その2
結婚式の夜に国境の砦へ出向いたアルベルトは翌日になっても帰って来なかった。そして次の日、また次の日になっても。ただ知らせは頻繁に届いていたので心配するエルシアにレディスが丁寧に説明してくれる。小競り合いというが互いに遠くから姿を見せつつの睨み合う状態で、十日もすれば互いが兵を引きあって終わるのが常との事だ。実際に手が触れる距離にまで互いが寄り合うこともあるが、最近は両国とも剣を抜く機会を持たないように気を使いながらになっているらしい。
芝生に直接寝転んだレディスが暇そうに欠伸を漏らす。穏やかな午後のひとときをエルシアは、入り組んだ迷路となっている庭園を見下ろす場所で過ごしていた。
「向こうはこっちが仕掛けるのを待ってんですけどね。国防を担うこちらとしてはいかに犠牲を出さずしてギスターナを退かせるかってのに重きを置いてるんで。」
先に手を出したのがアイフィールド側と主張され、大々的に攻め入る隙を与えない為にもそうしているのだとレディスが説明してくれる。
「実際に戦いとなれば沢山の人が犠牲になりますものね。それに民も。」
「真っ先に犠牲になるのはセルガンの民ですからねぇ。俺としては一気に片付けてしまえって感じなんですけど、命を預かる伯からするとそういう訳にはいかない所がもどかしいんだよなぁ。」
エルシアは気軽な態度になったレディスからアルベルトやセルガンについて色々なことを学んでいた。そしてマーガレットからは内向きな役目を。
辺境伯の妻はごく一般的な貴族の妻としての心構えだけではやっていけないのだとエルシアは受け取る。お屋敷も一般的な貴族の屋敷とは違って豪華絢爛からかけ離れ要塞のようだ。実際に戦いとなり籠城となった場合には、出来る出来ないに係わらず辺境伯の妻であるエルシアが夫に代わり指揮を執る事になる。最悪の状況を迎えてしまった場合もしかり。敵の侵攻を受けた場合は都より王国軍が到着するまでけしてセルガンを越えさせてはならないという重大な役目を担っていた。
主の妻を前に寝転んで会話を続けるレディスの態度にマーガレットが冷ややかな視線を送るが、送られる本人は何のその、気にもしていない。実際レディスはアルベルトの従弟であり、アルベルトの一人息子サミュエルが亡くなった今は次期辺境伯候補の筆頭なので、エルシアとしては問題でないように感じるのだが。しかしマーガレットによるとエルシアに対して馴れ馴れし過ぎて許せないらしい。
そんなレディスが眠そうにしていた目を見開き芝生に耳をあてがう。どうしたのだろうと首を傾げたエルシアを前に、レディスは勢いよく飛び起きるとエルシアの腕を引いて立ち上がらせた。
「伯が戻って来た!」
「えっ?!」
「ちょっ、奥様に手を出さないでくださいましっ!」
エルシアの手を引いて駆けだしたレディスを怒りながらマーガレットが追いかけてくる。突然の事に付いていけないエルシアはされるがまま、腕を掴まれてつんのめりながら屋敷の門へと向かわされた。途中振り返るとマーガレットの姿が見えなくなってしまっており、レディスの走りに付いてこれなかったのだと思い至る。実際エルシアも半分引きずられ息が上がってしまっていて、門に着くなり膝から崩れ落ちそうになるのをレディスに支えられてなんとか体勢を保つ。顔を上げると青毛の馬を先頭にやってくる一団が見えた。先頭にはアルベルトがいて、彼が門をくぐると同時にレディスが声を上げる。
「遅っせぇんだよっ。他所の男に新妻預けて畑耕されても文句言えねぇぞ!」
「悪かったなレディス。だが耕されては困るからお前に預けたのだと解っているだろう。」
「その手に乗るかよ!」
二人のやり取りに上がっていた息が止まりすっと体が冷える。どうやらアルベルトはエルシアとレディスとの間に間違いが起きても良かったようだ。望まれていなかったのは感じていたし、今回の婚姻は辺境伯に後継ぎを望む王の押し付けでもある。後継ぎは重要な問題だが、アルベルトにとってその後継ぎは自分の血でも従弟の血でも構わないらしい。愛のある結婚でないのは承知してはいたがまさか他の男にあてがわれるとは想像しなかった。青褪めるエルシアに灰色を帯びた緑の目が落された。ずっと側にいたレディスと同じ目の色だ。
「慌ただしく申し訳ない。話があるので一時後に執務室に来てくれ。」
「承りました。」
こんな状態でも腰を落とし綺麗に礼をとれたのは王女付きの女官として出仕したおかげだろう。瞬きも忘れ腰を落としたエルシアの様子に気付いたレディスはしまったという顔をしたが、そうさせたアルベルトは顔色も変えずに場を去る。
「えっと、ごめん。つい余計な事を口走りました。」
「いいえ。お蔭で自分の立場がはっきりと認識できました。」
「奥様……それちょっと違いますからね?」
アルベルトの命令に従う為にふらりと歩き出したエルシアにレディスの言い訳は届かなかった。一時後、それまでにまともに受け答えができるように心を静めなければならない。心配そうにするマーガレットに頼んで一人きりにしてもらって部屋に籠ったが、約束の一時間を過ぎる前に召喚は取り消しとなった。事後処理が長引いているらしくこの数日ずっと一緒にいてくれたレディスも姿を見せない。誰も彼もが忙しいのだと知り疎外されている気持ちになるがどうしようもなかった。
食事も一人ですませる。アルベルトは要人と重要な話をしながらというので当然エルシアは蚊帳の外だ。普通の貴族社会と違って妻を伴っての会談ではなく軍事的な話の場だ、同席する理由もない。レディスやマーガレットから話を聞いて辺境伯夫人としての覚悟を決めていただけに、今回の出来事はエルシアを酷く落ち込ませた。
「奥様。旦那様より先にお休みなっておくようにと伝言でございます。」
「そう、ありがとうマーガレット。」
気を利かせ主の籠る執務室の扉を訪ねてくれたマーガレットが伝言を預かってくれた。湯あみを済ませ寝間着に着替え寝台に上がるとマーガレットも役目を終えて出て行く。静けさの戻った寝室でエルシアはうすら寒いものを感じ己を抱きしめた。
先に寝ろと言われても屋敷を空け命がけの仕事に付いていた主を待たずに眠れるわけがない。ショックな出来事もあり睡魔も訪れず、エルシアは窓辺に立ちぼんやりと欠けた月を見つめる。
どれ程の時が過ぎただろう。月が移動してしまった深夜、草木も眠る頃になって寝室の扉が開かれる。こんな時間にノックもなしに入室してよいのは一人だけ。夫婦の寝室にもう一人の主が姿を現し、エルシアに目を止めると闇の中でも眉を顰められたのを感じた。
「先に眠るよう伝えていたはずだが?」
「連絡は受けておりましたが、申し訳ございません。」
頭を下げるエルシアに怒っているのではないとアルベルトは諭す。疲れと汚れを落としてきたのだろう、髪は濡れ闇色に染まっていた。
「眠れなかったものですから。」
「私のせいだな。」
「いいえ、そんな事は―――」
「あるだろう。帰還時は嫌な思いをさせた。君が覚悟をもってセルガンに来たと解っていたのについ遠慮をしてしまってね。傷つけたろう、申し訳ない。」
あの時は回りに部下が大勢いたので上に立つ者として頭を下げられなかったと詫びるアルベルトに、エルシアは詫びられる意味が何なのか正確に理解できず瞳を揺らした。
「息子を亡くしてからはレディスを後継にと考えていた。あれには問題もあるがきちんと教育していけばこの地を任せられると思ったからね。それに加え先日急遽出陣するにあたり、君と私とでは年が離れているしレディスの方が似合いだといらぬ考えを持ってしまったのだよ。」
人妻に手を出すような男でないのは承知していたが、妻に迎えたとはいえアルベルトの手はついていない。しかもエルシアは誰の目にも美しく若い魅力的な女性として映るのだ。アルベルトも見合いの席で美しいエルシアに目を留めてしまった。集められた他の令嬢と異なり所在無げに身を小さくして隠れるように佇んでいる様を記憶している。そんな彼女にアルベルトの意を察してレディスが口説きをかけるのではないだろうかと考えたのだ。アルベルトが居ぬ間に深い関係になったなら白い結婚を理由に二人を繋ぐ事ができる。辺境伯領に留め起き、レディスを養子として迎えるなら、エルシアが産む子が未来の辺境伯となるので男爵家にも迷惑は掛からないだろうと考えたのだが。
「わたしを夫が居ぬ間に不貞を働くような女だと思われたのですね。」
「君には恋人がいただろう。無理矢理別れさせられ、私に好意を抱いてくれるとは思えなかったのだ。」
「酷い侮辱ですわ。」
「申し訳ない。先程門で迎えてくれた態度で君の決心を悟ったよ。私の覚悟が足りなかったのだな。嫌な思いをさせた。本当に申し訳ない。」
深く頭を下げるアルベルトを前にエルシアは唇を噛み締める。聞きようによってはエルシアの事を考えてくれたようにも聞こえるが、実際はとんでもない侮辱を受けていたのと同じなのだ。神の前で夫婦となったのにその足で他の男を宛てがわれ、肉体関係を持てば二人を夫婦にしてしまおうなどと。恋仲にでもなれば許すつもりでいたようだが、それが例え心からエルシアを思っての事だとしても酷い侮辱だと訴える。
「確かにわたしには結婚を約束した恋人がいました。彼は子爵家の三男で裁判官を目指していましたが、貧しい名ばかりの男爵家にとって利益にはなりません。でも両親は反対所かわたしが幸せならと許し喜んでくれました。でもっ、でも彼は―――!」
そこまで吐き出し嗚咽が混じる。紫の瞳からは堪えきれない涙が溢れた。
「試験も受けていないのに昇進と裁判官の免許を渡されました。知らぬ間に兄たちも昇進して、それは嫁いだ姉の婚家にも及んでいます。それを知った後で断れるとでも? そもそも王より直接言葉をいただいた父が首を横に触れたとでもお思いですか?!」
先に周囲を固められていたのだ。恋人に至っては昇進と裁判官免許を渡され戸惑いながらも、これで結婚できるとエルシアとともに喜んだ。その後で条件を突き付けられたのだ。喜んでいた恋人から裁判官の職が奪えようか。王の言葉に否と唱えられようか。だから覚悟を決めてセルガンに嫁いできたというのに、迎える側から拒絶されたこの身はどうすればよいのだろう。
「離婚してレディス様に嫁げばよろしいのですか。セルガン伯がそう望まれるならなさってください。わたしは異を唱えられる立場にないのですからどうぞお好きに!」
怒鳴るエルシアに太く大きな腕が伸びる。殴られると恐怖で身構えたエルシアを衝撃が襲う事はなく、かわりに強く抱きしめられた。
「すまない。本当に、心から申し訳ないと詫びる。考えが至らず嫌な思いをさせすまなかった。配慮に欠ける私をどうか許して欲しい。」
小娘に頭を下げる辺境伯を前にエルシアの怒りもだんだんと収まり冷静になってくる。結婚して数日たつがようやく交わせた会話が喧嘩など、しかもアルベルトは非を認め素直に頭を下げ謝罪してくれているのだ。そうなるとエルシアにもアルベルトの事情に配慮する余裕が生まれてきた。
「わたしの方こそ、配慮が足りずに申し訳ありません。ご子息を亡くされ想う事ばかりでしたでしょうに……伯が望まれた婚姻でなかったのは理解致しておりましたのに、つい感情的になってしまいました。」
逞しい胸を押すと容易く解放される。一歩下がったエルシアが腰を落として丁寧にお辞儀をしたせいで、窓から差し込む弱い月明かりが緩やかに開かれた胸元を開く。胸元に覗いた柔らかな双丘を目にしたアルベルトはそっと視線を外した。
「私は無骨者でね、レディスにも叱られてしまった。」
視線を外して何処ともつかぬ場所を見つめているアルベルトを前に、エルシアが最初に感じた威圧感はすっかり収まっていた。そう言えば従兄弟同士とはいえ主である辺境伯にレディスは乱暴な口をきいていたのを思い出す。それを許しているだけに絆の強さを匂わされるが、もともとアルベルトという人は穏やかな気性を持っている人なのかもしれないとエルシアは感じた。好戦的なギスターナと国境を交える領主として、また国王の次に権力を有し、時に同等に並ぶ者としての威厳と力を兼ね備えながらも、内と外に晒す人格を使い分けしているのではないだろうか。もともとの素がどちらかという訳ではない。血を流す戦いが現在繰り広げられているわけではないが、命を懸けて共に戦う辺境伯領の人々の間には常識で括りつけられない結びつきもあるのだろう。
「旦那様は声をかけるのも憚られるような威厳のある方です。けれど実際には配慮も出来るお優しい方なのでしょう。けして無骨者などではありません。それにレディス様は、彼自身もおっしゃっていましたが人妻に手を出すような不埒な方ではないようです。わたしは城に出仕しておりましたので、その手の態度をとられる男性を沢山知っています。そしてこんな風に己の非を認め、下の者に頭を下げられる清廉潔白な方が特に珍しいという事も。」
人柄にもよるが高位貴族ほど己の非を認め謝罪できる人間はいなくなる。それは権力こそが全てな貴族社会においては当然の事なのだが、だからこそ頭を下げたアルベルトの行動はエルシアに強い好印象を与えた。
「それは―――君に見る目があると褒めるには戸惑われる言葉を貰ってしまったな。」
照れたように顔を緩めるアルベルトにエルシアはほっと胸を撫で下ろした。怖い人ではない、上手くやっていけそうだと安堵しながらも決別する過去に悲しみを感じる。対してアルベルトは、紫の瞳に薄っすらと涙の膜を張らせたエルシアを哀れに感じた。
妻に続き一粒種であった息子まで失った。アルベルトも確かに辛いがエルシアとてそうなのだ。恋人と別れ望まぬ結婚に追いやられ吐露した叫びはエルシアの本心だ。これから愛する者と未来を歩こうとしていた矢先の出来事。周囲を固められ優しい娘だからこそ拒否できなかった権力に、その筆頭たるアルベルトは申し訳なさを感じる。王とてアルベルトに良かれとした事だろう。辺境伯家の当主として後継ぎ問題は重要だ。仕方なくレディスに譲るのと、やるべきことをやって譲るのでは特に中央の反応は変わる。受け入れるなら相応の責任を負うべきとアルベルトは改めて腹をくくった。
視界が揺れエルシアが抱き上げられたと気付いた時には既に寝台に下ろされる最中だった。硬い腕の感覚が背中に伝わり、何が起こるのかを察して頬に朱が走る。初々しい様についアルベルトはするべきでない問いをしてしまう。
「初めてか?」
口にした後でしまったと気付いても遅い、言葉は元に戻せないのだから。つい余計な事を口走るのはセルガンの血だろうか。命のやり取りがかかった場ではけしてやらぬ間違いを犯して焦るアルベルトに、そうとは気付かずエルシアは体を硬直させたまま素直に頷いた。怒られなかったのをいいことにアルベルトは更なる追及を試みる。
「口付けは?」
「あのっ……申し訳ありません。」
結婚式で交わした誓いの口付けを問われていないのは正確に理解した。結婚前の事に至っては不貞にならないだろうが、初夜の床で問われ責められている気持ちになりエルシアは声を震わせ、その震える唇にアルベルトが触れるだけの口付けを落とした。ひんやりとした感覚にエルシアは自分が熱を持っているのだと知る。
「では、この先は?」
灰色を帯びた緑の目に捉われたエルシアは正直に首を振ると、ここに唇を寄せられた事はと首筋に顔を埋められ大きく横に首を振った。
「初めてです、本当にっ!」
声を上げたエルシアからアルベルトはいったん離れるが、寝台に転がされ逞しい腕に囚われている事実は変わらない。羞恥と緊張で余裕のないエルシアの胸は破れんばかりに鼓動が胸を打っていた。
「責めているのではない。初めてならそのように扱う必要があるから確認しただけだ。」
そのようにとは何なのだろう。夫婦が床で何をするのか初めてがどうだとか言うのは知識として植え付けられていたが、全てが吹っ飛んでしまったエルシアは全く分からず理解できなくなっていた。まるで操り人形の様にこくこくと頷き、瞬きも忘れ目前に迫るアルベルトを凝視する。アルベルトに女性を虐めて楽しむ趣味はないが、初々しすぎる態度に思わず苦笑いを漏らしそうになった。
「初めてです。ですから、そのように……扱って下さい。」
「そうか。了解した。」
果たしてそのように扱われたかどうかはエルシアに知る由はない。けれどこの夜二人が結ばれたのだけは確かな事実だった。