その15
寝台の上で膝を抱えたエルシアは、鉄格子のついた小さな窓から覗く灰色の空を虚ろな目で眺めていた。
側にある椅子の上には硬いパンと冷めたスープが手付かずの状態で残っている。アダムに襲われた一昨日より何も口にしていない。乾いた喉に水を与える気力もなく、ただじっと外を眺めるばかり。足の悪い男が食事を運ぶが怯える以外に反応はなく、日に何度も訪れていたアダムの訪問は止まったままだ。食器を片付けに男が扉を開けば、音に反応したエルシアは膝に顔を埋めじっと耐えるだけ。足を引きずりながら入って来た男は、残された食事を確認してエルシアに視線を向けるとゆっくり近づく。エルシアの体が強張り身を寄せる壁に同化しそうな程すり寄った。
「なぁお嬢さん。これ以上痩せてもらう必要はないんだがね?」
周囲を警戒して落とされた声。けれどエルシアはその声から逃れるように手で耳を覆って頭を壁に寄せた。男は溜息を一つ落とすとエルシアに手を出す事無く、残された食事を持って部屋を出て行く。
何もかもを拒絶するように身を小さくするエルシアの心には、アダムに言われた言葉がずっしりとした重みを持って鎮座していた。
襲われたマーガレットたちを守るためにこの道を選んだのはエルシアだ。自分から見捨ててくれと口にもした。けれどあの日アルベルトがここまで迎えに来てくれたことで、エルシアの中にもう一度戻れるのではないかという希望が生まれていたのだ。
だがあれ以来アルベルトの訪問はなく、状況に変化もない。囚われるエルシアに説明があるとは思えないが、何もないというのはアダムに聞かされてしまった。そしてエルシアの心にある希望を打ち砕く言葉。奇跡的にセルガンに戻れたとしてその後どうなるのか、貴族の娘として生まれ育ったエルシアに想像がつかなかったわけがないのだ。
けれどアルベルトが早々に他の女性を妻に迎える準備をしているなんて事は絶対に有り得ない。辺境伯としてならともかく、アルベルト個人として妻であるエルシアを見捨てるなどないと確信していた。けれど例えそうでも辺境伯としての立場を優先するならそうせねばならないし、今もなおエルシア救出に動いてくれていたとしても、敵陣に囚われた人間を取り戻すのにいったいどうやるのかなんてエルシアには想像もつかなかった。
死人が出ればそれこそ本末転倒だ。そして奇跡的にエルシアがセルガンに戻ったとして。長く囚われた若い娘がこれまでと同じように、辺境伯夫人の地位に居座れるのかと問われれば恐らく無理なのだろう。不特定多数の男に弄ばれた妻など離縁されても文句は言えない。貴族社会はそんなものだし、アルベルト自身がそんなエルシアを再度妻として扱い、跡取りを生ませたいと心から望んでくれるだろうか。望んでくれたとして周囲は生まれた子供をどのように見るだろう。下世話な噂に塗れさせるのは容易く想像できる。そんな妻を持っているとアルベルトが後ろ指刺されるのは耐え難かった。
ここへ連れて来られたらどうなるのか分かっていた。選んだのは自分だ。けれど置かれた状況が心を傷つけ暗い闇へと誘う速度を急速に上げていた。
いっそこのまま死んでしまえないだろうかと、水を飲む気力すらなく時間だけが過ぎる。それを傍で見ていた男はどうするかなと、夜の闇に紛れ軽快な足取りで国境を超えるとセルガン領内に侵入した。
*****
旦那―――と呼ばれ、アルベルトは寝台代わりになってしまっている長椅子から飛び起きる。手には剣をしっかり握り、闇に銀色の刃先が煌めいた。
「何者だ?」
気配はないがそこにいるのは分かった。問えば足音を鳴らして闇に浮かんできたのは、初老を迎えた年齢の痩せた小さな男だ。
「東側を手薄にしているのは儂の為ですかねぇ?」
抜かりない守りを築きながら、情報を望まれる時には必ず手薄にされる一角を主張する男を前に、アルベルトはゆっくりと剣を鞘に戻すと何事も見落とさぬよう真正面から見据える。
「お前が土竜か?」
「先代が付けた呼び名ですな。それをご子息に呼ばれる日が来るとは思ってもいませんでしたよ。」
土竜と呼ばれる男とアルベルト自身が顔を合わせるのは初めてだった。ギスターナの砦に潜り込ませた間者の中でも最も古参であり、男自身はギスターナ人だ。どういった経歴でセルガンに仕えるようになったのかはアルベルトも聞かされていないが、この男の大事さは亡き父より教えられていた。土竜が齎す情報は完璧でけして間違いがないと。
「お前が姿を見せたという事は何かあったのだな?」
「ギスターナ中央の誑し込みはどうなってるんですかねぇ。」
「思った以上に乗り気だ。今年のギスターナは実りが少なかったと見える。」
「両国間に争いがなくなれば怪我の功名とでもいうんですかね。まぁ儂等は仕事を失いますが。」
それはそれで良い事ですがと、男は掴み所のない笑みを浮かべてアルベルトを見上げた。
「ただねぇ、嬢ちゃんが襲われましてね。」
軽く散歩にでも誘うかに発せられた言葉にアルベルトが息を呑めば、何が楽しいのか男は嬉しそうに目を細める。
「まぁ未遂ではあるんですが、すっかり気落ちしてしまってるようで。飲まず食わずで、今日明日にも倒れそうな感じなんですよ。」
エルシアに何が起きたのかを聞いたアルベルトは眉間の皺を深くし、ぎりっと奥歯を噛み締めた。大事な人質を手荒に扱いはしないだろうが、それも時間が過ぎれば無効になってしまうものだ。セルガンの動き待ちをしているギスターナとしては、手の内に囲い込んだ美しい娘を弄びたくもなって来るだろう。だがそれをすればセルガンにギスターナ侵攻を許す切欠となってしまう故に、エルシアを痛めつけるのは得策ではなかったはずだ。
「まぁ役目でもあるんで、儂も嬢ちゃんに嫌われるようなことしてるんでさぁ。そのせいもあるかね、そろそろ飴を与えてやらんと嬢ちゃんの墓をギスターナに作ることになる。そんな訳で旦那、嬢ちゃんが儂を信用するような物が何かありませんかね。」
「―――信用されないような何をしたのだ。」
敵に正体を悟られないために溶け込んでいるのは分かるが、こうして砦を訪れたということは一体何をしたのかある程度は想像がつく。男も役目でしたとはいえ、解っていても腹立たしく感じるのは仕方のない事だろう。
「まぁまぁ旦那。それはともかく、あの司令官は女だからって容赦はしませんよ。中央から手を引くよう命令があればかなり危険になりますな。その前に旦那の計画を実行させようと儂も急いで準備をしとるんですが、嬢ちゃんがあれでは連れて逃げるのも困難になりそうなもんで。」
アルベルトの計画というのは当然エルシアをギスターナの砦から一時も早く連れ出す事だ。だが単身乗り込んでどうにかできる物でもなく、今はこの男に託した状態になってしまっているのである。
欺くためとはいえエルシアに悪戯をしたのは許しがたいが仕方がない。この男を信用して貰わなければエルシアも取り戻せなくなってしまうやも知れないし、身を危険に曝してしまう事にもなる。
「ちょっと待っていてくれ。」
「時間がないんでできるだけ手早くお願いしますよ。」
エルシアの置かれた状況を思うと胸が抉れる。特別な何かがある訳でもないただの娘だ、過酷な状態に置かれいつまでも心が保てるわけでもないだろう。ウルリックを通して中央を説得するのにさほど時間はかかからなかったが、海を渡っての交渉は相応の時が必要だった。ウルリックが先頭に立ちギスターナとの交渉にも参加してくれたお蔭で思ったより早く進展していたが、エルシアにとっては短い時間とは言い難い。
どうか無事でと、一心不乱にギスターナへ乗り込めぬ己の立場を呪いながら、アルベルトはエルシアの心に訴えかけられる物を思案し砦に設けられた厨房へ足を踏み入れる。運の悪い事に厨房関係者どころか人っ子一人いない。主要な場所には不寝番がいるのだが、深夜の厨房にそれは必要なかった。それでもアルベルトは目的の品を見つけると、僅かな量を小瓶に拝借して執務室へと舞い戻る。少し時間がかかってしまったが男はちゃんと待っていた。
「これを―――」
「何ですかい?」
「蜂蜜だ。」
「毒入りですかい?」
「ただの蜂蜜だ。」
安楽死などさせるわけが無いだろうと、緊張感なしの雰囲気を纏う男を前に眉間の皺を深くした。
「蓮華蜜でなくて悪いがと、次の春には共に採取しに行こうと伝えてくれ。」
「へぇ。二人だけの秘め事ですか。若いたぁいいもんですねぇ。」
辺境伯を茶化しながら小瓶を懐にしまった男は、人を食ったような笑みを浮かべると音もなく扉を開き姿を消す。黙ってそれを見送ったアルベルトは長椅子に腰を下ろし手で目元を覆って暗闇を仰いだ。
「すまない―――」
漏れた声は闇に溶け消える。エルシアの境遇を今すぐ変えられない己に苛立ちよりも申し訳なさが募った。これまで耐えてくれたのだ、あともう少しと届かぬ声で励ましながらも、手を伸ばしてやれない己に落胆の色は隠せない。土竜と呼ばれる男が現れたのだ、エルシアが置かれた状況は本当に切羽詰まってどうしようもない瀬戸際なのだろう。けして見捨てたりはしない、どうかそれだけは伝わって欲しいと願いながらアルベルトはもどかしさに身を震わす。
*****
闇に紛れギスターナ側に戻った男は軽快に駆けていた足をぴたりと止めると、何時もの様に片足を引き摺りながら歩き始める。夜が明けるまではねぐらにある粗末で硬い寝台に潜り込むと、国境を超える危険を犯した緊張感も何もなくいつも通りの睡眠を貪った。それから早朝起き出して下働き同様の仕事をこなした後、生きるのに最低限の食事を表向き司令官と恋仲になり駆け落ちしてきた娘の元へと運ぶ。
エルシアは冷たい壁にもたれかかるようにして眠っていた。もしかして死んだのではと思いながら、男はゆっくりとエルシアに近づき息を確認する。男からすればそれほど酷い扱いを受けているようには感じないのだが、綺麗な場所で生まれ育った娘には過酷だったのだろうと僅かながらに同情しつつ、眠る娘の肩を揺すった。
エルシアがゆっくりと瞼を持ち上げるが、覗いた紫の瞳に生気は宿らない。貴族の娘は壊れやすいなと思う。ある日突然攫われる綺麗な娘なんてのはさほど珍しくないと認識している。攫われた娘の大半は男に体を弄ばれ、抵抗すれば当然暴力もうける。逃げ出す気力もなくなるほど痛めつけられ、最後には娼館に売られ一生を終えるのが裏社会の常識だ。そんな娘ですら生きるのをあきらめないのに、やはり貴族娘はいけないと、男は懐から小瓶を取り出してエルシアの目の前に掲げた。ゆっくりとエルシアの瞳が瓶を捕らえ、男は口角を上げて片膝を寝台に乗り上げる。
「これが何かわかるかね?」
しばらくして小さな反応が返って来る。「毒なの?」と問われ苦笑いが漏れた。
「セルガンの旦那からの贈り物だ。」
男は抵抗する気力すらないエルシアに小さな瓶を握らせる。
「蓮華蜜でなくて悪いが、次の春には共に採取しに行こう―――だと。」
たっぷりの間を置いてから、エルシアの瞳が僅かに見開かれる様に動くと男を視界に捉えた。
「―――え?」
向けられた視線がこの男は一体何を言っているんだと問うており、やがてその瞳が小刻みに揺れ始める。思考が戻り様々な可能性を模索しているのだろう。怯えを孕みながらもエルシアは間近に迫る男を拒絶しないで真正面からじっと捉えていた。
「そういうこった。だがねお嬢さん、儂の事は虫けらを見るような目で見てくれないとちょっと困ったことになるんで宜しく頼むよ。」
男はエルシアの手の中から小瓶を取り上げると、冷たい皿に乗る硬いパンを縦長に割って小瓶の中身を垂らし、瓶は再び己の懐にしまい込んだ。
「悪いがお嬢さん、見つかったらやばいんで瓶は回収させてもらうよ。」
ひひっと笑った男はさっさと部屋を後にする。残されたエルシアは信じられない物を見る目を向けていたが、やがてパンをおもむろに掴むと裂け目をそっと開いて鼻を寄せた。
「甘い―――」
甘い匂いが鼻孔をくすぐり、久し振りに何かを感じたような気がする。それから男に言われた言葉がゆっくりと脳裏を支配し始め、あの美しかった蓮華畑と、蜂蜜を採るのを戸惑いながらも許してくれたアルベルトの姿が鮮明に思い出された。
「ああ、どうしよう。生きなきゃ―――」
あの人に会いたいと、闇ではなく光に向かって心が進み始める。戻った後に待ち受ける処遇や視線などどうでもよくなり、ただアルベルトに会いたい、会わなければと、エルシアは久し振りに生きる糧を口に含んだ。




