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辺境の花  作者: momo
17/21

その17




 突然の事にエルシアの思考は停止していたが、囚われている部屋に戻されようやく状況を理解できるようになると喪失感に襲われ、がっくりと冷たい石の床に膝を付いた。


 「悪かった。その……守りたくて咄嗟に。」


 うなじに感じる冷たい空気はけして髪を結い上げてのものではない。不揃いの毛先が柔らかな肌をくすぐるのは初めての感覚だ。毛先を揃えるためにはさみをいれる事はあっても、切り落とすのはほんのわずかな量だ。それがばっさりと、それこそ物心ついた頃よりこの歳まで伸ばし続けた蜂蜜色の髪が突然失われてしまった。確かにアダムの言う様に彼はエルシアを守ってくれたのだろうが、それでも喪失感のなんと大きなことか。指と異なり髪は長い年月が過ぎれば再び元通りになる。解っている、指を失うよりも髪を失う方が良かったのだと。だがきっと指を失っていたとしても痛みにのたうち、これ程の喪失感は襲ってこなかったに違いない。


 「いいの、もう行って。」

 「だが―――」


 膝を付いて様子を確認しようとするアダムに、エルシアは噛みつかん勢いで声を上げた。


 「それとも命令通り専属の娼婦にでもするの?!」

 「―――っ!」


 涙の膜が張った紫色の瞳で睨まれたアダムは言葉を失う。しばし躊躇しながら腕を伸ばすが、じっと睨まれ伸ばした腕を引いて徐に立ち上がると部屋を出て行った。


 アダムをきつく睨んで見送ったエルシアたが、扉に鍵が掛けられるとがっくりと肩を落として再び冷たい床に沈んだ。


 アルベルトの為にはどちらが良かっただろう。指の方がエルシアの物ではないと思えて心の負担が減ったのではないだろうか。あれだけの長い髪、アルベルトにはエルシアの物だとすぐに解ってしまう。落とす指は十本あるが、どの指もエルシアの物と確定付ける印がない分アルベルトの負担は減ったのではないだろうか。


 「どっちにしても明日は指だわ。」


 マーガレットが腕を折られたときに命令したのはオルガなのだ。折った本人であるアダムばかりを非難していたが、実際にアダムは命令でしか動いていない。命令違反を犯すに必要な材料がない分、次に指が落されるのは確実だろうと指先を握り込んだ。

 

 エルシアが身体的に傷つけばアルベルトも心を傷つけるはずだ。ここにはないはずの甘い蜂蜜の香りが記憶から抜け出して漂い、エルシアは顔を上げて寝台に乗り上げ窓の鉄格子を掴む。


 子供の頃悪戯が過ぎて叱られ、鍵のかかるクローゼットに閉じ込められた。あの時は兄たちと一緒で、鍵を壊して抜け出したのを覚えている。だが今回は一人で自分以外の知恵者はいない。どうにかして逃げ出せないだろうかと鉄格子を揺さぶるが、石壁にしっかりと取り付けられていてびくともしないと解り寝台を降りた。運よく鍵をかけ忘れていたり壊したり出来ないものかと扉のノブを触っていると、アダムでも足の悪い男でもない声をかけられ、怖くて扉から離れて様子を窺うが扉は開かれず声も続かなかった。

 

 クローゼットの鍵は髪飾りの金具を使って兄がこじ開けたのを思い出し、何か役に立つものはないかと狭い部屋を探して回るが無駄に終わる。時間が来て食事が運ばれてくると、こっそりスプーンを拝借したが、すぐに男にばれて回収されてしまった。味方のはずなのにと無言で訴えるが、余計な事をするなとでもいうかに睨み返された後で、いつも通りの厭らしい笑みを浮かべられ鳥肌が湧く。

 この男は本当に味方なのだろうかと疑い出すが、エルシアとアルベルトしか知らない筈の言葉を持っていたので敵ではないと自分で自分を勇気づかせた。

 きっとアルベルトの命令でこの男が助けてくれるのだろうが、悠長に待っていてはアルベルトに申し訳ない。時間がたつと指を切られるのも嫌だと思うようになる。無様に抵抗してオルガを喜ばせるのも癪だった。


 そうなると自力で逃げ出さなければと考えるが、必要な道具も知恵もなく途方に暮れる。鉄格子さえなんとかなれば、石壁の隙間を利用して地面に降り立てるはずであるのに。どうにかできないかと星の煌めく夜空を小さな窓から眺めた。夢物語のような奇跡でも起きればいいのにと白い息が漏れたその時、エルシアの耳に硬いものを叩くような音が微かに届いた。遠くから届くようでいて近くにも感じる音に耳を澄ませるが、何処から届くのかはわからない。耳を澄ませていたがやがてその音は止まり、エルシアは薄い掛布の中で身を丸めて朝を迎えた。


 髪を失ったショックと指を失う恐怖に眠りは訪れない。肉体的な痛みを前もって宣告されると怯えは増す様だ。逃げる方法もなく部屋でじっとしていても変哲のない日常が訪れる。と言っても足の悪い男が食事を運んで下げるだけのもので、到底生きていると言えるだけのものではない。囚われている人間は生かされているだけでもありがたいのだろうが、考える時間だけはいくらでもあるのでどうしても後ろ向きな考えが浮かんでしまい頭を振った。


 会いたいのだ、アルベルトに。指を失ったっていいじゃないかと自分で自分を慰めようとするが、マーガレットが暴行を受ける姿が脳裏をかすめ震えが起こる。運の悪いことにアダムが訪ねて来て恐怖が助長された。


 「司令官が呼んでる訳じゃない。今はまだセルガンの出方待ちだ。」


 エルシアの髪を送りつけてどう出るか、オルガは取りあえずアルベルトの出方を待つ事にしたらしい。だがそれも今日限りの事で、このままセルガンに動きがなければエルシアの指を落とすつもりであるとアダムは告げる。


 「今ならあんたを連れて逃げ出すのは可能だ。」


 ぎゅっと拳を握りしめ寝台に腰を下ろすエルシアに寄ったアダムは、今を逃せば機会は失われるのだと膝を付いて言い聞かせるように訴える。


 「あんたの侍女を酷い目に合わせたせいで怖がらせているのは分かっている。だがあれは仕事でやっただけで俺自身に女をいたぶる趣味はない。辺境伯だって必要に迫られたら命令を下すだろう。」

 「あの男と辺境伯は違います。」 


 女に暴力を振るえなどアルベルトは決して命令したりしない。冷たく睨みつければアダムからは自虐的な笑いが漏れた。


 「俺たちは命令が下されればやらなきゃいけないんだ。」

 「わたしを襲ったのもあの男の命令?」

 「それはっ―――!」


 軽蔑の視線を前にアダムは言葉を無くして俯いた。


 エルシアも馬鹿ではない。アダムが司令官であるオルガから命令を受け、それに背けばここでは生きていけなくなる事くらいわかっている。けれどだからとて暴力を受ける側からすると許せるものではないのだ。しかもエルシアにオルガの手を取らせる為だけにマーガレットを暴行し、オルウェンとトマスに怪我を負わせて。三人がどうなったのか、特に地面に倒れ動かなくなってしまったトマスが無事でいてくれているのかと心配でならない。


 「わたしがあなたの好意に救われているのは事実なのだと思います。でもわたしはあなたの手を取らない。何が起きてもわたしはセルガン辺境伯の妻です。」


 あの足の悪い男もいるが、きっとあの男は自分の立場を悪くしてしまうならエルシアを放置するだろう。エルシアの貞操を無理に守ったりはせず、生かして逃すのを優先させるのだろうと感じていた。貞操的な意味でいうなら砦の男たちからエルシアを守ってくれているのはアダムだ。


 「ここに来たのはわたしの意思です。だからこれから起きることは受け入れます。あなたもあの男の命令に従えばいい。」

 「そうやって虚勢を張っても酷い目に合うのはあんただぞ。」

 「生きてセルガンの地を踏めるなんて―――あの時は思いもしなかったわ。」


 マーガレットたちが襲われ言われるままオルガの手を取った時は、二度と戻れないとあきらめていた。それがこんなにも長く正気を保ち生きて来れたのは、敵陣に堂々と乗り込んできてくれたアルベルトの存在があったからだ。


 「今を逃せば本当に助けられないぞ。」


 いいのかと訴えるアダムを、エルシアは初めて冷静に真っ直ぐに見つめたような気がした。


 「あなたはギスターナに生きる騎士でしょう?」


 頼んだわけでもない。それでも助けられていたのが事実なら、声に出さないまでも感謝はしなければならないのかも知れないと、エルシアは決意に満ちた眼差しでじっとアダムを見つめた。


 「あんたを助けられるのは俺だけだ、辺境伯は来ないぞ。」

 「辺境伯・・・ならばそうあるべきです。」


 今しかないと訴えるアダムは、頑なに態度を崩さないエルシアを前に根負けしたように息を吐きだし立ち上がった。敵国での長い幽閉生活で弱さを見せたのはただの一度、それも自国の砦に向かってだけだ。ほんの一瞬でも心を向けてくれさえすれば、無理矢理にでも攫って逃げ出してやるつもりでいた。はっとするほどの美貌を湛える娘に心惹かれたが、エルシアの心はけしてアダムには向かない。


 「本当にいいんだな?」


 それでももしかしたらという思いを捨てきれず問うが、紫色の瞳はほんの少しもアダムの助けを乞うてはいなかった。納得するしかないながらもアダムは、後ろ髪惹かれる想いでエルシアの前を去る。手に入れたいと願うが、こうまで拒絶されてはここから連れ出し助けるのは無理だった。出会いからして敵同士、これからもけして違えさせてもらえない立場に胸が苦しくなる。これでもアダムにとっては本気の恋だったのだ。扉を閉じる前にもう一度だけと振り返る。

 

 「明朝までにセルガンが動きを見せなければ呼ばれる事になる。」


 覚悟できるのかと言う問いにエルシアは無言で返し、アダムも黙って扉を閉じると鍵を掛けた。


 そうして再び夜を迎える。冷たい闇の気配が鉄格子の向こうから流れ込むが、今夜はそれに喧騒が加わった。兵士たちが酔っ払い騒いでいるようで、陽気に歌う声に花火が打ち上がる音までする。だがやがて罵声が上がるとその喧騒も落ち着きいつもの静寂が訪れた。薄い掛布に潜り込んだエルシアは昨夜の不眠のせいかうつらうつらとやって来た睡魔に身を任せていたのだが、何処からともなく聞こえてきた硬いものを叩くような音に意識を取られる。


 「なに?」 


 耳を澄ますと昨夜と異なり音の発せられる場所がわかった。どうやら寝台の下から聞こえてくるようで、冷たい床に降りて暗い寝台の奥を覗き込む。身を屈め暫く様子を窺っていると、石の床が外れて微かな明かりが漏れた。


 「お嬢さんいるかね?」


 足の悪い男の声だった。寝台の下に潜って四角く開いた穴を覗くと男と目が合う。驚くエルシアに男はやりと笑って手招きした。


 「今のお嬢さんなら楽に通れるだろうよ。」


 なにせ痩せすぎたからねぇと、男は声を落としてひひひと笑った。






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