壱
「柚葉、今日は風呂のほうの水汲みも頼むよ」
屋敷で炊事の一切を取り仕切っている和乃に言われて柚葉は顔を上げた。手にしていた水桶には初冬の気温で冷たく凍りつきそうな水が入っている。これを水瓶に移せば炊事場にある三つの水桶は一杯になるはずで、一番つらい水汲みの仕事は終わる予定だった。
柚葉の沈黙を悪いほうに感じ取ったのだろう。和乃が振り返った。皺の目立ち始めた顔が苛立ちを含んで歪む。
「今日は騨吉がいないんだよ。旦那様が荷物運びとして連れていっちまったから。わかったならちゃんと返事をおし」
「はい」
柚葉は頭を下げた。ああ、だからいつもより忙しそうなのかと思う。奉公人の中で一番年かさの女である和乃はそのきつい性のせいか、感情を抑えて話すことが苦手のようだった。こんな忙しい時は必要以上の会話はせず、目の前から去ることが得策だということは、この屋敷に来て二年にも満たない柚葉にもわかっていた。
「まったく、見ればわかることをぐだぐだと説明させるんじゃない。だいたいなんなんだあんたのその髪は。朝から気分が悪い。せめて手櫛でいいから梳いておくぐらいできないのかい」
柚葉は手桶の水を水桶に注ぎながらごめんなさいと頷いた。こんなとき、どんな返答をしても和乃を神経を逆なでるということだけはわかっている。できうるかぎり手早く水を移すと、まだ何事かを言っている和乃にひとつ頭を下げる。そうして手桶をかかえて井戸へと走った。
屋外は身を切るような風が吹いている。冬のこの時期、水汲みは奉公人の中でも一番嫌がられる仕事だった。だからその仕事は必然的にここに来て一番日の浅い柚葉がすることに決まっていた。他の仕事も満足にできないのだから仕方がないとは和乃の弁だった。
柚葉は釣瓶を井戸の中に落とすと、水を汲むために縄に手をかける。齢十二のやせっぽっちの少女はそこで小さく呻いた。このところの寒さのあまりひどかったあかぎれから血がにじむ。それでもなんとか水を汲むと、それを水桶に流し込んだ。風呂釜に水を運ぶのならこの作業をあと何往復も行わなければならない。だから泣き言などいってはいられないが、それでもやはり辛かった。思わずしゃがみこんで手に息を吹きかける。はあ、と白く凝った吐息が流れた。
空を見上げると灰色の雲がずしりと垂れこめている。このあたりでは雪はあまり降ることはないが、今日は降るかもしれないとぼんやり思った。それほど冷たい風が吹きつけてくる。自らの手入れも何もされていない髪が靡き空を見上げる視界に入ってきて、柚葉はさらに重い気分になった。
手櫛でいいから髪を梳いておけ。先ほどの和乃の言葉が脳裏に蘇る。
それは確かに正論だ。けれど、と柚葉は思う。身ぎれいにするのが怖かった。旦那様の、あのねっとりとした視線にさらされるのが嫌だなんて、誰にも言えなかった。
柚葉がこの屋敷に奉公に出されたのは二年前ほど前だ。夏の前だった。生まれた家は柚葉の上に三人、下に三人兄弟がいた。姉も妹もいたが、奉公に出されたのは柚葉だった。
「旦那様は少しでも見目のいい娘には良い値をつけるんだ」
柚葉をこの屋敷に連れてきた男はそういって下卑た目で柚葉を見た。頭のてっぺんから足の先まで。そうして顔にかかっていた前髪をあげさせると、満足そうににやにやと笑った。
「まあ、もう少し育てば旦那さんもお気に召すだろう。顔は悪くねえから」
柚葉は鳥肌を隠すことができなかった。そしてそこにきてようやく現実が脳裏に染みわたってきていた。親はあんな立派なお屋敷に奉公に行けるなんて幸せなことだと言っていた。そうなのかと柚葉は思い、家族と離れることはさびしかったけれどもそれを受け入れた。けれど真実はこうだったのだ。柚葉は少なくはない金銭と引き換えに「売られた」のだ。
屋敷について、その主人に会った時に柚葉の心を覆い尽くしたのは絶望だった。中年を幾ばくか過ぎたあたりの主人はでっぷりと太っていて、優しげな笑顔を浮かべて柚葉を迎え入れてくれた。しかし肉付きの良い顔の中にある細い目はちっとも笑っておらず、柚葉の全身を舐めまわすように見ていた。
「まだ子供じゃないか」
主人はやや不満げにそういって、柚葉を連れてきた男となにかを話していた。男が不平そうな声を出していたので、おそらくは買値を値切っていたのだと思う。けれどもそれは柚葉にはひとすじの光に思えた。
子供であれば、在りつづければ、もしかしたら、怖いことは、ないのかもしれない。
柚葉はぼさぼさの髪のまま手桶を手にして立ち上がった。髪を梳くつもりは毛頭ない。身ぎれいにするのは怖い。きれいにさえしていなければ、そして子供であれば、あのねばついた気味の悪い視線にはさらされない。だから柚葉はいつまでたっても汚い娘のままいなければならなかった。
そんな柚葉にも、楽しみなことがひとつだけ存在していた。それは買い出しの仕事で、いいつけられた食材を買ってくることだった。寒い冬の間、それも他の奉公人が嫌がる仕事のひとつだったが、柚葉にとっては何より楽しみな仕事だった。
柚葉は古びた神社の階段を駆け上がると、息を切らせながら境内を見渡した。ここにはもう色あせた鳥居に塗装するものも、朽ちかけた境内をなおすものもいない。朽ちるにまかせた神社に人の気配はなく、ただただ静かに落ち葉が積もっている。
しかし柚葉は嬉しげに笑うと、懐からとっておいた食事の芋を半分取り出した。そうして声を出す。
「たろう、おいで」
柚葉の声とともに、境内の梁の下から白いものが飛び出してきた。それは一目散に柚葉のもとにむかってくると、そのふっさりとした尾を何度も振る。腰をかがめると飛びついてきたので、その薄汚れた毛並みを抱きしめて何度も頭を撫でてやった。
「ほら、お食べ」
柚葉が芋を差し出すと、白い犬は一瞬にしてそれを飲み込んでしまった。そうしてまだないかと柚葉の手元を見る。そこには買い出してきた豆腐と魚の干物があったが、これを野良犬にやるわけにはいかない。
「これはだめ」
そういうと利口な犬はくうん、と鳴いて座り込んだ。そうして柚葉の足に顔をあててじゃれついてくる。柚葉は笑うと、太郎の頭をやさしく撫でた。
白い犬、たろうは柚葉にとって唯一の友達だった。ただでさえ奉公人として屋敷に住まわせてもらっている立場の柚葉は遊ぶ暇などなかったし、あったとしてもいつも汚い身なりをしている柚葉をまともに相手にしようとする子供はいなかった。買い出しに行っても投げられるのは身なりを馬鹿にした言葉や石ばかりで、同じ年の子供と遊んだことなど一度もない。
そんなときに出会ったのがたろうだった。買い出しの帰り、ふと古い神社が目に入って階段をのぼった柚葉は、そこをねぐらとしている白い犬と会ったのだ。最初は威嚇ばかりされていたが、食事をわけあたえていると少しずつなれてくれた。白い犬はかろうじて白い毛をしているとわかるぐらいに薄汚れていて、ふかふかの毛並みの下はあばらが浮いていたから、野良犬であることは違いがなかった。
柚葉は勝手にたろうと名付けた犬を撫でる。あたたかな体温があかぎれだらけの指にやさしくなじんだ。柚葉の毎日の中で、この時間だけがはりつめた肩の力が抜ける瞬間だった。
けれどもいつまでもこうしてはいられない。柚葉は落ちかけた夕陽をみやると立ちあがった。見上げてくる黒いつぶらな目に手を振る。そうするとこの利口な犬は、名残惜しそうにゆらゆらと尻尾を振るのだった。
見送る犬に向かって、鳥居の下からもう一度手を振る。そうすると普段はあまりほえないたろうがわん、と小さく吠えた。うん、またくるね。そう思いつつ鳥居をくぐる。そこから先は長い石階段が山の裾野にむかって伸びていた。
そこで柚葉はひたりと足を止めた。いつもは誰も登ってくることなどない石階段。その中ほどを、ひとつの人影が登ってきていたのだ。
……ああ、嫌だな。
柚葉はそう思ったものの、いつまでもこうしているわけにもいかない。石階段を下りていくと、その人影の姿がはっきりと見えてきた。色あせた着物を着崩していて、なにやらだらしない風体の男だと思った。ぼさぼさの髪の色は夕陽を受けて赤みがかった稲穂色に見える。まばらに生えてある髭の所為で年齢がいくつかはわからなかった。うんと老けているようにも、若いようにも見える。顔はなんだか重たげなまぶたのせいかいかにも眠たそうに見えた。
男はかけ足で降りてくる柚葉に少しだけ目をやったが何も言わなかった。柚葉もだから、そのわきを何も言わずに通り過ぎる。そうして何も言われなかったことにほっと息を吐いた。
下まで一気に駆け下りて、そこでようやく柚葉はふりむいた。男はまだ、えっちらおっちらと階段を登っている。
あのおじさんはあんな神社になんの用なのだろう。
柚葉はぼんやりとそう思ったが、すぐに手にしている豆腐と干し魚の存在を思いだし、屋敷に向かって駆け出した。