一章 その弐
三十分後にサツキが宿を出ると、スオウは軒下の木の長椅子に腰掛けていた。行李を横に置き、開いた足の上に横たわらせた護身用の刀に軽く片手を掛けている。一人でいるときでも、彼の背筋は真っ直ぐ伸びていた。その凛とした姿には少し不似合いだが、髪の中に一羽の小鳥が潜り込んでいて、毛先が不自然に動いていた。量が多く、整えられていないぼさぼさの髪は、小鳥にとって快適な巣になるようだ。小鳥の好きなようにさせていたスオウが、「いてっ」と肩をすくませた。くちばしに漆黒の髪が数本。小鳥は頭から肩に飛び移り、あいさつするように何度かそこで跳ねると、軽やかに飛び去っていった。
「いい巣を作れよ」
小鳥を見送るスオウの目は穏やかで、怒りの感情はみじんもなかった。
「お待たせしました」
「あぁ。その包みはどうした」
「ご主人にいただきました。おはぎだそうです」
小動物のような愛らしさのあるサツキは、年配者によく食べ物をもらう。以前、米所で米俵を持たされそうになったこともあるが、旅の途中だからとさすがに断った。日もちのする物は非常食としてスオウが管理し、足の早い物はコハクの間食になってしまうが、それについてサツキが異議を申し立てたことはない。
今日のおはぎは包みの大きさから見て十個近くはありそうだが、スオウとサツキには一つずつ当たれば良い方だろう。
「何だかんだで一時間近くここにいたな。先を急ごう」
懐中時計を帯に挟んで身支度を整え、スオウは立ち上がりざまにサツキの手から包みを奪って歩き出した。それから一呼吸置いてサツキも付いて行く。腕を伸ばしてさらに一歩踏み込めば手が届く。それが、この旅で見つけた二人の心地良い距離だった。
瑠璃屋の表通りを五分ほど進むと緑深い山に突き当たり、道は左右に分かれた。
「左に行くと隣村への近道。右に行けば商店や民家が多くあるそうだ。宿の主人が言うには馬が騒いでいるので外に出てみたら、コハクらしいのが走って行って右に曲がるのを見たそうだ」
丁字路を右に折れると道沿いに商店や食事処が並んでいた。やはり、酒屋が多く、酒蔵の看板もちらほら見える。人通りは多くないのに寂れた感じがしないのは、通りが清潔で、商人の声が常に聞こえているからだろう。
初めて行く土地──特に田舎ではよくあることだが、この村でもやはりそうかとサツキは小さくため息をついた。買い物客や商人たちはスオウを見ると直ぐに視線をそらす。本人は気付いていないのか、気付いていて無視をしているのか判らないが、至って普通に歩いている。
人混みで確実に顔半分は飛び出る長身、人より高い位置にある腰には黒い鞘の刀を佩いている。漆黒の髪は長めで、額、耳、うなじは見えない。それだけなら驚く人もまだ少ないだろうが、左目は眼帯、鼻と口は布で覆われていて、スオウの顔でまともに見えるのは一重の大きな右目だけだった。
──さぁ、どうしてだろうな。
サツキは一度だけその装いの理由を聞いたことがあったが、はぐらかされてしまった。スオウの優しさや鷹揚さを知っているサツキは、彼が見た目で誤解されていることが歯痒かった。
「サツキ。あの女の子に聞いてみてくれ」
スオウが指したのは、赤い着物を膝丈で着付け、田舎では珍しく外国製の編み上げ革長靴を履いている五歳くらいの少女だった。外国の装飾品は十数年前に比べると値段も安くなり平民でも手に入れられるようになったが、取り扱っている商店が地方にはほとんどないため、持っている人はまだまだ少ない。
初対面の、特に女性や子供に声を掛けるのはサツキの役目だった。
「聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
買い物籠をひじに下げた少女はサツキの目を真っ直ぐに見返し、にっこりほほ笑んだ。
「きいてもいいですよー」
答えながら少女はスオウを横目でちらりと見上げた。あからさまに怖がったりはしていないが、二人の間には微妙な距離があった。
コハクの外見の特徴を話し、見かけなかったか尋ねると、思いがけない言葉が返ってきた。
「サヨのおうちにいるよ。おひるねしてる」
詳しく聞くとこの少女がサヨで、突然やって来たコハクは彼女のおやつになるはずだった饅頭を食べ、そのまま縁側で眠ってしまったという。
「ごめんな。コハクがおやつを食べてしまって」
スオウの大きな手がサヨの頭を撫でる。少女は片膝をついて自分の視線の高さに合わせてくれた彼の右目をしばし見つめ、眼帯の端を小さな指先でそっとなぞった。
「ここ、いたい?」
思いがけない問いにスオウは笑い、口元の布を下ろした。
「全然、痛くないよ。ありがとう」
優しい少女に礼を言い、再び布で鼻と口を覆い直して立ち上がる。これだけの短い会話で、二人の距離はぐっと縮まっていた。
「おにいちゃんも、おうちくる?」
「はい。連れて行ってください」
サツキが答えると、サヨは不思議そうに首をかしげた。スオウがその可愛らしいしぐさを見て小さく吹き出す。彼の笑った理由が少しも判らず、サツキもまたサヨと同じように首をかしげていた。
来た道を丁字路の辺りまで戻り、通りをそれて山の脇にある小道を行くと、店舗と家屋が一つになったような建物が見えてきた。
「サヨちゃんの家は何かのお店をしているんですか?」
スオウに買い物籠を持ってもらい、身軽になったサヨが跳ねるように歩いている。
「かあちゃんがね『くすし』なの」
「くすし? あぁ、薬師ですね」
「うん。そうなのー」
薬師は里に必ず一人はいて、村人の怪我や病を一手に引き受ける存在だった。しかし、先先代の王が中央から医師を派遣する制度を設けたため、現在では薬師のいない村も少なくない。
「サヨ、先に行ってオレたちがお邪魔することをお母さんに伝えてきてくれるか?」
「わかった。おしえてくるー」
サヨの背中を見送りながら、スオウはサツキに話しかける。
「何か聞きたいことがありそうだな」
スオウは人の表情の変化に敏感で、彼に隠し事をするのは難しい。
「どうして、サヨちゃんに声を掛けたんですか? 他にも人はいたのに」
「なんとなくだけれど、これを持っていたからかな」
スオウが左手の籠をくいっと持ち上げる。中には丸々一羽分の鶏肉が入っていた。
「この辺りは畜産農家が少ないから肉はあまり食べない。自分の家の卵を産まなくなった鶏を処分するときくらいだ。わざわざ買ったりはしない」
「特別な日とか、お祝いのとき用ですか?」
大体はな、とスオウが頷く。
「あとは客が来たときだ」
突然の訪問にもかかわらず、コハクは嫌がられることなく丁寧にもてなされているようだった。
「さっきスオウが笑ったのはどうしてですか? サヨちゃんが招待してくれたとき」
思い出して、スオウがまた笑う。
「サヨは、お兄ちゃんって言っただろ。それにおまえが答えたから首をかしげたんだ」
「どうしてでしょう?」
スオウの手がサツキの髪をかき回す。肩で揃えた癖のない真っすぐの焦げ茶色の髪はコハクのお気に入りで、時々うっとりした顔で頬ずりをしている。
「サヨはサツキをお姉ちゃんだと思ってるんだろ」