五章 その肆
いくら緩やかだとはいえ、坂道を上るのは体力の消耗が早い。サツキの息は乱れ、足はがくがくと震え始めていた。
「サツキ、大丈夫かい? もう目の前だから頑張りな」
「えっ、サヨちゃんの居場所がわかってるんですか?」
コハクは足を止めずに言葉を続ける。
「サヨのことはスオウに任せて、アタシたちはちょっと別のことをしようか」
「何をするんですか?」
「アタシもたまには善行をね」
振り返ったコハクの目には、楽しげな光が浮かんでいた。
実際は十分も掛かっていないだろうが、数十分は登っていたような疲労感だった。急勾配の終わりは畳二畳分くらいの平地。スオウは持っていた提灯を側にあった木に引っかけた。手のひらや膝下の汚れを簡単に払い落とす。目を凝らして辺りを見回すと、右手に細い道が続いていた。提灯を取ろうとすると、木の幹に縄が幾重にも巻かれているのに気付く。縄の先を目で辿っていくと、スオウが苦労して登ってきた坂に垂らされていた。
「嘘だろ……」
咄嗟に掴んだ草で切れ、うっすらと血のにじんだ左手を見下ろす。シオリの一族はこの縄を使ってここを登っているようだ。
「まぁ、いいさ」
提灯を掲げ、サヨの名を呼んだ。待っても少女の応えは無く、遠くから山犬の声が聞こえるだけだ。恐らく自分も山犬の縄張りに入ったのだろう。いくつかの視線を感じる。
見つけたばかりの道を進み始めると、少女の気配を感じた。もう一度名前を呼ぶ。返事は無かったが、スオウの視界の隅でほのかな明かりが灯った。
スオウは安堵の息を吐き、合図の花火を鳴らした。
腰丈の草をかき分けると、斜面にぽっかりと穴が開いていた。その奥から明かりが漏れてきている。入り口こそ両手と膝を着かなければならなかったが、そこを通り過ぎてしまえば長身のスオウが中腰になれるほどの天井高があった。
「サヨ、寒くないか?」
洞穴の奥で少女は膝を抱えて座っていた。たき火の明かりが二人を橙色に染める。
「マチさんと待ってろって言ったよな」
自分の蓑をサヨに掛けてやる。少女の顔は膝の上に伏せられていて見えない。
「かあちゃんに、あいたかったの」
「そうだな、会いたいよな。でもな、サヨ。こういうときは大人を頼れ」
サヨを抱き上げ、あぐらの膝の上に横向きに座らせる。
「だって、かあちゃん、しんじゃったって。しぬって、もうあえないってことでしょ?」
その目に涙は無かった。五歳の少女にとって父親に続いて母親までも喪うというのは、どれほどの衝撃なのだろうか。
「あぁ、もう二度と会えない」
「じゃあ、サヨも、しぬ」
「どうして?」
サヨは顔を上げ、スオウを睨みつけた。
「だって、ひとりはいやだもん!」
言葉にしたことで現実味が増したのか、サヨは声を上げて泣き出した。スオウは体温を移すようにしっかりと抱きしめる。
「オレは両親を知らない。自分以外の『人間』に初めて会ったのは五歳のときだった。今のサヨくらいだ」
「さみしくなかった?」
「正直、わからない。コハクは一晩中いなくなることも多かったが、それが当たり前だと思っていたから、寂しいという感情自体知らなかったのかもしれない」
スオウが人の気配に敏感なのは自分が人間だという自覚が薄く、一瞬だけだが未だに人を敵だと判断してしまうせいでもある。
「シオリさんがいなくなっても、サヨには村の人がいるだろ」
「でも、かぞくじゃないもん」
「血の繋がりか。それってそんなに重要か? オレの家族はコハクだ。オレがそう決めたから誰が何と言おうと家族だ。シオリさんとサヨのお父さんだって他人だった。でも、家族になろうと二人で決めたから家族になってサヨが産まれた」
サヨがどこまで理解してくれているかは判らない。それでも、嘘やごまかしは入れずにスオウは本心を伝えた。
「だから、サヨも決めればいい。自分で決めて、それを相手が受け入れてくれたら、それはもう立派な家族だとオレは思う。でもな、無理して誰かの娘になることはない」
「どういうこと?」
「親子、きょうだいだけが家族ではない。サヨにとって母親はシオリさんだけだろ? だから、無理をして誰かをお母さんと呼ぶ必要はない。人との関係性に名前を付けるのは無意味だ」
「かんけいせい?」
「オレにとってコハクはコハクで、母でも姉でもなく、ましてや父でも妹でもない。だけど、家族だ。わかるか?」
何となくでも良い。サヨが自分は一人ではないのだと感じてくれれば良かった。少女はしばし黙り込み、そして頷く。
「サヨ、帰ろう。『家族』が待ってる」
今、サヨの中に浮かんだのが誰なのかは判らないが、少女は笑ってまた
頷いた。
息を切らせながらコハクについて行くと、一本の木の前に出た。高さも太さも周囲の木々と大差は無い。ただ、その枝に付いている花は印象的だった。
しずく型の花びらは五枚で、先が鋭く尖っている。色は、濃い紫から先に行くにつれて白くなっていく。花一つの大きさは赤子の顔くらいはあるだろうか。
「大きくてきれいな花ですね」
「サツキ。あんまり側で息をするんじゃないよ」
サツキは咄嗟に口と鼻を手で覆った。その素直な反応にコハクは笑う。
「どうしてですか?」
「これが、迷子の原因だからさ」
コハクは幹の側に立ち、自分の背中にサツキを上らせる。
「息を止めて、花を一輪摘んでおくれ」
体高の高いコハクの上に立てば、花には余裕で手が届いた。摘んだ花を潰さないように慎重に地面に降りて、持っていた手ぬぐいで花を包み、コハクの首輪に結わい付けた。サツキは安心したように深呼吸をする。
「この木を人間が何て呼んでいたかは忘れたが、今は存在していないはずの木だ」
開花期間は春から秋と長く、見た目の美しさと匂いの良さから庭木として人気のあった時代もあった。だが、数代前の王がこの木の栽培の禁止と、自生しているものの根絶を命じた。
「花粉に幻覚作用があったんだよ。大量に吸い込むと夢うつつになり、気力がなくなる。この山に入った者はその作用で事故に遭い、帰れなくなったんだろうさ」
「シオリさんたちはどうして平気なんですか?」
「恐らく、先祖に耐性の強いのがたまたまいて、そいつが子供を連れて山に入ったんだろう。その子供は小さい頃から少しずつ花粉を吸うことで耐性が付く。それを繰り返して耐性を持つ人間が多い一族になった」
迷ってしまう原因は判った。問題はその原因が今まで取り除かれなかったことだ。
「簡単なことさ。王の命令は『紫の花』の木を倒すことだった。だが、この山の木は先が白くなる変種だったせいで、それから免れてしまったのさ」
花を持ち帰り、この木の作用を村人に伝える。その後にどうするかは彼らが決めることだ。木を倒して誰もが入れる山にするのか、今まで通り限られた人間のみが入れる山にするのか。
「日中、何度か登ってみたがこの山は危険な場所も多い。アタシは現状維持をお勧めするね」
人に厳しいこの大きな犬は、それでも人に優しかった。
「スオウは山に入っても大丈夫と言ったのはどうしてですか?」
サツキの方は向かず、コハクは大輪の花を見上げている。
「スオウが育った場所にもこの木があったからさ」
合図の花火の音が聞こえた。




