その14
鉄格子の向こう、早朝にちらついた雪は霧雨に変わった。
こんな天気に外に連れ出されるとは思っていなかったが、何時もより硬い表情のアダムの様子に行かねばならないのだと悟る。同時にこの男の些細な顔色が読めるようになった自分自身にエルシアは小さく溜息を落とした。
季節が変わろうとしているが、囚われている以外は特に変化のない毎日だ。素人なのでよく解らないが、砦の様子も落ち着いて普段と変わらない毎日が過ぎているだけの様子。オルガの思惑通りセルガンが攻めて来なければ殺されてしまうのだろうかと、エルシアは冷たい霧雨に濡れながら湿った土の上をぼんやりと歩く。
オルガは役に立たないエルシアに怒っていないのだろうか。あの男に殴られたのはここに連れて来られた当初の一度きりだが、エルシアはいつも鋭利な刃物のような感情を向けられているのに気付いていた。何処で恨みを買ったのだろうかと考えるが、そんなのは無駄な事だと思考に蓋をする。
一度立ち止まり空を仰ぐと、アダムが自身のマントを脱いでエルシアに掛けようとしている雰囲気が伝わって来たため急いで足を進めた。体を清潔にし食事を与えられ外にも出してもらえる。囚われの身としては破格の扱いなのだろうが、男ばかりの敵陣でエルシアの心が安らぐ瞬間はない。心が折れてしまいそうで、けれど折れても自分ではどうしようもない世界に置かれ、それでも絶対にここの男たちに縋ることはないと足を速めた。
しっとりと蜂蜜色の髪が濡れ重みを増す。簡素に束ねただけの髪は指どおりもすっかり悪くなってしまっていたが、身なりに気を使う必要など全くない。それよりも逆だ。身綺麗にしたせいで纏わりつく視線が増えるのも怖かった。体を弄ばれるのは嫌だという感情は残っている。まだ大丈夫だと顔を上げたエルシアの視線の先に、遠く土色の壁に囲われた建築物が目に移り込む。
「―――砦?」
確認するようにギスターナ側を振り返ると、同じような色と作りの砦が目に入った。顔を戻し緩やかな傾斜の向こうにはやはり同じような砦がある。
「セルガン辺境の砦だ。」
隣に立つアダムの位置がいつもより近かったが、そんな事は気にならない程エルシアは目の前の光景に釘付けにされていた。
セルガン側の砦までには距離がある、けれどまるで手を伸ばせば届きそうな位置に聳えているのだ。両国間でこれ程近い位置に砦を築き合っているなど知らなかったエルシアは、胸の内にまるで溢れ出た洪水が喉につかえる感覚を覚え一歩踏み出した。
アルベルト様と、喉の奥で声が震える。距離があるので良くは見えない。けれどエルシアが胸に感情をつかえさせたまま凝視していると、セルガンの砦の前にうろつく人影が見え、やがてその人の数が明らかに増えて行く様が映り込んだ。その中に有り触れた、けれど見覚えのある茶色の髪を持つ青年の姿が浮かび上がる。
「レディスさん?」
アルベルトと同じ色を纏う人だが彼ではない。辺境に嫁ぎ面倒を見てくれた気さくな彼をエルシアは見間違えなかった。懐かしい姿を垣間見たのと望郷の念、緊迫した状況下に置かれ続けたことによりエルシアは、置かれた状況の何もかもを忘れてしまったかに声を上げて駆け出す。
「レディス、レディスさんっ!」
レディスの側にはアルベルトが居るはずだ。お願い、彼に会わせてと足掻き両腕を突きだし走り出す。幾歩か地面を蹴った所で太い腕に囚われるが、何を言われても耳に入らず感覚も鈍ってエルシアはただ遠くに見えるレディスの影に突き進んだ。
「レディスさんっ!」
「大人しくしろ!」
「嫌っ、レディスさん、アルベルト様!」
喉が引き攣るほど声を上げて名を叫び、何事かとギスターナの兵が集まって来る。アダムは暴れるエルシアを軽々と抱え上げると荷物の様に肩に担いで引き上げた。
「嫌だ、おろして!」
背中を打つもアダムはびくともしない。逃げられない、会えないのだと時間の流れも手伝い絶望がエルシアを支配し始める。
連れ戻されたエルシアは硬い寝台にどさりと降ろされた。膝を抱え蹲ろうとするのを両腕を取られ阻まれる。
「無駄だ、セルガンに縋っても無駄なんだよ!」
体を揺すられエルシアは嫌だと泣きながら首を振った。
「辺境伯が乗り込んで来たのには驚かされたが、あれ以来音沙汰無しだ。あんたは見捨てられたんだ、何処だって貴族なんてのはそんなもんだ。」
庶民と異なり貴族間の婚姻など家同士の結び付きか、利害関係の一致で行われるのが一般的だ。エルシアとアルベルトの結婚もそれに入るだろう。だが違うとエルシアは首を振り拒絶する。
「あんただってそうだろ、レディスって恋人かよ。なあ、辺境伯でなくていいなら俺にしないか?」
はっとして顔を上げるとアダムが真摯な瞳を向けていた。何を言っているんだ、冗談じゃないと首を振れば諭す様に肩を揺すられる。
「守ってやる。俺が守ってやるからセルガンなんか忘れてしまえ。俺の手を取れ!」
「冗談じゃないわ。わたしはっ……わたしはアルベルト様の妻よ!」
「今頃新しい女を見つけているさ。」
気付けはアダムの頬を打っていた。
肌を叩く小さな音が弾け、エルシアは自分で自分の行動に驚く。唖然とするエルシアに反し、頬を打たれたアダムは口角を上げにやりと笑った。
「他所の種を孕んでるかも知れない女を、貴族男が受け入れるとでも思ってるのか?」
アダムの言葉でエルシアの目が見開かれる。奇跡的にセルガンヘ戻れたとして、清いままでいられたなど一体誰が信じるだろうか。嫁ぎ床を共にした夫のある身では、唯一の証拠となり得る純潔は持ち合わせていない。
「帰れるなんて―――」
本気で思ってなどいない。
ぽろりと零れ落ちた涙をすくうかにアダムの掌がエルシアの頬を包み込む。
「司令官の好きになんかさせない。あんたは俺が守ってやる。だから俺を受け入れろ。ここから連れ出してやるから。」
「いっ……嫌っ!」
拒絶しようとするが力ずくで阻まれ唇を奪われる。舌がねじ込まれ噛み付こうとしても、顎を固定され口が閉じられなかった。食べられるように執拗に口内を犯され、口の端からはどちらの物かわからない唾液が溢れ出る。
寝台に抑え込まれ逃げ場がない。膝に乗られ足をばたつかせる事すら出来ず、エルシアは己の非力を呪いながらも絶対に嫌だと全力でアダムを拒絶する。
「やめっ、はうっ……!」
唇が離れようやく拒絶の声を上げられるかと思えば再び塞がれる。執拗な口付けは乱暴で容赦なく、アダムの手はエルシアの顎と両腕を固く拘束しけして解けず、上に乗られ抑え込まれた体は逃げ出すのは困難だ。
「乱暴にしたくない、だから俺を受け入れろ!」
「絶対に嫌っ、あなたなんか大嫌―――!?」
勝手な言い分をエルシアは拒絶するが、最後まで聞きたくないとまたもや口を閉じられる。相手は職業柄力もあって体格もよく逃げ道はない。全身で必死に抵抗するも体は悲鳴を上げ、執拗な口付けで息もまともに出来ず意識が遠退きかける。エルシアの抵抗が弱まるとアダムは名残惜しむかにゆっくりと唇を離し、捕えた獲物を切な気ではあるが熱のこもった目で強く見つめた。
「俺はあんたが欲しい。」
「―――何をしても、心までは奪えないわ。」
アダムは寂しげに眉を寄せながらもやめてはくれなかった。すでに息が上がっているエルシアも抵抗を止めないが、赤子の手を捻るより容易く組み敷かれる。首筋に唇が触れびくりと体が反応したが反射的なものだ。嫌悪しかわかず残った力でアダムを叩くも効果はない。ゆっくりとワンピースの釦が外され華奢な鎖骨が欲情を誘った。はっと一度息を吐いたアダムが誘われる様に首筋から鎖骨を舌でなぞり、エルシアは硬く瞼を閉ざす。アダムの唇がきつく吸いつきすべらかな肌に赤い痕を残し、また一つ釦が解かれると白い膨らみと桃色に染まる頂が曝された。アダムは形の良い膨らみに鼻を寄せ息を吸い込み、硬い掌で優しく覆い隠す。エルシアが拒絶の悲鳴を上げるとアダムは両腕をとって顔の横に縫い留め、濡れた紫の瞳を至近距離で覗き込んだ。
「俺の手を取ってくれ―――」
懇願するような囁きに、エルシアは眉を寄せたまま睨みつけ拒絶で返す。
「あなたがマーガレットに何をしたのか全部見ていた。わたしにも同じことをすればいいわ。凌辱された女がその相手の手を取るなんてことは絶対にないと、その身をもって知ればいい。」
力で拒絶しても叶わないなら言葉をぶつけるしかない。小さな弱い女を組み敷く男はその言葉に傷つけられたように顔をしかめたが、直ぐに自虐的な笑いを漏らしてエルシアのスカートをたくし上げる。
「やめっ!」
「それでもいいさ。どの道あんたは俺が見捨てれば砦の連中にいいようにされる。だったら一人に定めた方がいいだろう?」
「わたしが体を許すのはアルベルト様だけよ!」
「必死で呼んだくせに、レディスって奴はどうなんだよ?」
足から下履きが抜き取られ、エルシアからは悲鳴が上がるがアダムは容赦なく足を開き体をねじ込ませる。拒絶し逃げるエルシアを手に入れようとするアダムも、惚れた相手に拒絶され見た目に反し必死だった。だからだろう、エルシアだけではなくアダムですら部屋に侵入してきた男の気配に気付かなかったのは。
「なんでぇ、やっぱり旦那も欲しいんじゃないですか。」
至近距離から聞こえた声にアダムは瞬時に身を起こし、エルシアは驚きに目を瞠った。いつも食事を運んでくる足の悪い男が嫌らしい笑いを浮かべ、曝されたエルシアの肌を舐るように見下ろしている。
「司令官さんには秘密なんでしょう? いいですねぇ、若い女ってのは。儂が腕を押さえておきますから旦那、お先にどうぞ。その代り後でいいんで儂にも味わう時間をくだせぇましな。」
ひひっと笑う男がエルシアに腕を伸ばすと、その腕をアダムが瞬時に薙ぎ払う。すると男は「旦那?」と不思議そうにアダムの顔を覗き込んだ。
「やらねぇんですかい?」
「女に触るなと言っただろう!」
怒声を上げたアダムはエルシアの裾と肌蹴た胸を隠し、男の腕を乱暴に掴むと部屋から引き摺り出す。
「ちょっと待った、旦那一人で楽しもうってのは調子が良すぎるんじゃないですかい?!」
「煩い黙れッ、今のはただの脅しだ。女に手を出したら承知しないぞ。さっさと仕事に戻れっ!」
がしゃんと乱暴に扉が閉められ鍵がかけられた。残されたエルシアは己を抱いて唖然と見送る。
何があったのか。昼食には早い時間だがやってきた男のお蔭でアダムは目を覚ましたらしい。それにしてもあの男、もしかして時折様子を見に来ては手を出す機会を狙っていたのではないだろうか。
カタカタと体が震え安堵の涙が零れだす。良かったと心底ほっとしながら、自分ではどうにもできない危うい身に恐怖し恐れを抱いた。
今日はたまたま難を逃れたが、こんな偶然二度はないだろう。アダムにその気になられたらエルシアなど容易く組み敷かれ凌辱されるのだと身をもって知らされた。ここはけして安全な場所ではない。何処からどう見ても敵陣の中で、エルシアは狼の群の中に囚われた羊でしかないのだ。
震える手で意に反して開かれた釦を一つずつ止めて行く。逃げ出したいのに逃げる場所がなくて、怯えながら剥ぎ取られた下履きに足を滑らせた。誰かがやって来る恐怖で壁に張り付き扉をじっと睨みつけるが、アダムに与えられた恐怖が全身を駆け巡り続けるのをなかなか抑えられない。
そっと両腕で腹に触れ安心を得ようと、夫の温もりとその姿を脳裏に浮かべる。共寝する時、後ろから抱きしめてくれるアルベルトは、いつの頃からかエルシアの腹部に大きな手を触れさせ眠るようになっていた。アルベルトの穏やかで安心できる温もりを思い出そうと、彼が触れてくれた場所に小さな震える手をぎゅっと強く押し当てる。
会いたくてたまらないと、エルシアは嗚咽を漏らし咽び泣いた。




