その7
入り組んだ迷路となっている庭園がある屋敷は珍しくはない。アイフィールドの王城にも作られてはいたが、大抵は遊びの部分が大きく占めており、辺境伯の屋敷の様に実用的で広大な迷路は国内でもここにあるだけだ。幾度かレディスと散策したが、エルシアの身丈よりもはるかに高い生垣の中に置き去りにされては右も左も解らなくなってしまう。なので案内しろと言われても出来ないので、執事に先導を頼めばウルリックがエルシアと二人でと希望してきた。
「答えを教えられて何が楽しいんだ、何処までできるか試す時間位あるだろう。どうしようもなくなれば助けを乞うから、お前たちはあちらで待っていろ。」
庭園を見下ろす高台を指示したウルリックに逆らえるわけがない。パーシバルがウルリックを諫めてくれようとしたが、未婚の女性と二人きりになる訳でも密室でもない。距離はあっても高い位置から多くの人間に見られている事実は変わらないと言われてしまえばそれまでだ。呆れたパーシバルと心配そうなマーガレットの視線を受けながら、エルシアは一歩先行くウルリックの後を追う。
「さて、どちらにするか。」
「確かこちらだったような―――」
エルシアの呟きを拾ったウルリックがさりげなく背を押す。途中までは記憶していたが同じ緑色の景色に直ぐに解らなくなってしまって困ったように仰ぎ見ると、ウルリックは少し考えるそぶりを見せながらエルシアの背を押し足を進めた。だが歩みを進めるうちに解らなくなってしまったのだろう、ウルリックが歩みを止めエルシアも立ち止まる。
「降参いたしましょうか?」
高台ではウルリックの騎士三人とマーガレット、それから執事のピエネが二人を見守っている筈だ。そちらに視線を向けようとしたエルシアをウルリックの声が引き止めた。
「父ではなく、君の為と引いていた我が身を呪いたくなる。」
「ウルリック様?」
気付いた時には逃げられないように手首を掴まれていた。傷つけないように力は加減されているが、引いても離してもらえない。困って見上げると向けられる視線の意味を察して慌てて下を向いた。
「私の気持ちに気付いていただろう?」
「お止め下さい、どうか。」
ぐっと腕を引かれ、エルシアは囚われぬよう足に力を入れて踏ん張るが引き寄せられてしまう。咄嗟に自由な方の手をウルリックの胸について距離を保とうとするが、すでに相手の体温を感じるまでの位置にまで寄り合ってしまっていた。
「皆が見ております。」
「ここで押し倒してしまえば死角に入るが?」
「ウルリック様っ!」
とんでもないと顔を上げたせいで視線を重ねてしまった。明らかに熱の籠った視線を向けられどうしていいか解らない。嫁入り前の未婚の娘なら全力で拒絶できもしたが、政略で婚姻を結ぶ貴族の夫婦間において、伴侶の他に恋人をもつ男女は数多くいるのが現実なのだ。セルガンに嫁いだエルシアは跡取りを残せていないので不貞は許されないが、夫以外の殿方に腕に取り込まれても特に大きな問題になるようなものでもない。だが仲の良い両親を見て育ったエルシアには容認できる事柄ではなかった。
「夫ある身です。どうかお許しください。」
「イージスでもないのに?」
別れた恋人の名にエルシアは息を飲んで唇を噛み締めた。
「君はあの男だけを見ていた。それが本物だったから無理矢理壊すようなことはできないとあきらめていたんだ。それなのに君は知らぬ間にセルガンに嫁いでしまっていた。父は私の気持ちを知っていたからね、周囲を言い含めて伏せていたのだろう。ミレイユに聞かされた時には本当に自分自身に落胆したよ。こんな事なら無理にでも奪い取っておくべきだったと。」
いずれは臣下に下るとはいえ、末端貴族の末娘など王国軍部の頂点を極める第三王子の伴侶には相応しくない。愛人止まりなら許せるが、ウルリックの性格からして恋した女性を愛人止まりにしてしまえるような感覚は持ち合わせていなかた。王はそれを察してエルシアの嫁ぎ先をウルリックに隠し通したのだ。辺境伯家とて公爵家の娘を嫁に貰うような家柄だが、跡取りを亡くしてもアルベルトが再婚を望まなかったのが選択肢を広げさせた。エルシアには身分を凌駕するほどの美貌もある。
「イージス同様に辺境伯を愛しているなら引こう。だがそうではないだろう?」
射抜くような強い眼差しにエルシアは体が強張り言葉が発せない。強引な告白もだが、愛していないだろうとの言葉にはっとして咄嗟に言葉が紡げなかった。
「アルベルト様は素晴らしいお方です。心より敬愛しております。」
ようやく出た言葉は事実だが、ふっと笑ったウルリックの目を見たエルシアは、嘘でも愛していると言わなければならなかったとすぐに後悔した。
「イージス以外なら私でも良かったのではないか?」
エルシアに愛する男がいたからあきらめた。けれどその男とは権力と金で引き離され、八方塞がれた末に愛してもいない男に嫁がされたのだ。だがその相手がウルリックであってもエルシアは敬愛し、妻としての役目を果たす為に努力を惜しまなかったはずだと告げられる。
付け込まれると助言してくれたパーシバルの言葉が脳裏を過るが、言われた言葉は事実に近く拒絶が出来ない。
「それでも―――嫁いできたのはこのセルガンです。」
ウルリックの眼差しを拒絶するかに強く睨み返せば、暫く視線を絡め合った後にウルリックはようやくエルシアの腕を開放した。エルシアはよろめくように数歩後ずさり掴まれていた手首を握りしめる。
「こんな事になるなら父に盾突いてでも君を奪うべきだったと後悔していたのだ。行動しなかった己に一番腹が立つ。今更だがあがいてみたくなってね。怖がらせてすまない。」
行こうと背を押され促されるままに迷路を進む。エルシアもだが、背に添えるウルリックの手も緊張して硬くなっていた。しばらく歩くうちに何かを理解したようでウルリックは自力で順路を見つけ出し出口へとたどり着く。流石というべきなのだろうが驚いて顔を上げると、ウルリックからは強張りが解け何時もの顔つきに戻っていた。
「子供の頃から迷路は得意なんだ。これまで知ってもらう機会がなかったのも敗因なのだろうな。」
ふっと笑ったウルリックがエルシアの背後に視線を向けると、高台で見ていた一行がこちらに向かってきていた。ウルリックは視線を向けたまま深く息を吐き出し口を開く。
「イージスがどうしているか知りたければ教えるが?」
はっとして振り仰ぐが、ウルリックは視線を落とさない。下っ端の文官の動向などウルリックが把握する事柄ではないが、エルシアに聞かれたときの為にと気遣ってくれくれたのだろうか。エルシアは躊躇したものの、躊躇いながらも皆が来る前にと口を開いた。
「―――元気に、しているのでしょうか。」
「肉体的には変わりはないようだが―――彼は少し変わった。」
変わったとの言葉にエルシアは眉を寄せ、ウルリックは視線を戻してじっとエルシアを見つめる。
「上役である判事の娘と婚約したのだ。相手は公爵家の流れをくむ名門の娘で完全な政略だ。イージス自身が動いた。今度は自分のやり方で出世街道を走るようだな。」
聞かされた内容にエルシアは言葉を返せない。人が来たのもあるが、かつての恋人は貴族出身ながら裁判官になって弱者の為に奔走するのを夢見るような、権力が全てではないと強い信念を持っていた人だ。自分で動いて政略の為に妻を娶るような人ではなかったはずなのに。優しい彼を変えてしまったのは自分なのだと胸が疼き、エルシアの心を読むかにウルリックが漏らした。
「人は変わるものだ。」
苦く微笑みながら落とされた言葉に周囲の目もありエルシアは声なく頷くにとどめ、動揺を悟られぬようウルリックの隣を歩いて屋敷へと戻った。辺りはいつの間にか日が暮れ空は赤く染まり、色を失ったエルシアの顔色を隠してくれたが、マーガレットが物問い気にエルシアを見つめていた。
建物に入ると帰宅したばかりのアルベルトが迎えてくれる。主の戻りにエルシアはほっとしたものの、張り詰めた緊張がわずかに緩んだだけで喜びはなかった。申し訳ないという感情が心に渦巻くのは何故だろう。後ろめたさも感じつつ、身嗜みを整えたアルベルトと言葉少なく会話を交わして役目を交代する。ここからは男同士の話しと、夕食の時間までエルシアは席を離すのを許された。ほっと息を吐いて自室の長椅子に崩れるように座り込むと、お茶を入れたマーガレットが躊躇しながらもエルシアの傍らに身を寄せた。
「あのっ、奥様とウルリック殿下はその―――深いご関係だったのでしょうか。」
マーガレットの言葉に驚いたが、今にも泣きだしそうな表情を前にエルシアは瞳を瞬かせながらも違うと首を振る。
「ですが……その、先ほど。高台よりお二人が抱き合っているように見受けられ―――」
「抱き合ってなんていないわ、そう見えたかもしれないけどちょっと手を掴まれただけなの。それに殿下はお戯れがお好きで、わたしが妹君であらせられる王女様のお付きとして仕えていた頃からああいう感じの方よ。でもけして無体をなさるようなお方ではないし、旦那様に顔向けできないような事は何一つなかったわ。」
これは事実だ。迷いなく告げるエルシアにマーガレットは疑うようなことを訊ねて申し訳ありませんと幾度も頭を下げて謝罪する。仕える主を想っての言葉だろうと、エルシアはいいのよと笑顔で謝罪を受け入れた。
「ねぇ、わたしからも聞いていいかしら?」
「何でしょうか?」
身を寄せたエルシアに何なりととマーガレットも身を寄せる。
「旦那様には特別な女性がいらしたのかしら?」
「特別なって―――え?」
妻に先立たれ長く独り身だったのだ。正式な妻を娶らずともエルシアが嫁ぐまでにお付き合いしていた女性がいてもおかしくない。エルシア自身、どことなく我が心に抱いた罪悪感を軽くしたくて訪ねてしまった事だったのだが。マーガレットはとんでもないと大きく頭を振って否定した。
「旦那様は奥様一筋です、浮気なんてそんなっ。奥様がおいでになる前はレディス様が女遊び位しろ、そのまま枯れる気かって幾度かお誘いしているのを見かけたこともありましたけれどっ。一度たりとも誘惑に乗られた例はなくっ。本当に本当に真っ直ぐなお方ですから!」
マーガレットがお屋敷に上がってからは一度も女性の匂いがしたことも、屋敷に女性を連れ込むようなこともなかったと、レディスではないが使用人一同心配していたのだと必死に訴えられる。
「ですから旦那様は本当に本当に奥様一筋ですからっ!」
強く訴えられ、エルシアは分かったと頷きながら背筋がひやりとする感覚を味わった。
アルベルトはエルシアを後継ぎを生むための道具として扱う所か、解り合いたいと心を向けてくれている。少しばかり無骨な部分もあるが穏やかで優しく、人の心を酌み寄り添おうとしてくれる人だ。間違ったやり方をしてしまえば頭を下げて謝罪もしてくれる。恐らく妻を愛する努力をしてくれているのだ。
対してエルシアの心に占めるものは何だろう。辺境伯家に嫁いだ身として、辺境伯夫人になる為に努力し、孕めぬ我が身に役目を果たせないと嘆き悲しむ。両親の様な仲の良い夫婦になりたいと理想を抱きながらも、心の内には未だに別れた恋人への想いも留めていた。ウルリックとのやり取りでそれに気付かされ、後ろめたさを埋めようとアルベルトの女性関係をこっそり尋ねるような愚行に出てしまったのだ。そして改めてアルベルトのエルシアに向かい合う姿勢に気付かされる。
「奥様、本当ですよ。本当に旦那様は浮気や余所見をなさるような方ではありませんから。その証拠と言っては何ですけど、旦那様は奥様に嫌われないよう、好かれる様に努力されているように見えます。奥様の側にレディス様がいる時なんて、嫉妬を孕んだ視線まで向けられてお可愛らしいくらいですから。」
唖然とするエルシアの様子を気に病んでいると勘違いしたのだろう。アルベルトがいかにエルシアを想っているかを必死に訴えるマーガレットの言葉が更にエルシアの胸を抉った。
「そうね、ごめんなさい。ありがとう。わたしは幸せ者ね。」
元気に笑顔を見せるとマーガレットの口もようやく止まる。
ウルリックの告白よりもかつての恋人が変わった様子を知らされ胸が疼いた。更に元恋人に心が離れ切らない己を醜いと感じ、罪を軽くしたいと無意識に感じた我が身の浅ましさ。自分の見た目が人を惹きつけてしまうのは解っていたが、それが原因でエルシアの今がある。もしなんて考えてもどうしようもないが、それでも美しいと称される容姿が一般的な物であったらどうなっていただろうかと思わずにはいられない。
アルベルトの興味が向かずに王の命令もなく、イージスと結婚に向けて幸せでいられただろうか。そもそもこの見た目がなければイージスと恋人同士になれていたのだろうかと、爪を立て胸元を強く握り絞める。ウルリックの告白もこの顔が醜ければなかっただろうか。ではアルベルトはどうだろう。
夫となったアルベルトはエルシアを不憫に思い、エルシアの幸せを願ってレディスに押し付けようとしてくれたではないか。少なくともアルベルトはエルシアの容姿に惹かれたのではない。今まで向けてくれた全ての優しさは真実の物だ。それなのにどうしてしまったのだろう、一気に何もかもが押し寄せ胸がつかえ苦しくてたまらない。
「奥様、大丈夫ですか?」
胸を押さえ顔色を悪くしたエルシアをマーガレットが心配そうにのぞき込む。
「大丈夫よ、旦那様が戻ってくれて緊張が解けて疲れが出ただけだと思うの。」
「王女様のお側にいらしたのに、それでもやっぱり緊張されるんですね。」
「それはそうよ。だってわたしは高貴な血を引くわけでもない、何の力もない男爵家の娘だったのですもの。」
そう言って笑うエルシアにマーガレットはどういう訳か強い不安を感じた。