蛇足 その肆(後)
数日が経ち、アカリは家の中なら一人で歩けるようになった。わたしが仕事をしている間、二歳の一人娘の相手をしてくれている。
「アカリさんのお陰で助かってるわ」
「いえ、あたしこそお世話になっているんだから当然です」
夕食を食べながら、わたしはこの数日考えていたことを口にした。
「怪我が治ったら、アカリさんは央竜に戻りたい?」
アカリは箸を置いた。ケンスケは自分も食べながら、姪の世話もしている。
「正直、戻るのは怖いです。あたし、家族がいなくてお屋敷に住み込みで働いてました。それに、お針子は屋敷や店を渡り歩く人も多くて、違うお屋敷に行っても情報は流れやすいんです」
「だったら、この村で暮らさない? 人も良いし、仕事もそれなりにあるから食べる物にも困らないわよ」
「でも、あたし縫い物しかできません」
「この辺りは農家が多くて、女もなかなか忙しいのよ。着物の仕立てを代わりにやってくれる人がいたら喜ばれると思うわ。あと、わたしも頼みたいことがあるの」
ケンスケの方を見ると、察した弟は娘を連れて居間を出て行ってくれた。
「娘の、サヨの面倒を見てほしいの。あなたが来る前から夫が寝込んでいるのは話したわよね? 彼ね、子供の頃から体が丈夫じゃなかったんだけど、とうとう限界が来たみたいなの」
「えっ?」
「起きていられる時間が短くなってきてる。今までは薬で何とか誤魔化してこられたんだけど、それも無理みたい。だから、彼がなるべく苦しまないで残りの人生を過ごせるように、できるだけのことをしたいの。きっと、もう一年ももたないわ」
娘のことはもちろん大事だ。けれど、夫の苦痛を和らげられるのはわたししかいない。他人に冷たいと言われても、夫の看病に集中したかった。
「会ったばかりのあたしに娘さんを任せて良いんですか?」
「かあちゃー、あかいちゃー」
娘が歩いて戻ってきた。後ろからケンスケも「戻るってうるさくて」と、苦笑しながら歩いて来る。
「大丈夫。サヨが懐いてるもの。子供は自分を愛してくれる人がわかるからね」
膝の上に座ったサヨの体に腕を回し、アカリは目を閉じた。そして、目を開けたときには決意の表情をしていた。
「これから、よろしくお願いします」
アカリの打ち身の跡が消える前に、ケンスケは央竜に戻って行った。夫の体調を気にしてか、年末にも必ず帰ると言い置いて。
捻挫もすっかり良くなると、アカリはサヨを連れて外に出るようになった。家探しや、村人へのあいさつ。仕立ての代行を始めることを宣伝して回ることも忘れなかった。いつの間にか家事もやってくれるようになっていて、わたしは仕事と夫のことだけを考えていれば良かった。
秋が過ぎて冬がやってきた。寒さが厳しくなり、夫の体調はますます悪化した。日中でも眠っている時間が増え、起きているときでも意識の混濁が見られた。
今日は大晦日。ケンスケからは昨日手紙が届いた。今年は央竜の降雪量が多く、帰ることができなくなったらしい。夜も更け、サヨと夫が眠った後、わたしは一杯だけと決めてアカリと酒杯を傾けた。
「アカリさんがいてくれて本当に良かった。一人じゃとても耐えきれなかった」
「あたしは何もしてませんよ。サヨが元気で明るいから」
アカリは村にも馴染み、わたしに対しても気さくに接してくれるようになった。彼女本来の気っ風の良さもあって、若い女の子たちの間で央竜風の着物の着こなしや、化粧の仕方をアカリに教わるのが流行っていた。
「いいえ。サヨのためにもアカリさんが必要だった。あの人ね、もう、サヨのこと覚えて無いのよ」
夫の記憶は少しずつおかしくなり、わたしたちが結婚した頃にまで戻っていた。わたしの判断は間違っていたのかもしれない。サヨをもっと夫の側にいさせていれば、今でも覚えていてくれた可能性はあった。
「わたしは自分の我が儘でサヨから父親をこんなにも早く奪ってしまった」
「それは確かに悲しいことだけど、サヨにはシオリさんがいる。たとえ、ご主人がサヨを忘れても、サヨがお父さんを忘れないから大丈夫よ。酷いことを言ってるかもしれないけど、ご主人が人生で一番幸せだったのは、あなたとの時間だったのかもよ?」
アカリの言葉に、今まで我慢していた涙が溢れた。真実は判らないけれど、彼女の言葉を信じたかった。わたしの存在が夫に幸せをあげられていたと思っていれば、彼がいなくなってもサヨと二人で挫けずに生きていける気がする。
「ありがとう」
アカリにはもちろん、自分の周りにいる人全てにそう伝えたかった。
年が明けて睦月は何事もなく過ぎ、如月になった。夫は熱が下がらなくなり、日に日に弱っていく。村の人は状況を察したのか薬を求めて訪ねて来なくなっていた。
いつどうなるのか判らない状況でわたしは眠りも浅くなり、夫が咳をする度に目を覚まし、呼吸を確認して安堵するのを繰り返していた。
月の半ば頃、久しぶりにはっきりと夫に名前を呼ばれた。そのときちょうどサヨとアカリも寝室にいて、わたしは娘を抱き上げ彼の顔をのぞき込んだ。彼の目には力があって、わたしたちを確かに見ていた。乾燥した唇が開く。わたしは耳を寄せた。
涙が止まらなかった。アカリがサヨをわたしの腕から引き受けてくれていたのにも気が付かずに、大声で彼の名前を呼び続けた。
そのまま、彼は儚くなった。その日の夜、彼の両親に臨終を看取らせてあげられなかったことを詫びると、覚悟はしていたからと赤い目で許してくれた。葬儀を終えて数日後、アカリは自分の家に引っ越すことになった。彼女はもう少し側にいてくれると言ったが、お互いのためにも離れた方が良いと思った。
彼がいない生活にはまだまだ慣れそうにないが、わたしは彼のためにも娘を育て上げなければならない。そして、サヨが大人になって幸せになったのを見届けたら、わたしは彼に会いに行くのだ。それまでは、彼の最後の言葉を胸に生きていく。
──シオリ。ぼくに幸せと、家族をくれてありがとう。




