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五章 その陸

 雨雲が風で流され、月が顔を出した。細い月明かりがコハクの毛並みを撫でていく。漆黒は白銀に光り、また漆黒に戻っていった。地面を踏みしめる四本の足に力が入る。月を睨むように顔を上げ、たっぷり吸い込んだ息で喉を震わせた。

 コハクの遠吠えは大地を這い、そして空へと突き抜けた。豊かな響きのその声はいくつもの倍音を鳴らし、やがて空気へと溶けて消えた。

 にわかに、強い風が吹いた。木々が揺れ、葉擦れの音が耳にうるさい。サツキは乱れる髪を慌てて押さえた。

「つい先ほど会ったばかりではないか。どうした我の狼よ」

 それは突然現れた。最初からそこに存在していたように泰然と立っている。

「先ほど、と申されますが、あれから二年経ちます」

「人の時間ではな。我にとっては瞬く間よ」

 コハクが今までにないほど丁寧な言葉で遇するのは、人の形をした薄緑の光だった。

「狼よ。此度は何を捧げる」

「……私の『琥珀』を」

 顔のないその光がほほ笑んだのが、何故か判った。

「ようやく寄越す気になったか」

 コハクの左目の上に光の手がかざされ、直ぐに離れた。

「我に感謝しろ。もらうのはこちら側だけにしといてやろう」

 薄緑の手の上に琥珀色の小さな光が浮かんでいる。その琥珀は握り込まれ、再び開いたときには消えていた。

「確かに貰い受けた」

「ありがとうございます」

 サツキによって仰向けにされていたスオウの体に近寄ったコハクが、彼の青白い右まぶたに鼻先を寄せた。すると、血色が良くなり、暑い胸が上下し始めた。スオウの拍動が戻っていた。驚いたサツキが横臥させるようにスオウの体を浮かせると、血に塗れていたはずの着物も元に戻っている。

「我の狼。もう一つの姿を見せて見よ」

 スオウの髪に頬を寄せていたコハクが大儀そうに振り返る。

「……あの姿は貴方のためのものではありません」

「見せてみよと言っている。我の魂縛(こはく)

 コハクは光を睨みつけ、そして諦めたようにため息をついた。

 コハクの体が白銀色に淡く光る。輪郭がぼやけていき一瞬消えたかのように見えたが、直ぐに光が人を象り一人の女性が現れた。

「あっ!」

 驚きで声を上げたサツキを見て、その女性は妖しく笑った。

「これでよろしいですか」

「相変わらず美しいな、我の狼。その姿はあのとき以来か」

「……ありがとうございさむ」

 女性は頭が小さく、ほどよい肉付きの手足も長かった。恐らく、男性としては少し小柄なサツキよりも身長は高いだろう。丸みを帯びた肉感的な体は女性的だが、その長身や目つきの鋭さが印象に残るため、女性らしさは希薄だ。

「その姿が見られて、我は気分が良い。特別に結界を結んでいってやろう」

 人の形をしていた薄緑色の光が球体へと変化していく。それを見て、女性は片膝を地面に落として頭を下げた。自分も女性に倣った方がいいのかサツキが迷っていると、声が掛けられた。

「何もせずに良い。そなたは我のものではないからな。その魂は何者にも縛られない。また会おう」

 目を開けていられないほど光が強くなり、サツキは咄嗟にまぶたを閉じる。しばらくして恐る恐る目を開けると、あの薄緑色の光は跡形もなく消えていた。


 サツキはスオウに膝枕をしている女性の向かいに座っていた。風で木の葉は揺れているのに音は聞こえず、湿った着物のままだが寒さを感じない。手の甲の切り傷もいつの間にか消えていた。

「コハク、なんですよね?」

「この姿で会うのは二度目だね」

「……気付いていたんですか」

 スオウが体調を崩した夜、宿の部屋で膝枕をしていたのがコハクだったとは思いもしなかった。あのときは動転していて気付かなかったが、思い返してみれば部屋に犬のコハクの姿は無かった。それに、体調が悪かったとはいえ、気配に敏感なスオウが熟睡していたのにも納得できる。

「人間は弱っているときには『母親』が必要なんだろ? 今も弱っているけど、また一晩あれば大丈夫さ。安心しな」

 彼女の口元から犬歯が覗く。スオウの鼓動が戻ったのは判っていたが、コハクの言葉でようやく実感が持てた。

「とりあえず、蓑を脱いでくつろぎな。今は結界があるから人や獣も近付かないし、音や風も通さないから快適だろ?」

 言われたとおりに蓑を脱ぎ、少しだらしないかと思ったが裸足になる。今晩は色々なことが起こりすぎて、頭の中が混乱していた。体くらいは煩わしさから解放されたい。

「聞きたいことは山ほどあると思うが、アタシも今日は疲れた。質問は三つまでだ」

 コハクが爪の長い指を三本立てていた。もちろん疑問は三つどころではないが、コハクも語りたくないことがあるのかもしれない。少し考えて、一番気になっていたことを尋ねた。

「コハクは金剛狼なんですよね」

「……そうだよ。貴重な三つの質問で聞くことじゃないだろ、それは」

 コハクは呆れたような目でサツキを見ていたが、当人は至って真面目だった。ただの狼ではなく金剛狼だと気付いたのは、その毛並みが白銀に輝いているのを見たからだ。彼女が土の上で頻繁に転がっていたのは単なる癖ではなく、毛を汚して輝きを消すためだったようだ。

「犬にしては大きいと思ってたんですよね。それに、馬とかが時々怯えますし」

「まぁ、アタシにとっては馬も食い物だからね。今は仲間がいないから狩らないが。──二つ目は?」

 これは聞いてはいけないことのような気もするが、今晩を逃せば二度と聞けないような気もしていた。

「スオウが会うと言っていた『ロウオウ』って誰ですか?」

 スオウの肩にそっと置かれていたコハクの手が震えた。それをごまかすようにさほど乱れていない彼の着物の襟元を直す。

「それは、アタシの伴侶のことだ。昔、スオウに話したことがあってね。人と違って名はないからスオウが付けた呼び名だ。狼の王で『狼王』だ」

「狼ですか」

「そりゃそうさ。アタシだって狼だからね」

 人の姿で言われても説得力はないが、彼女が狼なのは確からしいので反論はできない。

 瀕死の状態でスオウは彼女の伴侶に会うと言った。それが意味することを、サツキは一つしか思い浮かばなかった。

「コハクの伴侶は今……」

「死んだよ。人間に殺された」

 彼女の人に対する冷酷さの要因を知ったのかもしれない。

「サツキも感じていたかもしれないが、アタシは人間が憎い。でもね、それでも嫌いになれない人間もいるんだよ。愛しいと思う人間もね」

 スオウはコハクが言う愛しい人間なのだろう。彼女の視線や手の動きが、それを教えてくれている。自分はどう思われているのか、サツキはまだ怖くて聞けなかった。

「……最後の質問をします。あの光の人は誰ですか?」

 風の届かない決壊の中は春のような暖かさで、だんだんと眠気が襲ってきていた。いつもより小さく話すコハクの低くてかすれた声も、それを一層引き寄せている。

「簡単に言えば風の神だ。アタシはあの神と契約を交わし、魂縛(こはく)という名を与えられて眷属になった。──スオウが三歳のときだ。原因不明の高熱が出て今日のように鼓動が止まった」

 絶望に襲われたコハクは、スオウを抱きしめたまま声が嗄れるまで叫んだ。そこに現れたのが風の神だった。コハクの人の姿を気に入った神は、眷属に下ればスオウを助ける力を与えてやると言ったという。

「もちろんアタシは、一も二もなく従った。スオウを死なせるわけにはいかなかった。ただし、命を戻す力を行使するにはある条件が必要だった」

 体の一部を捧げること。

 今になって思えば、神はコハクを試していたのかもしれない。憎き人の子を救うためにおまえはどれだけの犠牲を払うことができるのか、と。しかし、彼女に躊躇いはなかった。

「スオウは無事に戻ってきた。あのときも、今日も」

 サツキは穏やかにほほ笑むコハクに膝でにじり寄り、手のひらで彼女の右目を覆った。

「今、何も見えてないんですね」

「あぁ。……でも、見えなくてもサツキが泣いてるのはわかるよ」

 コハクはサツキの手首を掴み、ゆっくりと腕を下ろさせた。彼は顔をくしゃくしゃに歪め、それでも声は上げぬように唇を噛み締めて泣いていた。

「せっかくの可愛い顔が台無しだ。馬鹿な子だねぇ、あんたが泣くことはないだろ」

 少しざらついたコハクの手が頬に添えられた。親指が涙を拭っていく。

「今日は疲れたろ。もう、お眠り。朝になればスオウも動けるようになる。そうなったら三人で帰ろう」

 サツキはスオウの隣で横になる。神の結界の力か、濡れていたはずの地面はさらっとしていて温かく、問題なく眠れそうだった。目を閉じた途端に眠気は限界を迎えた。半ば夢の中でコハクの声が聞こえる。

「目覚めの瞬間、スオウの記憶は書き換えられ、今晩のことは忘れてしまう。大怪我をしたことも、アタシの左目が見えないことも二人だけの秘密だよ」

 スオウとコハクの関係が少し羨ましかったサツキは、彼女と秘密を持てたことを嬉しいと思ってしまった。その後ろめたさが、返事をするのを躊躇わせる。下唇を噛んだサツキを見て、コハクがくすくすと笑った。そのまま完全に睡魔に捕まったサツキは、優しく髪を撫でるコハクの手に気付かなかった。


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