三章 その壱
目覚めて早々、スオウはため息をつく。
昨夜は結局シオリの家に泊まることになった。夕食の用意をしに来たのはマチという若い女性だった。マチは手慣れた様子で食事を作り、あとは食べるだけの状態にすると居間からいなくなった。
シオリの世話でもしに行ったのだろう、とスオウはあまり気にはせずに食事を始めた。マチが戻ったのは食事をほぼ終え、彼女の夫が醸造した葡萄酒を、サツキの酒量に合わせてちびちびと飲み始めた頃だった。
「お客様のお世話もしないで申し訳ありません。シオリ先生に頼まれたことがありましたので」
そう言いながらマチは空になった食器を盆へと移し、つまみを何品か置いていく。素早くきびきびと動く様は、見ていて気持ちが良かった。
「あら、サヨちゃん。煮物の人参残してる。ちゃんと食べなさい」
「だって、ニンジンにがいもん」
「これはシンジさんが作った人参だから大丈夫。色の濃い野菜は体に良いんだから。ほら食べて」
マチはサヨから箸を取り上げ、小さく割った人参を口元まで運んだ。始めは顔を背けていたサヨだったが、マチが諦めそうにないのを感じたのか渋々口を開ける。
「どう、美味しいでしょ」
「……ちょっとだけ、おいしい」
箸を返してもらったサヨは、少しずつだが自分で人参を食べ始めた。少女の食べる姿を、マチは優しい目で見守っている。
「はじめまして。妻の料理と、うちの酒はどうでしたか?」
威勢よく入ってきたのは、マチの夫のショウタだった。まだ二十五歳と若いが彼の造る葡萄酒の評判は良く、村まで直接買いに来る貴族もいるという。
このときは、彼は妻を迎えに来たのだとスオウは考えていた。まさか、マチと共に訪れ、一時間以上も外で作業をしていたとは思ってもいなかった。
「どちらもとても美味しいです」
「ありがとうございます。──マチ、もういい頃だぞ」
夫に「ありがとう」と言ったマチが居間を出て行き、また直ぐに何かを持って戻ってきた。
「皆さん、お風呂の用意ができました。お酒を飲み過ぎる前にどうぞ。浴衣はこちらに」
そろそろ辞去をと考えていたスオウは驚いた。
「いえ、食事をいただいただけでも申し訳ないのに──」
「でも、シオリ先生からお泊まりの用意をと言われています。客間に寝床の支度も」
「風呂も良い具合に沸いてるんで、どうぞ」
「……では、お世話になります」
何もかもシオリに先手を打たれた。ショウタ夫妻の人柄も良く、好意を無下には断れなかった。風呂から上がると、新しい酒と見るからに美味そうなつまみが用意されていて、スオウは思わず深酒してしまった。
「酒に強い体質で良かった……」
睡眠不足の倦怠感はあるが、今日も問題なく旅を続けられそうだ。布団から抜け出し、格子窓から空を見上げると、日が完全に昇るまであとわずかだった。
「コハク、起きろ。もうだいぶ明るい。それでなくてもおまえのせいで予定が狂ったんだぞ」
マチの配慮でコハクも同じ部屋で寝ていた。窓の真下で伏せて、前足の上にあごを乗せている。サツキは、コハクとスオウの布団の間でまだ眠っていた。布団をあごまで引き上げるのが癖で、初めて見たときは生首かと思ってスオウは大層驚いた。
「起きてるよ。なぁ、スオウ。しばらくこの村にいることにするよ」
マチが来ているようで、遠くから包丁の音が聞こえる。コハクは部屋の外に漏れないように囁き声で言った。
「そう言い出すような気がしてたよ。オレも少し気になることがあるからな」
コハクがこの家に立ち寄ったのも偶然では無いのかもしれない。気まぐれなこの犬が柘榴村に逗留を決めた理由は判らないが、スオウもこのまま立ち去っては胸にわだかまりが残る気がしていた。
二人の会話で眠りが浅くなってきたのか、サツキの体がもぞもぞと動き始めた。気持ち良さそうな寝顔を見て何故か少し苛ついたスオウは、サツキの額を思いきりひっぱたいていた。
朝食を食べている間、額を赤くしたサツキはスオウを無言で恨めしそうに見ていたが、叩いた当人は悪びれることもなく、視線を無視してふわふわの卵焼きを堪能していた。
食後、シオリとサヨにしばらく村に滞在することを告げると、思いのほか喜ばれた。サヨはサツキが気に入ったようで、側から離れようとしない。スオウはコハクたちを残し、一人で宿屋に部屋を取りに行くことにした。
スオウたちが宿屋に泊まるときは馬宿を選ぶことが多い。普通の宿だと、犬としてはかなり大型なコハクは宿泊を拒まれてしまうことが多々あった。今回は瑠璃屋で無事に二部屋借りられ、コハクを部屋の中に入れる許可ももらえた。
この村への逗留がどれくらいになるかはコハク次第だが、商店や村人の生活の雰囲気をたしかめておこうと、スオウはサヨと出会った通りへと向かった。
まだ朝と言ってもいい時間だからか客はまばらで、店員は店先の掃除をしたり、客や近所の人との世間話を楽しんでいる。
「お兄さんがシオリちゃんのお客?」
声を掛けたのは四十代半ばくらいの金物屋のおかみさんだ。
「はい。昨日はお世話になりました」
「もう行っちゃうのかい?」
「いいえ。しばらく瑠璃屋に泊まることにしました」
隣の豆腐屋から顔を出したのは、金物屋のおかみと同年くらいの女性だった。
「宿だったら向かいの蜻蛉屋にすれば良かったのに。食事が最高だよ」
「犬を連れているので、馬宿の方が都合が良いんです」
「そういえばそうらしいね。あと可愛らしい男の子もいるんだっけ。それにしても大きい犬らしいじゃない。見かけた人が子馬かと思ったって言ってたけど」
「金剛狼の血が入ってるみたいで、先祖返りです」
田舎の情報網は侮れない。スオウたちがこの村に入って丸一日も経たないうちに存在が知れ渡っている。
「それじゃあ、大きいはずだね」
金剛狼は龍玉国のみに生息していた狼だ。とても大型で、体高が三尺に迫るものも少なくない。その名前は、光を受けると体表に走る白銀の輝きと、岩も砕く牙や爪の固さから付けられた。大昔はその姿の美しさや運動能力の高さなどから神聖視されていたが、それを欲した人間の手による犬との交配が進み、純血種は数十年前に絶滅したと言われている。
その後も何人かの村人に話しかけられた。スオウから尋ねなくても、色々なことを教えてくれる。
シオリの家は代々薬師で腕も良いこと。村人がシオリばかりを頼るので、派遣された医師が村へ寄り付かなくなってしまったこと。両親は亡くなっていて、弟が央竜で医師になる勉強をしていること。数日前に山に薬草を採りに行って滑落し、気を失った状態で旅人に背負われて帰って来たこと。
どの村人もシオリを案じていて、娘のサヨの様子を尋ねてくる。何人かは見舞いに行って世話を申し出たらしいが、大したことはない、寝ていれば治ると断られてしまったという。
スオウは村人から預かった見舞い品を抱えてシオリの家へと戻りながら、自分がこの村にいる間に何をすべきかを考え始めた。