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辺境の花  作者: momo
11/21

その11




 マーガレットやオルウェン、そしてトマスを傷つけた男たちに囲まれたエルシアは恐怖でいっぱいだった。暴力もそうだが、何も身を守るものを持たない我が身に恐れを抱く。自死は難しいといった男の言葉は正しかった。剣も何もないエルシアが自ら死ぬためには舌を噛み切るしかないが、それを実行するには現実にとても難しく、恐らく死ぬよりも勇気と決断と思い切りのいる行為だ。剣で喉を切るのは出来るだろうが、勇気をもって舌を噛んだとて死ねるとは限らない。命のやり取りをする男たちはそれを十分に解っているからこそエルシアを物質的に拘束する必要性を感じていないのだろう。


 暗く深い森を彷徨い手綱を握り締め様子を窺う。彷徨っているのはエルシアの心で、男たちは迷いなく道なき道を進んでいた。オルウェンが絶命させた男は馬の背に縛られ荷物のように固定されている。捨てたりその辺に埋めたりしないのは彼らにとっての仲間を自国にて手厚く葬る為にだろう。彼らにも人としての心があるようだが、マーガレットが受けた暴力はエルシアに恐れしか抱かせない。


 彼らは無口でほとんど会話をしなかったが、剣を持たないオルガと呼ばれた男がこの中での長というのはエルシアにも分かった。基本的にエルシアに声をかけるのはオルガだったが、休憩の際にエルシアを馬から降ろしたのはマーガレットを暴行したアダムという名の男だ。拒絶反応を示したエルシアは暴れて馬から転げ落ち足を挫いてしまう。オルガは面倒そうに目を細めると「診てやれ」とアダムに指示を出して後は放置だ。腹心なのかエルシアに恐怖を与える為なのかは知れないが、女に暴力を振るう男が終始エルシアの面倒を見ると決められているようで、他の二人は側にいても声をかけてくるようなことはなかった。


 「触らないで。」


 恐怖もあるがこんな男たちに触れられるのは屈辱だった。手当を拒絶して立ち上がると痛みで倒れてしまう。アダムは溜息を落とすと拒絶するエルシアを抱えて水場に運んで座らせた。面倒なら手を出さなければいいだけなのに上官には逆らえないのか。それ以上は何もしない男に脅えながらも、エルシアは挫いた足を水につけ冷やしながら汚れた足を洗った。


 裸足で走ったせいで足裏の皮が剥がれている。血は出ていないが酷くしみて顔をしかめた。


 「しっかり泥を拭い取らなければ膿んでくるぞ。」


 突然声をかけられびくりと肩が弾く。後ろを振り返るとアダムが覗き込むような体勢でとても近くにいて、エルシアは慌てて膝まで捲り上げていた裾を下ろした。エルシアはアダムの目に女を見る熱が灯されたのを瞬時に悟り、身を縮めスカートの上から硬く膝を握り締める。マーガレットを襲った時のアダムは少しも熱や欲望など孕んでいなかった。そんな男の視線に熱を持たせたのはエルシア自身だ。こんな場所では本当に誰も助けてはくれないし逃げられないと、人目を惹く容姿に生まれたのをこの時ほど呪いたくなったことはない。アダムが身を寄せたせいでびくりと体が弾ける。太い腕が伸ばされ抱え上げられても怖くて体が動かなかった。


 元の場所に戻されたエルシアはアダムの手で傷の手当てを受ける。裸足の足には布が巻かれ、挫いた部分は固定された。僅かな食料を渡されたが口にする気力は湧かない。間もなく馬の背に乗せられほっと息を吐き出す。出発するのだと解り体を弄ばれる恐怖がほんの少しだけ薄れた。


 夜通し森を歩き、朝日が昇り始めた頃には山を越える。そうして辿り着いた先はギスターナ側の国境だ。予想通りで最も最悪な結末にエルシアは一縷の望みを失う。これでもう本当に二度とアルベルトに会えないのだと理解した途端、体の力が抜けて馬上から転げ落ちた。




 *****

 

 いつの間にか失っていた意識を取り戻したエルシアの目に移り込んだのは灰色の天井だ。現実を悟りゆっくり身を起こすと粗末な掛布が体からずり落ちる。冷たい石の壁に重厚な扉。小さな窓には鉄格子が嵌め込まれ、寝ている硬い寝台に椅子が一脚あるだけの粗末な部屋は囚われている実感を抱かせた。それでも鉄格子だけの牢屋でないので待遇は良いのだろう。エルシアは膝を抱え顔を埋めた。


 「旦那様―――アルベルト様。」


 名を口にすると途端に悲しさが込み上げてくる。浮かんだのは元恋人でも親でも兄弟でもない、夫の姿だ。辺境伯夫人として囚われる身を捨ててくれと言葉を託したが、心の内側では今すぐにでも会いたいと願ってやまない。アルベルトの胸の中が最も安心できる場所なのだとここに来て強く実感してしまった。


 人は変わるものとのウルリックの言葉はエルシアに重石を抱かせたが、様々な意味で確かにそうだと胸が疼く。イージスは望みの物を手に入れるために高みを目指そうとしているのだろう。伝え聞くままが全てではない。エルシアと別れた彼は力ない人たちを救う目標の為に、地位と権力を手に入れようとしているのかも知れないではないか。そしてエルシアは、確かにあった筈の恋情が、かつての恋人ではなく夫に向かっているのだと知り、別れの辛さに涙を零す。アルベルトの事だ、エルシアの決断に心を痛めてくれるだろう。だが彼は辺境伯の重みもしっかりと解っている。最善を尽くすのが仕事と、エルシアを想いながらも切り捨ててくれるはずだ。いつの間にか心が向いていた夫に対して唯一エルシアが出来たのは、彼の行動を後押しする言葉を残せたことだろう。マーガレットが伝えてくれさえすればアルベルトは、辺境伯は選択を間違いはしない。


 だがエルシアの願いを他所に周囲は動き続ける。辺境伯に見捨てられた夫人などに利用価値はない。マーガレットの様に痛めつけられるのは怖かったが、それが定めなのなら従うしかないのだ。重厚な扉が開くと、足を引きずる初老の小さな男が現れ、エルシアをちらりと見やると無言で椅子の上に食事の乗った盆を置いて行った。それが二度繰り返された後、三度目に扉が開かれるとアダムが姿を現す。アダムの眼差しに熱は籠っておらず僅かにほっとしたのも束の間、無言のまま腕を取られ部屋から連れ出される。女物の靴などここにはないのだろう、布を巻かれた足で冷たい石の床を半ば強引に連れて行かれた先でエルシアは、驚くべき人の姿を視界にとらえた。



 全身の毛が逆立ち声にならない声が漏れてしまう。歓喜のあまり飛び出していきそうになるのを後ろから肩を押さえられ押し留められる。視線の先では大きな体を持ったアルベルトが、何時も向ける穏やかな眼差しに変え厳しい表情でエルシアをしっかりと視界に捉えていた。


 「私の妻だ、返していただこうか。」

 「こちらの女性で間違いないと?」


 敵陣の中にアルベルトの姿を認めエルシアは驚きのあまり声が出ない。一生会えないと思っていた人だ。その人が今まさに目の前にいて口を開いている。言葉からエルシアを迎えに来たのは間違いないが、アルベルトの周囲はギスターナの騎士が取り囲みセルガンの騎士やアイフィールドの人間は一人もおらず、どうしてという思いがエルシアの中に渦巻く。


 「確かに貴方の妻であったかも知れない。だが―――」


 硬質な音を響かせオルガがエルシアに歩み寄り頤を取って自分の方へと向かせる。抵抗するも男の力に適う訳がなくされるがままで、アルベルトの登場に戸惑うエルシアは視線だけは夫に重ねたままでいた。


 「彼女は自ら私の手を取った。」


 幾度も言いますがと前置きしたオルガは、まるで愛しいものを見るようにエルシアを見つめ顔を綻ばせる。


 「あの地で互いに一目惚れした私達は、想いを確認し合い駆け落ちしたのです。国を超えた今、私の後見があれば彼女はギスターナ国民と認められる。辺境伯、貴方が彼女を攫い国境を越えようとするならば、私も愛しいものを取り戻すのに全力を尽くさせてもらおう。たとえ貴方が彼女の夫であろうと容赦はしない。」

 

 最後の言葉はエルシアに向けて放たれ、意味の分からない言葉の羅列を努力して理解しようとエルシアは頭を働かせる。


 これが夢でないならとてもおかしくて危険な状況だ。この男は何と言ったか。エルシアを偽りの微笑みで愛おしそうに見つめる男は『容赦しない』と言葉で射抜く。


 エルシアは一度オルガを見て、それから再びアルベルトに視線を戻した。たった一人で乗り込んできたのか、いつも側にいるレディスの姿も認められない。ここは恐らく国境のギスターナ陣営。敵陣に入り込んだのに剣を腰におびているのは何故だろう。それはもしかしてアルベルトに剣を抜かせるためにだろうか。剣を抜いたらどうなるのか。オルガはなんと? エルシアと互いに一目惚れし駆け落ちしたと言ったオルガは遠慮なくエルシアに触れる。


 見せかけの愛の執着に誰もが気付いているのに、嘘だと声に出しても無意味と解っていた。これは全てギスターナがアイフィールドを、セルガン辺境伯領に攻め入る口実を作り出す為に取った茶番だ。滑稽を通り越して笑いも漏れない。


 ここでアルベルトが無理にでもエルシアを取り戻せば間違いなく殺されてしまう。エルシア自身は死んでも構わないが、セルガンにはアルベルトが必要なのだ、死なせるわけにはいかない。アルベルトの登場に歓喜に溢れた状態から一転、エルシアは冷静に現状を把握して瞼を閉じ深呼吸を繰り返した。


 どうすればアルベルトを無事にセルガン側へ戻せるのか。攻め入る理由を求めているギスターナも自らは仕掛けない筈なのだ。だからこそエルシアは攫われたのだと、知らされなかった辺境を狙うギスターナをエルシアなりに分析する。このままエルシアがこの場に立っていればオルガはアルベルトの怒りを引き出す為に、エルシアを使ってあらゆる事を仕出かすのだろう。それこそ最後にはマーガレットのように扱われるに違いない。ここで守られるだけのか弱い乙女の様に助けを求め、アルベルトの手を取るなんてやってはいけない最たる行動だ。そう悟ったエルシアはゆっくりと紫色の瞳をのぞかせると目の前の男、オルガにそれを重ねる。


 「あなたのおっしゃる通りです、愛しい方。」


 一瞬虚を突かれた表情を浮かべたオルガからエルシアは視線を離すと、そのまま切なくアルベルトへと移した。夫を見つめるのに芝居は必要ない。


 「わたし達の婚姻に愛はありませんでした。夢みる愚か者など捨て置きください。この方と出会い、わたしはこの地で生涯を終える覚悟をしたのです。どうぞお引き取りを。」


 女であっても戦いの場では命を投げ出す。そこに剣があろうがなかろうが、今ここがエルシアの戦いの場だ。これきりになるだろうと、命の危険を犯してまで単身迎えに来てくれたアルベルトを少ない時間で目に焼き付けた。


 ゆっくりを腰を折るエルシアを取り押さえる腕はない。そのまま背を向けたエルシアにアルベルトが声を上げる。


 「必ず君を取り戻す。」

 「旦那様はセルガン辺境伯としてのお役目を果たしてください。この地にてセルガンの、アイフィールドの繁栄をお祈りしております。」


 もう一度礼を取るとエルシアは自らの意志で来た道を後戻りした。後ろ髪ひかれぬわけがない。泣きそうになる目にぐっと力を入れ先を急ぐと、追って来たオルガに引き止められ頬を打たれた。衝撃で石の壁に体を打ち付けるが意地でも悲鳴は上げない。下から睨みつけると同じように睨んでいたオルガだが、直ぐに表情を消して冷たい視線でエルシアを見下ろした。


 「連れていけ。」


 硬質な音が石の廊下に響く。エルシアは後ろを振り返らず、腕を取られても自分で前を向いて進んだ。






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