終章 その弐
下へ降りた途端、ケンスケが駆け出した。三人はそこで足を止め、彼と距離を置く。横たわる人の傍らで膝を着いたケンスケが、首筋に手を寄せた。触れた瞬間、痛みを覚えたように指先を震わせる。口元に耳を近付けて呼吸も確認し、三人を呼び寄せた。
「……姉です。亡くなっています」
目元を赤らめながらも両手で後頭部、胸部、腹部を触り、目でも確認していく。
「頭と胸の骨が折れ、腹も滅茶苦茶です。即死ではないでしょうが、さほど持たなかったと思われます」
村長が労るようにケンスケの肩を叩く。その間に、スオウはシオリの太ももの傷に清潔な布を巻き付けた。その傷はスオウが予想していたほど酷くなく、一度噛みつかれただけのものだった。四人で協力し、シオリの体を戸板に乗せて縄で固定する。
村長が懐から手ぬぐいを出して、ケンスケに渡した。
「上にわき水があったな。これを濡らしてシオリの顔を綺麗にしてやるといい」
ケンスケは黙って上がって行った。今の彼には一人で悲しむ時間が必要だ。ケンスケが視界から消えると、村長がスオウたちに近付いてきた。その顔は明らかに強ばっている。
「わたしたちだけで行くと言った理由が少しわかりました。これはおかしすぎる」
シオリの体は全く濡れていなかった。亡くなった正確な時間は判らないが雨が降り出した夕方、シオリは既に山の中にいたはずだ。この辺りは葉の茂った木も少なく、蓑も着ていない彼女があの雨を避けるのは難しい。万が一、雨が上がった後に死んだとしても、これだけ地面が濡れていれば着物や髪は湿気を帯びるはずだ。
もう一つは、足の傷。大きさなどから山犬に噛みつかれた傷だと判る。村長はこの山で迷い、遺体で見つかった人の話を何度か聞いたことがあった。その中には獣に食われた跡があった者もいたが、いずれも首などを数カ所噛まれて腹をやられていた。山犬は群れで行動する。噛まれたのが太ももに一カ所だけなのは不自然だった。
ケンスケが戻ってきた。彼は濡らした手ぬぐいを折り畳みながら歩いていたが、何かに気付き、目を見開いて足を止めた。手ぬぐいが彼の手から落ちる。
「姉は昨日山に入ったんですよね?」
「あぁ、昨日の朝にマチさんが寝室で見たのが最後だ」
ケンスケが見ているのは、先ほどまでシオリが横たわっていた場所だ。草が倒れている以外は、特におかしいところは見当たらない。
両膝を着いたケンスケは、そこに咲いている小さな白い花を指さした。
「これは、動物の死骸の下で咲く花です。死骸を養分に発芽し、生長してやがて花を咲かせます」
突然立ち上がった彼は、戸板からシオリの体を解放して裏返した。懐から小刀を出して着物を切り裂く。村長の息を飲む音が聞こえた。
一見綺麗だった彼女の遺体は、背中から臀部に掛けて腐敗が始まっていた。
「発芽から開花まで、五日は必要です。姉の身に何が起こったんですか?」
四人とも無言のまま帰ってきた。シオリの遺体は家に入れられる状態ではないため、直接火葬場に運んだ。村長は葬儀の準備のために帰宅し、ケンスケはマチの家にサヨを迎えに行った。
スオウとサツキは囲炉裏の火をただ見ていた。そこに鼻先で器用にふすまを開けてコハクが入ってくる。二人から見える場所で、彼女は何かを口から吐き出した。
「それは……シオリさんの指輪ですか?」
「そうだね。寝台の下に落ちてたよ」
銀色の指輪の横には、小さな硝子玉もあった。
「その玉は何ですか?」
「サヨに話を聞いてみないとわからないね。スオウ、これを持ってておくれ」
スオウは硝子玉を懐紙で丁寧に包み、帯に挟み込んだ。
ケンスケは一人で戻ってきた。
「サヨは泣き疲れて眠ってしまいました。マチさんから離れないので、もう少し預かってもらいます」
疲れた顔をした彼に、サツキが温かいお茶を出す。体が温まったからか、血色が少し良くなっていた。コハクが見つけた指輪をケンスケに渡す。
「これ、寝室にあったんですか?」
ケンスケは首を傾げている。シオリの指輪が彼女の寝室にあったことの、何がおかしいのだろうか。
「姉は結婚してから一度もこの指輪を外したことはありませんでした。サヨを産んだあとは肉付きが良くなって指輪がきつくなったようなので、自然に抜け落ちることも無いと思うんです」
「きっと、怪我で寝込んでいる間に指の筋肉が落ちて細くなったんですよ」
スオウの言葉に納得できたのかは判らないが、ケンスケは「そうですね」と言って指輪を大事そうに握り込んだ。
シオリの葬儀も終わり、スオウたちは村を離れることを決めた。ケンスケの誘いで、最後の数日はシオリの家に泊めてもらっていた。
「実は、医学は昨年で修めて、今年から薬学を学んでるんです」
昨夜、彼は酒に酔いながら、照れくさそうに言った。いずれ村に戻り、シオリの代わりに薬師になるつもりだったという。
「薬師になるつもりはありませんでしたが、思いの外早く医師の免状をもらえたので。二三年薬学を学んで帰って、姉を驚かせてやろうと思ってたんです。その頃には姉も二十代の半ばですけど、それからでも姉なら医師になれると思って……」
悔しそうに言葉を詰まらせ、酒を呷って彼はそのまま眠ってしまった。
出立の日。村長、ショウタ夫妻とサヨ、コウジが見送りに来てくれた。サヨはショウタの家に引き取られることになった。ショウタに抱かれながら、マチと話しているサヨを見て、スオウはほほ笑む。
「言葉では言い表せないくらい皆さんにはお世話になりました。また是非、柘榴村にお越しください」
村長は頭を長い間下げていたが、顔を上げたときには満面の笑みで、自身の蔵で造った林檎酒を持たせてくれた。
「また、来いよ」
「こうじにいちゃん、そんないいかた、だめよ」
子供たちの可愛らしい会話に、大人たちは笑みをこぼす。二人の手はしっかりと繋がれていた。
「これからは、マチとサヨのために頑張って働くことにしました。また、おれの酒を飲みに来てください」
「わたしもおいしいご飯を用意しますから、必ず来てくださいね」
涙ぐむマチの肩をショウタの大きな手が包んでいる。二人は今日から三人になり、やがて家族になるのだろう。
「皆さんお世話になりました。またいつか」
「またお会いできるといいですね」
「わふっ」
コハクの声に皆が笑った。
瑠璃屋の前に二つの人影があった。スオウは予測していたのか、自然と近付いて行く。
「ありがとうございました。これでようやくあの子も眠れました」
「最初から気付いていたんですよね、トキさん」
ケンタを連れたトキは、寂しげな笑みを浮かべた。
「産婆という命を扱う仕事を長年していたせいでしょうか。人より少し敏感なようです」
「そうですか。オレは何もできませんでしたが、シオリさんの望み通り、サヨはきっと大丈夫です」
もう一度礼を言い、トキはゆっくりとした足取りで里へと帰って行った。しばらくそこで見送っていると、祖母の手を離したケンタが走って三人の許へ戻ってきた。少年はコハクの耳に顔を寄せる。
「こんどは、ぼくともお話してね」
珍しいことにコハクは口を大きく開き、驚きで固まってしまった。




