一章 その壱
林檎を山ほど積んだ荷車を、胴回りも足も太い馬がゆっくりと牽いている。馬の手綱を握っている農夫が、大きな酒樽を積んだ荷馬車の御者とすれ違いざまに短いあいさつを交わしていた。
ここ柘榴村は果物が名産で、その実りのほとんどは果実酒になって全国に出荷されている。果実そのものを商品にしていれば果物狩り目当ての観光客で賑わうのだろうが、村人以外でこの道を使うのは、仕入れに来た酒屋か、飲兵衛の旅人くらいだった。
日差しはまだ強いが肌を撫でていく風は冷たく、サツキは秋の到来を感じていた。この村の名産品を聞いたばかりだからか、風の匂いがほのかに甘いような気がする。
サツキの少し前を行くのは、一つ年上のスオウだ。黒に近い鼠色の長着を尻はしょりして、下に藍染の洋袴を履いている。彼は旅馴れているせいか各地の特色に詳しく、ここの名産をサツキに教えたのもスオウだった。
ぴんと伸ばされた彼の背中に背負われている行李はただの旅人にしては大きすぎる物だが、彼一人で三人分の荷物を運んでいるのだから仕方がない。サツキは体力も腕力も少なく、旅を始めて早々に荷物のほとんどをスオウに取り上げられた。もう一人の同行者には事情があって、精神的にも肉体的にも荷物を持たせられない。
そのもう一人は目下、失踪中。いや、疾走中だろうか。「旨いもの発見!」と叫ぶと同時に走り出し、あっという間に見えなくなった。
「コハクは鼻がいいですねぇ」
「こんなところで匂いもないだろう。ただ歩いているのに飽きただけだ」
独り言のつもりだったサツキは少し驚く。スオウの言うとおり、見渡す限り食事処も民家も見当たらず、あるのは野菜畑か水田くらいだ。
「なかなか見つかりませんね」
「まぁ、あれでもあいつはオレよりも長く生きてる。道連れがいるのに、予定の道を大きく外れるような馬鹿はしないだろう。……多分」
コハクとの付き合いが長いスオウが言うことだから大丈夫だろうが、最後に付けられた言葉に、無事に合流できるのだろうか、とサツキは少し不安になった。
二十分ほど行くと農地帯は終わり、建物がぽつぽつと見えてきた。一番手前にあったのは、立派な看板を掲げた宿屋だった。
「あそこで話を聞こう」
スオウの足が速まり、二人の距離が開く。旅を始めた頃のサツキは置いて行かれるのが怖くて息を切らしてでも側に付いていたが、今ではそんな不安も感じることなく自分の速さで歩いて行けるようになった。スオウと共に過ごしたこの二年の間で、サツキはすっかり彼を信頼していた。
スオウは一度振り返り、サツキが付いて来ているのを確認してから宿に入る。
「スオウは心配性ですね」
サツキの顔には少しの喜びが混じった、呆れの笑みが浮かんでいた。
宿の外で待つことにしたサツキが視線を上げると、入り口の上に『馬宿・瑠璃屋』と書かれた一枚板の看板が掲げてあった。
馬宿は馬を預けられる厩がある宿のことだが、瑠璃屋はそれに加えて馬を借りることもでき、借りた馬は全国にある支店のどこで返しても良かった。通常の馬宿より料金は高いが、少し無理すれば平民でも利用できるくらいのものだ。馬の保有数や、移動させる手間や経費などを考えれば、儲けがあるとは到底考えられない。そのため、貴族が道楽で経営をしているという噂が、あちこちでまことしやかに囁かれていた。
何に手間取っているのか、なかなかスオウが出てこない。ただ立っているのにも飽き、サツキは宿の裏手に回ってみることにした。宿の真横にある厩に馬の姿は無く、もしやと思っての行動だったが予想は当たっていた。柵に囲われた広めの土地を数頭の馬が自由に歩いている。走り回ることまではできないだろうが、それぞれが虫を追ったり草を食んだりと、気持ち良さそうに過ごしていた。この土地を確保するために建物の多い場所を避け、里の外れに宿を建てたのだろう。
馬を驚かせないように静かに近づいて、サツキは自分の胸の高さほどの柵に両手を乗せた。目の前に広がる緑と、吹き抜ける風が心地良い。深く息を吸い込み、くるりと方向を変えて背中を柵に預けた。サツキは馬を眺めるつもりでここに来たのだが、コハクの捜索でいつものように休憩を取れなかった体は思いのほか疲れていて、まずは少し落ち着いてからにしようと決めて目を閉じた。
スオウが宿の主人との話を終わらせて馬宿を出たとき、サツキは動けなくなっていた。体力が尽きたわけでも、誰かに害されたわけでもない。
「仲睦まじいおまえたちを引き離すのは心苦しいが、時間がそうそうあるわけでもないんだ」
苦笑するスオウの視線の先には馬に囲まれているサツキがいた。柵の上や隙間から顔を突き出して一頭は袖を、一頭は裾を、もう一頭は背中の風呂敷包みをくわえている。残りの二頭は顔に頬ずりしたり、髪の中に鼻先を突っ込んでいる状態だ。
「スオウ、たすけてくださいー」
サツキが小声なのは恐怖からではなく、馬を驚かせないためだと、スオウには解っている。いっそのこと、驚かせた方が馬が逃げるのでは、とも考えなくもないが危険度は低いのに越したことはない。
スオウはサツキと距離を空けて立ち止まり、腕組みをした。
「自分で頼め、放せって。真剣にな」
「はい。──皆さん放してください。スオウが来たからもう行かないといけないんです」
それまでが嘘のように馬たちはあっさりと離れて行った。絡んだ髪と、はだけた着物はそのままに、サツキはスオウに駆け寄る。
「宿の主人に場所を借りて、顔を洗って身繕いしてこい。急げよ」
はい、と言って宿へと向かったが、あまり要領の良くないサツキのことだ、二十分は確実に戻らない。
残された馬たちは心なしか寂しそうに見えた。サツキは動物に好かれるようで、あのような状況にたびたび陥る。始めのうちはスオウが力ずくで助け出していたが、動物たちがサツキの本心からの言葉には反応していることにコハクが気付き、今では本人に対処させていた。