その19
片腕に軽々と抱き上げられたエルシアはしばらくぶりの再会に喜びを露わにするよりも、様々な思いが入り乱れる感情が爆発してしまわないように必死で己を押さえ、細い腕をアルベルトの首に懸命に絡めて抱き付いていた。
アダムは追って来ず、四半時ほど森を歩くと周囲が騒がしくなる。顔を上げたエルシアの目に人の影が映り込んだ。不安でアルベルトに抱き付く力を強めれば、大丈夫だと低い声が慰めてくれる。ゆっくりと地面に下ろされると先頭に立つ影が声を発した。
「奥方!」
暗闇から現れたレディスが駆け寄りエルシアを抱きしめた。再会に感激を露わにして夫であるアルベルト以上にぎゅうぎゅうと遠慮なくエルシアを抱き込む。
「無事でよかった、本当に会いたかったよ!」
「レディスさん、心配をかけて申し訳ありませんでした。」
「本当に心配で胸がはち切れそうでしたよ。アルベルトなんて昨日は発狂するんじゃないかと思ったくらいだ。本当に良かった!」
レディスが鼻をすする音を聞いてエルシアの目にもじんわりと涙が滲む。見知った騎士も何人かいて、その中にエルシアを砦から出してくれた間者の男もいた。アダムに顔が知られたせいで同じ仕事には戻れなくなりこのままセルガンへ一緒に戻るのだ。アダムをどう回避したのか、怪我した様子もなく無事でよかったとエルシアは胸を撫で下ろす。
「レディスさん、あの―――」
「ああ、ごめんっ!」
夫を差し置きエルシアを抱きしめていたレディスは慌ててエルシアから離れると、アルベルトに向かって笑ってごまかす。アルベルトは何時もの事と特に気にしていない風だったが、エルシアの髪が送り付けられた時は無表情で湛えた怒りと殺気が凄まじく、レディスですら声をかけるのを躊躇ったほどだ。どうやらエルシアを手にして怒りを収めたようで、アルベルトの様子からレディスもエルシアが無事に過ごせていたのだと悟る。そうでなければ血に濡れていておかしくない。エルシアに無体を働いた人間がいたなら、ウルリックが苦労して取り付けた和平調印を無かったことにする勢いで暴れまくっていただろうとレディスは想像していた。
「ここはまだギスターナ陣営だ、急ごう。」
国境を開放し和平が成立する運びとなっているが、調印は済まされておらずオルガの出方も不明だ。上方の指示を握りつぶすような男ならエルシアを奪還され怒りに震えているだろう。両国間が和平を取り持っても個人においてはそうではない。オルガだけではなくアルベルトもエルシアを奪われた恨みは根底から消えることはないだろうと先を急かす。
「奥方、屋敷でマーガレットが帰りを待ってますよ。」
「砦に向かう。予定変更だ。」
久し振りの帰還と敵陣にあって浮かれるレディスに、予定を変更してアルベルトが端的に告げる。レディスは驚いたような顔をしたがすぐににやりと笑い「了解」と返事をした。
「マーガレットは無事ですか?」
くいと袖を引かれたアルベルトは出しかけた足を止め小さく頷く。
「三人とも無事だが詳しくは後だ。」
急ごうと急かされエルシアは従い、ここからはアルベルトに手を引かれながら自分の足でセルガンに向かった。
本来ならエルシアを屋敷に戻しゆっくりと休ませてやる予定だったのだが、エルシアとの再会で手放せなくなったアルベルトの個人的理由で砦に向かう事になった。ギスターナとの国境開放による話し合いもあるが、オルガの報復も警戒する必要がありアルベルトは砦を離れられない。砦は絶対安全ではないが、それでもアルベルトはエルシアを見えない場所に置いておけなくなってしまったのだ。腕の立つ護衛をつけていたとはいえ簡単に奪われてしまった不手際と、エルシアの身に起きた事を思えば当然だった。救出の合図である花火を待ちわびていたアルベルトは、その音を聞いた瞬間からそこにいないエルシアを既に抱き寄せていたのだ。望み続けた彼女を現実に手にして離れられなくなってしまっていた。
セルガン陣営に入り砦に到着すると各々が持ち場に戻って行き、エルシアは視線をめぐらせると初老の男に駆け寄った。
「無事でいてくれて嬉しいわ、助けてくれてありがとうございます。」
「旦那らが森に居るのは解ってましたんでねぇ。儂は身軽なんである程度逃げ回ってから放置しましたけど、まぁお嬢さんも無事で何よりです。」
礼を言えば男は相変わらずひひっと厭らしい笑いを浮かべている。アルベルトが何か言いたげに視線をやれば「森まで連れて行ったんだから後は旦那の責任ですよねぇ」と、エルシアが間一髪だったことなど気にもせずに姿を消した。契約上はセルガンの間者だが土竜は自由に動き回るため、アルベルトの直接的な命令など意に介さないのだ。土竜に忠誠心がある訳ではなく、先代のセルガン辺境伯に大きな恩があるらしくそれで動いてくれているに過ぎない。
砦に貴賓室や客室がある訳ではないので、エルシアはアルベルトが使用している執務室に案内された。奥には小さいながら寝室もある。もともと砦に呼ぶつもりはなかったので女物の着替えなどはなく、使いをやったので明日には着替える事が出来るだろうとアルベルトはエルシアに告げた。エルシアは静かに頷くと二人きりになった薄暗い部屋で大きなアルベルトを仰ぎ見る。
「本当に、大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」
深々と頭を下げたエルシアは辺境伯夫人としてあるまじき行いをした己を詫び、アルベルトは静かにそれを受け入れた。
「いかなるご処分もお受けする覚悟がございます。処断下さいませ。」
罰を待つエルシアにアルベルトは椅子を勧めるが首を振られ、短くなってしまった髪が動きに合わせて揺らいだ。アルベルトはそれを痛々しく眺めると、小さく息を吐いてから口を開く。
「処断も何も、君がギスターナに囚われた事実は残されない。」
「―――旦那様?」
意味が解らず首を傾げたエルシアの手を取り長椅子に導くと、アルベルトは手を握ったまますぐ隣に腰を下ろす。
「記録に残るのはギスターナとアイフィールドが和平交渉に臨む事実だけだ。」
「和平交渉……」
そう言えば先程森でアルベルトがアダムに何やら言っていたのをエルシアは思い出した。
「私は君を取り戻したかった。それ故に個人的な理由でウルリック殿下に動いて頂き、長く睨み合う両国間の状況を打破して頂く事にしたのだ。私にとってはあくまでも時間稼ぎで、実際に和平の成立が成功するか否かは重要ではなかったのだが、ギスターナは此方の申し出を受けたのだよ。相手は好戦的な国だ、調印が済んでも楽観視できないが、上手くすれば戦いの歴史に終止符が打たれるのも有り得なくはない。」
アルベルトはエルシアを無事に取り戻す為に国に動いてもらった事や、ウルリックが尽力してくれたこと、それが意外にも上手く行き現実に和平を結ぶに至った経緯を手短に話して聞かせる。
「和平交渉が成立するのだ、それに係わる厄介事は両国ともに目を瞑る。アイフィールドで国王に並ぶ力を持つセルガンの妻を略奪したなど、特にギスターナは認めはしないだろう。現実にエルシア、君はここにいるのだから。」
狡猾な男がギスターナ中央の考えを握り潰すのは想像できる行為だった。こうしてエルシアを取り戻した今、再び狙おうともアルベルトの傍らに置いていれば時間は過ぎ去り両国の調印で終了だ。報復を警戒する必要はあるだろうが、今のギスターナはアイフィールドの豊かな食料を買う事に集中している筈。アイフィールドは陸路も手に入れ互いに利益となる交渉を、エルシアへの恋情をもっているウルリックが熱心に行った事により勝ち取ってくれた。この件がなければアイフィールドからは決して持ち掛けなかったしギスターナもそうだろう。エルシア誘拐が切欠となり互いの国にとっての利益となったのは言うまでもなく、デルク=オルガがそれを己の行動故として納得し諦めてくれるのを願うばかりだ。向こうは向こうで勝手にやってくれていいが、二度とエルシアには手出しをさせないとアルベルトは誓う。
「旦那様、でもわたし―――」
略奪された事実は消える、例えエルシアが自らの意志でギスターナに向かったのだとしても。けれどエルシアはそう言われて良かったと胸を撫で下ろせるような娘ではない。戸惑うエルシアの頬をアルベルトは指の関節でそっと撫でた。
「大丈夫、君は何も変わってはいない。今この時も私の妻のままだ。」
痩せ細ってしまったエルシアをアルベルトは壊れないよう大切に抱き寄せる。大きな腕で引き寄せられ頬に熱い胸板を寄せたエルシアは、すっかり細くなってしまった腕を大きな背中に回した。ずっと求めていた人の温もりを確かめるように、切ない想いを抱えたままそっと瞼を落として身を任せる。
「助けて下さってありがとうございます。会いたかったのです、ずっと。アルベルト様―――」
どちらからともなく顔を寄せ唇が触れ合う。ゆっくりと食み合い、吐息を交え熱い息を漏らして衣服を開いた。求めるつもりも、求められるとも互いが思っていなかったが、生まれた欲望に素直に従い互いを貪る。一回り小さくなった妻を夫は優しく抱き、妻は与えられる快楽を逆らうことなく受け入れる。アルベルトは欲望のままエルシアの中に己を吐き出し、その後で薄いながらも盛り上がりのある下腹部にそっと触れると、息を整えながらエルシアの耳元に唇を寄せ囁いた。
「君は妊娠しているのだね。」
確定ではない、だがエルシアは我が身に起きる変化を前に言葉を発さずに深く頷く。
待ち望んだアルベルトとの子供だ。月の物が来る度に務めを果たせなかったと気落ちして。本当ならもっと早くに気付けていた筈なのに、男ばかりの敵陣でそれを知るのに戸惑いがあったのも確かなことだ。
エルシアも囚われ恐ろしい思いをしていたせいで精神的にまいり、月の物が止まってしまったのだと思っていた。食べる物も質素で栄養が足りなければ止まってもおかしくなかったし、世話をしていたアダムやオルガさえ、男であるがゆえに女の汚れなど言われなければ気にも止められない現象に違いない。けれど痩せて行く肉体に反し、皮下脂肪を失いすっかり薄くなってしまった下腹には硬く丸い膨らみを感じるようになる。アルベルトを想い腹に触れて眠るようになってからは特にそれを感じた。
喜ぶべきことなのに妊娠した時期がとても厄介な時期と重なってしまい、疑いの念を抱く輩も多く出るだろう。けれど何よりアルベルトに疑われるのだけは怖かった。だから優しい声色の夫に安堵してエルシアは目尻から涙を零し、それをアルベルトが指ですくって絡めとる。
「有難うエルシア。私と君の子供だ。」
大切にしようと微笑んでくれたアルベルトに、エルシアは涙を零しながらはいと頷いた。




