その6
その日エルシアは早朝から砦に向かったアルベルトを送り出し、身支度を済ませると騎士たちの訓練場へ足を運んでいた。オルウェンとトマスに護衛の傍ら訓練に参加してもらうのが一つの理由で、エルシアは度々訓練場に顔を見せるようにしているのだ。昼近くになり屋敷へ戻るという時刻になって、執事の伝言を携えた下働きの少年が息を切らせて走って来た。
何時もと様子が異なる少年にマーガレットが駆け寄り、オルウェンとトマスがエルシアの両側に陣取る。少年から話を聞いていたマーガレットの顔色が離れた場所からも瞬く間に変わるのが見て取れた。
「旦那様に何かあったの?」
不安になって二人に駆け寄ったエルシアに、マーガレットが眉間に深い皺を刻んだまま首を振る。
「ウレック王子がいらしたとかで……」
「まだ来てない、これから来るんだ。それにウレックじゃなくてウルリックだよ、ウルリック王子。早馬が来てさ、ピエネさんが奥方に急いで戻ってくるように伝えてくれって。」
マーガレットは名前を間違えるし、少年は敬語も忘れ女主人に必死で訴える。二人の様子に執事のピエネまで慌てているのではないのかと不安になるが、アルベルトの不在時にこんな事になるとは予想もしていなかったエルシアも冷静を繕いながら内心では慌てていた。
「そう、わかったわ。ウルリック殿下がおいでになる知らせが来たのね。それでピエネは旦那様に知らせを向けてくれたのかしら?」
「屋敷に残ってる人間じゃ時間かかるから騎士の誰かに行って欲しいって―――奥方様に伝えるように託ってきました。」
ようやく落ち着いてきたのか、ぴんと背筋を伸ばした少年にエルシアは深く頷いてオルウェンに視線を向ける。
「聞いての通りよ。ウルリック殿下がおいでになられます。少しでも早く旦那様にお伝えしなくてはならないの、人選をお任せしてもいいかしら?」
「勿論です、早馬を出します。」
オルウェンが返事をすると同時にトマスが手配に駆け出してくれた。トマスは直ぐに戻って来るだろうが時間はない。エルシアは馬に跨るとマーガレットとオルウェンを引き連れ急いで屋敷へと戻るが、蹄の音が轟くのに執事の出迎えもない。オルウェンが扉を開くと初老を迎えたピエネが慌てて駆け寄ってくる所だった。
「奥様、お迎えが遅れ大変申し訳ございません。」
「いいのよ、こんな時だもの。それでウルリック殿下は何時頃お着きになるの?」
「それが一時程でお着きになるらしく―――」
「一時?!」
エルシアが声を上げるとほぼ同時に、エントランスに面した客室から王国騎士団の制服に身を包んだ騎士が一人姿を現し、エルシアは見苦しい所を見せたと咄嗟に慌てて腰を折ってしまった。
「挨拶が遅れ申し訳ございません、セルガン辺境伯夫人。」
「こちらこそ申し訳ございません、パーシバル様。」
エルシアより低くなるよう、片膝を付いた騎士がエルシアの手を取り口付けを落として立ち上がる。二十代後半の騎士はコーリン=パーシバル、ウルリックのお付き兼指導係のような人でエルシアも面識がった。そのせいで城に出仕していた時の癖が出てしまい、男爵家の令嬢であった時と同じように身分の低いエルシアから挨拶の為に腰を折ってしまったが、セルガン辺境伯夫人となったエルシアの方が今は身分が上に捉えられる。それとなく指摘され背筋を伸ばしたエルシアに、パーシバルは微笑ましいものに向けるかに穏やかな笑みを漏らした。
「これから此方へこられる方にも、王国騎士団の副団長として接して下さって構いませんので。」
「流石にそのような訳には―――」
ウルリックはアイフィールドの第三王子だが、国防を授かる王国騎士団の副団長として席を置いている。将来的には将軍という最高位に付くのだろうが今は勉強中で関連する施設や場所を周り、いずれは配下に置く騎士団というものがいかなるものかを己の目で見てまわているのだ。第三王子とはいえ相手は王国騎士団の副団長。軍事面においてはセルガン辺境伯アルベルトの方が身分は上とされ、その夫人であるエルシアは夫不在時にはアルベルトと同等の権限を持たされるのだ。
だが王女に仕え長年培われた経験は直ぐに覆せるものではないし、生まれの差もある。王女を通してウルリックとも面識があるエルシアに、ウルリックが副騎士団長と王子のどちらであっても態度を変えるなんて大それたことは出来そうになかった。
「そのようにお優しいままですと付け入られますよ。現に殿下は知らせもやらずに夫人を驚かせようとしていたのですから。辺境伯への礼を欠いてはならないと私が早馬に立ちましたが、辺境伯が不在とは―――」
意味有り気な視線を向けられエルシアは俯いて再び申し訳ないと詫びてしまう。
「悪いのは殿下であって辺境伯夫人ではございません。主の愚行を止められず申し訳ない。」
「いいえ、セルガンに殿下がおいでになるのは当然の事です。お知らせいただいて感謝いたします。それで本当に一時後に?」
そうですと頷いたパーシバルを前にエルシアは自身を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「今回は副騎士団長としておいでになられるのですね。供をされておられる方はいかほどでしょうか?」
「私の他には二人です。」
隣の領地に滞在していたのだが、突然何を思ったか無理に時間を割いて来たので長く留まるのではないという。それでもアルベルトを呼び戻して対談するのだから一泊は必要だ。だが本当に急な思い付きだったのだろう。供がパーシバルを含め三人とは、一国の王子にしても副騎士団長にしても少なすぎるではないか。
「ありがとうございますパーシバル様。それで大変申し訳ないのですが、急ぎ準備を整えなければなりません。暫くお相手できませんが、どうぞゆっくりとお寛ぎください。」
「有難うございます。ですが私は一度殿下の元に戻りますので。なるべくゆっくり到着できるように尽くさせていただきますよ。」
エルシアの状態を理解してくれたのだろう。微笑むパーシバルにエルシアは感謝しますと深く腰を落とした。
パーシバルを見送ったエルシアは急いで準備に走る。簡素な普段着のエルシアはマーガレットに衣装の準備を頼むと、普段は立ち入らない使用人たちの領域にピエネを連れて向かった。宿泊する騎士たちの対応には使用人たちも慣れているが、ウルリックがセルガンの屋敷に留まるのは初めてになる。王国騎士団の副騎士団長であっても王子様なのだ。失礼があってはならないと客室を整える指示を出し、料理人も交えお茶と茶菓子と夕食の献立を考える。庭や客室の清掃も日頃から抜かりないが、万一を考えて確認を頼んでから一人部屋に戻ると、マーガレットがいくつか選んでくれていた衣装の中から華美になり過ぎない物を選んだ。訓練場に行っていたので全身埃っぽかったが入浴する時間はないのでさっと体を拭い、髪は梳きなおしてきつめに結ってもらう。ドレスに袖を通して最低限の装飾として首飾りだけをつけると予定の時間だ。屋敷はピエネを筆頭に使用人が抜かりなく整えてくれた。厨房では料理人が忙しく動き回り、菓子の焼ける良い匂いが漂っている。パーシバルが時間を引き延ばしてくれているのだろう、到着が遅れたお蔭でエルシアは心を落ち着ける事が出来た。
王女に仕えたおかげで色々な物を見て来た、経験を生かせば大丈夫と己に言い聞かせる。砦へ向かったアルベルトが戻ってくるのは夕刻近くになるだろう。それまではエルシアがウルリックの相手をこなさなければならない。
末の王女であるミレイユをウルリックはよく訪ねて来ては相手をしていた。まだ十歳と幼い王女を一回り歳の離れたウルリックは揶揄いながらも仲が良くて、けして気難しいとか扱いにくいとかいう相手でないのは承知しているのだ。どちらかと言えば誰に対しても気さくな風でもあるし、きっと大丈夫とエルシアは己に言い聞かせる。
しかしながらただ一つだけ気になり構えてしまう事柄があった。王女を訪ねてきたウルリックはエルシアを口説くのが常であったのだ。
身分は釣り合わないしエルシアには恋人もいたので応じられるものではなかった。ウルリックも身分を嵩に無理矢理迫るようなことはしなかったし、分別ある方と信じているので大丈夫なはずだが、それでもあの時と同じように王女や同僚は側にいてくれない。妻を守ってくれるはずの夫も大切な仕事で不在なのだ。冗談で声をかける節もあるウルリックに、上手く切り返せるだろうかと不安は消えない。
パーシバルが頑張ってくれたのだろう、一行は半時ほど遅れて到着した。屋敷の外で待っていると、門をくぐった四頭の馬がゆっくりと進んできていたがその中から一頭が抜け出す。風になびく金色の髪から直ぐにウルリックと解りエルシアが腰を落として首を垂れると、後に控える使用人たちも一斉に頭を下げた。
「久しいなエルシア!」
馬から飛び降りたウルリックは両腕を広げ飛びつかん勢いでエルシアを抱きしめてしまう。驚いたのはエルシアだけではなく側で目撃した使用人たちもだ。武に身を捧げた王子は背が高く体つきもがっしりしていてアルベルトを連想させ、エルシアははっとすると慌てて距離を取ろうと腕の中でもがいた。
「でっ、殿下っ。ウルリック殿下?!」
面識があるとはいえエルシアは王女付きの女官であったので、ウルリックと接触があっても手を取られる程度だ。それがいったい何がと驚き慌てるエルシアをウルリックは解放すると、申し訳ないといった感じで笑顔のまま眉を下げた。
「城に戻ればお前が消えていてミレイユが拗ねていた。話を聞けばセルガンに嫁いだというではないか、唖然としたぞ。イージスならまだしも辺境に嫁がれてはどうしようもないと父を恨み落ち込んだが―――こうして会えて嬉しい。」
碧眼を細め皮の手袋を外した指先で顔の輪郭をなぞられ、別れた恋人の名を耳にして一瞬動きを止めていたエルシアは慌てて一歩下がり、ウルリックから距離を取ると深々と腰を落として頭を下げた。
「この度はセルガンへ足をお運び下さりありがとうございます。王国騎士団に身を置かれ辺境を気にかけてくださる殿下のお心に、セルガンを代表し深い感謝を申し上げます。」
今のエルシアは側に仕える女官ではなくセルガンの女主と気を張れば、ウルリックは雛を見守る親鳥の様に温かな眼差しでエルシアを見下ろす。
「辺境伯アルベルトは只今屋敷を不在にしておりますが、急ぎ戻っているところですのでお許し願いたく。」
「よい、コーリンから聞いている。急に訪問を決めた此方が悪いのだ、気に病む必要はない。近くで仕事をしていたのだが予定より早くに片付いたのでな。国防もあるがお前に会いたかったというのも理由の一つだ。」
無理矢理時間を作ったとパーシバルから聞いていたエルシアは、答えに困って更に視線を落とした。咄嗟に言葉が出なかったのだ。
「殿下、彼女はもうミレイユ様のお付きではなく辺境伯夫人なのです。それくらいでお控えください。」
「コーリン、馴染みの娘だぞ。まぁ良いではないか。」
パーシバルが助け舟を出してくれてエルシアはほっとする。他二人の騎士は見覚えはなかったが、ウルリックの様子に苦笑いを浮かべている所からして近しい間柄なのだろう。ウルリックの態度に驚きはしたがもともとこういった感じのする人だ、気持ちを落ち着け直してエルシアは一行を屋敷の中へと案内した。
本来ならもてなしの茶は一級品を出す必要がある。だが王女を訪ねたウルリックが好んで飲んでいたのは必ずしも一級の品ではない。もてなす側としては相手の好みが最優先とウルリック好みの紅茶に、甘いものは苦手ながらも、甘味を押さえた胡桃のたっぷり入った焼き菓子は割と手を伸ばしていたので料理人に頼んで準備してもらった。けれど辺境伯家としては失礼になるのではと執事と一緒に話し合ったが、短時間で決断をした事柄は正解だったようでほっと胸を撫で下ろす。
「私の好みを覚えてくれていたとは嬉しいよ。」
喜んでくれるウルリックを前に笑みを浮かべるエルシアだが、実際には彼の前に腰を下ろして相手をする立場に緊張を隠しきれない。しがない男爵家の末娘が騎士団副団長とはいえ敬うべき自国の王子とこうして同じ立場に並び対面しなければならない日が来ようとは。セルガン辺境伯領内の事にばかり気が行っていたエルシアの心内は必死の一言だった。
辺境伯であるアルベルトが戻ってくるまではエルシアがウルリックの相手をしなければならない。パーシバルが気を使ってくれはするが頼れるわけではないので、あまりの緊張で余裕がなくなって来る。共通の話題である王女の話しも尽きかけ次の話題をと頭を悩ましていると、庭に出てみたいとウルリックの方から言い出してくれた。
「こちらの庭は敵の侵攻を阻むために迷路になっているとか。初めてなので歩いてみたいのだが?」
紅茶のカップを置いたウルリックが真っ直ぐにエルシアを見つめる。それとなく視線を外して執事へ向けると頷いたので、エルシアは「ご案内いたします」とほほ笑んで立ち上がりウルリックを先導した。