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終章 その壱

 誰かが名前を呼んでいた。目を開けると視界一杯にコハクの顔があって、起きあがりたくても起きあがれない。

「おはようございます。こんなに早くどうしたんですか?」

 空は薄明るく、日が上り始める直前のようだ。結界の内側の乾いた土の上で転がりながらコハクが答える。

「夜明けと共に結界が消え、スオウが目覚める。サツキも色々と心の準備が必要だろ?」

 確かに、これから一生聡いスオウに隠し事を持ち続けることになり、それはサツキには決して容易なことではない。そして何より、一度は喪ったと思った彼が動いている姿を見て、泣き出してしまう可能性もあった。

「地面は濡れて、風も吹き始める。急に寒くなったらびっくりして、クシャミの一つもしたくなるだろ?」

「……そっちの方の心の準備ですか」

 コハクは器用にも犬の顔でニヤニヤしている。完全にからかわれた。

 髪と着物を簡単に整え、見つけたばかりの手頃な石の上に手ぬぐいを敷いて座る。スオウはコハクの手によって蓑の上で寝かされていた。規則正しく上下している胸に安堵を覚える。サツキは夜明けの瞬間までその上下をただ見ていた。

「おはようございます、スオウ」

 ただの朝のあいさつがこんなにも幸せなことなのだと、サツキは今まで知らなかった。


 シオリの家には村長むらおさしかいなかった。サヨはショウタの家で休んでいるという。

「皆さんには大変お世話になりました。この花のことも教えていただけて感謝しております」

 サツキが幻覚作用のある花のことを説明した。村長は驚き、直ぐに真剣な顔で考え込む。三人は村長の決断を黙って待った。

「この話は、わたしの中だけに留めておきます。あの山には貴重な薬草も生えていると聞きます。それを生かせるのはシオリちゃんのような薬師だけです。よけいな人間が立ち入る必要はありません」

 村長はコハクが持ち帰った花を囲炉裏の火の中にくべた。

「それにあの山は母親たちの味方なんです」

「味方?」

「『悪いことをしたら山に置いて帰るよ』と。効果は覿面です」

 いたずら小僧のように笑う村長につられ、サツキも笑った。

「サヨは大丈夫そうでしたか?」

 ずっと気にかかっていたのだろう。スオウが尋ねる。

「ええ。戻った途端マチさんにえらく叱られましてね。最後は二人で泣きながら抱き合って、そのまま眠ってしまいました。マチさんはここで皆さんの帰りを待つと言ったんですが、今はショウタが酒の仕込みで忙しい時期ですから、助けてやれと帰らせました」

 スオウは安心したのか、天井を見上げて大きく息を吐いた。その姿を見て村長は立ち上がる。

「わたしは一度帰ります。戻ったら次はシオリちゃんのことを考えましょう」

 村長は酒蔵を営んでいる。倉の様子を確認しがてら、朝食を済ませてくるようだ。

 村長が帰って十分ほど経った頃、マチとサヨが朝食を持ってやって来た。

「おにいちゃん、だいじょうぶ?」

「あぁ、もうどこも痛くないよ」

 スオウに抱き上げられ、サヨは嬉しそうに笑っている。スオウの新しい記憶は、大きな怪我は無かったが、気を失ったので念のために山で一晩安静にしていたことになっているようだった。

 山からの帰り道、サツキはスオウに、コハクが金剛狼であることと、人の姿になれることを知ったと告白した。内心では知るに至った理由を問われたらと胸が破れそうなほどに緊張をしていたのだが、スオウの反応は「……そういえば、おまえに教えてなかったな」とあっさりしたものだった。

 梅干しの握り飯、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、大根の糠漬け、豆腐の味噌汁が並べられた。コハクには丸々一羽分の生の鶏肉。十日ほどの滞在で、マチにはすっかり胃袋を掴まれていた。ほくほくと箸を進める。

 食後の茶を飲んでいると、村長が五人の青年を伴って戻ってきた。その中の一人にサヨが飛びつく。

「ケンスケおじちゃんだ!」

 慣れた様子でサヨを抱き上げた青年は、三人に無言で頭を下げた。


「シオリの弟のケンスケです。姉と姪が色々とお世話になったようで」

「はじめまして、スオウといいます。こちらはサツキとコハクです。確か、央竜で医学を学んでおられると聞きましたが」

 仏壇に手を合わせに行ったケンスケを待って、居間で向かい合った。四人の青年は客間に通され、マチとサヨがもてなしている。

「はい。今年で七年目になります。いつもなら盆と正月にしか帰省しないんですが、五日ほど前に姉から手紙が届いて、至急帰るように、と。理由はわかりませんが、昔から姉の命令は絶対なので、馬を乗り継いで帰ってきました」

 姉弟の仲は良いようで、彼は裏のない笑顔でそう言った。しばらく話を続けていると、彼にとってシオリは自慢の姉なのだとよく解った。

「姉の方が頭も良くて、医学を学びたがっていたのは実は姉の方なんです。けど、亡くなった義兄は姉の幼なじみで昔から体が丈夫ではなかったんです。だから、村から離れることを諦めたようです」

 薬師になるには師匠に付くのが一般的だ。在る程度の技術や知識を得たと師匠が判断したところで一人前だと認められるのだが、中には書物から学び、自分の判断で名乗り始める者も少なくない。しかし、医師になるには央竜の専門機関で最低でも五年は学び、役所が発行する免状を受け取らなければならない。

 シオリが医師を目指していたら、サヨを授かることも、幼なじみでもある夫の死を看取ることも難しかっただろう。

「ところで、姉はどこですか?」

 説明する役目は村長が引き受けてくれた。始めは見るからに動揺していたケンスケだったが、次第に顔付きが変わっていく。自分から疑問点を聞き返し、彼は今やるべきことを判断した。

「コウジの話から大体どの辺りかは見当が付きます。多少、土は緩んでいるかもしれませんがその辺りだったら崩れることはまずないと思います。戸板を持って、今から向かいましょう」

 客間の青年たちを呼びに行くため、村長が立ち上がる。それをスオウが呼び止めた。

「できれば、オレたちだけで行けませんか? 村長とケンスケさんと、サツキとオレ。四人いれば充分です。理由は後でわかってもらえると思います」

 ケンスケは村長と顔を見合わせた後、頷いた。

「彼らに帰るように言って来ます。少し待っていてください」

「すみません。ありがとうございます」

 旅人である自分たちを信用してくれたことに感謝して、スオウは深く頭を下げた。


 スオウたちが山に入る支度を始めると、コハクは縁側で丸くなった。留守番を決めたようだ。マチはケンスケに頼まれ、サヨを連れて家に戻ることになった。シオリが物言わぬ状態で帰った場合、直ぐに対面させるのは酷だという判断だ。

 ケンスケを先頭に、戸板を抱えたスオウとサツキが続き、しんがりを顔の下半分を布で覆った村長が務めた。布はとりあえずの幻覚対策らしい。ぬかるむ土に多少足を取られたが、それ以外は何も問題なく進んだ。二十分ほど経った頃、ケンスケの足が止まった。道の脇を覗き込み、スオウたちに振り返る。

「……もう少し先に下へ降りられる道があります。行きましょう」

 歩みを止めぬままサツキが視線を落とすと人が倒れているのが見えた。それがシオリなのかは彼には判断できなかった。


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