その10
レディスはアルベルトと共に砦に出向く日が続いていたが特に大きな変化がある訳ではない。平和は何よりだが机仕事は苦手だ。アルベルトは本気でレディスを辺境伯にする予定でいるのかも知れないが、レディス自身は誰かの下が気楽でよかった。アルベルトもそんなレディスの心情を察していたので、屋敷に戻って居残り騎士の鍛錬に付き合うと言い出したレディスを止めずに送り出す。たまに息抜きは必要だなとのお許しが出て身軽に戻ったレディスは騎士の鍛錬という帰宅理由を放棄し、お気に入りの野原に出かけているというエルシアを追って馬を進めていた。
「息抜きは必要だよ、本当に。」
今から行けば昼飯に間に合うだろうと馬を走らせていると前方に人影が見えた。向こうから徒歩でこちらにやって来る人間など珍しい。目を細めると人影は変な歩き方をしていた。足の悪い年寄りかと思った所で距離が狭まり、それを的確に捉えたレディスは驚き血相を変え馬の腹を蹴る。
「マーガレット!?」
走らせる馬を急停止させ飛び降りれば、レディスの名を呼びながら襤褸布を纏ったマーガレットが倒れるのを腕に受け止める。
「どうしたっ、何があった? 奥方は?!」
「ギスターナの男に攫われました。」
言うなり意識を失いそうになるマーガレットを地面に座らせ背を支えてやる。冷静でいようとするがレディスの頭の中は爆発しそうなほど混乱し、驚きと焦り、そして怒りが渦巻いていた。
体中が傷と泥だらけのマーガレットは一目で凌辱されたのだと解る。髪もぐちゃぐちゃで泥に塗れ、顔全体も目も唇も大きく腫れて綺麗な場所は一つもない。左腕は肩の関節に近い場所から折られており、汚れた傷口が炎症を起こし始めているのか体が熱を持っていた。
「奥方もやられたのか?」
レディスにしては拙い聞き方だが、マーガレットは小さく首を振って否定する。
「お怪我はされていないはずです。でも奥様はわたし達の命と引き換えに攫われて―――」
「オルウェンとトマスは?」
「生きています。でもどうなるか―――オルウェンさんが……旦那様にも教えないと―――」
「マーガレット?」
話しながら意識を失ったマーガレットをレディスが小さく揺するが目を覚まさない。状況を察したレディスは迷ったが、先にマーガレットを屋敷に届けアルベルトを呼び戻すことにし、自分は人数を整えオルウェンとトマスが残された野原に向かう事にした。恐らく敵はいなくなっているだろうが、念には念を入れなければならない。それに情報を持って帰ったマーガレットに死なれては困るというのもあった。恐らくオルウェンがマーガレットに言葉を託したのだろう。
レディスは自身のマントでマーガレットを包み込んでから馬上に押し上げ騎乗する。絶対に取り戻してやると心は怒りに燃えていた。
知らせを受け急ぎ戻ったアルベルトはその足でマーガレットを見舞う。アルベルトはたとえ主であっても女性使用人たちの住まいに立ち入るのは良くないと守ってきたが、今回は禁を破り使用人棟へ向かった。
事態が事態だ、部屋にはレディスと使用人の一人がいた。医者を呼び手当てを受けたマーガレットはぐったりと力を失い寝台に横になっている。汚れた髪を使用人が拭っていたが、アルベルトが現れると立ち上がって礼を取り場所を開けた。
「男がいても大丈夫なのか?」
「ああ、うん。奥方が貞操を守ってくれたそうで、そのせいで奥方は逃げられずに攫われたらしい。」
マーガレットは酷い暴行を受け、二人の騎士も重症だ。念には念をとオルウェンとトマスをつけたが二人ともけして腕が悪いわけではないし、セルガン軍の中では上位に位置する実力の持ち主だ。矢を受けたトマスはまだしも、オルウェンがやられたというのは相手も相当の手練れだったと窺える。証拠はないが剣を交えたオルウェンがギスターナの手の者だというならそうなのだろう。アルベルトはマーガレットの顔に当てられている手拭を取ると顔を顰め、冷たい水で絞りなおして腫れた傷にそっとあてた。その刺激で瞼が揺れ、僅かに瞳が覗いてアルベルトを認める。
「旦那様―――」
「動いては駄目だ、このままで。」
「奥様が……申し訳ありません。」
酷く腫れてしまった瞼の下から涙が零れだし嗚咽を漏らす。大丈夫だ、良くやってくれたと労えば労う程マーガレットは涙を流し、自分たちの命の為にエルシアが奪われてしまったと嘆いた。
「エルシアはそういう女性だ、君が嘆く必要はない。」
「いいえ、いいえ旦那様。奥様はっ―――奥様は本当に旦那様にっ―――」
嗚咽で言葉が続かないマーガレットにアルベルトは距離を縮める。あまり興奮させるのは良くないだろうと指でそっと触れればかなり熱を持っているのが分かった。
「ゆっくり傷を癒してくれ。」
必要な情報はレディスが掴んでいるだろうと早々に部屋を出ようとすれば、マーガレットは無理に起き上がってアルベルトを引きとめた。
「お願いです、奥様を助けて下さい!」
ゆっくりと振り返ったアルベルトは起き上がったマーガレットを見て眉を寄せる。ゆったりとした衣をまとっていたが、その下には包帯だらけの肌が覗いていた。折られた左腕が元通りに動けばいいと願いつつ、エルシアも同じような目に合わされているのではないかと想像しそうになって蓋をする。思い描いた途端、冷静さを失ってしまい対処を誤ってしまいそうになると解っているからだ。
「当然そのつもりだ。」
マーガレットは濡れた手拭で顔を覆いながら幾度か頷いた。
「奥様が旦那様にっ―――」
先程と同じ言葉を耳にしてアルベルトは僅かに首を傾げ、マーガレットは迷いながらも嗚咽を漏らしながら先を続けた。
「お伝えするのは止めようと思っていました。でもっ、そんな奥様を旦那様ならお分かりになってくれると思って……」
「どうした、エルシアは私に言葉を残したのだな?」
マーガレットの側に戻ったアルベルトは膝を付き腫れあがった顔を覗き込む。マーガレットは醜い姿を隠しもせず、熱でふらつきながらも起き上がったままエルシアの言葉を伝える。
「自分の代わりはいくらでもいると、そのようにお伝えするように言われました。でも奥様の代わりなんて何処にもいませんっ。奥様はご自分の立場を十分に理解されてます。それなのに足を止めて私たちの為に―――!」
何てことだとアルベルトは心を落ち着けようと息を吐き出した。ほんの数か月前までは王女に仕えたただの娘だっただろうに。辺境に嫁ぎ僅かな期間でそれだけの覚悟を抱かせたのはどうしてなのか。助けてとの泣き言ではなく、争いを持ち込まぬために己を犠牲にしようとしている。目の前でマーガレットが暴行されるのを見ていただろうに、その恐怖に脅える前に決別を選択した妻にアルベルトは驚かされた。けして己の境遇を嘆き人生に絶望していたからといった類の言葉ではない。
「私にとっても彼女の代わりなど存在しない。よくわかった。マーガレットは彼女が戻って来た時の為に十分休養して元気を取り戻してくれ。これからも彼女に仕えてくれるのだろう?」
勿論ですと泣きながら頷くマーガレットに、アルベルトは労う様に頷いてから部屋を出る。レディスも後を追ってきた。
「中央の応援を待たずにでるんだろ?」
「軍は出さない。」
「はぁっ?! 奥方がマーガレットみたいにやられてもいいのかよ?!」
ギスターナはセルガンが戦いを仕掛けるのを誘っている、そのためにエルシアを誘拐したに決まっているのだ。役に立たないとなると即刻痛めつけられる。あれだけの器量があるエルシアをギスターナの野蛮人が手を付けないなんて事は有り得ないと、怒鳴るレディスの胸ぐらをアルベルトは掴んで壁に叩きつけた。
「私はセルガン辺境伯だ、己の感情だけで突っ走て良い立場にない!」
「だからって奥方がヤられてもいいってのか!」
「そんな事になれば彼女に触れた全員を八つ裂きにしてやる!」
「だったらなんでっ?!」
それなら余計に急がなければ間に合わないと唾を飛ばすレディスから、アルベルトは己を落ち着けるようにゆっくり息を吐き出しながら手を離した。
「誘いに乗れば此方の負けだ。彼女も取り戻せなくなるぞ。」
「だったら―――いい案あるのかよ?」
「まずは情報だ。マーガレットから聞いた事をすべて話せ。」
情けなく眉を下げたレディスを前に、アルベルトは厳しい表情のまま歩き出した。
妻を奪われたからとはいえ証拠もなしにこちらから仕掛けるのは得策ではない。先に仕掛けて来たからとの理由でギスターナは遠慮なく進軍してくるだろうし、アイフィールド王国としては出来る限り好戦的なギスターナと戦いを交えたくないのが正直な所なのだ。それにエルシアがマーガレットに託した言葉の通り、アルベルトが敵国に攫われたエルシアを見捨てても非難を受けはしないだろう。それはエルシアがしがない男爵家の出身というからではない。エルシア一人の身柄とセルガンの領民、ひいては王国の民を危険に曝すとなるとどちらが優先されるか。エルシアはそれを解っていてあえてアルベルトに言葉を残したのだ。選択しなければならないアルベルトが少しでも心を軽くできるようにと。
勿論アルベルトはエルシアを見捨てる気持ちはなかったし、相手の挑発に乗り感情の赴くまま進軍するほど愚かでもない。レディスから話を聞いたアルベルトは、今回の件はやはりギスターナの国境へ新たに配属されたデルク=オルガが係わっていると判断する。もしかしたら彼自身がセルガンに入りエルシア誘拐を実行したのではないだろうか。オルウェンを重症に出来るほどの騎士を従えていたのも、自身は剣を扱わないから故だろう。恐らくマーガレットを痛めつけたのもエルシアに反抗する気力を失わせるためだ。そうでなければマーガレットを裸に剥いておきながら最後まで強姦しなかった理由がみつからない。女性に手を上げやりたい放題しておいて興に乗らないのは、もともとそういう人間ではないという事だ。きちんと教育された騎士を連れていたと思われる。絶対とは言えないが、恐らく利用価値がある限りエルシアは無事だ。
アルベルトは書斎に入ると筆を取り、迷いなく遺言をしたためると引き出しにしまう。これからに備え体を休めようと寝台に横になるが睡魔は訪れなかった。結婚以来エルシアと共寝しなかった夜はない。寂しさよりも不安しかわかず、恐らく大丈夫であろうと予想できるのにエルシアがマーガレットのようになっているのではという不安がつきまとう。
湧き起こる怒りを追い出し、冷静さを取り戻そうと必死になった。やり方を一つでも間違え失敗すればエルシアを永遠に失うだろう。辺境伯としての役目のぎりぎりの所で行動せねばならない。エルシアを取り戻す選択はアルベルトの個人的な欲求なのだから。




