をくっつけて、人差し指の横を桜色の唇に当てながらにこにこしている。大きくてくりっとした目が、笑うと半月型になるのも子供の頃と変わらない。
「あっ、それから、お兄ちゃん、今日のお昼ご飯は……?」
「……あーっ、今日は母さんが弁当作ってくれて……」
「そうなんだ。よかったね」
常盤は、今日もお弁当を作り過ぎたようだった。
「悪い、ごめんっ」
「大丈夫だよ、気にしないで! 静ちゃんが来たら一緒に食べるから……、それじゃあね」
小さく手を振って、常盤は栗色のポニーテールを揺らしながら自分の席に戻っていった。ほどなく1限の授業が始まったが、静が姿を見せたのは4限が終わる10分前だった。
昼休みになり、永一が購買に行くと言うのでスプライトを頼んだら、「付き合えよ」と返されて、仕方なく誠志朗も一緒に階段を下りていった。
購買のパンは結構競争率が高い。宇都宮市で人気の『パン・デ・パーク』という石窯パン工房が、毎朝石窯で焼いたコッペパンに、色々な具材を挟んだ調理パンを出張販売している。可成りボリューミーなパンで、女子なら1個食べれば満腹という代物である。
学食の方もやはり人気があって、カレーやラーメンといった定番メニューに加えて、DHAを多く含んだ青魚のおかずがメインの『頭がよくなるA定食』とか、大豆イソフラボンが豊富な煮豆や豆腐のおかずがメインの『美人になるB定食』というのが売れ筋のようだ。そんなネーミングで本当に大丈夫なのか甚だ疑問であるが、地元で最大手の『日本栄養給食センター』という給食受託会社がやっているのだから問題はないのだろう。
永一が購買のレジに並んでいる間に、誠志朗は、自販機でスプライトと永一に頼まれたドクターペッパーを買って、「先に教室に戻る」と2階の方を指差して階段を上がった。
教室では、何人かが思い思いに机を並べて弁当や購買のパンを食べている。
常盤も、静と机を向かい合わせにくっ付けて、常盤の手作り弁当を食べていた。遅れてきた静は弁当を用意する時間がなかったようだ。いつもなら親方特製の豪華幕の内弁当(静本人は「旅館の朝食の余り物の詰め合わせ」と言っている)を食べているところなのだが。
遅れた理由が気になったが、それよりも何よりも、静には経営実習のことを話さなくてはいけないので、誠志朗は、その機会を窺わなければならなかった。しかも、絶対に常盤のいないところで……
誠志朗が自分の机に座って弁当を広げたところで永一が戻ってきた。お目当ての『御用卵の極卵コッペ』が売り切れだと嘆いていた。それで仕方なく『イベリコ豚のコロッケコッペ』と『焼きそばパン』を買ってきたようだ。大して重要なことではないが、なぜか焼きそばが挟んであるコッペパンは、焼きそばコッペと言わず焼きそばパンという名前なのだ。
永一は、誠志朗が机の上に置いたドクターペッパーをプシュっと開け、一気に半分くらい飲んだ。
「ぷはーっ、薬くせー」
「お前、いつも同じこと言うのな?」
永一は、ドクターペッパーは薬品のような臭いと味がして癖になると言うのだ。ちょっと変わった嗜好だ。いくらアメリカのドラッグストアのペッパーさんが売り出したとはいえ、薬品は入れてないとは思うのだが……
しかも、永一は、夏場で食欲がない時でも、冷たいご飯にキンキンに冷やしたドクターペッパーを掛けると、何杯でも食べられると言うのだ。最早、常人の域をキャリーでオーバードライブしていると言っても過言ではない。
それから、誠志朗と永一は、机をくっ付けることもせず、ただ黙々と自分の席で昼ご飯を平らげた。食べ終わると、誠志朗は廊下の水道で弁当箱を洗ってデイパックに仕舞った。
「ちょっと寝るわ」
誠志朗は、イヤホンで音楽を聴いている永一にそう言って、机に突っ伏した。朝が早いので、昼ご飯を食べ終えるといつも睡魔に襲われる。窓際の席だけあってぽかぽかの陽気も眠気を誘う。
さっき寝入ったと思ったら、もう掃除の時間のチャイムが鳴った。誠志朗が教室の時計を見るとしっかり15分も寝ていたことになっている。
少しだるい感じの体を引きずりながら掃除場所に向かった。誠志朗の担当は、正門と反対側にある裏門付近。正確には通用門と言うらしい。
裏門に着くと、同じ班のクラスメイトがほとんどやってくれていたので、取り敢えず申し訳程度に、普段なら見なかったことにするくらいの小さなゴミを拾った。
ふと、静の掃除場所がこの近くのプール周りだったこと思い出した。確か、常盤は静とは違う班なので一緒にはいない筈だ。静を探してプールのフェンス伝いに行ってみると、角を曲がったところで静が竹箒を持ったままぼーっと立っていた。
考え事でもしているのだろうか、陽の光に照らされて紫に艶めく黒髪が微風にさらさらと揺れていた。物思いに耽っている姿も絵になる美少女だ。
誠志朗は、その後姿にちょっと臆したが、常盤との約束を守るために、怒られるのを覚悟して静に声を掛けた。
「……星野」
誠志朗の声に、驚いて静が振り返った。
「……誠志朗、……何よ、脅かさないでよっ」
「あっ、いや、ごめん……」
「……私……今、ぼーっとしてた?」
「……うん。何か考え事してた感じ……」
「あー、やめ、やめ。私らしくないわ」
「何かあったのか?」
「……何にもないわよっ。それより誠志朗こそ、私に何か用?」
誠志朗は意を決して口を開いた。
「……あのさ、経営実習のことなんだけど……」
「ああ、昨日の話? あれ、やっぱりいいわ。やめにする」
「えっ?」
「だから、やめにするの。なかったことにしてっ」
「……」
「何よ、不満なの?」
「……いや……そうじゃなくって……本当に何かあったのか?」
「しつこいわねっ、何もないって言ってるでしょっ」
「ごめん、悪かったよ」
誠志朗が予想していた展開とは相当違ったが、まあ、結果オーライなのでそれ以上は踏み込まないことにした。本来であれば、「うそ吐き」とか「優柔不断」とか「女たらし」とか「詐欺師」とかの罵り雑言を浴びせられ、平手打ち若しくはグーパンチの2、3発をお見舞いされてもおかしくないところだったのだが……
静が向き直って掃除を再開したので、誠志朗は「じゃあ」と言って自分の掃除場所に戻っていった。
掃除の後、5限と6限の授業が終わり放課になった。
帰り際、常盤が、誠志朗に小さく手を振りながら、声には出さずに「またあした」と口だけ動かして教室を後にした。
今日は金曜日なので、常盤は、生け花の習い事がある。そのほかにも、高校の英会話クラブに所属し、幼稚園からやっているピアノも続けている。中学生になって茶道と着付けも始めさせられて、入りたかった運動部を諦めたとも言っていた。将来、ホテル業で役に立ちそうなことは何でもやっている。また、一部はやらされている。
常盤を見送って、誠志朗も帰ることにした。隣の席の永一と正門のところまで一緒に行き、誠志朗が「じゃあ」と言うと、永一が「またな」と返して、そこで別れ、それぞれの駐車場へ向かった。
誠志朗が、無料でバイクを停めさせてもらっているスーパーひらたやの従業員駐輪場に着くと、通用口で業者と立ち話をしていた武内店長が気付いて声を掛けてきた。
「よう、誠ちゃん、ちょっといいかい?」
「あっ、店長さん、こんにちは。いつもありがとうございます」
誠志朗は同じ年代では礼儀正しい方だ。いつも、母親の美也子から「挨拶はきちんと。感謝の気持ちを忘れない」と躾けられていたからだろう。
「これから暑くなってくるから、金土日の週末限定で豆腐の特売をやりたいんだけど、誠ちゃんとこの豆腐を卸してもらえないかな?」
武内店長は、誠志朗が作る豆腐が美味しいとお気に入りで、以前から声を掛けてくれているのだが、誠志朗が学校のある日は時間的に製造出来る数量が限られてしまい、とてもとてもスーパーで販売する数量を作ることが出来ないので断っていたのだ。
「……すみません。土曜日なら何とか出来そうなんですが……、日曜日は定休日にしてますから、ちょっと……」
「……そこを何とかならないかなぁ……」
「…………せめて、日曜日くらいは母を休ませてあげたいと思いまして……、あっ、でも、僕が夏休みになれば大丈夫だと思います」
「……そうだよな。お袋さんに休んでもらいたいよなっ。……分かったよ。でも夏休みには出来るように予定しておいてよ」
「はい、ありがとうございます。お話をいただいたこと、母に伝えます」
武内店長に一礼して誠志朗はバイクのエンジンを掛けた。スーパーひらたやを後にして、左前方に男体山を見ながら鬼怒川温泉方面を目指した。国道121号線に入ると週末の金曜日の午後ということもあって、可成り交通量が多くなった。他県ナンバーの車が目立つようになる。
誠志朗は、鬼怒川に架かる中岩橋を渡ってすぐを左折し、東武鉄道の踏切を渡り、急な坂を下って高徳中岩河川公園を抜ける裏道に入った。こちらは国道121号線と東武鉄道とほぼ並行して走っているが、地元の人しか通らないので渋滞知らずだ。少し道幅が狭くなるところがあるがバイクなら楽勝だ。
大学病院の医療センター前を過ぎて再び121号線に合流し、暫く流れに乗って進んでいたが、また渋滞し始めたので、今度は、鬼怒川温泉唯一のスーパーマーケット『ライオンドー』の手前を左折し、『鬼怒楯岩大吊り橋』方面に向かった。鬼怒楯岩大吊り橋は、鬼怒川温泉のシンボル『楯岩』の上の展望台につながる長さ140メートルの歩道専用吊り橋だ。吊り橋を渡りトンネルを抜けたところにある『楯岩鬼怒姫神社』は、縁結び・子宝・長寿・商売繁盛・金運の神様で、展望台にある『縁結びの鐘』を撞くと良縁と子宝に恵まれると言われている。紅葉の時期に吊り橋の上や展望台から見る景色は正に絶景だ。
吊り橋を左に見て少し走り、立岩橋の交差点を直進して桜並木通りに入ると、左手の渓谷沿いに静の華なりの宿しずかが見えてくる。両側の大型観光ホテルに挟まれるようにひっそりとたたずんでいる。
そのまま道形に暫く走り、滝見橋のある吊り橋入口の交差点を右折して会津西街道の旧道に入ると、ほどなくして家に着いた。
誠志朗は、バイクを店の前に横付けして停めてエンジンを切った。店の入口から入るとレジカウンターの横の机で澪が勉強しながら店番をしていた。
「おかえり、誠志朗君」
「ただいま」
今日はお客さんと間違えなかったようだ。
「母さんは?」
「はーっ、帰ってくるなり母親のオッパイを強請るとは……、重度のマザコンだな、誠志朗君はっ」
「なっ、何を言ってんだ。それにオッパ……なんて言うなっ」
「キャハハ、赤くなってるぞ誠志朗君」
「……うるさいっ、もういいっ……」
澪のことは相手にせず、誠志朗は店の冷蔵ショーケースの中をチェックし始めたが、もうほとんど売り切れてしまっていた。
「……今日は順調だな」
「ついさっき、観光客みたいな人が来てまとめ買いしていったんだぞ、誠志朗君」
「へーっ、珍しいな、観光客がここまで来るなんて」
「だねー」
恋し屋豆腐店は、温泉街からは結構離れていて、しかも会津西街道の旧道沿いにあるので、店の前の小原通りは地元の人以外はほとんど通らない。たまに、きぬ川小学校の奥にある市営浴場の『鬼怒川公園岩風呂』に入浴に来た観光客が、川治・湯西川方面に向かう時に近道として通るくらいだ。
観光客と言えば、以前、グルメリポーターの『彦丸』という芸能人が、宿泊した温泉ホテルの食事に出た『しぼり木綿豆腐』が凄く美味しかったと言って、態々、タクシーに乗って買いに来てくれたことがあった。しぼり木綿豆腐は、予約を受けてから製造する豆腐で、木綿豆腐の豆乳量を2割り増しにして固めにプレスすることで、大豆の味が凝縮され、味しみもよくなり、肉豆腐・すき焼き・おでんなどで美味しく食べられる豆腐だ。豆腐好きだというグルメリポーターから「メチャメチャ美味しい豆腐やーっ」と言われて誠志朗は凄く嬉しかったことを覚えている。その際、彦丸ブランドで商品化してネット販売したいと言ってくれたのだが、恋し屋豆腐店の豆腐は、味と風味を損なわないように、低温殺菌しないノンボイル製法を採っているため、消費期限が翌日限りでネット販売には無理があるので、残念ながらお断りさせていただいたのだった。
「今日は早仕舞いだな」
そう言いながら誠志朗は、2階の自分の部屋に上がり、ベッドにデイパックを投げ置き、ジャージに着替えて明日の仕込みを始めた。明日は土曜日で学校も休みだし、温泉街のホテルから沢山の注文が入っているので、可成り多めに仕込まなければならない。レジカウンターの奥のホワイトボードには、美也子の字で注文先とその数量が書いてある。
誠志朗は、注文の数量と店頭で販売する数量を計算し、水に漬ける大豆の量を割り出した。慣れない頃は電卓を使っていたが、今では暗算でやってしてしまう。
計算が終わると、タマネギなどを入れるオレンジ色の野菜ネットの大きいものを数枚用意し、大豆が保管してある冷蔵庫から30キログラム入りの大豆を2袋持ってきて、6キログラムずつ計りながらネットに入れていく。豆乳を作る1回分の量が大豆6キログラムなのだ。それを今日は8袋分作り、大きな水槽に水を張って一晩浸しておく。
恋し屋豆腐店で使う大豆は、日光市の隣町の塩谷町というところで、有機農法をやっている杉田農場で作ってもらっている。『塩谷在来種』という江戸時代からある大豆なのだが、今では作る農家が少なくなって杉田農場を含めて4軒の農家でしか作っておらず、一般には出回らないため『幻の大豆』と言われている。国産大豆の中でもショ糖含有率が極めて高く、甘みの強い豆腐が出来る希少品種だ。
更に、豆腐作りには大豆と同じくらい重要な水も、明治時代に掘った家の井戸の水を使っている。鬼怒川温泉は日光国立公園内にあり、バブル期の頃でも乱開発がされていないので豊かな自然が守られている。そこで長い年月を掛けて磨かれた地下水は、不純物が極めて少ない美味しい水で、豆腐作りに適しているのだ。
実際のところ、全国の国立公園や国定公園の周りでは、美味しい水を目当てに豆腐メーカーが工場を建設していて、鬼怒川温泉の近くでも2社の豆腐工場が稼動している。
それから次にやることは、昨夜のように、余り物の絹豆腐を揚げ出し豆腐や生揚げにするために水切りしておくことだが、今日は絹豆腐が完売してしまったのでやることがない。
今日の余り物は、木綿豆腐と寄せ豆腐が1丁ずつなので、誠志朗は、母親の美也子に炒り豆腐と豆腐スープを作ってもらおうと思っていた。
さて、本当にやることがなくなったので、居間に上がってテレビでも見ようかとリモコンに手を伸ばした時、店の電話が鳴った。
「誠志朗君、出てっ」
また、澪が電話に出ようとしない。
「……まったく、もう……」
座ったばかりの椅子から立ち上がり、店に入ってカウンター越しに受話器をつかんだ。
「はい、恋し屋豆腐店です」
「おっ、誠ちゃん、ちょうどよかった」
声の主は、華なりの宿しずかの社長兼親方・星野英雄だった。
「こんにちは。お世話になってます」
「挨拶は抜きでいいよ」
金曜日の夕方で旅館の調理場は相当忙しい様子だ。
「悪いんだけど、今晩8時頃こっちに来れねぇかい?」
「えっ、何ですか?」
「『困ったこう薬、貼り場がねぇ』ってとこでよっ、悪いけど頼むわ!」
意味不明な付け足し言葉を言って、親方からの電話は切れた。忙しいから仕方がないにしても、やっぱり親娘だなと誠志朗は思った。
「誰から?」
澪が聞いてきたので、誠志朗は、ちょっともったいを付けて答えた。
「華なり……」
「えっ、静様?」
「……の……親方……」
「…………」
「無視すんな!」
「聞いて損したぞ、誠志朗君」
誠志朗は、無視されたお返しにちょっと澪をからかってみた。
「でも、何か変なんだ。『困った。こう薬がない』って言ってて、8時に来てくれって言うんだよ」
「誠志朗君、こう薬って何?」
「湿布薬のことじゃないか?」
「……じゃあ、親方が捻挫でもして、湿布薬がないから買って来てってこと? でもどうして今すぐじゃなくて8時なんだ? 誠志朗君」
「これから忙しい時間だし、湿布薬の臭いが料理に移ったらまずいからじゃないか?」
「ああ、そうか。なるほど!」
一人で合点がいっている澪を見て、誠志朗は、吹き出しそうな笑いを堪えるのに苦労した。
でも、何があったのか。それが静の遅刻の理由だったのか。誠志朗は、掃除の時間の静の様子を思い出した。
「ただいまー」
ほどなくして、母親の美也子が帰ってきた。商工会の会合に出てきたようだ。7月の龍王祭の打ち合わせがあると言っていたのを思い出した。
龍王祭は、鬼怒川温泉と川治温泉が合同で行う夏祭りで、毎年7月の第4週の金土日に開催される夏休み最初のイベントだ。もう40年以上続く歴史のあるお祭りで、温泉街を提灯で飾り、露天の屋台がところ狭しと並び、神輿が練り歩く。数年前には女性だけの女樽神輿も復活した。地元の人と観光客が一緒になって盛り上がれるお祭りだ。
「おかえり、お疲れ様」
「おかえりなさい、お母さん」
「澪ちゃん、店番ありがとね。……あらー、ほとんど売り切れね。さすが看板娘っ」
美也子が、冷蔵ショーケースをのぞき込みながら澪を労った。
「やめて! お母さん。そんなこと言わないで……」
澪は、唯でさえ『恋し屋』という店の名前が気に入らないのに、況してや、そこの看板娘なんて言われたくないのだ。
「母さん、木綿と寄せが余ったよ」
「じゃあ、お肉があるから肉豆腐と豆腐スープにする?」
「肉豆腐がいい!」
透かさず澪がリクエストした。誠志朗も炒り豆腐を主張しようと思ったのだが、少年の主張は澪に直ちに却下されそうなので、口に出すのさえやめてしまった。
誠志朗は、店のシャッターを下ろし、ガラス戸を閉めて鍵を掛けた。澪は、手提げ金庫を持って、明かりを消そうとスイッチに手を伸ばしている。
「いいよ」
誠志朗がそう言うと、澪がスイッチを押して、本日の営業は終了。
居間に上がると、誠志朗の足元に黒猫のシャア君がやって来て、食道炎で声が出ないものだから、口だけ開いてご飯の催促をした。
「澪ーっ、シャア君がご飯だってー」
「はいはーい、ちょっと待ってねー」
澪が、よく通る声で返事をしてご飯の用意を始めると、茶トラ猫のちゃあ君も来て「ホワッ、ホワワッ」と何か話し掛けている。そして、ちゃあ君はカリカリの餌を、食道炎のシャア君はペーストの餌をもらって、仲よく並んで食べ始めた。
キッチンで夕ご飯の準備を始めた美也子に誠志朗が話し掛けた。
「ねえ、母さん、今日、学校帰りにスーパーひらたやの店長さんに会って、俺が夏休みになったら豆腐の特売をやりたいって言ってくれたよ」
「あら、それは有難いわね。夏は売上が下がっちゃうから助かるわー。あっ、夏休みって言えば、誠志朗君。さっき、商工会の会頭さんから今年の龍王祭のイベントを手伝って欲しいって頼まれちゃったわよ。『熱湯ヒーロー・リュウオウジャー』ていうのをやるんだってっ」
「えっ、何それ?」
「よく分からないけど、温泉を守るヒーローみたいよ。レッドとピンクのほかに、龍王峡に因んで白と青と紫があるんだって」
「えーっ、やだよ、そんなの」
「でも、若い人じゃなくちゃ駄目だから絶対お願いしますって言われちゃって、分かりましたって返事しちゃったわよ」
「えーっ」
「ごめんね。でも、困ってるみたいだから手伝ってあげて。お願い、誠志朗君」
「そういうの苦手なんだよなぁ」
「お願いね、誠志朗君」
「はぁーっ」
「お願いね!」
「分かったよ。あっ、それと、さっき、華なりの親方から電話があって、俺に話があるから8時に来てくれって言うんだよ」
「あら、何かしらね?」
「湿布薬がなくて困ってるみたいだよっ」
誠志朗がからかって言った内容を、澪がそのまま美也子に伝えた。
「あら、何それ? でも大変ね。誠志朗君、今から行ってあげたら?」
美也子も澪の言葉を真に受けている。それを聞いて、笑いを堪えながら、でもちょっとまずいなと思った誠志朗は、
「でも、8時って言ってたから、8時に行ってくるよ」
と、美也子に答えた。当然ながら、湿布薬を買っていくつもりはないのだが……
誠志朗が、テレビでニュース番組と天気予報をチェックしていると、美也子と澪が夕ご飯を運んできた。木綿豆腐を使った肉豆腐、寄せ豆腐の中華スープ。それと澪が、レタスを千切って生ハムを載せただけの手抜きサラダ。
「……澪、ちゃんと手を洗ったよな?」
「失礼だな、ちゃんと洗ったぞっ。そんなこと言う誠志朗君にはあげないっ」
澪は、サラダボウルを誠志朗の手の届かないところに置いてしまった。
「冗談だよ。ごめんごめん」
「あらあら、喧嘩しないのよ」
透かさず美也子が仲裁に入った。
「まっ、許してやるか」
「はいはい、ありがとうございます」
「『はい』は1回だぞ、誠志朗君」
「……」
どうやら、阿久津家の序列は、美也子→澪→誠志朗→ちゃあ君・シャア君の順のようだ。場合によっては、誠志朗より猫達の方が上の場合もあり得るのかもしれない。
夕ご飯を食べながら、誠志朗は美也子と明日の土曜日の予定を話した。
「明日は、8回分の大豆を浸したから、最後が9時くらいだよ」
「明日も4時から?」
「そうだけど、もうちょっと早くする?」
「ううん、大丈夫。明日はお店に来てくれるお客さんが多いから配達は少ないのよ。それと、豆乳をちょっと多めに取っておいてくれる? ペットボトルじゃなくてサーバーに1リットルくらい」
「うん、分かった。でも、何するの?」
「豆乳ババロアを作ってみようと思って……」
「澪も手伝う!」
ババロアと聞いて澪の触手が動いた。試作を手伝えば当然のように試食が出来るからだ。
「そういうところは抜け目ないのな」
「うるさいぞ、誠志朗君はっ」
一喝されてしまった。どうも今日は澪の当たりが強いので、誠志朗は早々に退散して風呂に入ることにした。華なりの親方との約束の午後8時までにはまだ充分時間があるし、帰ってきたらすぐ寝ようと思ったからだ。
誠志朗は、ゆったりと風呂に浸かって、風呂上りには牛乳を飲んだ。いつものように左手は腰に当てながら。牛乳を飲んでいる時に、澪が「湿布薬忘れないでねー」なんて言うものだから、危うく吹き出しそうになって鼻から牛乳を垂らしてしまった。
それから2階に上がり、時間まで勉強でもしようかと、教科書を手にしてベッドに横になった。
「誠志朗君、時間だよー」
澪の声で飛び起きた。誠志朗は、教科書を開いた途端に寝てしまっていた。下手な睡眠薬より効果があるかもしれない。時計は午後7時45分になるところだった。
急いで着替えて、外に出てバイクのエンジンを掛けた。急いでいても暖機運転は欠かさない。ヘルメットを被ったまま玄関から「いってきます」と声を掛けて出発した。
いつもの最短コースを行く。時間にして10分くらいだ。会津西街道の旧道は、ところどころにしか街灯がないので、夜はほとんど真っ暗だ。特に小原沢橋辺りは怖いくらいの暗闇に包まれている。吊り橋入口を左折し、少し走ると右手の鬼怒川の対岸に、常盤のきぬやホテルが見える。客室やティーラウンジには柔らかな明かりが点っている。金曜日ということもあり沢山の宿泊客で賑わっているようだ。
消防署と市役所支所を過ぎると、ほどなくして華なりの宿しずかに到着した。駐車場から裏口に回って、帰る方向に向けてバイクを停めた。ヘルメットとグラブをバイクのガソリンタンクの上に置き、手櫛で髪を整えながら通用口の呼び鈴を押した。
少しして、通用口のドアが開いた。
「よう、悪いね。誠ちゃん」
どことなく疲れた感じの親方が誠志朗を出迎えた。
「こんばんは」
「じゃあ、こっち……」
親方に連れられ、廊下を抜けて事務所に入った。
「適当に座っててよ。あいつ呼んでくっから……」
「……あっ、はい」
すぐに親方が戻ってきて、誠志朗の斜向かいのソファーに腰掛けた。
「今、あいつ、来るから……」
「……あっ、はい」
少しの沈黙の後、誠志朗が切り出した。
「……あのー、さっきの電話で…… 困ったって……言ってましたよね?」
「ああ、そうなんだよ。俺は、銀行のことはチンプンカンプンでよ……」
親方がイガグリ頭をかきながらそう言った時、事務所のドアをノックして静が入ってきた。
淡いインディゴブルーのデニム地の着物に濃紺の帯、朱色の帯留がアクセントになっている和モダンな着こなし。艶めく黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。
「いらっしゃい」
静も、どこか疲れた様子だった。
「……こんばんは」
「突っ立ってねえで早くこっちに来て説明しろっ」
親方が静をせつく。
「……分かったわよ……」
静が、誠志朗の正面に座った。
「……んっ、んんっ」
咳払いをして、静が話し始めた。
「……昨日の夕方、誠志朗が帰った後、銀行から電話があったの……」
「…………」
誠志朗は黙って静の話に耳を傾けた。
「社長と女将で来て下さいって……。それで今日、朝一番で行ったら、金融庁の検査で区分が下がりそうだから、改善計画書を作って持ってこいって……。それがなければ、新たな借入れが出来なくなるって言われて……」
「早い話が不良債権って奴よっ」
親方が焦れて横から口を挟んだ。
「ちょっと、分かんない癖に横から口を挟まないで!」
静が苛付いた口調で親方をたしなめた。
「……あのー、ちょっと、言ってることが分かんないんだけど……」
誠志朗は、この話がどうして自分に関係あるのか理解出来なかった。
「ごめんなさい。もう一度最初から話すから、取り敢えず最後まで聞いて」
静は、色々書き込んであるノートを見ながら、もう一度最初から詳しく話し始めた。
◇華なりの宿しずかは、地元の下野銀行に借入金がある。
◇借入金は、遅滞なく約定どおり分割返済されている。
◇花なりの宿しずかは、売上・利益の減少が続いている。
◇下野銀行は、6ヶ月毎に貸出先の査定を行っている。
◇前回の査定結果は『要注意先』の債務者区分となっている。
◇現在、下野銀行には金融庁の検査が入っている。
◇金融庁の検査で、華なりの宿しずかに対する下野銀行の査定が否認された。
◇否認理由は、利益の減少が続き、キャッシュフローによる債務償還年数が35年超となったためである。
◇その結果、債務者区分が『要注意先』から『破綻懸念先』に格下げされた。
◇『破綻懸念先』には、原則、新規の融資が出来ない。
◇そのため、下野銀行は、金融庁に対し債務者区分見直しの復活折衝の機会を得た。
◇復活折衝の材料として、蓋然性のある『経営改善計画書』の提出が必要になった。
◇その計画書が認められれば、債務者区分が『要注意先』に復活する。
◇加えて、その計画達成に必要な設備資金等の融資が可能となる。
「……えーと、初めて聞く言葉が多くて正確に理解出来てないかもしれないけど、最終的に、改善計画書を作って認めてもらえば元通りってこと……?」
静の説明が終わって、誠志朗が口を開いた。
「……そうみたい……」
静は、もう一度ノートを見返してうなづいた。
「……それで、これが改善計画書の書式……」
静がノートに挟んでいた紙の束を誠志朗に渡した。
「えーっ、こんなにあるの?」
A4サイズで30枚はあろうかという書式を見て、驚いた誠志朗が声を上げた。
「……で、これをいつまでに作れって?」
続け様に誠志朗が訊ねた。
「……10日以内に提出してくれって……」
静が、申し訳なさそうに上目遣いで答えた。
「えーっ、10日ーっ……」
今日が6月25日だから、7月5日の月曜日までに提出しなければならないことになる。
「…………」
「…………」
このボリュームの書類を、しかも初めて見る内容の書式を、況してや、銀行と金融庁に認めさせる内容のものを、たったの10日で作り上げなければならないとは……
「……で、俺に何をしろと? ……まさか、これを作れって?」
「…………」
上目遣いの静が、小さくうなづいた。
「ええーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
誠志朗は、『青天のへきれき』という言葉は知ってはいたが、こういうことなんだと改めて身を以って理解した。
「……だけど、どうして俺?」
「……だって、こんな身内の恥をほかの人に知られたくないのよ……」
「って言うか、俺だって身内じゃないだろっ」
誠志朗が、あ然としているところで、親方が口を開いた。
「……もう10年以上前の話だけど、誠ちゃんの親父さんが銀行にいた時、死んだうちの奴……、先代の女将と一緒に同じような計画書を作ってくれてたんだよ。……確か、産業再生何とかっていう国の機関と鬼怒川温泉の再生をするって言ってよっ」
確かに、それは誠志朗にも覚えがある。小学校の低学年だった頃、父親の聖郎は、下野銀行の鬼怒川支店に勤務していて、家から通っていたけれども、毎日帰りが遅くて、土日もほとんど休みがなく、折角遠くまで投げられるようになったキャッチボールの相手をしてもらえなくて詰らない思いをしていたことを……。母親の美也子に訳を尋ねたら、「お父さんは鬼怒川温泉のためにがんばってるのよ」と言っていたことも。
「そん時、うちは産業再生何とかの支援は必要ねぇってことで、結局、その計画書は要らなくなって、どっかにやっちまったんだが……」
親方が更に続けた。
「確か、誠ちゃんの親父さんが自分のパソコンを持ってきて書類を作ってくれてたんで、誠ちゃんとこに何か残ってんじゃねぇかと思ってさ……。それがあれば手っ取り早く出来んじゃねぇかと思ってよっ」
畳み掛けるように静が言う。
「私、パソコンは大丈夫だけど、決算書とかはぜんぜん駄目で……、だから、お願いっ」
薄紅のグロスを塗った薔薇の蕾のような唇の前で、静が、両手を小さく擦り合わせて誠志朗に懇願した。
「頼むよ、誠ちゃん。もちろん俺らもやるよっ。出せるものは何でも出すよっ。決算書だって料理だって……何なら静だって!」
「ちょっと、私をどこに出すのよ?」
「……いや、何、ほら、誠ちゃんの嫁に!」
「なっ、どさくさに紛れて何言ってんのよっ」
「…………」
親方が変なことを言うものだから、静は誠志朗の顔を、誠志朗は静の顔を見て、一瞬目が合ったが、お互いに気まずくて目を逸らしてしまった。
――とにかく、誠志朗の父親の作った書類を見付けなければならない。時刻は既に午後9時を過ぎている。明日は土曜日でお互い朝から忙しいので、今日はこれで解散ということになった。
通用口で静が誠志朗を見送った。
「今日は……あの……色々ありがとう。気を付けて帰ってね。……それと、さっき親方が言ったこと、……あれ、冗談だから、気にしないでっ」
誠志朗は、来た時よりも静の表情が和らいでいたので、胸のつかえが少し取れた気がした。
「分かってるよ。じゃあね」
そう言って振り向いた誠志朗の背中に、静が、「何よ、分かってないじゃない、バカ!」とつぶやいたが、誠志朗には聞こえていなかった。