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盈満の咎  作者: たま
第一章「柚葉と犬」
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 柚葉の奉公している屋敷の主人は宝幸山重兵衛という名の男で、鉱物の売買を生業としていた。この村の西には大きな鉱山がいくつかあり、宝幸山一族と栄隆山一族はそこで採取される良質な鉱物を帝に献上する役目も担っていた。また、守護役と呼ばれるものたちに鉱物を卸すのもこのふたつの一族の役目だった。


 柚子は空を見上げて息を吐く。そうして空になった桶を地面に置き、額に浮かんだ汗を拭った。このところ屋敷は常に忙しい。柚葉にはよくわからなかったが、なにやら大きな仕事が舞い込んでくるらしく、屋敷にはひっきりなしに立派な着物をきた偉そうな人たちがやってきたり、重兵衛や重鎮たちがどこかに赴いたりしていた。


「虹華石が西のほうで発見されたそうだよ」

「ああ、それで旦那様が忙しそうなのか」


 奉公人たちがひそひそと話しているのを尻目に、柚葉は黙々と仕事をこなす。柚葉にとってはそのようなことはどうでもよく、屋敷の主人が仕事で忙しければ忙しいほど自分に目をかけること暇などないことをひたすら幸運に思っていた。


 休む間もないほどの仕事も柚葉にとっては嬉しかった。いくらおなかがすいてひもじくても、寒さのあまりあかぎれがひどくなろうとも、あの粘るような視線にさらされるよりよほど良い。



 その日、柚葉は軽やかな気分でたろうの居る神社の階段を登っていた。

 懐には握り飯がひとつ入っている。ここのところ主人の機嫌がよく、それに伴って奉公人たちの食事の質もあがっていたのだ。まさか米が食べれるとは思わなかったと柚葉は思う。いつも食べている粟やひえとは違い、おなかにがっしりと入ってくる米の甘さがたまらなく美味しかった。たろうにあげたら喜ぶだろうと思うと自然に頬が緩んだ。


「たろ……」


 階段を走るように駆けあがり、大好きな白犬の名を呼びかけた柚葉はしかしすぐさま息を飲んだ。いつもならば朽ちかけた境内にひとけはない。しかし、今日は先客がいたのだった。

 それはひとりの男だった。ぼさぼさの髪にくたびれた着物を着て、社の縁にごろりと横になって気持ちよさそうに鼾をかいていた。そこはたしかに冬の時分でも昼間ならば陽がよくあたってあたたかな場所だった。

 一瞬硬直した柚葉だったが、そうっとあちこちの欠けた狛犬像に隠れるようにして境内を見回す。たろうの姿はみえなかった。たぶん、柚葉以外の侵入者に驚いているのだろうと思った。たろうは臆病な性質の犬なのだ。

 柚葉は狛犬像の陰から鼾をかいている男を見やる。男はぐっすりと眠っているようだった。さきほどの柚葉の声にも目が覚めた様子はない。それにほうっと息をつき、さあどうしようとその場に蹲る。

 どんなひとであれ男の人は怖い。男の人は気持ちの悪い目でみられることはなくても、すぐに怒鳴ったり叩いたりと荒々しい人が多いから、男の人は一様に苦手だった。けれど、怖いけれど、柚葉はたろうには会いたかった。それに、せっかくの白飯も食べさせてあげたい。


 柚葉はもういちど男の方を見る。男が目を覚ました気配はない。そこで狛犬像の陰からそうっと出ると、柚葉は男の寝ている社の縁からは見えない位置から小さな声でたろうを呼んだ。


 たろうはすぐに社の裏の森から出てきた。ふさふさとしたしっぽを大きく振りながら、柚葉にとびかかる。それを抱きしめて何度も何度も撫でてやった。


「たろう、今日はごちそうよ」


 小さな声でいうと懐から握り飯を取り出した。それを手の上にのせて差し出すと、たろうは嬉しそうにそれにかぶりついた。しっぽを絶え間なく振っているのでとてもおいしかったのだろう。柚葉はそれをみやりながら、空いた方の手で何度も頭を撫でてやった。

 ああ、せっかくなのだからたろうと声を出してはしゃぎたかったなと柚葉は思う。いつもは人なんていないのに。そうして思った。どうしてあのおじさんはあんなところで寝ているのだろう。あんな身なりだから浮浪民なのかしら。

 つらつらとそんなことを考えていると、とふいに後ろから野太い声をかけられた。


「やあ、うまそうなにぎり飯だなあ」


 ぎょっとして振り返ると、そこにはさきほどまで鼾をかいていた男が首筋をぼりぼりとかきながら立っていた。柚葉は驚きのあまり返事もできずに固まっていたが、男は全くきにしないようすで白犬に視線を落としている。

 男は背は高くてがっしりとした体格をしていた。無精ひげがまばらに生えている顔の中にある瞳は垂れていて、いかにも眠そうに見える。黄土色の格子柄の着物は色あせていて、お世辞にも綺麗とは言い難かった。

 男はふわあ、とあくびをすると柚葉の横に無造作にしゃがみこんだ。


「これ嬢ちゃんの犬かい?」

「……ええ」


 そう答えると男は右手をたろうに向かって差し伸べた。そうしておもむろに手を上げてその白い頭を撫でようとする。柚葉はあわてて叫んだ。


「あっだめ!」

「ん?」


 それの声よりたろうが唸り声をあげて牙をむく。あわてて手を引っ込めた男の手を牙がかすった。よほど驚いたのだろう、男がその場に尻もちをいた。


「うわあ」


 柚子は鼻先に牙をむき出しにして唸り続ける白い犬の頭を抱く。そうして何度も頭を撫でながら尻餅をついた男を睨んだ。


「お、おじさんが悪いのよ、いきなり触ろうとするから」


 たろうは本当に臆病な犬だった。柚葉とて最初から触れたわけではない。はじめは近寄ってもくれなくてやきもきしていたことを思いだす。買い出しのたびに食料を境内においていき、そうしてたろうが柚葉に近寄ってきてくれたのはたっぷりひと月は後のことだった。

 男はぽかんとした顔で尻餅をついていたが、睨む柚葉と唸り続ける白犬を見てはあ、となさけない声を上げた。


「ああ吃驚した。ずいぶん凶暴な犬だなあ」

「ちがうったら。おじさんがいきなり触ろうとするからたろうは驚いたのよ」


 柚葉はやや呆れた気分で同じことを繰り返した。男が情けない顔でへたりこんでいるばかりなのを見て胸をなでおろす。こんなとき、自分が悪いことをしたのに理不尽に怒ってくる大人を柚葉は何人も知っていた。

 男はへたりこんだその場にあぐらをかき直してぼさぼさの頭をかく。そうして重たげな瞼をあけて柚葉を見た。


「その犬、嬢ちゃんの犬なのかい」

「私の犬……というわけではないわ。飼っているわけではないもの」

「じゃあ野良犬なのか」

「……たぶん」


 柚葉は曖昧に頷いた。腕の中の白犬が大分落ち着いたのを見てそうっと腕を緩める。けれども離すことはしなかった。無防備に座っている男は、なんとなくだけれどたろうにさえ弱いようにも見えた。身体は大きいのにだらりとした雰囲気のせいかもしれないし、ずうっと眠そうな瞳のせいかもしれない。他の男の人に感じるような恐怖は薄く、ともかくたろうに噛まれたらこのおじさんがかわいそうな気がする、とぼんやりと柚葉は思ったのだった。


「おじさんはここで何をしていたの?」


 男がぼうっとと自分とたろうと見ているので、柚葉は疑問に思っていたことを声に出した。するとへらりと男は笑った。


「昼寝」

「……一日中?」

「ここ三日ほどはそうだな。ここはいい場所だからなあ。昼間になればお天道様があたって気持ちがいい」


 ああ、と柚葉は声を上げた。黄土色に格子模様の色あせた着物、それにはどことなく見覚えがあったのだ。


「やっぱり前に来た時にすれ違ったのっておじさんだったんだ。ねえおじさん、仕事にはいかなくていいの?」

「……ああ、当面働きたくねえなあ」

「おじさん、おとななのに何を言っているのよ……」


 柚葉は呆れた気分で男をみやる。いくつかはわからないが、少なくともいい年をした男が仕事もせずにひがな昼寝をしているなんて碌なひとじゃないわ、とこっそり思った。

 男はそんな柚葉の視線に頓着せず、ぐるりと境内を見回すと古びた社に目をとめた。そしてううんと考え込むように唸る。


「なあ嬢ちゃん。これだけ襤褸なら、この神社に神主なんてのはもういないんだろう?」

「うん、見たことはないけど……」

「そりゃあ都合がいい。じゃあしばらくここに住むか」


 柚葉はその言葉にいっそう呆れてしまった。仕事もないうえに家もないのだろうか、このおじさんは。

 でも寒いだろうなあ、と無精ひげの伸びた顎をさすりながら唸っている男を見る。到底怖いようにも見えないけれど、やはり碌でもない男であることには違いがなさそうだった。


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