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鬼怒川温泉 恋し屋  作者: 獏人
1/11

恋し屋


     1


――パタパタパタパタパタパタパタパタ――

けたたましいスリッパの音を廊下中に響かせながら、一人の女子生徒が教室に飛び込んできた。

「おっはよー。40勝12敗ねっ」

 どうやら、3年生になってから遅刻しなかった回数の星取りをしているようだ。遅刻した回数の方は公表しなくてもよいと思うのだが……

『星野静』

 栃木県日光市鬼怒川温泉にある温泉旅館『華なりの宿しずか』の一人娘。17歳。身長165センチメートル、スリーサイズは非公開だが、やや細身ですらっとしたモデルのような体型。

現役の高校生にして、明治時代から続く歴史ある温泉旅館の女将。

腰のあたりまであるストレートの髪は、紫に艶めく烏の濡れ羽色。透けるような白い肌、切れ長の目には吸い込まれそうな漆黒の大きな瞳。薄っすらと薄紅のグロスを塗った唇は薔薇の蕾のよう。

女将の時は和服を着熟しており、その立ち居振る舞いは『立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花』の如しで、お淑やかにしてさえいれば、それこそ旅館の名のとおり、華なりの日本人形のような美人女将だ。……と、恐らくクラスの生徒全員がそう思っている。事実、地元局のテレビ栃木に『現役高校生美人女将の宿』という特番を組まれて、たちまち、女将目当ての宿泊予約が殺到したほどだ。華なりとは、京言葉で『はんなり』とも言い、落ち着いた華やかさがあり上品で明るく陽気な様を表わす。

 静は、毎朝、限り限りまで宿泊客のお見送りをし、それから一度自宅に寄って制服に着替えてくるので、学校では遅刻常習犯のレッテルを貼られているが、本人は、学業よりも女将業を本業と考えているらしく、そんなことは微塵も気にしていない様子だ。

 そもそも、学校指定のスリッパは走り難くするためのもので、敢えて廊下を走ろうものなら、パタパタとうるさいことこの上ない。加えて、廊下にはあちこちに『狭い日本 そんなに急いでどこへ行く?』と書かれた張り紙がしてある。――が、そんなことはお構いなしの高校生美人女将が、机にかばんを投げ置き、席に着いたタイミングで、ホームルームのチャイムが鳴った。

 静は、席に着くなり右隣の席の女子生徒と一言二言会話していたが、急に思い出したように席を立って、窓側の列の一人の男子生徒の席に一直線に向かっていった。

「誠志朗、持ってきた?」

「……」

 隠すように無言で1冊のノートを渡す男子生徒。

『阿久津誠志朗』

 鬼怒川温泉の外れにある『恋し屋豆腐店』の若旦那。18歳。身長175センチメートル、スリーサイズは知る必要もないが、太っている訳ではない。

 誠志朗は、今朝、華なりの宿しずかに豆腐の配達をした際に、静の忘れ物を父親から預かってきたのだ。

「ありがたいなら芋虫くじら!」

 静は、誠志朗にお礼を言ったつもりなのだが、

「……はあー?」

 誠志朗にその気持ちは伝わらなかったようだ。

『ありがたい=アリが鯛』、『アリが鯛くらいなら、さしずめ芋虫は鯨くらいだ』という意味の江戸時代からある『付け足し言葉』だ。以前、静が、旅館に宿泊した外国人観光客から教えてもらったと言っていた。どうでもいいが、外国人に日本語を教えてもらわないで欲しいと誠志朗は思った。

 誠志朗の反応などまったく気にしていない静は、自分の席に戻ると、受け取ったノートを右隣の席の女子生徒に手渡した。

「常磐、ノートありがとねっ」

「……どういたしまして。でも、このノートどこから……???」

「……なっ、あのバカっ」

 誠志朗の口から思わず言葉が漏れた。

「旅館に忘れちゃって、誠志朗に持ってきてもらったのよ」

 静が止めを刺す。折角、誠志朗が、ノートの持ち主に気付かれないようにと気を遣ったつもりだったのに……

その女子生徒は、誠志朗と目が合うと、ちょっと恥ずかしそうに小さく手を振った。 

『湯澤常盤』

 鬼怒川温泉最大級の温泉ホテル『きぬやホテル』の一人娘。17歳。

客室数500、最大収容人数2,000名。館内施設は大小宴会場が20、大浴場が10と屋上露天風呂と岩盤浴に温水プール、直営のレストランと寿司バーにバーラウンジ、アロマとエステにネイルサロン、カラオケルームとプチシアターに大手コンビニまである地域一番店。付け加えると、関連会社でスキー場と観光ロープウェーと鬼怒川船下りと高速道路のサービスエリアも経営している。

 常磐と誠志朗は、幼なじみで家が近所だったこともあって、小学校の低学年の頃までは放課後も一緒に遊んでいた仲だ。

小学校4年生の時、常磐の両親が宇都宮市に自宅を移し引っ越したので、中学校は別々になってしまったが、高校で再会することとなった。

 入学式の時に張り出されたクラス分けの一覧を眺めていた時、誠志朗は、同じクラスにその名前を見付けた。名字は珍しくもないが、『常盤』という名前は一人しか知らなかったので、その真偽を確かめたくて急いで教室に駆け上がった。

 教室には、黒板に席順が書かれていて、50音順に窓側の先頭が出席番号1番、廊下側の最後尾が35番となっていた。確か、『湯澤』はクラス分けの名簿の下から数えて3番目だったから、廊下側の後ろから3番目の席に座っている筈だ。――が、そこの席にはまだ誰もいなかった。

「まだ、来てないのか……」

 仕方なく、誠志朗が、取り敢えず出席番号3番の自分の席に着こうとした時、窓際に立っていた一人の女子生徒が近付いてきた。

「お兄ちゃん?」 

 開放感のある大きめの窓から差し込む明るい春の日差しが逆光となり、その顔ははっきり見えなかったが、その声と呼び方は懐かしかった。

「常盤?」

 目を細めながら聞き返す。

「……よかった……」

 それは、今にも泣き出しそうな声だった。

 確かめたくて、誠志朗は急いで傍に駆け寄った。

 そこには、幼い頃の面影を残しながら少し大人になった常盤の姿があった。お気に入りのチョコミント柄のリボンを結んだ栗色のポニーテールはそのままに――

 身長は155センチメートルくらいだろうか。誠志朗の身長が175センチメートルだからちょうど肩の高さくらい。子供の頃のように、泣き虫だった常盤の頭をなでてあげるのにはちょうどいい感じだと誠志朗は思った。

 トランジスターグラマーと言うのか、紺のブレザーの胸元が可成り窮屈そうなのには、ちょっと困らせられたが……

 常盤が誠志朗を『お兄ちゃん』と呼ぶのは、幼稚園の頃からだ。

「あのね、わたしね、ずっと前からお兄ちゃんがほしかったの。せいしろう君はわたしよりも背が大きいから、わたしのお兄ちゃんになってくれる?」

 そんなことが切っ掛けで『お兄ちゃん』と呼ばれるようになったのだが、元々、誠志朗は優しい性格で、常盤のことは実の妹と同じくらいによく面倒を見ていた(見られていた?)ので、そう呼ばれることに特別な抵抗はなかった。

 その頃は、毎日のように遊びに行ったり来たりしていて、常盤が誠志朗のことを『お兄ちゃん』と呼ぶので、常盤の家でもいつの間にか誠志朗をそう呼ぶようになっていた。

「この高校にしたんだ?」

「うん。お父さんがホテルの勉強をするなら早い方がいいっていうから……」

「やっぱりホテルを継ぐんだ……」

「……うん。一人っ子だし、小さい頃から何となくそう思ってたし……、お兄ちゃんはどうしてビジネスマネジメント科にしたの?」

 そう聞かれて、誠志朗はちょっと言葉を濁した。

「……あっ、……いや、……俺も店を継ぐから……」

 本当は、常盤がこの高校のビジネスマネジメント科に推薦入学が決まったって話を人伝に聞いて、誠志朗は、推薦入学がほぼ決まっていた県立高校を蹴ってしまったのだ。

「そうなんだ。あのね、私、お兄ちゃんのお店の豆乳プリンが好きで時々買いに行ってたんだよ。でもお兄ちゃん、いつもいなくて……」

「ええーっ、そうだったんだ!」

 ちょっと驚いて見せたものの、実は以前、一度だけ、誠志朗が家にいる時に、常盤が買い物に来てくれたことがあった。誠志朗の母親が気を利かせて、お店に常盤が来ていることを伝えに来たのだが、その時は、豆腐なんかを作ることになった自分が格好悪い気がして、居留守を使ってしまった。

でも、また、同じ高校の同じクラスの同級生になれた。

 それから、積もる話を沢山した。

 常盤は、転校した小学校で中々友達が出来ずに悲しくて泣いてばかりいたこと、中学校では習い事を増やされて入りたかった運動部に入れなかったこと、高校では英会話クラブに入りたいと思っていること、今はきぬやホテルの5階の事務所の隣にある住居スペースに住んでいてあまり寛げないこと、お菓子作りが好きで将来はホテルで出すスウィーツを自分で作りたいと考えていること、などなど。  

 誠志朗は、小学校の合唱コンクールで独唱の部分の1番と2番の歌詞を間違えて大恥をかいたこと、中学1年なってすぐ父親に習って豆腐作りの修業を始めたこと、中学3年の時に父親が家を出ていったこと、それ以来、母親と妹と3人でお店をやっていることなど、余りいい話はなかったが……

 そんなことを思い出しながら、誠志朗が1限目の授業の準備をしようとデイパックから教科書を取り出していると、鼻歌を歌いながら隣の席の奴が現れた。制服の上着を肩に掛け、白のワイシャツの下には黒のTシャツに金文字で『YAZAWA』と書いてあるのが透けて見える。

『金崎永一』

 誠志朗が最も仲のいい男友達。親友と言うよりは悪友と言った方が妥当かもしれないが……

 永一は、1年生の時にクラス委員長に立候補して以来、ずっと委員長を務めている。容姿端麗、雲心月性、明朗かっ達、成績優秀と四字熟語の似合う奴だ。しかし、品行方正という言葉は例外だ。

 栃木県のアミューズメント産業のリーディングカンバニー『プラチナムグループ』の御曹司。18歳。身長178センチメートル、スリーサイズはやはり知る必要もないが、やや細身の体型だ。

宇都宮市を中心に、パチンコ店15店舗、ゲームセンター12店舗、カラオケ店20店舗、レンタルショップ20店舗、コンビニエンスストア35店舗、リサイクルショップ8店舗、ボーリング場2店舗、シネマコンプレックス2店舗を経営する地元の大企業だ。因みに、常盤のきぬやホテルの中にあるゲームセンターとコンビニも、プラチナムグループが経営している。永一は、近い将来、カジノが法制化されたら必ず、鬼怒川温泉にプラチナムグループのカジノを造ると豪語している。

 誠志朗と同じ4月生まれで、既に普通自動車免許を持っており、父親の数あるコレクションの中から真紅のフェラーリ・テスタロッサを駆り(借り)、宇都宮市内の自宅から通学している。と言っても、高校では車やバイクでの通学許可は出していないので、キャンパスの近くに月極駐車場を借りている。この辺りで初心者マークの真紅のテスタロッサを見掛けたら間違いなく永一である。

「今日もフェラってきたぜ!」

 ワイシャツのポケットから取り出した銀色の板櫛で、自慢のオールバックの黒髪を整えながら、永一が誠志朗に話し掛けた。

「なっ、お前、朝から何言ってんだよ」

 永一は、フェラーリに乗ってきたことを「フェラってきた」と言うのだが、ある意味、教育上、可成り好ましくない言葉で、すべてのフェラーリオーナーが同じように言うのかは甚だ疑問である。

「誠志朗、バイクの調子はどうよ?」 

「しーっ、学校でバイクと車の話はご法度だ!」

 大型自動2輪の免許を持っている誠志朗も、実はバイクで通学している。もちろん高校の許可は取っていない。だから、校内ではその手の関係の話を一切しないことが、お互い許可を取っていない者同士の暗黙のルールなのだ。――が、永一は少し口が軽い。と言うか、思ったことを素直に口に出すので、誠志朗はこれまで何度も冷や冷やさせられた。まあ、色んな意味で要注意人物、ブラックリストナンバーワンなのだ。

「あー、わりーわりー」

 そうは言うものの、まったく悪びれた様子はない。間、髪を容れず、永一が続けた。

「こないだブレーキのキャリパーを替えたんだけどよー、いやーっ、効くの、効かねーのって!」

「どっちなんだい?」

「効くよ!」

 永一の、ボケと言うか、どっち付かずの話し方に、誠志朗は毎回突っ込みを入れさせられている。

「だけどよー、イマイチしっくりこなくってよー。今度、今市から大笹牧場を抜けるルートで霧降高原でも攻めに行かねーか?」

「だから、その話は……、って言うか、もう、お前の助手席はこりごりだ」

「何だよ、つれねーなー」

 永一の運転は、とにかくブレーキタイミングが遅い。誠志朗は、永一が免許取り立ての4月に、一度だけテスタロッサの助手席に乗せてもらったことがあるが、本人はスローインファストアウトが鉄則だと言って、コーナーギリギリまで待ってからフルブレーキングするので、助手席の誠志朗が、足元にある筈のないブレーキペダルを反射的に踏んでしまうのだ。その日以来、誠志朗は、二度と永一の運転する車には乗らないと誓った。


 

 ホームルームのチャイムが鳴り終わってから可成り遅れて、このクラスの担任が教室にやってきた。男子生徒から地鳴りのような歓声が上がる。

 今日は、スーパーホワイトの超ミニのタートルネックワンピースと黒の網タイツに真っ赤な9センチメートルのピンヒールでご登壇だ。

『沢畑睦美先生』

 25歳独身。担当は現代社会。

「みなさん、おはようございます。今日は、遅刻の人はいません、――ねっ」

 睦美先生が、廊下側から2列目、前から3番目の遅刻常習犯の席を確認しながら出席簿を閉じた。

 クラスの何人かが静を見てクスクス笑っている。「何よー、失礼しちゃうわね」と言いたげな顔で、静が口を尖らせている。

 睦美先生は、2年前に地元の宇都宮大学を卒業してこの高校の教師になった。誠志朗達とはこの高校の、言わば、同期だ。

 誠志朗が入学した当時、つまり、睦美先生も新人教師の頃、最初は新卒の先生よろしく、早く生徒の心をつかもうと涙ぐましい努力の数々を続けていたのだが、結局はそれがあだとなって逆に生徒になめられるようになってしまい、現代社会の授業はどのクラスも事実上の学級崩壊状態となってしまった。

 流石に、その状況を当時の校長も見逃すことが出来ず、睦美先生は校長室に呼び出され、「もっと自分に自信を持ちなさい」などと3時間も説教を食らったらしい。

 それで、目が覚めたのか自棄くそになったのかは本人のみぞ知るところだが、翌日には、身長160センチメートル、B90、W58、H88のダイナマイトバディの持ち主が、バカンス中のハリウッドセレブのようなタンクトップとデニムのショートパンツ姿で教壇に立ち、校長と生徒達の度肝を抜いた。しかも、ワンレングスの黒髪は金髪のソバージュになっていた。

 おまけに、その姿を目の当たりにした独身の体育教師が、噴水の如く鼻血を吹き出し、出血多量で病院送りになるという伝説まで創ってしまった。

 その日以来、睦美先生は、どこで買ってくるのか、バブル期のマハラジャのお立ち台の女性達が愛用するような、ボディコンシャスな、それこそパンツが見えそうな(時々見えるらしい)、ワンピースやスーツで教壇に立っている。

 お約束のように、再び校長室に呼び出された時には「自分に自信を持って頑張りまーす」と宣言したそうだ。

「今日は、来月の経営実習の希望届を配りますから、第1希望と第2希望を記入して来週の月曜日までに提出して下さーい。期限厳守ですからねー。それと希望者多数の場合は先生の独断と偏見、若しくはクジ引きで決めますから恨みっこなしですよー」

 ちょっと間延びした口調で言いながら、睦美先生がプリントを配り始めた。クジ引きでは仕方ないが、先生の独断と偏見で決められたら恨む奴はいそうだ。

 経営実習とは、職場体験のようなもので、地元の企業で2泊3日の経営実習を受けるカリキュラムだ。期間中はホスト役の実習先にホームステイし、第一線の経営者からそれこそ24時間体制で企業経営の極意を学ぶのだ。

 誠志朗達の通う高校は、私立『帝光学園大学』のキャンパス内に併設された中高一貫校で、普通科のほかに音楽科や美術科などの専攻クラスがある。その中でも『ビジネスマネジメント科』は、創立当初から栃木県の観光レジャー産業やサービス業の後継者育成を目的として創設された特別クラスだ。

 そのため、クラスの生徒は、日光・鬼怒川・那須といった県内屈指の観光地の温泉ホテルや旅館、レジャー施設の経営者の子女がほとんどである。極一部、誠志朗のような例外もいるが……

 まあ、実際のところ、実習などとは言っても、3年生の恒例行事であり、例年、クラスの生徒同士、家族が経営する企業に行ったり来たりするのが慣わしである。

 この実習があることは知っていた誠志朗だったが、正直、どこに行ったものか頭を悩ませていた。出来れば、本業の豆腐店の参考になるような食品メーカーで実習を受けたいと思っていたのだが、残念ながらこのクラスに該当する生徒はいない。地元の一般企業を希望することも出来るが、その交渉は生徒が自らやらなければならないので面倒だ。

 そうなると、手っ取り早いのは、仲のよい友達のところとなるのだが、永一のプラチナムグループは、業種的に畑違い感が半端なく、常盤のきぬやホテルは、個人経営の豆腐店とは規模的にゼロの数が3つも4つも桁違いだし、第一、地域一番店の温泉ホテルで、クラスのホテル関係の生徒のほとんどが希望するだろうし、それに、常盤とは幼なじみなので、なんか照れくさいような恥かしいような気持ちが強かった。

 次の候補となると、中学校からの同級生の好みで、高校生美人女将の静のところなのだが、召使いのように顎で使われるだけ使われそうな想像しか出来ないし、そもそも、あの無神経でがさつな静に教えを請うのも、如何なものかと考えてしまっている。



 ホームルームが終わると5分間の休み時間の後、1限から4限まで授業があり、昼休みになる。

 昼食は、学食もあり、購買で調理パンなどを買うことも出来る。弁当組や購買組は、教室や部室、天気がよければ屋上やキャンパス内の芝生の上などで自由に昼食を取っている。

 誠志朗の場合は、豆腐屋という職業柄のため、とにかく朝が忙しく朝食もそこそこに済ませるくらいなので、ほとんど毎日のように購買でやきそばパンやサンドイッチを買って、眺めのよい屋上で食べている。

 小高い丘を丸ごと造成した学園のキャンパスは凄く広い。「東京ドーム何個分?」とか聞かれたら「軽く20個分!」と答えるだろう。一番高いところに大学と短大があり、その少し下に付属高校と中学校がある。その周りには住宅地が広がり、役所・銀行・病院・スーパー・コンビニ・ファミレスなどが立ち並び、地方のちょっとした学園都市の様相を呈している。

 鉄筋コンクリート造り・3階建の校舎の屋上からの眺めは中々のもので、北には茶臼岳と那須連山、北西には男体山や女峰山、南東には筑波山、天気がよければ南西に富士山も見ることが出来る。特に、早朝に朝日を浴びる男体山の勇姿を見ると、栃木県人で本当によかったとしみじみ思うほどなのだ。

 誠志朗は、いつものように購買に行くために、混雑している教室のドアを出ようとした時、制服の右の袖を引っ張られた。

「お兄ちゃん!」

 常盤だった。昼休みになった途端のけんそうで、誠志朗にもほとんど聞こえないくらいの声だった。高校生になって再会した常盤は、人前で誠志朗のことを「お兄ちゃん」と呼ぶことはしなくなっていた。ただ、二人だけの時は別だったが……

「???」

「ごめんなさい。驚かせちゃった?」

 誠志朗が、何が起こったのか理解出来ないというような顔で振り向いたものだから、逆に常盤に謝らせることになってしまった。

「あっ、ごめん、ごめん。ちょっとびっくりして……」

「だってお兄ちゃん、何回も呼んだのに……」

「えっ、そうか? 気が付かなかったよ。ほんとにごめん」

「いいけど……、あのね、今日、お弁当作り過ぎちゃったの。よかったら一緒に食べてくれないかなって……」

 いつもではないけれども、時々、常盤は、「作り過ぎた」と言っては誠志朗を昼食に誘ってくれる。

「……えっ、いいのか? ……じゃあ、遠慮なく」

「よかった。じゃあ、屋上で待ってて」

「ああ」

 そう言って誠志朗は、先に教室を出て屋上に向かった。途中、購買に寄って自販機のスプライトとりんごジュースを買って――

 屋上に上がると、既に何人かの常連が思い思いに昼食を広げていた。カップルや女子のグループ、一人飯の奴もいる。

 今日も男体山が奇麗だ。右の方に同じくらいの高さで寄り添うのが女峰山。標高は2,450mくらいあり、ゴールデンウィーク前くらいまでは山頂に雪をたたえていたほどで、関東でも意外と結構高い山なのだ。

 男体山がよく見えるところに場所取りをして待っていると、ほどなく常磐が小走りでやってきた。

「お待たせー。なんか座るものなくちゃと思って、座布団持ってきたよ」

 自分の分だけでなく誠志朗の分も抱えて。

「はいっ」と、手渡された。

「ありがと」

「どういたしましてっ」

 座布団を敷いて常盤は誠志朗の右側に腰を下ろした。小さい頃から道路を歩く時はいつも誠志朗が車道側を歩いていたので、常盤にとっては誠志朗の右側が落ち着く場所のようだ。

「りんごジュース買っといた」

「あっ、いいのに……、でも、ありがと」

 りんごジュースが常磐のお気に入りなのも変わらない。

「じゃあ、食べよっか」

 常盤がちょっと大きめのランチボックスを開けた。

 小さめのおにぎりとハムサンド、ごぼうのきんぴらと出し巻き卵とタコさんウインナー、マカロニサラダとウサギの形のりんご。誠志朗の好きなものばかり。

「やだっ、お兄ちゃん。そんなによく見ないで。……上手じゃないから……」 

 ランチボックスの上で隠すように両手を振って、常盤が顔を赤くしている。

「いや、そういうつもりじゃなくて……、美味しそうだなと思ってさっ」

 誠志朗は、渡されたおしぼりで手を拭いて、続いて渡された取り皿と割り箸で、きんぴらを摘んだ。

「うん、美味しい!」

 ごぼうの細切りが丁寧で、味がしみてて凄く美味しい。

「ほんとっ? よかった。沢山食べてねっ」

 そう言って、常盤も出し巻き卵を摘まんだ。

「うん、我ながら美味しく出来たかも……」

「あのさ、これ全部、自分で食べようと思って作ったのか?」

 誠志朗は、余りのボリュームにちょっと意地悪を言いたくなった。

「……だから、ちょっと作り過ぎちゃって……、……でも、ほんとは……、お兄ちゃん、最近ずっと購買のパンとかみたいだったから……、それに今日はちょっと話したいこともあって……」

 常盤は、りんごジュースにストローを刺してコクリと一口飲んだ。

「……あのね、お兄ちゃん、経営実習ね、うちに来ないかなって……」

 そう言ってもう一口。

「…………」

「……駄目? ……かな?」

 小首を傾げ、じっと誠志朗の目を見て答えを待っている。

「……いやっ、駄目じゃないけど……、確かにちょっと常磐のとこを考えたけど……、俺なんかじゃ……」

 そこまで言って常盤に遮られた。

「そんなことないよ!」

 常磐は、誠志朗が何を考えているのか察しているようだった。業種が違うとか経営の規模が違うとか、そういうことを気にしているのだと……

「どこかほかに決めてるところがあれば仕方ないけど、そうじゃなかったら……」

「でも、常磐のとこは希望者が沢山いるだろうし……」

「先生に聞いたもん。ホストの意見も聞いてくれるって言ったもん!」 

 子供のように向きになって話す常磐を、誠志朗は久しぶりに見た気がした。

「分かった。分かったから……」

「じゃあ、決まりねっ。よかった!」

 こんなに強引な常盤も久しぶりだった。

 それから、上機嫌になった常磐とお弁当を全部平らげた。常盤が「食べて、食べて」と何度も勧めるものだから、7割以上は誠志朗が食べて、ベルトの穴を一つ緩めることになった。



 午後は、5限と6限の授業を終え放課になる。

 帰り際、にこにこ顔の常磐が、小さく手を振りながら「またあした」と声には出さずに口だけ動かして、英会話クラブに向かうのを見送り、誠志朗も家路に就いた。

 階段を下り、下駄箱でスニーカーに履き替え、正門を抜けて長い下り坂の一本道を歩いていくと、自転車組の生徒が風を切って走り過ぎていった。

 顔見知りの店長さんの計らいで、無料でバイクを置かせてもらっている『スーパーひらたや』の従業員用の駐輪場に着くとすぐに、誠志朗は、バイクにキーを差してセルモーターを回した。周りの空気を破るような排気音とともにエンジンが始動した。

 KAWASAKI Ninja ZX―14R メタリックミッドナイトサファイアブルーのボティ、水冷4ストローク並列4気筒/DOHC4バルブ、1,441CC、200馬力のモンスターバイク。

 冬場でなくとも暖機運転はした方がよいので、待っている間に、カワサキのライダースジャケットに袖を通しデイパックを背負い、ヘルメットを被りグラブをしてバイクに跨った。サイドスタンドを左足のつま先で畳み、一度空ぶかしをして発進した。

 スーパーひらたやから誠志朗の家までは約30分の道程だ。男体山を左前方に見ながら市街地を抜け、国道121号線に入り、鬼怒川に架かる中岩橋を渡ったら、『歓迎 鬼怒川温泉郷』の看板に出迎えられて、温泉街に続く一本道を緩やかに上っていく。

 この時期の鬼怒川温泉は、針葉樹の濃い碧に広葉樹の淡い緑がグラデーションとなり、宛ら水彩画のような景色だ。

 途中には、鬼怒川船下りの下船場や東武スモールワールドなどの観光施設があり、平日の夕方近くでも大型バスに乗った大勢の観光客の姿が見受けられる。

 温泉街に入り、鬼怒川の渓谷沿いに立ち並ぶホテル群を左手に見ながら、滝見橋という吊り橋の入口の交差点を右折し、あまり人気のない、普段は地元の人くらいしか通らない会津西街道の旧道に入る。その昔、戊辰戦争の激戦地の一つとなった歴史のある街道だ。

 小原沢に架かる橋を渡りS字カーブを上っていくと、常盤と一緒に通ったきぬ川小学校が左手に見えてくる。そのまま少し行った右手奥に常盤が小学校3年生まで住んでいたログハウス調の家があり、そのすぐ先の左手、住宅地の外れが誠志朗の家である『恋し屋豆腐店』だ。

 家に着くと、店の隣の車庫の前でバイクを下りエンジンを切って、車体が前向きになるようにバイクを後ろに引っ張って車庫入れする。ガソリン満タンで290キログラム近い重量のバイクを引っ張るのは、慣れていても結構大変だ。車庫入れを終えると、誠志朗は、入口のガラス戸を開けて店に入った。

「いらっしゃ……、何だ、誠志朗君かぁ」

 レジカウンターの横の机で、勉強をしながら店番をしていた妹が顔を上げた。

「その呼び方はやめろって言ってるだろ!」 

「もーっ、いいじゃん別に。お母さんだって『誠志朗君』って呼んでるじゃん」 

『阿久津澪』

 中学3年生。ちょっと小柄の身長153センチメートル。スリーサイズに興味がある人がいるとは思えないが、軟式テニスをやっているので痩せている訳ではない。テニス焼けした茶色の髪は背中ぐらいまであるが、普段はお下げ髪にしている。小麦色に日焼けした肌に小鹿のようなくりくりっとした目。中学校では人気者らしく「男子から告られまくってウザい」とは本人の談。

 実の兄を『誠志朗君』と呼ぶのは母親譲りで、母親は誠志朗が生まれた時から今でもそう呼んでいる。そのため、物心が付いた時から、澪の右脳には、こいつは『せいしろうくん』という生き物だと刷り込まれていて、『お兄ちゃん』なんて呼んだことは、これまで唯の一度もない。

「お前、部活は?」

「テスト前一週間はお休みだぞ、誠志朗君」

「そっか。母さんは?」

「夕ご飯の買い物。澪のリクエストで夕ご飯はシチューだぞ」

 6月下旬とは言っても、栃木県の北西部に位置する鬼怒川温泉の夜はまだまだ寒い。近くにあるスキー場もゴールデンウィークまで滑走可能だったくらいなのだ。

「ふーん……」

「嫌いなら、誠志朗君の分も澪が食べるから遠慮は要らないぞ」

「だから、その呼び方……、それに、誰も嫌いだとは言ってないだろっ」

 誠志朗は、そう言いながら2階の自分の部屋に上がり、ライダースジャケットと制服を脱いでジーンズとポロシャツに着替え、ライダースジャケットを羽織り直して1階に下りた。

 キッチンの冷蔵庫の中の那須高原牛乳の賞味期限を確認してコップに注ぎ、一気に飲み干した。もちろん左手は腰に当てながら――

 その様子を店のガラス窓から見ていた澪が、「爺くさっ」と言ったのは言うまでもない。

 すると、誠志朗の足元で「ホワッ」と声がした。普通なら「ニャー」とか「ミャー」と鳴くところだか、茶トラ猫のオス1歳の『ちゃあ君』は、「ホワッ」とか「ホワワッ」としか鳴かない。もう一匹、黒猫のオス1歳の『シャア君』もやってきて、誠志朗の顔を見ながら口を開いてはいるものの、うんともすんとも声が出ない。まだ子猫の頃、「シャー、シャー」と周りを威嚇し過ぎたのか、食道炎になってしまい、声を出すのは、相当お腹が空いている時か尻尾を踏まれた時くらいなのだ。それに、食道炎のシャア君は固形の餌が飲み込み難く、食も細いので、兄か弟であるちゃあ君の半分くらいの体重しかない。

 二人、否、2匹は、昨年の今頃、きぬ川小学校の通用口にダンボール箱に入れられて捨てられていたのを、部活帰りの澪が見過ごせなくて拾ってきた。もともとは4匹いたのだが、何とかもらい手を探して、黒猫のメスと茶トラ猫のオスはもらわれていった。残った2匹は、澪が母親を説得して飼ってもらえることになったのだ。

 誠志朗は、犬だったら、子供の頃にマルチーズに指を噛まれた痛い幼児体験があるので、迷わず反対するところだったが、猫は、大豆を狙ってくるネズミ除けにもなるので反対する理由はなかった。もっとも、澪も母親も誠志朗の意見など聞きもしなかったが……

 2匹の名前は、澪が考えて付けたのだが、それぞれ『君』までが名前だと言って譲らず、動物病院の診察券にも『阿久津シャア君 ちゃん』と書いてもらっていた。受付のお姉さんが首を傾げながら書いてくれたと母親が言っていた。

 もちろん、誠志朗も新しい家族の名前を考えなかった訳ではない。ちゃあ君は茶トラ猫なので『チャトラッシュ』、しゃあ君はお腹に少しだけ白い毛が生えているので『はらじろう』というウィットに富んだ素敵な名前を考えて澪に披露したのだが、「バカじゃないの?」と真顔で吐き捨てるように言われてそれっ切りだった。

「誠志朗君、店番、代わってよ」

「駄目だよ。明日の仕込みするから」

「えー、ケチだぞ、誠志朗君」

「残念でしたー」

 誠志朗は、帰ってきてすぐ冷蔵ショーケースの中をチェックして、絹豆腐の余りそうなのを今夜のうちに水切りをしておいて、明日の朝、揚げ出し豆腐にしようと思っていた。

 揚げ出し豆腐は、充分に豆腐の水切りをするのが上手に揚げるコツで、前の晩から穴の開いたステンレス板に載せて冷蔵庫で自然に水切りしておくのだ。

 恋し屋豆腐店では、揚げる衣も一工夫していて、片栗粉に小麦粉とコーンスターチをブレンドして使っている。そうすると、豆腐同士がくっ付かずサクサクに揚がるのだ。

 誠志朗がライダースジャケットを脱いで、さて始めようとした矢先、店の電話が鳴った。

「誠志朗君、出て!」

「何でだよ?」

「いいから、出て!」

 店の電話は、レジカウンターに座っている澪のすぐ横にあるのだが――、実は、澪は、『恋し屋豆腐店』という店の名前が気に入らないのだ。電話に出ると必ず店の名前を名乗らなくてはいけないので、一人で店番をしている時以外は先ず電話に出ない。

 仕方なく、誠志朗がカウンター越しに受話器に手を伸ばした。

「はい、恋し屋豆腐店です」

「誠志朗、大至急、豆乳2本持ってきて」

 それだけ言って電話は切れた。毎度のことである。電話の主は、艶めく黒髪が美しい現役高校生美人女将の静だった。

「何だよ、まったく……」

 大抵いつも、静からの電話は用件のみで、一方的に言うだけ言ったらガチャン。まあ、従業員数名と父親と静で切り盛りしている温泉旅館なので、チェックインから夕食までの時間帯は猫の手も借りたいくらい忙しいのはよく分かってはいるが、せめて、お愛想の一つくらいあってもいいんじゃないかと思いながら、誠志朗は配達の準備をした。

 バイクのエンジンを掛けて暖機運転をしている間に、デイパックの中身を居間のテーブルに投げ置き、保冷バッグに入れた豆乳を詰め込んだ。

「配達? どこ?」

「華なりっ」

 誠志朗は、不機嫌に語気を強めた。

「あーっ、もしかして静様だった? あーあ、澪が出ればよかった!」

残念がるのもその筈、澪は静の大ファンなのだ。『静様』とか『御前』などと呼び、テレビ栃木の特集番組はご丁寧にもDVDに録画して、ケースには赤のサインペンで永久保存などと書いていた。中でも『鬼怒川温泉夜桜まつり』の時に温泉神社の神楽殿で舞った『藤娘』のカットが甚くお気に入りで、DVDが擦り切れる(?)んじゃないかと思うくらい何度も何度も繰り返し再生しては見ほれていた。母親の勧めで始めた箏と共に子供の頃から習っているという日本舞踊の所作も然ることながら、整った顔立ちに化粧をして、恵まれた体くでしなやかに踊る静の藤娘は、ライトアップされた満開のソメイヨシノをもしのぐ優美さで、大勢の観客を魅了してやまなかったのを、神社の階段の上からライブで観ていた誠志朗は尚のことはっきりと覚えていた。

「澪、母さんに言っといて」

「りょうかーい! 静様によろしくお伝え下さいませ、誠志朗君」

「くっ……」

 なぜ、実の兄を君付けで呼んで、他人の静を様付けで呼ぶのか、まったく納得出来ない誠志朗だったが、静が大至急と言うので、急いでライダースジャケットを着てデイパックを背負い、ヘルメットとグラブを装着してバイクに跨った。サイドスタンドは走り出してから左足のつま先で畳んだ。

 店から華なりの宿しずかまでは、さっき帰ってきた会津西街道の旧道で行くのが最短ルートだ。途中、藤原消防署、日光市役所総合支所の横を通って行く。余り知られていないが、市役所支所の下の鬼怒川の土手の地下には、東京電力『竹の沢発電所』という水力発電所があって、鬼怒川の西側の山裾にある『下滝発電所』と共に、大正時代から東京方面に電力を供給している。関東大震災や東日本大震災の時も電気を送り続けていたのだそうだ。

 夕方のこの時間帯、東武鉄道鬼怒川温泉駅から温泉街に向かう通りは、観光客や宿泊客で可成りの賑わいを見せている。誠志朗は、人波を縫うようにゆっくりとバイクを走らせ、鬼怒川の渓谷沿いに右折した。

 渓谷沿いに競うように立ち並ぶに温泉ホテル群。そびえ立つ大型ホテルの狭間にひっそりとたたずむ純和風温泉旅館『華なりの宿しずか』

誠志朗は、駐車場から裏口に回り、通用口の前を通り過ぎ、出口方向に向けてからバイクを停めエンジンを切った。デイパックから保冷バッグを取り出し、通用口の呼び鈴を押したが応答がなかったので、ドアを開けて中に入っていった。もう何度となく配達に来ている、勝手知ったる他人の旅館だ。左手奥の厨房では、静の父親で社長兼親方の星野英雄と従業員の板前が、夕食の仕込みをしている真最中だった。

「こんばんはー」

 のれんをめくって挨拶すると、従業員の板前が誠志朗に気付き、奥に向かって声を掛けた。

「女将さーん、お願いしまーす」

「はーい」

 Gの音程の透き通るような声。学校では絶対に聞くことの出来ない女将モードの声だ。正面の廊下からその声の主が現れた。

 淡いクリーム色の正絹に水色や黄色や薄紅色の花が染め上げられた高そうな着物と薄紫の帯。妖しいほど艶やかな長い黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。

現役高校生の美人女将。

「あら、誠志朗、早かったじゃない」

「……あ、ああ……」

 不覚にも返事が遅れてしまった。

「あら、若しかして私に見とれてた?」

 悔しいけれども正直そのとおりだった。――が、そんなことを言ったら静の思うつぼだ。なので、「はいはい、そのとおりでございます。御前」と、澪の言い方を真似てみたが、「あら、つれないのね」と、あっさりあしらわれてしまった。酔客の対応にも慣れているのか、女将姿の静は、いつもとは違った大人の女性の雰囲気だった。

 持ってきた保冷バッグを渡すと、静はそれを親方のところに持っていき、四角い湯葉鍋を用意した。どうやら『引き上げ湯葉』の注文が入ったようだ。『湯葉鍋』に入れた豆乳を湯煎で温め、出来立ての湯葉を引き上げながら、わさび醤油やポン酢で食べるのは最高の贅沢だ。

「誠志朗、時間ある? ちょっと話があるんだけど……」

「俺は大丈夫だけど、そっちが忙しいんじゃないのか?」

 一応、気を遣ったつもりと、出来るだけ静には関わらないで早く帰ろうと目論んだのだが、「じゃあ、こっち来て」と事務所へ案内されてしまった。

事務所とは言っても旅館のフロントのバックスペースで、向かい合わせた事務机と簡易な応接セットがあるだけの狭い空間だ。

「適当に座って。コーヒーでいい?」

「……いや、いいよ」

「遠慮してるの? いいのよ、気を遣わなくて」

「……じゃあ、お茶で、……俺、コーヒー苦手なんだ」

「あら、そうだった?」

 そう言いながら、慣れた手付きで入れたお茶を誠志朗の前に置いて、静が正面に座った。

「どうぞっ」

「……いただきます」

 誠志朗は、出されたお茶を一口すすったが、静に、真正面に座って見詰められるとまったく落ち着かない。

 目鼻立ちの整った顔。切れ長の大きな目には吸い込まれそうな漆黒の瞳。透けるような白い肌に薄化粧をして、グロスを塗った唇は薄紅の薔薇の蕾。

「……は、話って何?」

 思わず声が上擦ってしまった。

「単刀直入に言うわ。誠志朗、あなた、うちへ経営実習に来なさいっ」

「……ほへっ……」

 予想だにしなかった静の言葉に、誠志朗は間抜けな声を漏らしてしまった。

「どうなの?」

 どうやら2度は言わないつもりらしい。

「……あのー、……どうして俺がここに……???」

 静は、誠志朗が二つ返事しないのが気に入らなかったようだ。

「どうしてもこうしてもないわ。来て欲しいからよっ」

 言ってから気が付いたのか、静の顔がみるみる赤くなり、耳の上の方まで真っ赤になってしまった。

「……はいっ?」

「何言わせるのよ、私が、じゃないわよ! 親方が……、誠志朗に来て欲しいって言うから……」

「……何で……?」

「うちに来れば……、あっ、ほら、うちの親方、日本料理の腕は一流だし……、それにお豆腐は毎日献立に入ってるし、色々勉強になるんじゃない?」

「……それはそうだけど……」

 確かに、華なりの宿しずかの親方と言えば、業界では一目置かれる存在で、鬼怒川温泉だけでなく栃木県内の観光ホテルの板長や料理長が、教えを請うために修業にやってくるほどの腕前なのだ。因みに、料理とはまったく関係ない話だが、高倉健と菅原文太を足して2で割った感じのルックスをしていて、板前になっていなければ、任きょう映画にでも出ていたんじゃないかと思うほど男前だったりもする。

「じゃあ、決まりねっ。もう帰っていいわ」

「ええーっ」

 用が済んだら「はい、さよなら」って感じである。これから忙しさのピークを迎える時間なので、誠志朗は、静に追い出されるように事務所を出て通用口に向かった。

帰り際に、「澪がよろしくって言ってた」と伝えると、静は、「また遊びにいらっしゃいって伝えて」と、どこか上機嫌でにこやかに微笑んだ。

「あっ、まずったな!」

通用口のドアが閉まってから、誠志朗は、昼休みに常磐とした約束を思い出した。静の余りの勢いに思い出す暇もなかった。すぐに戻って静に伝えようと考えたが、忙しいだろうし明日でもいいかと思い、そのまま大人しく帰ることにした。

 外は、陽が西の山に沈み掛け、温泉街に明かりが点り始めていた。鬼怒川温泉は、東と西に険しい山が連なっているため、日の出は遅く日の入りは早いのだ。

 少し寒くなってきたので、ライダースジャケットのファスナーをいつもより少し上まで締めて、誠志朗は帰路を急いだ。

 温泉街を抜けて吊り橋入口の交差点を右折し、会津西街道の旧道に入ると通りは急に寂しくなる。人通りもなく、すれ違う車もない。冗談は抜きにして、余りにも人気がないので、イノシシや鹿や猿、時には月輪熊まで出る始末で、澪の通学かばんには熊除けの鈴が付けてある。どこで買ってきたのかは知らないが、茶色と黒の猫の顔の形をした結構かわいい鈴だったりする。

 小原沢橋を渡りS字カーブを上って、きぬ川小学校を左に見ながら少し走ると『恋し屋豆腐店』の看板が見えてくる。

 家に着くと、玄関の隣の車庫には母親の車が停まっていた。買い物から帰ってきたようだ。バイクを車庫に仕舞って玄関から入ると、キッチンから声がした。

「誠志朗君? 遅かったのね」

「ただいま」 

「もうすぐご飯よ。手を洗ってうがいしなさい」

 18歳にもなった息子をいつまでも子供扱いする。

『阿久津美也子』

 39歳、元銀行員。20歳で結婚して21歳で誠志朗を生んだ。その後、24歳で澪を生んで、恋し屋豆腐店を始める3ヶ月前まで銀行に勤めていた。

 誠志朗は、言われたとおり手を洗ってうがいをして店に行くと、まだ澪が勉強しながら店番をしていた。

「澪ー、そろそろ終わりにするかぁ?」

「……んー、もうそんな時間? ふあーっ」

 欠伸をしながら伸びをした澪は、どうやら半分くらいは睡眠学習をしていたようだ。

「静が『また遊びにおいで』だってさ」

「おおーっ、静様が……ありがたいお言葉。出来したぞ誠志朗君!」

「ふざけてないで、店閉めるぞっ」

 誠志朗は、そう言いながら、シャッターを2枚続け様に下ろしてガラス戸の鍵を掛けた。本日の営業は終了だ。

「明かり消すよー」

 澪が手提げ金庫を持って蛍光灯のスイッチに手を伸ばしているので、「あっ、ちょっと待って。俺が消すから」と言いながら、誠志朗は豆腐が入っている冷蔵ショーケースの中をのぞき込んだ。絹豆腐が2丁と豆乳が1本残っていた。豆乳を手に取り、店の中を見回してから明かりを消して居間に上がった。

「おっ、誠志朗君、湯葉食べたいっ」

「まったく、目ざといなぁ」

 湯葉は澪の大好物だ。流石に豆腐の類はもう飽きてしまっていて、最近では豆乳プリンとか豆乳ドーナツなどのスウィーツにしか興味を示さないが、なぜか湯葉だけは飽きないようだ。

「1本だけ残ってるの知ってたけど、いつ売れちゃうか心配で、気が気じゃなかったぞっ」

「まさか、買われないように隠してたんじゃ?」

「なっ、そんなことはしてないぞ、ひどいぞ、誠志朗君」

「いやっ、澪ならやりかねん」

「…………」

 本当に隠していたのか疑わしい澪は、自分がピンチになったので、唇を尖らせ口笛を吹く真似をして、キッチンに土鍋と卓上コンロを取りにいってしまった。

 誠志朗は、ライダースジャケットを脱いで自分の席に腰を下ろした。

「お母さん、誠志朗君が苛めるんだよーっ」

 聞こえないと思って美也子に告げ口をしている。

「あらあら、駄目よ! 誠志朗君」

 美也子は、どこまでも誠志朗のことを子供扱いするつもりのようだ。

 澪がカセットコンロに土鍋を載せて戻ってきた。それをテーブルに置いて、ペットボトルのキャップを開け豆乳を土鍋に注いでコンロの火を付けた。

「焦がすなよっ」

「おーっと、分かっているとも誠志朗君。弱火だよね、弱火!」 

 火加減を調節し、土鍋が温まるまではもう少し時間が掛かるので、澪は、またキッチンに行って箸と食器を持ってきた。

「危ないよっ、ちゃあ君」

 猫達が澪の後を付いて回っている。

「今、ご飯あげるからね」

「ホワワッ」

 茶トラ猫のちゃあ君が鳴いた。黒猫のシャア君は口は開くものの声は出ない。澪が、ちゃあ君にはカリカリの餌を、食道炎のシャア君にはペーストの餌を、それぞれお気に入りのお皿に入れてあげた。それを猫達は、カリカリ、ペチャペチャと忙しく食べ始めた。

「シチュー出来たわよ」

 美也子がシチュー鍋を運んできた。

「あら、鍋敷きがないわ。澪ちゃん、お願い」

「はいはーい」

 澪は、愛想よく返事をし、鍋敷きをテーブルに置いて自分の席に座った。誰に似たのか澪の声はよく通る声で、将来は声の仕事に就きたいので、誰かさんと違って授業料の安い県立高校に合格したら東京の声優養成所に通わせて欲しいと、今のうちから母親の美也子にお願いしているのだ。

 シチュー鍋を置いて、美也子もいつも座る席に着いた。家族がいつも座る席は、ガラス戸越しに店内が見えるところが澪、その左側でキッチンに近いところが美也子、その真向かいが誠志朗になっている。澪が座っているところは、もともとは父親の席だったのだが、テレビがよく見えるのでいつの間にか澪が占領していた。

 そうこうしているうちに土鍋が温まり湯気が出始めたので、誠志朗の出番になった。ステンレスの菜箸を1本持ってきて、豆乳の表面に薄い膜が張ったところで、土鍋の端から反対側に向かってそーっと引き上げるとクリーム色の湯葉がすくい上がる。

「誠志朗君、澪に! 澪に!」

 澪が両手で取り皿を持ってスタンバッている。

「はい、母さん」

 そう言って、美也子の取り皿に入れようとすると、

「あーっ、ずるいぞ、誠志朗君」

 もう涙目である。

「ほらよ」

 泣かれても面倒なので澪の取り皿に入れてやる。

「やった!」

 澪は、昆布つゆをちょっとだけ掛けて、フーフーやりながら一口で食べた。

「美味しいー、甘ーい」

 ご満悦だ。確かに、出来立ての湯葉は、香りと甘みが引き立ってとにかく格別だ。

次に出来た湯葉は美也子の取り皿に入れてあげると、美也子はそれに山葵をちょんと載せ醤油をちょっとだけ付けて食べた。

 漸く誠志朗の番になったと思ったら、虎視たんたんと2枚目をうかがっていた澪がインターセプトしにきた。また涙目で訴えられるのも厄介なので仕方なく譲ってやった。

 結局、澪が10枚、美也子が6枚、誠志朗が4枚食べて、引き上げ湯葉祭りはお仕舞い。残った豆乳は、ティースプーン一杯の『にがり』を混ぜ入れ、出来立ての豆腐にして3人で食べた。それから、美也子が作ったシチューとご飯も平らげた。

 3人でテレビを見ながらちょっと食休みをしたら、美也子と澪が食器を片付け始めたので、誠志朗も明日の仕込みをするために店に行った。

 余り物の絹豆腐2丁は、パックから出して水ですすぎ、穴の開いたステンレス板に載せ、バットに入れラップを掛けて冷蔵庫に仕舞った。翌朝使う大豆を水に浸すのは美也子がやってくれていたので、誠志朗が今日やることはもうない。

 誠志朗と美也子の仕事の分担は、早朝から木綿豆腐などを作って朝と夕方に配達するのが誠志朗の役割、揚げ出し豆腐などの総菜を作って日中に店で売るのが美也子の役割だ。

誠志朗は、平日の日中は学校があるので、仕事が出来る時間が限られている。そのため、時間が惜しいから配達するのには、渋滞知らずでスピードの出る『オートバイ』がよいなどと適当な理由を付け美也子を納得させて、店の経費でバイクを買ってもらった。

 4月生まれの誠志朗は、18歳になる前から教習所に通い、誕生日の翌日に学科試験を受けて大型自動2輪免許を取得した。それまでは、16歳で原付免許を取得して以来、元々、店にあったホンダのスーパーカブで配達していた。18歳になったのだから普通車の免許も取れるのだが、学校の近くに無料で車を置かせてもらえるところがなく、朝の配達に支障が出るという理由で、それは見送った。

 ところで、『恋し屋豆腐店』の店名の由来はと言えば、元々、阿久津家は『小石屋』という屋号だったのだが、誠志朗の父親が「これからの豆腐屋は色んな恋をしなくちゃいけない」などと訳の分からないことを言ってこじつけたのだ。

 父親の聖郎は、生きていれば49歳。元銀行員で、同じ支店に勤務していた美也子と30歳の時に職場結婚した。

 本人が42歳の時に、何を考えたのか突然「豆腐屋になる」と言い出して、銀行を退職し宇都宮市内の豆腐店に弟子入りして、2年後の44歳の時に独立開業した。

 そうして、今から3年前、本人が46歳の時、誠志朗が中学3年のちょうど今頃に「もう誠志朗に教えることはない。そして俺にはやることがある。3人仲よく達者で暮らせ」と書き残して家を出ていってしまった。

 それ以来、音信不通である。


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