その13
冷たい部屋に戻されたエルシアは人の気配が無くなると寝台に上り、鉄格子のはめられた小さな窓から外の様子を窺う。灰色の空とくすんだ緑の森、そして茶色の色あせた地面があり、後は砦の兵士がうろついているだけだった。
「アルベルト様―――」
どうにかして無事な姿が見えないかと打たれた頬の痛みも気にせず、冷たい鉄格子に顔を寄せ、少しでも視界を広げようと試みるも無駄に終わる。
青かった空はどんよりと曇り、セルガンとの違いを突き付けられているようだ。覚悟は決めていたのにアルベルトの姿を見てしまったせいで決意が歪んでしまいそうだ。助けてと、アルベルトの胸に飛び込めたらどんなに良かったか。最後に一目会えたと思い込もうとするのに無駄な希望を抱いてしまいそうになる。
時間を忘れ鉄格子に縋り付いていると、がちゃりと音がして重い扉が開かれ、エルシアは慌てて窓から手を離し壁に背を寄せた。足を引きずる初老の男が食事を運んできたのだが、涙を零すエルシアを見て意外そうな表情をしたかと思うと、口を歪め嫌らしい笑いを浮かべ寄って来る。
「どうしたねお嬢さん、儂が慰めてやろう。」
「寄らないで!」
足を引きずっているくせに動きが速く、逃げるエルシアを捕まえるとあっという間に寝台に転がされ抱き付かれた。
「やめて、離してっ!」
足の悪い小さな男でもエルシアよりは体格がいい。もがいてもどうにもならず、無駄と解っていても叫び声を上げて助けを呼んでしまう。
「まぁまぁ、痛くはしないから暴れなさんな。女の肌に触れるなんて久し振りで涎が止まらんわい。」
執拗に胸と尻を撫でる男から逃れようともがくがどうにもならない。こんな所で手籠めにされるなんて嫌だとアルベルトの名を呼ぶが助けてもらえるわけもなく、どうしようもなくて必死に手足をばたつかせていると急に重みが消えた。
「この女には手を出すなと言っただろう!」
戻ってきたアダムが男の襟首をつかんで軽々と放り投げたのだ。投げられた男は嫌らしい笑いを浮かべたままゆっくりと立ち上がる。
「ばれやしませんって。旦那も一緒にどうです?」」
「さっさと仕事に戻れ。次もまた手を出すようなら問答無用で首を切り落とすぞ。」
「へいへい、解りましたよ。まったくこんないい女を前に何もしないなんて勿体ない。それでも男なんですかねぇ……」
ぶつくさ文句を言いながらも初老の男は足を引きずって部屋から出て行く。唖然と様子を窺っていたエルシアはアダムが振り返った途端にびくりと体を弾かせ冷たい壁に縋り付いた。
「足を出せ。それから顔も冷やすぞ。」
オルガに叩かれ腫れた頬を冷やせとアダムは抱えていた小さな桶をエルシアに差し出す。敵の施しなんてと拒絶したい所だが、彼が戻って来たお蔭でエルシアは難を逃れる事ができたようだ。足を見せろと言うアダムにエルシアは黙って首を振る。足の怪我の手当てをしようとしてくれているのだろうが、素足を曝して今と同じ目に合うのは御免だ。驚きと恐怖が混じり合って声が出なかった。
「あんたみたいなお嬢さんには無理だろう。膿んで切断する他なくなるよりはましだ。ほら、足を出せ。」
「―――自分で出来ます。」
触られたくなくてエルシアはアダムが手にした薬と包帯を奪い取る。あっさり奪われたアダムは少し考えたようだったが、勝手にしろと言い残して部屋を出て行った。
残されたエルシアは鍵がかけられる音を耳にしてほっと息を吐き出すと、強張らせていた体から力を抜いて脇にある小さな桶をじっとみつめる。助けてもらったなんて思えない。何しろアダムはマーガレットを殴り裸に剥いて酷いことをしたのだから。庇ってくれたような感じになったのも上官の命令があるからだ。何しろエルシアはオルガと恋に落ち駆け落ちした事になっている。砦の責任者である男が連れて来た女を部下が好き勝手していいはずもなかった。
エルシアは気持ちを落ち着けると握りしめたままになっている薬と包帯を置いて、桶に沈んだ手拭を絞ると腫れた頬にそっと当てた。痛みを感じるが、拳で殴られたマーガレットはこの比ではないだろう。男の力で顔を殴られ腕の骨まで折られたのだ。ギスターナの人間は好戦的とは聞いていたが野蛮人丸出しではないか。足を覆う布を解いて余った水で綺麗に足裏を洗った。男に言われたからではないが、膿が酷くなり足が腐っては切り落とす他なくなってしまう。決別はしたがもしかしたらアルベルトが助け出してくれるのではないかとの小さな期待が胸の隅に生まれていた。例え助けがなくても自分で逃げ出す機会に恵まれないとも限らない。その時になって歩けない走れないでは使い物にならないではないかと思えたのだ。
貴族の娘は怪我の手当ても出来ないと思われているのか。子供の頃に野山を駆け回り、木登りもできたエルシアが自分の傷の手当て一つできななんて訳がない。傷口に触れると酷く痛んだが、慣れた手つきで汚れを拭い薬を塗って包帯を巻くとほっと一息ついた。狭く冷たい部屋を見渡せば、あの男が運んできた粗末な食事が目に付く。体を弄ばれそうになった男の持ってきたものなどと強情になりかけたが、敵に囲まれた場所では体力が必要とエルシアは食事に手を伸ばした。
*****
囚われの身となったエルシアは小さな窓から小雪がちらつくのをぼんやりと眺める。秋桜などとうに散り、薄暗く曇った空からは白い雪が舞い降りる季節がやって来たのだ。
ギスターナに攫われて一月が過ぎた。此方は標高が高いのかセルガンもそうなのか、アイフィールドの城よりも冬の訪れが速いように感じる。
エルシアと駆け落ちしたことになっている砦の司令官デルク=オルガは滅多に姿を見せないが、マーガレットを暴行したアダムは頻繁に様子を見にやってきていた。
囚われたエルシアの面倒を見ているのはそのアダムなのだから当然かもしれないが、初めの頃はオルガに忠実な男なのだと思っていたがそうでもないようで。本当なら女に手を上げるなどしたくなかったのだと言い訳じみた文句を幾度か耳にしたが、エルシアにとってマーガレットが暴行されたのは事実だし、そのせいで男の力に恐怖を抱いたのも事実だ。アダムの言い訳がエルシアの気を引こうとしてのものと感じながらも、アダムを誑し込んで逃げ出そうという思惑は浮かばない。エルシアにはもともと心で通じ合った恋人がいたせいもあり、男を誘惑して自分の思惑通りに動かそうなどという発想がないのだ。
だが囚われた身でエルシアの貞操は未だ守られており、それがアダムのお蔭だというのはエルシアにもよく解っていた。だからと言ってアダムを信用して僅かにも心を開くことが出来ないのは、その途端に熱の籠った視線を向けられ、アダムによって組み敷かれないとも限らないからだ。
足の悪い男がもってくる質素な食事を食べおえるとアダムが姿を見せる。エルシアはここに連れて来られた時の服ではなく、庶民の娘が着る簡素で装飾のないワンピースを身に着け、同じく飾りのない皮の靴を履いていた。これもアダムに与えられたものだ。こんな場所に女物の服や靴はなかったようで、与えられるまでの十日近く、エルシアは風呂に入る所か体も拭えず同じ服で生活していた。エルシアの全てを気にかけるのはアダムだが、あまりにも不衛生だと病気になるので捕虜としての扱いは非常に良いと受け取っている。それにアダムに時間があるときはこうして迎えに来てくれ、外まで歩かせてもらえるようにもなっていたのだ。
エルシアから望んだものは何もないがアダムが勝手に与えてくれる。これが彼の独断と知ったのは散歩中にオルガと顔を合わせた時だ。
『その顔でどれだけの男を誑し込んで来たのか。まぁいい、貴方は大事な人質だ。不穏な動きがあれば家畜の様に鎖で繋ごう。嫌ならその男に媚を売り続ける事だな。』
汚いものでも見るような目を向けたオルガは綺麗な娘とも見紛う従者の少年を連れていた。オルガはエルシアが大人しくしていれば特に文句はないようで、人質以上の役目も求めていないらしいと悟る。陽に当たるのも必要と散歩に誘いエルシアを連れて歩くアダムは他の男を寄せ付けず、置かれた状況がなければ一見エルシアを崇拝する従者の様でもあった。しかし見方を変えるとアダムに依存させようとしているようにも考えられなくはないが、エルシアには意図が掴めず考えを断念する。
そのアダムはというとエルシアが気になって仕方がなかった。ギスターナは長い事アイフィールドの資源を狙っているが、セルガン辺境伯率いる軍はギスターナが一目置くほど統率が取れている上に個々の能力が高い。春に司令官の入れ替えがあり国王の庶子であるオルガが赴任してくるまで、砦の人間は本気でアイフィールドに攻め入るなどという事は無いだろうと思っていたほどだ。
オルガが司令官となると諜報部員は情報収集に奔走した。驚いたことにオルガ自身も商人に扮しセルガンで商いをしながら辺境伯についての情報を集め回ったのだ。セルガン辺境伯アルベルトは領主としても、また一人の人間としても評判がよく、貴族にしては珍しく領民たちからの信頼は厚い。その中で若く美しい妻を大切にしているという話を常に聞かされたのだ。その妻も都で生まれ育った貴族娘にしては気立てがよく夫に忠実だという。そんな話には特に興味を抱かずオルガの練った作戦に同行したのだが、辺境伯婦人は噂に違わず美しい娘で、オルガの読み通り使用人の命と安全を我が身よりも優先しアダムを驚かせた。
エルシア誘拐においては精鋭が集められた筈であるのに、一人殺られたのは予定外であった。数でも圧倒的に勝っていたはずなのに、大事な戦力を一人失い、砦の人間一同は改めてセルガンの騎士に一目置いた。そんな矢先に辺境伯自身が乗り込んで来たのである。オルガでさえ予想しなかった事態に砦には動揺が走る。
流石というべきなのか、単身乗り込んだ辺境伯は威厳と自信に溢れていた。自国の司令官が王の血を引いているのだけが取り柄に感じるほど格の違いを感じてしまう。そしてアダムは、単身乗り込んだ辺境伯に縋る所か別れを告げたエルシアにも驚かされる。だが小さく震え虚勢を張る後ろ姿を目の当たりにし、凛とした輝きと人間らしさ、そしてか弱さを身に秘めるエルシアに次第に惹きつけられてしまったのだ。
アダムは暇さえあればエルシアの側で時間を潰す。そんなアダムをオルガが呼びつけ久し振りに命令を下した。
「国境からセルガンを見せてやれ。」
「乗り込ませるつもりですか?」
辺境伯がそんな手に乗るものかと思いつつ問えば、オルガは嫌な笑みを浮かべる。
「釣れればいいが、まぁ遊びだ。たまには泣かせるのも悪くないだろう。」
誘いに乗らないセルガンに痺れを切らしたのかと思えば、趣味の悪い嫌がらせを思いついたらしい。了解したと頷けば、オルガは満足そうにお気に入りの従者の頭を撫でつけた。
悪趣味と感じながらアダムも、自国を臨んだエルシアがどのような表情を見せるのか知りたいと感じた。望郷の念に駆られ泣くだろうか。エルシアなら涙を零さず耐えるかも知れない。けれど心ではどうだろう。孤独が増し、側にいる男に縋ったりはしないだろうかと淡い期待が生まれる。オルガの言う遊びの一端にアダム自身が入っていようとは気づけなかった。




