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五章 その伍

 雨はすっかり上がっていた。洞穴の中で縮こまっていた体を伸ばす。

「ここはシオリさんに教わったのか?」

「うん。あまやどりのばしょなの」

 サヨの背中には風呂敷包み。中には燐寸マッチ、小刀、干し柿、替えの着物が入っていて、洋灯までも持っていた。これも母親から教わったことで、サヨは混乱の中でも忘れずに携えて来ていた。

「サヨもこの急な坂道を登ったのか?」

「ううん。ここはいそぐとき。サヨはこっちからきたの」

 少女が指したのは先ほどスオウが見つけた道とは正反対の方向だった。近付いてみれば生え放題の草の中に、踏み固められてできた細い道。幅が一尺にも満たなかったので気が付かなかった。

「スオウにいちゃん、ここのぼったの? すごいねぇ」

 サヨが急勾配をのぞき込んでいる。その姿を提灯で照らすと、革長靴の紐が解けていた。

「サヨ、そこを動くな」

 声を掛けたのがいけなかった。振り向いたサヨがその紐を踏みつけ、体勢を崩す。揺らいだ体はよりによって坂の下へと投げ出された。

 提灯を投げ捨て、サヨへと駆け寄る。

(間に合った)

 少女を右腕で抱き抱え、左手を縄に向けて精一杯伸ばす。しかし、掴めたのは湿った空気だけだった。


 気を失っていたらしい。自分を呼ぶ高い声と、頬を叩く小さな手の感触で目が覚めた。

「だいじょうぶ?」

「……あぁ、大丈夫だ。サヨ、怪我は?」

 首を横に振るのを見て安堵する。自分は痛みのない部分を探す方が難しいが、背中の一部が特に酷い。手を回すと、そこに触れた指先が震えた。

「サヨ。ここからは、一人で、帰れるな?」

「うん。だけど、おにいちゃんは?」

 ここからは道なりに行けば里に帰れる。先に戻ったであろうコハクたちと途中で合流できるかもしれない。サヨの洋灯は壊れずに無事だったので、明かりについては大丈夫だ。

「足を、痛めた。先に帰って、コハクに伝えてくれ」

「なんて?」

「別れた場所で。先にロウオウに会いに行く、と」

「ろうおう?」

「コハクは、わかる。……行け」

 スオウは目を閉じてしまった。子供ながらに普通の怪我ではないと感じたサヨは「待ってて」と声を掛けて走り出した。


 山道は終わり、平らな場所に着いた。スオウもそのうちサヨを連れて戻るだろう。先にシオリの家に帰って、何か飲み物と食べる物でも用意してもらおうか。サツキはそんなことを考えていた。

「どうかしましたか?」

 コハクは山を振り返り、耳をひくひくと動かしている。

「サヨの声がする」

「スオウたちも戻って来たんですね」

「いや、それにしては様子がおかしい」

 少女の姿が見えてきた。まろぶように駆けながらコハクの名を必死に叫んでいる。いつ転んでもおかしくないその様子が、サツキの心を波立たせた。

「コハク。おにいちゃんが、けがしたの」

 わずかな待つ時間も惜しんで、サツキたちもサヨに駆け寄る。サツキの知る限り、スオウの身体能力はとても高い。この程度の山で動けなくなるほどの怪我をするとは到底信じられない。少女の体を見てみると、肌が露出している部分に擦り傷や切り傷があった。恐らく、スオウはサヨを庇ったのだとサツキは直感的に思った。

「村の男の人たちを呼んできた方がいいでしょうか?」

 いくらコハクが規格外の大きさの犬とはいえ、怪我をしている成人男性は運べないし、サツキではコハク以上に無理だ。

「いや、ちょっと待て。サヨ、スオウは何か言ってたかい?」

「うん。『わかれたばしょで』と『ろうおうに、あう』だったかな?」

 コハクの気配が変わった。


(サヨは無事に帰れただろうか)

 今、スオウが思うのはそれだけだった。

 再び腕を背中に回すが、それだけのことがなかなかできない。先ほど指先で触れたものは幻でも何でもなく、圧倒的な事実だった。

 右腰の少し上、背中とも言える場所に子供の手首ほどの太さの木の枝が刺さっていた。

 目はかすみ、開けているのは無意味だとまぶたを閉じる。

(コハク、怒るだろうな)

 どんな悪さをしても良いから生きろ。スオウが幼い頃から何度も言われてきた言葉だ。

 風の音も虫の声もいつしか聞こえなくなった。

(サツキ、泣くなよ)

 優しい彼はそれでも涙を流すだろうが、それができるだけ短い時間であればいいと心から願う。

(会いたいな、ふたりに)


 漆黒の毛並みが逆立ったように見えた。サツキは、コハクの鼓動が聞こえてきているような錯覚を覚えた。

「サヨ、一人でお帰り。アタシたちはスオウが怪我をしたから山で一晩過ごす。みんなには野宿は慣れているから大丈夫だと伝えとくれ」

「……うん、わかった」

 サヨはコハクに怯えていた。口調はいつもと変わらないが、声の重さが違う。喉元に牙を突き立てられているような恐怖をサツキも感じていた。

「さぁ、お行き」

 小さな背中が見えなくなるまで見送った。

「サツキ、アタシの背中に乗りな」

「えっ?」

「早く!」

 鋭い犬歯を覗かせ、コハクが叫ぶ。慌てて腰辺りに跨がり、首元の毛を両手で掴んだ。

「行くよ」

 走り出した衝撃で、上体がのけぞる。振り落とされないように、顔と腹をコハクの背中にぴったりと付けた。

 気になることは色々あるが、とても聞けるような状況ではない。草の端が当たって切れた手の甲には痛みが走り、コハクの腰を挟んだ太ももの筋肉は強ばる。

 コハクの速度が落ちてきた。歩いたときは十分以上かかった道程を、ほんの数分で終えてしまったようだ。

 体を起こすと、斜面に後頭部と肩を預けて座っているスオウが見えた。目を閉じ、両手両足を投げ出している。コハクから降り、震える足で歩み寄るが、後数歩のところで進めなくなってしまった。

「スオウ?」

 何かがおかしかった。動けないほどの怪我を負ったのなら、痛みで呼吸は乱れているはずだ。しかし、先程から彼の肩も胸も一切動いていない。気を失っていたとしても不自然だった。

 漆黒の獣がスオウの右まぶたを嘗める。

「痛かったろ。よく頑張ったね」

 今まで聞いたことない声だった。消えそうなほどに小さいのに、確かに耳には届く。母が子に向ける声だった。

「サツキ。悪いが、これを抜いておくれ」

 コハクが二の腕辺りの袖を噛んで引くと、スオウの体は簡単に倒れた。俯せになった彼の背中に刺さった枝を見て、サツキは息を飲んだ。紺色の着物は濡れて背中に張り付き、地面には血溜まりができていた。枝が刺さったままでこの出血量だ。スオウの体の中ではどれほどの血が流れたのか。

「スオウ、死んでるんですね……」

「あぁ、そうだ」

 まだ実感がないせいか、不思議と悲しくはなかった。鼓動は確かに止まっているのだろうが、魂はまだここに在る気がしている。

 両手で枝を掴み、渾身の力でスオウの命を奪ったものを引き抜いた。

「ありがとう、サツキ。──私の愛しい養い子。友から預かったおまえを、決して死なせはしない」

 琥珀色の目がほのかに光を放った。


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