序章
盈満之咎
四文字熟語。
満ちれば欠ける。何事も満ち溢れるほどになるとかえって禍いを招くという戒め。
その若い男は小さく息を吐いた。
吐いたそれは白く凍えて空に消える。しかし一瞬でも自分の痕跡を残すことに恐怖を覚え、震える指先で首に巻きつけている外套を口元までひっぱりあげた。指先だけでなく身体までも震えていることに気づき、男はかすかに苦く笑う。いやこの状況の中、震えた歯が音をたてないだけでも僥倖と言えるのかもしれなかった。
身を隠して蹲った樹木の葉の色は濃い。冬でも葉を落とさないそれがなければ、自分たちはすぐにでも発見されてしまうだろうと思うとさらに身が縮んだ。口元にまでひっぱりあげた外套からは昨晩念入りにすりこんだ獣の血のの匂いが強く鼻をつく。平常であれば眉を顰めるほどの悪臭だったが、いまやそれが彼らを守る大切な道具のひとつでもあった。
ふいに隣に居る頭から獣の皮を被った男が指を動かした。人差し指を二度。標的が来たという合図だった。男がそれを受けてそろりと重なる葉の隙間からその方角を窺ってみると、澱む白い霧の中、ゆったりと歩んでくる影がひとつ見えた。影のやってきた方向は北西。豊かな山脈と湿原がその背後には控えている。
男は目を凝らす。まだ遠くにいる影の大きさは米粒ほどもないだろう。しかし、彼にはそれが明確に視認できていた。
やってくる「それ」は知らなければ見間違えるほど自分たちの影に似ていた。頭がひとつに身体がひとつ。手足はそれぞれ二本。違うとすればその身体に巻きついているぐにゃりとした長い尾だけで、それ以外は「ひと」のものとほとんど変わらなかった。
ゆるりぬるりとその人影は近づいてくる。そのたびに首筋を、肌をびりびりとした何かが走るような気がした。
ああ、やばいと男の中の何かが警告を鳴らす。あいつから逃げろ、逃げろ、逃げろ。すぐさま逃げなければ一息に食われてしまうぞ。
それは生存本能というべきものだった。「ひと」といえども所詮は獣のひとつ。長い農耕生活の為衰えてしまったが、それでも生きるための本能はきちんと備わっている。
男はともすれば萎えてしまいそうな足を叱咤してその人影を凝視し続けた。
姿隠しのまじないは効いているのだろうか、獣の匂いで自分のそれは消えているのだろうか。湧いてくる不安を押し殺しつつ、今は遠いその人影を見つめる。
ふうと霧が薄くなった。白い靄が薄れ、ほどけるように流れていく。
男はさらに目を凝らした。それが、視力にだけは優れている今の彼の「役目」だった。
さきほどよりもくっきりとしたひとつの姿が秀でた目に入る。「それ」は横を向いていた。紫紺の髪が白い靄の流れに沿ってさらりと靡いていた。
「それ」は驚くほどに美しい存在だった。
思わず彼が息を吸うのも忘れるほど、そうしてその圧倒的な美しさに恐怖すら覚えるほどの。
蒼の混じった紫紺の髪は首元で流れており、そこからのぞく肌は雪のように白い。すらりとしていながらもどこか堅い身体つきは男そのもので、豪奢な着物から覗く瑠璃のような光沢をもつ長い尾を幾重にも巻きつけていた。それはゆるりと動き、陽光をはじいて美しい光を放っている。
横顔は男のものとは思えぬほど整っていた。白い肌にすうと伸びた鼻筋、切れ長の漆黒の瞳は精巧な人形師が丹念に配置したかのように艶やかに美しい。
その時、ふいに「それ」がこちらを向いた。男は思わず悲鳴をあげそうになったが、隣の頭から獣の皮を被った男の手がそれを塞いだ。恐怖のあまり「それ」から目を離したいのに、何故だかはなすことができず、男はただ震えながら「それ」を見る。
「それ」はこちらを見ているようだった。切れ長に整った、うんと磨かれた黒曜石のような瞳が瞬きもせずにこちらを向いている。そこで「それ」が細長い筒のようなものを手にしているのを知った。煙管。ああ、「それ」が煙草に弱いというのは嘘だったのかと麻痺している頭のどこかがそう思った。
「それ」が煙管に口をつける。その瞬間、その薄い唇が禍々しい笑みの形に歪んだのを彼は見た。
「……くそ、こりゃあ気づかれたな。いいか、手筈通りに逃げるぞ。俺の式を囮に使う。蛇はあんまり鼻が利かねえから間に合うかもしれねえ」
隣の男が小さく、しかし切羽詰まったようにささやいてくる。しかし彼は動けなかった。あまりの恐ろしさに「それ」から目が離せなかったのだ。
「おいこら動け!」
横合いから顔をひっぱたかれ、彼はようやく我に返る。ついでひどく息苦しくなってひゅうと息を吐いた。あまりの恐怖に、彼は呼吸さえも忘れていたのだ。
「あの恐ろしさをちゃんと感じとれたんならなかなかのもんだぞお前。そら立て、こんなところで死にたかねえだろうが」
彼はその言葉にはじかれるように駆けだした。そうだ、このままでは殺される、殺される、殺される。あんな禍々しい化け物、見たことがない。
脱兎のごとく駆けながら、彼は泣いていた。それでも手筈通り声は出さず、ただただ逃げる。
「それ」はまだ何もしていない。ただ、嗤っただけだ。
しかしあの存在感はなんのだと彼は思う。ひとでもない、あやかしでもない。あやかしになんて慣れきったはずの自分が恐怖しか覚えない圧倒的な存在感の、あれは。
「蛇五衛門さんに手えだそうだなんて帝の気がしれねえよ、おれは」
この任務が決まった際、頭から獣の皮を被った男がうんざりとした声でこういっていたのを思い出した。彼は男の護衛についたものの一人だった。とびぬけて視力の良い男は斥候隊の精鋭の一人で、そうして彼は男を守るためにここまでついてきたのだった。確か陰陽師の中でも立場の弱い十の分家、その役立たずの八男と言っていた。
「……ああもう、働きたくねえなあ」