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辺境の花  作者: momo
20/21

その20


 エルシアが目を覚ますと長椅子ではなく硬い寝台に横になっていた。小さな部屋は冷たい石の壁で出来ていたが、夢見がちであってもここが何処であるかを間違えることもなくエルシアはゆっくりと体を起こす。


 眠っている間にアルベルトが運んでくれたのだろう。抱き上げられても目を覚まさないなんて余程疲れていたのか、失神に近い状態で意識を失くしてしまっていたのかも知れない。硝子がはめ込まれた窓に鉄格子はなく、冬特有の長い日差しが室内に差し込んでいた。アルベルトの姿はないが、ここがセルガンの砦というだけで不安はなく安心感を覚える。目に見えなくても側にいるのだと感じ、硬い絨毯の上に素足を下ろしてゆっくりと歩いて扉を開く。続く間は執務室で暖炉では赤々と火が焚かれ、その暖炉ではこの場に不釣り合いな大鍋に湯が沸かされており、そこには主であるアルベルトではなくマーガレットが待ち構えていた。


 「マーガレット。」

 「奥様っ―――」


 マーガレットの目に涙が滲み、エルシアを呼んだはいいがその場で嗚咽を漏らして堪えるように手で口元を覆った。


 「怪我はもう大丈夫なの?」


 エルシアはゆっくりと歩み寄るとマーガレットの頬に触れる。マーガレットは何度も頷きながら涙を零した。


 「腕は?」

 「もうどこも、痛みの一つも残っていません。」


 折られた腕も無事につながり元通り動くようになっていた。重い物を持ったりするのは念のために避けているが、経過は順調で痛みもなく、見た目だけでいうなら元通りになっている。それに比べエルシアはと、マーガレットはすっかり痩せ細ってしまったエルシアを前に、安堵よりも申し訳なさが勝り泣きながら膝を付いてしまう。


 「お守りできず、本当に申し訳ございませんでした。」

 「そんな事を言わないで、選んだのはわたしなの。痩せてしまったけど怪我の一つもしていない、とても元気なのよ。」


 男ばかりの敵陣に囚われいったいどんな目にあったのか。囚われた女がどのような目にあうのか正しく知っているマーガレットは、レディスからエルシアの無事を知らされていても胸を痛ませずにはいられない。たった一人でどんなに怖かっただろう。指を落とされそうになりその代わりに髪を失ったというが、あれだけ豊かで綺麗だった髪を失いどれ程辛かっただろうかと。エルシアは辺境伯夫人だ。これでは人前に出るのも憚られてしまうと涙を零すマーガレットに、エルシアは大丈夫だと変わらずに微笑んでみせる。


 「オルウェンやトマスはどうしているの。旦那様から無事だとは聞いたけど気になってしまって。」


 血を流していたオルウェンと胸を刺されたトマスが無事なのは聞いたがその後を知らない。あの日を思い出し何よりも気になる事柄を問えば、マーガレットは涙を拭い鼻をすすった。


 「トマスは騎士の仕事に戻っています。オルウェンさんは怪我が酷くて。でもようやく寝台から出て起き上がれるようになりました。」


 胸を射られたトマスだが心臓を掠めはせず左の肺をやられただけで済み、若さのお蔭か回復は早かった。だがオルウェンの傷は深く出血も酷かったので一時は命も危ぶまれたが、処置が上手く行き二カ月近くたった今はようやく寝台を抜けて室内程度なら歩けるまでに回復した所だ。騎士として前と同じように仕事が出来るかどうかはこれからにかかっているが、あれだけの怪我を負い命があっただけでも奇跡に近い。話を聞いたエルシアは一刻も早く二人に会って無事を確かめたい心境に駆られるが、勝手をするわけにもいかず、今は素直に無事を喜ぶことにした。


 「奥様、湯が沸いています。体を清めてお着替えをいたしましょう。」


 二人を想いエルシアが沈んだのを感じ取ったマーガレットは、あえて明るく声を上げ、エルシアも心配させまいと笑顔で返す。エルシアは侍女の役目というマーガレットを無理矢理手伝い、大きなたらいに湯を張り体を洗った。髪は短くなってしまったが、そのお蔭で洗うのはとても楽で不幸中の幸いと笑って石鹸をもみ込む。柔らかな布で髪と体を拭い真新しい清潔な下着をつけ、腰を閉めるコルセットはそれとなく遠慮した。マーガレットは察したのだろう、特に何も言わずにエルシア好みの動きやすく飾りの少ない簡素なドレスを着せてくれる。髪は付け毛を用意してくれていたが断った。そのかわりに不揃いの毛先を見られるように整えてもらい支度を終える。場所を考え化粧は遠慮し、体を綺麗にし終えると温かな食事を準備してもらい口に含んだ。すっかり胃が小さくなっているようで全部食べることはできなかったが、栄養はそれなりに取れたので痩せた体もそのうち元に戻るだろう。一通り終えるとアルベルトが姿を現したので、マーガレットが遠慮しようとするのを引き止めた。


 「軍医の診察を受けるか?」


 セルガン辺境伯家に仕える医師は他にいるし、先の妻もその医師が担当した。出産は産婆が主導するが産まれるまでは医者の担当だ。普段は怪我人ばかりを相手にしているが、軍医だから妊婦は診れない訳ではない。それに長く囚われていたエルシアの体も気になる。アルベルトは不安を一つ片付けたいがために、身近な医師を頼ろうとし、エルシアも軍医とは顔見知りなので素直に受け入れる。側で様子を窺っていたマーガレットだけが不安そうに眉を顰めたが、二人とも特に意見は求めなかった。


 アルベルトよりあらかじめ話を聞いていた軍医だったが、すっかり様変わりしたエルシアの様子にもともとあった眉間の皺を更に深くした。女性らしい丸みを帯びた体はすっかり痩せ細って痛々しい。それでも心に大きな傷を負わなかったと一目でわかったのは、紫色の瞳が生気に溢れていたからだ。敵に捕らわれた美しい娘がどうなるかなんて誰にだって想像がつく。そんな中でもエルシアは運が良かったのだろうと、軍医は意識して笑顔を浮かべエルシアを招き診察した。


 痩せてしまっているが食事が戻れば大丈夫だろう、健康面においては特に問題はない。衣服に覆われた部分に怪我がないのはアルベルトが確認しているだろうからと問診だけで済ませた。そこで最後に手を止めた軍医は、エルシアとアルベルトに向かって問いただす。


 「それで妊娠の件ですが、二人とも確定診断をどのように行うかご存知ないのでは?」


 問われたアルベルトとエルシアは互いに顔を見合わせてから軍医に視線を向けた。診察室の隅ではマーガレットがやっぱりなという表情をしており、軍医は三人の様子を見て軽く笑いを漏らす。


 「まぁ専門外だが出来ない訳じゃない。どうしてもと言うなら診察しますが辺境伯、奥方の大事な部分に触れ手を入れたりしますが宜しいですか?」

 

 何かに気付いたようにはっとしたアルベルトに向かって軍医は安堵し微笑んだ。アルベルトの複雑そうな様に先を察したのだ。


 「緊急時ならともかく御典医の方が奥方にも負担が少ないでしょう。なにせあちらは産婆も伴ってやって来るでしょうからね。離れるのが嫌だからと、怪我人ばかりを専門に見る私に何もかもを任せるべきじゃないですよ。」


 いくら辺境伯とはいえ牛や馬の出産は知っている。しかし人は別で、何よりもエルシアへの心配が先に立ち誰が妻を診察して、その診察内容がいかなるものかなどまったく想像していなかった。確かに軍医が相手にするのは怪我人ばかりで、若い女性など滅多にない。しかも妊娠状況の確認など、エルシアを好ましく感じる軍医自身も出来るなら勘弁願いたかったのだ。己の欲求ばかりを先行させてアルベルトはバツが悪くて狭い診察室をぐるりと見渡す。その際マーガレットと目が合うと、当然ですとばかりに頷かれ更に居心地悪く感じてしまった。先程不安そうに眉を寄せたのはそういう訳なのだろう。きちんと状況を把握できていたのは主ではなく使用人だったのだと、もう少し周囲に意見を求めるべきであったとアルベルトは後悔する。マーガレットは若くとも頼れる侍女だ。


 しかしこうなるとアルベルトの希望だけでエルシアをいつまでも側に置いておけなくなってしまった。友好的な条約が結ばれるまでデルク=オルガが何を仕掛けてくるかわからないし、条約の為にウルリックやアイフィールドの宰相も訪問するのが決まっている。こんな状態で辺境伯であるアルベルトがこの場を離れるのは許されず、だからと言って身重のエルシアを女性にとって不便な砦に引き止めておける訳もない。何よりも子を宿しているのだ、腹の中が無事かどうかを診察させる必要があった。レディスが嫌がる訳だと、辺境伯の窮屈さにアルベルトはそっと溜息を落とす。


 「マーガレット。彼女を屋敷に戻すから支度をしてくれ。」

 「承知いたしました。」


 礼を取ったマーガレットが先に診察室を出る。アルベルトはエルシアの背を押しながら頭の中で、友好条約に必要な人員を保ちつつエルシアにつけるべき最高の護衛を選別していた。その中にレディスを加えなければならないのは何処となく悔しいが、役にも立たない嫉妬などしている場合ではない。オルウェンとトマスが使えないのは痛い所だ。オルウェンは動けないにしても通常業務に戻っているトマスは何とかなるかもしれない。二人とも名目上の謹慎はとうに解かれ、今は辺境伯夫人を奪われた罰を受けるべく沙汰を待っている状態なのだ。エルシア誘拐は彼女が自身の意志でオルガの手を取った事と、この度の和平成立の為になかったことにされるというので無いに等しいが、二人はアルベルトに厳罰を望み、アルベルトはエルシアが無事に戻ってから彼女自身に罰を与えさせると決めていた。事実上の無罪放免だ。


 「邪魔はしないと誓いますから、このままここにいる訳にはいきませんか?」

 「是非ともそうしてもらいたいが―――何かあった後では悔いても悔いきれない。」


 嬉しい事を言ってくれるエルシアの言葉に救われ、そっとエルシアの下腹部に触れる。アルベルトもそうしたい所だが、子を宿してくれた妻の体が気になるのは正直なところだ。殺伐とした環境よりも温かい屋敷へと戻した方がゆっくりできるだろう。エルシアもアルベルトの大きな手に自分の小さな両手を重ねた。


 「離したくないな。」

 「離さないでください。」


 後ろから抱きしめられエルシアは頬を染める。そこへ偶然にも通りかかったレディスが二人を茶化しながら通り過ぎた。


 




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