幸せの作り方
なんで、こうなるの。なんで、こんな思いしなきゃいけないの。辛いよ。
私の声は誰にも届かない。違う。届かせたらいけない。いじめられてるなんて言ったら、お母さんが心配する。そしたら、病気がひどくなるかもしれない。辛い思いをするのは、私一人で十分だ。もう、誰も失いたくない。
転入初日、私はいじめのターゲットになった。
クラスメイトからの無視が続く日々。
担任は気付かないふりをしている。
どうでもいい。そんなことは、気にしない。私をいじめる事が楽しいならいじめればいい。気付かないふりをしたいなら、すればいい。私は何も言わない。
『死ね、クズ、汚い』
好きに言っていればいい。私の机や教科書に書いていればいい。私だけが傷つけばいいんだ。
そして今日も私はいじめられる。
「おはよう」
なんて言って教室に入っても返事は返ってこない。机にはいつもの言葉、死ね! と赤のマジックで書かれている。誰が書いているのかは知らない。
「金寺さん、ちょっといい?」
西城さんが話しかけてきた。
「なんですか」
「このゴミ捨ててきて」
西城さんは私にゴミ袋を渡した。私は「はい」と言って席を立つ。
ゴミ置き場に着いてゴミを捨てようとすると、誰かに背中を押された。そのまま私はゴミに頭から突っ込む。
「やだー 汚い」
甲高い声が聞こえる。私は振り向かない。
「やば、遅刻しちゃう」
そう言って甲高い声の主は去って行った。パタパタと薄っぺらい足音を響かせながら
足が痛い。多分、すりむいている。そして制服も汚れてしまっている。どうしようか。このまま走って教室に戻っても朝のホームルームには間に合わない。そうだ、保健室に行こう。きっと、手当てしてくれるはずだ。
「失礼します」
「あら、金寺さん。どうしたの?」
「転んでしまって」
「あらー 女の子なんだから気を付けなさいよ」
この先生はきっと、私がいじめられている事を知っている。だけど、なにも言わない。言わないようにしている。そんな気がする。
「傷、見せて」
「はい」
私は膝を見せた。先生はすった部分に消毒液をつけて絆創膏を貼ってくれた。
「それじゃ、教室に戻ります」
「待って、金寺さん」
「なんですか」
「あなた、顔色悪いわよ。今日はここにいなさい」
「…はい」
やっぱり気が付いてる。顔色が悪いなら普通は帰れと言う。
私は静かにベッドに座る。先生は綺麗な笑顔を浮かべる。歳は三十代前半だと思う。
「金寺さんは友達いるの?」
「はい」
「名前は? 誰なの?」
「西城さんです」
「あら、意外。金寺さんはそういうタイプじゃないと思っていたわ」
そういうタイプって、どんなタイプなのだろうか。
「他には? 西城さんだけ?」
この先生、回りくどい。
「金寺さん?」
「言いたい事があるなら言ってください」
先生は目を見開いて驚いていた。私は弱くなんかない。
「ごめんなさい。先生は心配だったのよ。金寺さんが…」
「私は大丈夫です。」
「いじめられているんでしょう?」
「違います」
誰にも言わない。そう決めたんだ。
「先生は金寺さんの味方よ」
味方。そんな軽い言葉で私の心は動かない。それに、味方でも他人は他人だ。どうせ何も出来ないんだろう。
「全部、話していいのよ。誰にも言わないから」
「いじめられていませんから」
「でも」
「本当ですから」
「…分かったわ」
先生は立ち上がり隣のベッドのカーテンを開けた。そこには不登校の三神照秋がいた。
「三神くんと二人きりにしてあげる」
そう言って、先生は出ていってしまった。
私は状況がよく分からなかった。とりあえず、三神照秋に話しかける。
「なんで不登校なの」
「別に…」
くすりとも笑わない三神照秋を見て思った。こいつは私と同じ。
「お前、いじめられてんのか?」
三神が話しかけてきた。私は何も言わない。
「花谷先生はいい先生だから」
知ってる。そんなことくらい分かる。回りくどく聞いてきたのも、顔色が悪いからと引き止めたのも、多分、私を心から心配しているからだと思う。
「他人は他人だよ」
私は三神の目を見て、三神の心に届くように言った。三神は笑って私に言う。
「他人も他人なりに頑張っているよ」
違った。こいつは私と一緒じゃない。私なんかと一緒にしたらいけない。
「三神くんは強いね。私よりもずっと強くて優しい。いいな。私も三神くんみたいに笑ってみたい。こころから笑顔になりたい」
「千なら出来るよ」
なぜ三神くんが私の名前を知っていたのか、この時の私は知るわけがなかった。
一時間目が終わるチャイムが鳴った。今頃、みんなは私が逃げたと思っているのだろう。いじめに耐えきれずに家に帰ったと思っている。
「私は弱くない」
小さく呟く。これが私の心の支え。
「お前って、なんでいじめられてるの?」
「三神くんはなんで不登校なの」
「オレは勉強したくないから」
「三神くんは勉強したくないから、いつも保健室にいるの」
「まあな」
「でも頭いいよね。三神くん。毎回テスト一位で驚く」
この人、本当は勉強が好きだ。好きだからテストでいい点が取れるんだ。生まれた時からの天才なんているわけがない。エジソンもニュートンもピカソも好きだったから天才になれた。好きだったから発明が出来たし、好きだったから引力も発見出来た、ゲルニカだって描けた。全部、好きだったから出来たことなんだ。だから、三神くんも勉強が好きなんだよね。なんで噓つくのか分からないけど、私はその理由を知りたいなんて思ってない。だって、好きなものを嫌いって言うのは勇気なんかよりも諦めが必要だから。私はそのことをよく知ってる。
「私、教室行くね」
そろそろ戻ってみんなの驚く顔を見たい。
「だめだよ。お前、本当に顔色悪い。今日はここで休んでろ」
「大丈夫だよ。弱くないから」
「弱いとかの問題じゃないんだよ。オレが寂しいだろ。花谷先生もいなくて」
三神くんの優しさが私には痛い。涙が出そうになる。この学校に来て初めて人の優しさに触れた気がする。
「ありがとう」
この人になら話せるかもしれないと思うのは、私が弱いからなのだろうか。本当は全部、吐き出してしまいたい。楽になりたい。笑いたい。泣きたい。私の中のなにかがそう訴えている。
「千は一人で溜めすぎ。もう少し人を信用しなよ」
「出来ない」
「なんで?」
「私のお父さんは浮気して出て行ったの。お母さんと私を捨てて女の人と出て行った」
ポツリと何かが私の頬を伝わる。
「お母さんはその日から壊れた。病気になっちゃった」
また、ポツリと――
「だから、私は強く生きようと決めたの。その日から一人で生きて行こうって決めたの。誰も私を助けてはくれないから。自分以外の人間なんて信じられないから」
気付くと私は泣き崩れていた。その場に座り込んで泣いていた。三神くんの声が聞こえる。三神くんの優しい声が私のからだ全体に響き渡る。
「大丈夫。千は強い。全然、弱くなんかない」
私の呪文を三神くんが言ってくれている。
「オレはお前のこと裏切らないから安心して」
出来ない。安心なんてしたくない。私の呪文は魔女なんかよりもよく効くんだ。
「私は弱くない」
小さく呟く。私の心はまた無くなった。
「三神くん、人ってすぐには変われないよ」
「そうかもしれないな。だけど、変わろうとすれば、いつかは変われるよ」
「私は、そのいつかが待てない。変われるなら今すぐ変わりたい」
「オレだってそうだよ。出来るなら今すぐって思う。だけど、すぐに変わったとしても自分は自分なんだから、結局変わってないよ」
「三神くんが言ってること、意味不明だよ」
「そうだな。オレもそう思う」
三神くんは笑っている。彼の瞳は私を映している。その瞳の中の私は全然笑えていない。
「私は弱くない」
なんでこんなに胸が痛いの。苦しい。辛い。そんな感情はとっくに捨てたのに、なんで私の胸の痛みは消えないの。
「千、人は変われるよ。どんなに時間がかかっても変われる。変わらなきゃいけない。お前なら分かるだろ?」
うん、分かる。分かっている。
「でも、どんなに変わっても自分の心の奥は変わらない。そうだろ?」
「そうだよ。私がどんなに感情を消しても、私の心の奥にはまだ感情が残っている。だから、胸が、胸だけが痛い」
「その痛み、オレにも分けてくれよ」
「いやだ」
私は素直じゃない。ねじ曲がっている。
「三神くんだって痛みを持ってる。私、気付いてるよ」
左手首の傷跡。
「自殺しようとしたんだよね」
「ああ。でもやめた」
「もうしないよね?」
「しないよ。もうあいつの泣き顔、見たくないから」
三神くんが言った「あいつ」は――
「ごめん。私、曲がってるから三神くんにも他人にも痛みを分ける事できない」
「謝らなくていいよ。オレは平気だから」
そんな寂しい顔しないでよ。
「本当にごめん」
四時間目終了のチャイムが鳴った。三神くんは寝ている。かわいい寝顔でぐっすり眠っている。
『ガラっ』
ドアが開き、花谷先生が給食を持って入って来た。
「あらー 三神くん寝てるの?」
「はい」
先生は困った顔をして「起した方がいいのかしら?」と一人でぶつぶつ言っている。
「三神くん、お弁当持ってましたから」
「あらー そうなの? だったら、寝かせときましょう」
「そうですね」
先生の口癖は、あら。まだ若いのにおばあさんみたいな口癖。きっと、この先生も痛みを背負って生きている。
「いただきます」
今日の給食はシチューだった。私が嫌いなシチュー。
「金寺さん、好きな食べ物は?」
先生は明るい。とても明るく光っている。でも、光が強くなるほど影は濃くなる。そして、いつかその陰に呑まれてしまう。
「特にありません」
「じゃあ、好きな色は?」
「黒です」
「あら、奇遇ね。私も黒が好きなのよ。黒って綺麗に見せてくれるのよね。ほら、服とかもそうでしょう」
「そうですね」
私が黒を好きな理由は、何色にも染まらないから。白とは違う。黒だけが強くその場に残る。黒だけが存在し続ける。
「あら、三神くん起きたの」
後ろを見ると、三神くんが目をこすっていた。
「顔、洗ってきなさい」
「はい」
三神くんはベッドから降りて立ち上がった。足取りはフラフラしていて危ない。
「金寺さんも付いて行ってくれるかしら?」
「分かりました」
私は三神くんを連れて保健室を出た。
水道場で三神くんが顔を洗っている。私は三神くんの背中を見て泣きそうになっている。知らないフリをするのは辛いね。
「千、タオル」
「はい」
「ありがとう」
私のポーカーフェイスは、どこへ行ってしまったのかな。
「どうかした?」
顔を拭き終わった三神くんは、私の歪んだ表情を見て心配そうに聞いてきた。なんで、そんなに優しいの。
「なんでもないよ」
ただ、少しだけ思いだしちゃっただけだよ。昔のこと――
「そうだ。オレ、明日から教室行くから。保健室じゃなくて」
白い歯を見せて三神くんは笑う。
「いいよ。来なくて」
「別に千のためじゃないよ。オレはオレのために行くんだ」
言葉を選ぶように三神くんは言っている。もう大丈夫だよ。照くん。
「なら、私に話しかけないでね」
「やだ」
私は静かに
そして、ゆっくりと
噓をついた。
「いい加減にしてよ。私は三神くんが好きじゃないの。正直言っていい迷惑なの。これ以上私に関わらないで。お願いだから」
とても冷たく言ったのに、なんで笑えるの。なんで、嘘だって分かっているの。
「オレは千が好きだよ。だから、お前が迷惑でも関係ない」
「やめてよ。私は嫌いって言ってるんだから」
だったら、何で心の中で泣いているの。私は私に聞いている。私は答える。それは――
「あの人が忘れられないから」
三神くんはキョトンとしている。私は少しだけ口角を上げた。
家に帰ると、お母さんがリビングの椅子に座ってぶつぶつ言っている。台所では宏美さんが夕食を作っていた。
「おかえりなさい。千ちゃん」
「ただいま」
宏美さんは近所に住んでいる大学生だ。美人で頭もよくて完璧。なのに、毎日お母さんの世話をしてくれる。
「千ちゃん、お母さんに話しかけてあげて」
「はい」
私は一人でぶつぶつ言っているお母さんの近くに行った。
「千、お父さんどこ行ったのかな」
またか。
「お父さんは天国だよ」
女と出てったなんて言えない。
「お父さんはどこに行ったの」
私のお母さんは精神的ショック(お父さんが女と出ていった事)で鬱になった。最近は症状も軽くなってきたのだが、まだまだ完治しそうにない。
「大丈夫、大丈夫だよ。お父さんは近くに居てくれるから」
お母さんの背中をさする。震えている。
「千ちゃん、ご飯できたよ」
「ありがとうございます」
宏美さんの料理は美味しい。でも、私はお母さんの料理が食べたい。お母さんが作る肉じゃが、カレー、ハンバーグ。また食べたいよ。お母さん。
「じゃあ、私は帰るね」
そう言って宏美さんはオレンジのトートバッグを持った。そのオレンジは宏美さんによく似合っていて、私には真似できない。
「いつもありがとうございます」
「どういたしまして。じゃあね、千ちゃん」
太陽のように笑って宏美さんは出て行った。本当にいい人だな。
お母さんが寝た後、私は隠してあるアルバムを開いた。写真にはお父さんとお母さんが仲良く写っている。戻りたい。あの頃に戻りたい。お父さんが笑ってお母さんも笑っているあの頃に戻りたいよ。
「お父さん、なんでお母さんを捨てたの」
写真の上にしずくが落ちていく。「浮気なんてする人じゃなかった」お母さんが言った一言が頭から離れない。
だって、お父さんは泣いていた。出ていく前の日に「すまん」と言ってお母さんと私の写真を見ていた。なにがあったの。お父さんは本当に浮気をしたの。真実はどこにあるの。お父さん、教えてよ。私はお父さんの口から真実が聞きたい。だから…
「帰ってきてよ。お父さん」
私はアルバムを閉じて持ち上げた。すると一枚の写真がアルバムから落ちてきた。その写真は五歳の私と一人の男の子が写っている写真だった。
「懐かしいな」
照くん。
教室には三神くんがいた。本当に来たんだ。
「おはよう! 千」
明るく話しかけてくる三神くんを西城さんが睨みつけた。でも、三神くんの顔を見るなりその表情は笑顔に変わっていく。
「照秋くん」
甘ったるい声を出して西城さんが三神くんに近づいていく。
「照秋くんって~ 不登校の人だよね?」
「うん、そうだよ」
「そんな人が何で金寺さんと知り合いなわけ?」
「お前には言いたくない」
それまで笑顔だった三神くんの表情とは一変してかなり怒っているのが分かる。
「金寺さんは教えてくれるよね?」
西城さんは私の方を向いて言った。その目は冷酷で怖い。私は答える。
「昨日、怪我をして保健室に行ったら彼が居ただけです」
「へー、金寺さんは優しいね。ついでに今日の掃除当番かわってくれる?」
「はい」
私だけが犠牲になればいいんだ。どうせ誰も助けてはくれない。クラスのみんなも先生も私がいないように生活している。いてもいなくても一緒なんだ。
「お前の当番だろ。千に押し付けるなよ」
え? 三神くん何言ってるの。だめだよ。そんなこと言ったら。
「ごめんなさい。今日は用事があったから頼んだんだけど、やっぱり自分でやっていかなきゃだめだよね」
甘ったるい声で言う西城さんは、三神くんに好かれようとしている。
「用事があるんなら私がやっていきます」
「本当? でも~」
「大丈夫ですから」
「ありがとう。金寺さん」
そう言って西城さんは女子のグループの輪に戻っていった。
「三神くん、私に関わらないでください」
「…千はオレが守るよ」
いたずらっぽく笑って私の髪をくしゃっとする。やめてよ。
「オレも掃除手伝うよ。いいだろ?」
私はそれを無視して窓際の一番後ろの席についた。
私は教室に残って掃除をしている。三神くんの姿はない。だけど、鞄は机の上に置いてある。どうしたんだろう。
「あのー 金寺さん?」
背後に人の気配を感じて振り返ると、同じクラスの白雪美里さんがドアの所に立っている。
「あたし、手伝ってもいい?」
白雪さんは自分を指で指しながら聞いてきた。
「西城さんに見つかったら、あなたもいじめられますよ」
わたし以外の人が犠牲になるなんてだめだ。必要以上に傷つくなんて間違っている。
「いいよ。だって、金寺さんはいじめないでしょう?」
どうしてそんなに信用できるの、とは言わなかった。私は何も言わずに白雪さんの目を見た。その目は黒く澄んでいて、恵まれた環境のなかで育ったことがよく分かる。そんな人がこっちの世界に来てはいけない。
「私とあなたじゃ、比べ物になりません」
「比べたらダメだよ。金寺さんは金寺さんでしょう。それに、あたしね、小学校でいじめられていたの。西城さんに」
知ってる。白雪さんの目を見たら分かる。黒く澄んでいるのに輝いていないから。私に同情をしている目じゃないから。
「同情じゃなくて、罪悪感があるんですね」
自分も痛みを知っているのに助ける事ができないから罪悪感が生まれる。
「うん。でも、あたしは金寺さんの友達になりたい。金寺さんとたくさん話してみたい。本当だよ。だから、あたしを信じて」
「そうですね。噓をついているようには見えませんから。しかし、白雪さんを犠牲にはできませんよ。あなたの自由を奪うなんてだめです」
私は白雪さんの目を見ながら言った。白雪さんも私の目から視線をはずさない。
「白雪姫は毒りんごで死んじゃうんだ」
そう言って白雪さんは一筋の涙を流した。
「王子様は来ない。だって、王子様なんて存在しないから」
そうだよ。
「あたしは存在しない王子様よりも、あたしを助けてくれた友達を信じるよ」
白雪さんの目に少しだけ輝きが戻っている。きっと、白雪さんには大切な親友がいるんだろうな。だから笑っていられるんだ。
「金寺さん、あたしを友達って認めてくれる?」
微笑んだ白雪さんは本当に白雪姫のようだ。肌が白くて可愛い。
「私は一人で生きていくって決めましたから。自由な白雪さんを巻き込むわけにはいきませんよ」
「もう、金寺さんって頑固だね。あたしは自由じゃないよ。親が決めた道を行くんだから。あたしの人生はあたしの物じゃないの。人生を失敗したお母さんとお父さんの物なの。道を外れるのは親を裏切っているのと一緒なんだよ」
寂しそうに笑っている、諦めた目をしている。そうか、白雪さんを助けた友達は私だったか。気付かなくてごめんね。
「あたしは、あたしを変えてくれる友達がほしい。親のことを忘れさせてくれる友達がほしい。金寺さん、あたしを助けて」
私の肩を両手でしっかりと掴む白雪さんは震えていた。
「ごめん。私は人を助けられない。自分のことで精一杯だから。それに、白雪さんを助けてくれるのはお母さんとお父さんだと思うよ」
「お母さんとお父さんが…」
「白雪さんの親は、白雪さんが選んだ道をきっと行かせてくれるよ」
「なんで分かるの?」
「その手にしているミサンガの色」
青い糸で作られたミサンガには親の愛が感じられる。自分のことしか考えていないのなら青なんて使わないだろう。
「白雪さんって青色が好きなんですよね。好きな色でミサンガを作ってくれる親なら、白雪さんを理解してくれますよ。だって、ミサンガは切れると願いことが叶うんですから」
「・・・ありがとう」
そうだよ。あなたはそうやって笑っていればいい。なにも心配しなくて大丈夫だから。
「金寺さんのこと好きになっちゃったよ」
「気持ちだけ貰っておきます」
「えー こんな美少女が口説いてるのにー」
「美少女に興味はありませんから」
「ははっ、金寺さんってやっぱり面白い」
可愛く笑っている白雪さんは私の目を見つめた。私も白雪さんみたいに笑いたいな。昔のような笑顔で笑いたい。でも、今の私には無理だよね。
「ばいばい、白雪さん」
そう言って私はほうきをロッカーに閉まって教室を出た。
ふと廊下の窓を見たら、三神くんっぽい人が西城さんだと思われる人物と渡り廊下で話をしている。私はその場で固まってしまった。
「千ちゃん、待ってよ」
いつの間にか、金寺さんが千ちゃんに変わっている。そんなことより、三神くんが西城さんと二人きりで話をしていることの方が気にかかった。
「あれって西城さんとアッキー?」
白雪さんが怪訝そうに言う。やっぱり三神くんと西城さんなのか。
「もしかして、千ちゃんはアッキーが好きなの?」
テンションが上がっているのか白雪さんは満面の笑みだ。本当に女の子って恋バナが好きだな。私も女の子だけど。
「違いますよ」
好きって言葉じゃ足りない。私と三神くんはそういう関係だった。今もそうなのかもしれない。「好き」なんかよりも、ずっと心で結ばれていてお互いのことが手に取るように分かるんだ。三神くんは私にとってかけがえのない存在であったし、三神くんもきっとそうだった。私をかけがえのない存在だと思っていてくれていた。なのに…
「三神くんも同類なのか」
西城さんと一緒に私をいじめるのか。そんな事はどうでもいいはずなのに、なんでこんなに寂しいんだろう。なんで泣きそうになっているんだろう。…苦しいよ。
「大丈夫だよ! アッキーは千ちゃんを見捨てたりなんかしないから」
なんの根拠もないのになんで確信したように言えるんだ。私には無理だよ。
「ごめんなさい。私、帰ります」
「千ちゃん…」
白雪さんは肩を落として下を向いている。あなたが悲しむ必要はないのに。
「白雪さんは笑っていてください」
「そうだね」
無理に笑おうとする白雪さんの顔は歪んでしまった。
「ごめん」
そう言って、私は走り出した。どこか遠くへ行きたい。誰にも見つからないような場所に行って泣きたい。そう思って私は走る。風が冷たくて私の心も冷たくて、お父さんのことを思い出す。家には帰りたくない。お母さんの話はもう聞きたくない。辛い、苦しい。私の声を誰かに聞いてほしい。
ここはどこだろう。川を見ながら私は考えていた。周りには何もなく、私は土手に座って川を眺めている。家に帰れるだろうか。
「私は弱くない」
小さく呟いた。私の眼から涙が落ちる。
「私は弱くなんかない!」
大きな声で叫んだ。私は泣きわめく。誰も私を助けられない。見せかけだけの優しさで私は救われない。もう嫌だよ。笑いたいよ。友達とくだらない話で盛り上がりたいよ。なんで、私がいじめられなくちゃいけないの。私じゃなくても良かったはずでしょ。助けて。私を助けてよ。誰でもいいから私の心を開いて。
「照くん」
照くんに会いたいよ。今すぐ会いたい。私の心の開けられるのは照くんだけだから。私はそう信じているから。
「千!」
遠くで声が聞こえる。誰かが私を呼んでいる。照くんが来てくれたのか。よかった。
「千、大丈夫か?」
今度はすぐ近くで照くんの声がする。私は俯きながら言う。
「信じてたよ。照くんが来てくれるって思ってた。ありがとう」
私はそのまま目を閉じた。
「お前は昔から何も変わってないな。人一倍傷つきやすいのに誰かの犠牲になって… オレがお前の隣にずっと居てやれなかったから、お前は前よりもズタズタにされたんだよな。本当にごめん。千を守ってやれなくて」
私を守るなんて言わなくていいよ。三神くんは自由に飛べるんだから。自分の夢を諦めてまで私を守ってくれなくていい。私は弱くないんだから。
「もういいよ。三神くんは夢に向かって行って。私の存在なんか忘れていいから。夢を追いかけてよ」
「それは無理だ。オレが自殺した理由、知っているだろう」
知っているよ。忘れるわけがない。私の大切な人が死にかけたんだから。
「オレは中学受験でノイローゼになってた。勉強が続く毎日が耐えきれなくて自殺しようと思ったんだ」
三神くんの左手首にはカッターで斬った傷跡が残っている。もう消える事のない一本の傷跡がはっきりと残っている。
「でも、気付いたんだ。オレが自殺した時、千が泣いていたのを見て気付いた。オレには大切な奴がいるって。オレのことを心配してくれる奴がいるって。千がいたおかげで今のオレがいるんだ。ありがとう」
「私の方こそ三神くんに感謝してるよ。三神くんが私の行く道を作ってくれたから、私は生きてこれたんだ。今までありがとう」
そして、さようなら。私は一人で生きてくよ。もう三神くんには頼らない。
「千、お前が一人で生きていくって言うのなら、オレはお前の後を付いていくぞ。千が後ろを振り返ったときに寂しくないように、お前を受け止めてやれるように、オレはお前の後ろを歩いていく。いいだろ?」
私は顔を上げて三神くんを見た。三神くんの表情は夕日に照らされて優しく輝いていた。
「よくないよ。そんなことされたら私の弱さが出てくる。三神くんを頼っちゃう。私は一人で生きてくって決めたの。だから…」
上手く言葉が出てこない。また私は俯いた。
「一人で生きていかなくてもいいだろ。弱さが出たっていい、オレを頼ったっていい、千は一人じゃないんだから」
「嫌だ。嫌だ!」
「オレを信用しろよ!」
三神くんは怒っていた。違うんだよ。三神くんを信用してないわけじゃない。私は恐いんだ。三神くんがまた遠くに行ってしまったら、一人になる寂しさが辛さがまた私の心をズタズタにするんじゃないかって。
「ごめんね」
私はそう言って立ち上がった。だけど、急に立ち上がったせいか頭がくらくらする。
「おい、大丈夫か?」
フラフラしているのだろう。三神くんは心配して聞いてきた。でも、その三神くんの顔も五つくらいに見えている。やばい。そう思った途端に私は立っていられなくなった。
「千!」
三神くんの声が遠のいていく。視界もどんどん暗くなっていく。
私は目を開けた。そこは自分の部屋だった。三神くんが運んできてくれたのかな。怒っていたのに、やっぱり三神くんは優しいね。
「千ちゃん入るよ」
宏美さんがお粥を持って入って来た。私は起き上がろうとしたが宏美さんに「起きたらダメ。千ちゃんは寝てて」と言われてしまったので寝ていることにした。正直だるくて起き上がる体力もなかったのだが。
「宏美さん、三神くんはどこですか?」
「あの男の子なら帰ったよ。千ちゃんを運んですぐに」
「そうですか」
お粥の匂いが私の鼻に届く。なんだか懐かしい匂いだな。誰が作ったんだろう。やっぱり宏美さんかな。
「そのお粥は…」
宏美さんは驚いたように目を見開いた。
「これね、千ちゃんのお母さんが作ったの」
「お母さんが。」
最後にお母さんの料理を食べたのはいつだろう。私はそう思いながら、頑張って起き上がった。まだ頭がクラクラする。
「ダメだってば、熱があるんだよ」
私の背中に手を置いて支えながら宏美さんは言う。
「大丈夫です」
「でもっ」
「お母さんのお粥が食べたいんです。今すぐお母さんの料理が食べたい」
「千ちゃん…」
宏美さんはお粥をレンゲですくって、ふう、と冷ますと私の口に運んでくれた。私はそれを一口で食べた。
「美味しい」
お母さんの味がする。少しだけ味が濃くてしょっぱいけど私が大好きな味だ。ありがとう。お母さん、ありがとう。
「おかあさん」
私は泣きながらお母さんの作ったお粥を食べた。宏美さんは黙って私にお粥を食べさせてくれた。涙が混じったお粥の味はとてもしょっぱかった。
天井には星の絵がたくさん描かれている。私がまだ幼い頃にお父さんが描いてくれたらしい。決して上手いとは言えないけど、私はこの不格好に描かれている星が好きだ。見ていると心が落ち着くような気がするから。お父さんの愛が伝わってくるから。私にとってこの天井は宝物なんだ。本物の星よりも輝いているこの天井がたった一つの宝物なんだ。
「千、千。」
お母さんの声が聞こえた。多分、ドアの外にいるのだろう。私は耳を澄ました。
「お粥食べた?」
「うん。食べたよ」
なんで中に入ってこないんだろう。
「お父さん、早く帰ってくるといいわね」
その声は震えていて、お母さんが泣いているのが分かった。
「お父さんは天国だよ」
「もういいの、そんな噓つかなくて。お母さん、やっと自分の病気に気付けたから。鬱だって分かったから。ありがとう、千」
「お父さんは本当に天国だよ。もう帰って来ないんだから」
「あのね、千。お父さんは…」
もしかして、お母さんは知っているの。お父さんが何で出て行ったのか。本当の事実を知っているの?
「それ以上言わないで」
お母さんの口からは聞きたくない。私はお父さんの口から聞きたい。お父さんが帰ってきてお父さんの口からしっかりと説明してもらいたい。
「でも、これには照くんも関係があるのよ。それに、千が一番傷ついているでしょう。」
「お母さん、私は大丈夫だよ。傷ついてなんかない」
なんで噓をついているんだろう。私の心はズタズタなのに。
「…こんなお母さんでごめんね」
お母さんがふと小さい声で言った。やめてよ、お母さん。
「ごめんね、千。ごめんね」
「お母さん」
私は何も言えなかった。言おうとすると涙が溢れだしそうで何も言うことが出来なかった。どうして謝るの。私は幸せだよ。お母さんの愛が伝わってくるから。鬱でもお母さんの愛が分かるから。私は幸せだよ…
「千は昔から優しい子。お母さんは千の優しさに頼り過ぎていたの。照くんが教えてくれたわ。あたしが千を傷つけていたって言ってくれた」
「私は傷ついてない。それに、照くんはもういないんだよ」
三神くんはもう照くんじゃない。いい加減、照くんを自由にしてあげてよ。三神くんとして生きさせてあげてよ。お母さん。
「照くんがいないとしても、お母さんは照くんが大事よ。千もそうでしょう」
「私はお母さんみたいな考えは出来ない。本当はお父さんにも帰ってきてほしい。照くんと話がしたい。私はお母さんみたいに分別つけられないよ。あれはあれ、これはこれ、とか私はできない。全部ゴチャゴチャになる」
「それでいいのよ。千はまだ中学生なんだから。あたしとは違うでしょう」
「お母さん…」
天井の星が囁く「君は十分頑張ったよ。もう吐き出してもいいじゃないか。楽になりなよ。君は一人じゃないんだからさ」その囁きは私の心の声だった。
「そろそろ寝たほうがいいわね。時間も遅いし、熱もまだ下がってないから」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
お母さんの足跡が小さくなっていく。私はその足音が完全に聞こえなくなってから呟いた。
「消えたい」
朝の風は冷たかった。私は土曜日の朝から何をしているのだろう。こんな朝早くに家を出てどこかへ行くわけでもないのに。お母さんは昨日のことが嘘のようにまた一人でぶつぶつ言っていた。やっぱり完治するのは難しそうだ。分かっていたことなのに何で涙が出てくるんだろう。
お昼くらいだろうか。太陽が真上にある。私はまだ帰っていない。交差点で信号が変わるのを人ごみの中で待っている。嫌な感じがする。誰かに睨まれているような気配がする。私は後ろを振り返った、が、誰か知り合いがいるわけでもなくただ人が溢れていた。気のせいか。そう思ってまた前を向いたとき、背中を誰かに押された。私の身体が道路に飛び出した。死ぬのか。周囲のざわめきとともに私は車にひかれた。遠のく意識のなかで私ははっきりと見た、西城さんが笑っている。
誰かの声が聞こえる。神様かな。
「あなたは死にました」
何もない空間に私はいる。ここはどこだろうか。
「死ねてよかったですか? いいえ、あなたは後悔しているはずです。あなたはお母さんの事もいじめの事も、全て背負っている。辛かったでしょう。苦しかったでしょう。死ねばそんなもの背負わなくていいのですよ。それでも、あなたは後悔をしますか?」
「しますよ。死んで後悔をしない人なんていません。もしいるんだったら、その人は人ではないです。壊れたロボットです。でも、私は受け入れますよ、死んだ事を。後悔はしています、だけど人間はいつか死にます。私は早く死ぬ運命だったんですよ」
「そうですか。では、最後にもう一つだけ聞きたい事があります。あなたは西城さんを憎んでいますか」
「いいえ」
「それが聞けて良かった」
それから声は聞こえなくなった。私は本当に死んでしまったのか。ここは天国なのか。そう思うたびに私の眼からは透明の滴が落ちる。もっと生きたかった。まだ死にたくない。
「誰か助けてよ。誰か――」
やっと言えた。誰かに助けてって言えた。
「あなたの心はズタズタかもしれません、ですが、あなたには大切な人がいます。その大切な人があなたを助けてくれるでしょう」
目の前には宏美さんいた。三神くんも白雪さんもいる。ここは病院なのか。私は生きているのか。
「千ちゃん、あたしだよ。白雪美里だよ。分かる?」
白雪さんの眼が赤い。泣いていたらしい。
「今、お医者さん呼ぶね」
宏美さんは優しく笑って椅子から立ち上がった。
「オレが行きますよ」
三神くんも立ちあがろうとしたが、私の手がそれを止めた。私は三神くんの腕を強く握っていた。
「行かないで。三神くんはここに居て」
「千…」
「じゃあ、あたしと宏美さんが一緒に行ってきます」
そう言って、白雪さんたちは出て行った。三神くんの眼は優しくて私の心を包むには十分だった。神さまの言った通りだ。
「三神くんごめんね。私、噓ついてた。本当は三神くんが好きだよ。三神くんを信用しているよ。私は弱虫だから正直になれないけど今言ったことは全部本当だよ。信じて」
「信じるよ。だから安心して」
「うん」
「それに、もう三神くんじゃなくていいよ。昔みたいに照くんって呼んで。そっちの方が千らしいから」
いたずらっぽく笑う照くん。
「千とオレは一心同体だよな」
「そうだね。だって――」
『双子だもん』
見事に二人同時に言うことができた。照くんと私は兄妹で双子。顔はあまり似ていないけど、お互いの気持ちはすぐに分かる。かけがえのない家族なんだ。照くんが居てくれてよかったよ。
「お母さんは?」
「親父の所にいる」
照くんの真剣な瞳を見て私の鼓動が速くなる。これ以上お母さんを傷つけないで。
「大丈夫。親父は帰ってくるから。もう二度と家族を捨てたりなんかしない」
「…照くんも帰ってくるの?」
「当たり前だろ。オレが帰れるように父さんが助けてくれたんだからな」
照くんの笑顔につられて私も笑った。久しぶりに笑えたよ。
入院して一週間くらい経ったある日。お父さんがお見舞いに来てくれた。私は泣きながらお父さんに「おかえり」と言った。
「ああ、ただいま」
グレーのスーツを着たお父さんが最高にカッコよく見えた。
「千、これから全部話す。千はオレの口から聞きたかったんだろう」
こくりと頷いた。お父さんはベッドの横にある丸い椅子に座った。
「千は知っていたようだが、照秋は遠い親戚の養子になっていたんだ。理由は照秋の自殺だ。この家にいることが苦痛になると思って、子供が欲しいと言っていた親戚に渡した。だが、千の暗い顔を見て気付いたんだ。オレはバカな事をしたって。それからオレは照秋を返してもらえるように親戚を説得した。まあ、返してもらえるわけもなく一年が過ぎたんだけどな。そして、引っ越しをしてからお前の顔はどんどん暗くなっていた。照秋だけが理由じゃないと思っていたが、やはり千には照秋が必要だと思ったんだ。オレは浮気だと言って家を出た。親戚を説得するまで帰らないと決めて。まさか、母さんが鬱になるとは思ってなかったよ。いろいろ迷惑かけたな、千」
お父さんのなで肩がより一層なで肩になっている。それじゃスーツが台無しだよ。
「いいよ。宏美さんも手伝ってくれていたし、お父さんが帰ってきてからお母さんの症状もだいぶ良くなったから」
お母さんの病気は、もう治ったと言えるくらい回復していた。
「千、いるか?」
照くんが色とりどり花束を持って入って来た。どうやら学校の帰りらしく学ランを来ている。
「おう、照秋も来たのか」
お父さんが軽く手を上げた。照くんは顔を引きつらせながら「親父も来てたんだ。」と言った。眼が泳いでいる。
「どうかしたか? 照秋」
照くんのおかしさに気付いたお父さんが不思議そうに聞いた。
「い、いや、なんでもない」
私はなんとなく分かっていた。が、口には出さなかった。
「そうだ、千! この花束買って来たんだ」
話を逸らすように照くんは花束を渡してくれた。そして、照くんが避けていた言葉をお父さんは表情を変えずにぬけぬけと言った。
「お前ら付き合ってるみたいだぞ。顔も似てないから、どっからどう見ても中学生のカップルにしか見えな…」
そこまで言いかけてお父さんは、照くんの顔が赤くなっていることにようやく気付いた。
「もしかしてお前、千が好きなのか」
「ちげーよ! 双子の妹を好きになるわけないだろ!」
いつも冷静な照くんが珍しく慌てている。そんな全力で否定しても逆効果にしかならないんだろうな、お父さんには。案の定、お父さんは真剣な顔でこう言った。
「オレはいいと思うぞ。愛には色んな形があるからな」
腕を組みながらお父さんは一人頷いている。
「だから、違うって!」
あまりに面白いので黙って見ていたが、そろそろ可哀想になってきた。
「あのね、お父さん。照くん、こう見えて照れ性なんだよ」
「お! なかなかのダジャレだな」
「いや、ダジャレじゃなくて本当に照れ性なの」
「じゃあ、赤くなったのはオレに冷やかされて恥ずかしかったからか」
お父さんがここまでデリカシーのない人だとは知らなかった。
「オレもう帰る」
照くんは怒っているような泣きそうになっているような微妙な表情をしていた。
「ごめん、ごめん。言いすぎたよ。照秋をからかうのは面白いからな」
謝っているとは思えないほどの笑顔でお父さんは言った。
「もう二度とオレをからかうな。親父でも殴るから」
どうやら照くんは怒っていたようだ。今にでもお父さんの顔面をいきそうなほど拳を握りしめている。やばいな。
「まあまあ落ち着いて。ここ病院だから殴ってもすぐに治療できるけど…ね?」
あれ、今言った事って「殴っても問題ないよ」的なことだよね。全然意味ない事を言ったのか、私は。自分でも泣けてくる。
「千、お前、オレに恨みでもあるのか」
お父さんは顔を青くしながら言った。そんなに恐がらなくても、手加減するだろうに。ビビりだな、お父さん。
「千ちゃん、来たよー」
白雪さんが勢いよく入って来た。こちらもセーラー服を着ていて学校帰りによったことが分かる。
「じゃ、お父さんは帰るから。お友達と仲良くするんだぞ」
お父さんは物凄いスピードで病室から出て行った。白雪さんはそんなこと気にも留めないで喋り続けている。
「アッキーも来てたんだね。じゃあ、その花束アッキーから?」
「そうだよ」
私が答えた。なんか嫌な予感がする…
「アッキー、彼氏みたい!」
白雪さんは悪気もなく言った。満面の笑みだ。
「美里ってKYだよな」
確かに。照くんが怒っているのに気付かないなんて、よほど空気が読めていない。
「そんなことないよね? 千ちゃん」
首を少し傾け私の目をじっと見ている。私は目を逸らしながら「そうだね」とだけ言った。
「ほら、千ちゃんも違うって言ってるでしょう」
「どう考えても気を遣っただけだろう」
照くんは目を半分くらい開いた呆れ顔をしている。私はくすりと笑ってしまった。
「千ちゃんまで! ひどいよ」
ムスッとした表情をした白雪さんは可愛い。私が男の子だったら恋に落ちるだろう。
「白雪さんって可愛いね」
「そ、そんなこと言われても、べ、別に嬉しくないんだからね!」
頬を赤らめながら言ったって説得力無いよ。
「そうだ。今度みんなで花火大会行こう」
照くんが突拍子もないことを言い始めた。花火大会って、まだ冬だよ。いくらなんでも早すぎると思うんだけど。
「親父とおふくろとオレと千、それと宏美さんと美里も」
「え! あたしも行っていいの?」
さっきまでムスッとしていた白雪さんは、今は太陽みたいに笑っている。これが目的だったのか。
「当たり前だろ、友達なんだから」
「本当に本当だよ。約束したからね」
「そんなに心配しなくても忘れないって、千は」
「照くんは忘れるんだ」
「アッキー、最低だね。見損なったよ」
「冗談だって、冗談」
こんなに楽しいのはいつぶりだろう。くだらない話をして、笑って… 私は今、最高に幸せだと思える。これは全部西城さんのおかげだよ。ありがとう。
私の怪我は足に少しひびが入っただけだった。後から知ったことだが、車の運転手がスポーツ選手とかで持ち前の反射神経を使い急ブレーキをかけた、らしい。奇跡なのか必然だったのかは分からないが、とりあえず私は助かった。
あのとき、なぜ西城さんは笑っていたのだろうか。私の背中を押したのは彼女だと思う。だけど、笑えるほどの余裕はなかったはずだ。彼女はまだ中学生で人を殺せるほど心は出来ていない。それなのに西城さんは笑っていた。西城さんの笑った顔を見た瞬間、私は少しだけ西城さんの心の闇が見えた気がする。彼女が背負っている現実はきっと、私なんかよりも辛くて苦しいものなんだろう。
二週間ぶりに学校に行くと、机に書いてあった「死ね」は消えていた。私はしばらく机を見つめ考えた。誰が消してくれたんだろう。
「これね、クラスのみんなで消したんだ」
白雪さんの声が背後から聞こえた。私は振り返る。クラスメイト全員の顔が目にはいった。「ごめんなさい!」と言う人もいれば「オレを殴ってくれ!」と言う人もいた。なかには泣いて謝っている人もいて私はついつい笑ってしまった。
「千ちゃん、どうするの?」
「許すよ。条件付きで」
「どんな条件?」
「もう二度と人をいじめるような事はしないっていうのと、私と友達になってくれるっていう条件。それが出来るなら許す」
「うん、出来る!」 「当たり前だろー」 「これから、たくさん思い出つくろうね」
みんなの雰囲気が明るくて私の心は飛び跳ねた。だけど、たった一人だけ暗い顔をしていた。西城さんだ。西城さんは席に座って俯いていた。私は西城さんの近くまで行こうと歩き始めた。みんなは私が行く先を見つめたまま、黙って自分の席についた。
「西城さん、ありがとう」
私は西城さんの前に立って言った。西城さんは小さな声で「ごめん」と言い泣き始めた。
「私が今幸せだと思えるのは西城さんのおかげだよ。西城さんが私に辛さや苦しさを教えてくれたから私は幸せを感じることが出来るんだ。本当にありがとう」
「やめてよ。あたしは金寺さんをいじめてたんだよ。自分を守るためだけに金寺さんを犠牲にして、お礼なんて言われる立場じゃない」
西城さんの肩が小刻みに震えている。私は明るく笑顔で言った。
「いじめで一番泣いていたのは西城さんだよね。知ってるよ。西城さんが昔いじめられていたこと。いじめられるのが恐くて他人をいじめていたこと。全部知っているよ。だから、これからは、私が西城さんを守るよ」
白雪さんに調べてもらった情報をフル活用した言葉は西城さんの心に届いただろうか。
「金寺さん、あの事故あたしがやったの。あたしが金寺さんの背中を押したの。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
この人はとても優しい人でとても傷つきやすい人。
「許してなんて言わないけど、説明はさせて。あの日は妹の命日だったの。それで墓参りに行ったら一枚の手紙が置いてあった。突然いなくなったお父さんから、あたし宛ての手紙。内容はたった一言「強く誇りをもって生きなさい」だった。あたしは決めたよ、もういじめはしないって。その帰り道に金寺さんを見つけたの。押そうなんて思ってなかった、声をかけようと思って肩をたたこうとしたの。でも、つまずいて金寺さんを突き飛ばしてしまった。もう笑うしかなかったよ。自分の運のなさに」
そうだったんだ。
「…本当は許そうなんて思ってなかった、だけど、特別に許す!」
「え・・・」
あ、初めて眼が合った。
「だって西城さんの話聞いてると、妹の命日だとか突然いなくなったお父さんだとか重いワードが転がっているんだもん。さすがに許しちゃうよ」
「ありがとう」
泣いている西城さんの目の前に手を出す、西城さんはその手を両手でしっかり握った。それまで見守っていてくれたクラスメイトからは拍手や歓声があがった。私は本当に幸せ者だ。他人のことで熱くなれる友達がこんなにいるんだから。ありがとう、みんな。
私は高校生になった。照くんと同じ高校と言いたいところだが、私の学力では照くんと同じ学校に行くのは無理だったため、別々の高校でお互い頑張っている。
「千、待った?」
待ち合わせの河原に時間ぴったりに現れた照くん。
「ううん、大丈夫。それより美里ちゃんは?」
「なんか少し遅れるってメールきた」
美里ちゃんは、照くんが行っている高校のすぐ近くにあるお嬢様学校に通っている。
「ごめん! 遅れたー」
美里ちゃんが息を切らしながら走って来た。
「どうしたの?」
「アッキーのことが好きだっていう子たちに追いかけられて。やっと撒いてこれたんだよ」
「なんで美里が?」
「あたしとアッキーって仲良いから、結構妬まれるの!」
「美里ちゃんも大変だね。私が代わってあげたいくらい」
「本当に代わってもらいたいですよー」
美里ちゃんは諦めたように肩をおとしている。
「そうだ、千とオレが付き合ってるとかいう噂ながせば? 双子だって知ってる人、美里ぐらいしかいないし」
照くんが指をパチンと鳴らし言った。
「一回やったけど効果なし。噂なんてすぐ風化するの」
「おお、美里も大人になったな、風化を使うなんて」
小馬鹿にした調子で言った照くんの頬を美里ちゃんが思いっきりつねる。
「いはい、いはい」(いたい、いたい)
美里ちゃんはつねっていた手を離して、川に向かって走り出した。
「千ちゃん行こう!」
「うん!」
そのまま急いで靴と靴下を脱ぐと私たちは川に飛び込んだ。季節は夏、川のひんやりとした水が気持ちいい。
「お前らはいいよな、スカートで」
恨めしそうに照くんが見ている。暑そうだな。
「アッキーもそのまま入れば?」
「制服が汚れるのはごめんだよ」
「お母さんに怒られるもんねー」
お母さんの病気は完全に治った。宏美さんは一年前に結婚して今は三人の子供と一緒に幸せな新婚生活を送っている。もちろん、一年に三人ということは三つ子だ。
「アッキー、お母さんが恐いの?」
「そんなわけないだろ」
「どっちかっていうと、お父さんだよね」
「親父は恐いんじゃなくて苦手なの」
「親子なのに苦手なんだー」
お父さんは相変わらず照くんをからかって楽しんでいる。私はそれを見ながら笑っている。
「そういえばさ、花谷先生ってどこ行ったんだ?」
「あー 話ずらしたー」
「なんか、保健の先生よりも向いている仕事見つけて転職したんだって」
「転職?」
「あたしそれ知ってるよ。確かキャバ嬢だった気がするな」
「あの歳でキャバ嬢は無いだろ」
照くんが本気で引いている。そりゃあ引くよな。私も引いたし。
「でも人気ナンバー1らしいよ」
「つーか、美里はなんでそんなことまで知ってるんだよ」
「それは企業秘密でーす」
「美里ちゃんの情報網って怖いよね」
「そういえば、西城さん戻ってくるらしいよー」
「ほんとうに?」
西城さんはあの後すぐに引っ越してしまった。美里ちゃんが言うには親の都合らしい。
「でも、夏休みの間だけだって」
「だからなんで知ってるんだよ」
「だから企業秘密だって」
「会いたいね、久しぶりに」
西城さん元気かな。きっと綺麗になってるんだろうな。
「そうだね! あたしも会いたいな」
「オレも。まあ、美里の情報力で会えるとは思うけど」
「当たり前でしょう。あたしの情報力なめないでよー」
「美里ちゃんがいてくれて良かった」
「ほ、褒められたからって喜ばないんだから!」
美里ちゃんの顔が赤くなる。それを見て私と照くんは笑う。くだらないかもしれない、だけど、私にとってはかけがえのない時間だ。照くんがいて、美里ちゃんもいて、私もいる。この瞬間を楽しめたら私はそれでいい。だって――
「幸せすぎる!」
急に叫んだせいか美里ちゃんの肩がビクッとなった。
「千ちゃん?」
「とうとうお前も壊れたか」
「だって、幸せなんだもん。みんなは違うの?」
「幸せだよ。千ちゃんがいるから。あたしは千ちゃんが大好きだよ」
「気持ちだけ貰っておきます」
「もう、これが最後のチャンスだよ?」
「間に合っています」
私と美里ちゃんがふざけているのを見ていた照くんは恥ずかしそうにこう言った。
「オレだって幸せだよ。こうやってお前らと笑いあえて。ありがとう…」
最後のありがとうは小さくてやっと聞きとれるくらいだったが、照くんの思いはしっかり伝わったよ。
「私も。ありがとう!」
「あたしだって。みんな大好きだ! ありがとう!」
「じゃあもう一回、ありがとう!」
私たちの声がこの大空へと広がっていく。まだまだ夏は終わりそうにないけど、みんなで最高の思い出つくろう! 今年も花火大会行こう! そうだよ、私たちはこの時代を生きてる少年、少女なんだからもっとキラキラしたっていいはずでしょう。思いっきり青春してたくさん笑おう、それが幸せなんだから。