五章 その参
タカアキに蓑を借り、スオウとショウタがシオリの家に駆けつける。居間ではマチが泣き崩れていた。
「マチ、どういうことだ? サヨはどうして!」
ぐしゃぐしゃの顔を上げ、マチは夫にすがりつく。
「ごめんなさい。シオリ先生の話を聞いた近所の人が食べる物を持ってきてくれて。玄関で受け取っている間に縁側から出て行ってしまったみたい。わたしがちゃんと見ていなかったからっ」
涙が溢れ、呼吸もままらなくなった妻をショウタは抱きしめる。
「マチさんは悪くない。きっとサヨは機会を窺っていた。様子がおかしいのに気付いていたのにここに置いていったオレの責任だ」
スオウはこぶしを強く握る。しかし、自分を責めている時間はない。早くサヨを見つけ出さなければならない。あの小さい体に、この雨は強すぎた。
スオウたちから遅れること三十分。サツキが十数人の青年たちと共に戻ってきた。青年たちの手には、幾重にも巻いて輪にしてある長い縄があった。
「里の中でサヨちゃんが行きそうな場所にはいなかったみたいです」
泣きそうな顔のサツキの髪をスオウが撫でる。青年たちが持っている縄はある意味、命綱だ。道程の木に結びながら帰路を確保し、縄が続く範囲までしか行かない。村長が山の捜索に名乗り出た若者たちに出した条件だった。
いつの間にか日も落ち、すっかり暗くなっていた。今は水に強い洋灯を村中からかき集めているところだ。居間で待機している青年たちに、未だ目元が赤いマチが熱いお茶を出している。
スオウたちは玄関の土間にいた。
「コハクはサヨと会わなかったのか?」
「山に入る場所は一つじゃないんだ。それにこの山は色んな草がありすぎて、鼻も利かないよ」
雨は降り始めた頃の勢いを失っていた。しかし、夜の山に入るのにはまだ充分な障害になる。
雨音の隙間を縫って、山犬の遠吠えが聞こえてきた。コハクの耳がぴくりと動く。
「地面がだいぶ緩んでいつ崩れてもおかしくないみたいだね」
「さっき山に行ったのは、これのためか」
「あぁ、あいさつしてきた」
二人の会話に疑問点はあるが、コハクが山犬と意志の疎通ができることは、サツキにも判った。
「いよいよだ」
そう言うと、コハクは土間に伏せて目を閉じた。
「人数分の洋灯を持って来たぞ」
玄関を開けたのはシンジだった。コハクを間近で見るのは初めてだったのか、その大きさに驚いたように一瞬足を止める。
青年たちは蓑を着込み、シンジから洋灯を受け取った。
「山犬が騒いでいます。もう山崩れが起きているのかもしれません」
スオウはコハクの言葉を少し誇張して伝えた。彼らに何かが起きてからでは遅い。注意するのに越したことはない。
青年たちが山に入って行った。コウジを同行させる案も出たのだが、自分が見てしまったものの衝撃が大きかったのか、村長の家から戻った後、高熱を出して倒れてしまった。
居間に残ったシンジとショウタ夫妻の間に会話は無く、雨の音だけが響いていた。土間に伏せたままのコハクに付き合い、スオウとサツキも玄関の上がり框に腰掛けている。
どれくらいの時間が経ったのか。雨脚はかなり弱まっていた。先程よりも強く山犬の声が聞こえてくる。
「とうとう崩れた。人の近くだ。巻き込まれたかもしれないね」
冷静なコハクの呟きにサツキは大声を上げそうになったが、シンジたちの存在を思い出し声をひそめる。
「助けに行かないんですか?」
「冗談だろ。そんなことをしたらこっちまで危ない。スオウも警告はした。それでも山に入ったんだ。それなりの覚悟はしてるだろうさ」
コハクは時折こういう面を覗かせる。普段は人懐っこい素振りを見せているが、最終的には人との間に境界線をきっちりと引いて突き放す。犬だからというより、人が好きではないのかもしれないとサツキは感じていた。
「とは言ってもそろそろ限界だ。サヨの体調が気になる。オレたちも行くぞ」
雨は弱まったが、防寒も兼ねてスオウは蓑を付ける。サツキも慌てて支度を始めた。
「コハク、オレたちは山に入れそうか?」
人間のようにため息をつきながらコハクが立ち上がる。
「おまえは大丈夫だ。サツキは一応アタシから離れるんじゃないよ」
シオリの家の提灯を借り、捜索隊とは違う場所から山に入った。シンジたちには止められたが、コハクがいるから大丈夫だと強行する。入山禁止の立て看板を横目に、コハクの先導でぬかるんだ坂道を慎重に進む。
「やっぱり匂いは全然わからない。勘に頼るしかないようだよ」
真っ暗闇の中を迷いなくコハクは進んでいく。直ぐ後ろを歩いているサツキの提灯の灯りが、闇に溶けていきそうなコハクの輪郭を浮かばせる。
サヨの名を呼びながら登ること十数分。人の足で作られた細い道が二手に分かれた。片方は緩やかな上り坂、もう一方は登るのに腕も必要になりそうな悪路。
「オレがこっちを行く」
当然のようにスオウは悪路を選んだ。
「まぁ、そうだね。アタシたちはこっちをゆっくり行くよ」
足手まといになっている自分に、サツキは嫌気がさした。思わず俯いてしまった彼の二の腕をスオウは軽く二回叩く。
「焦らなくていい。おまえは二年前より確実に成長している」
サツキがおずおずと顔を上げると、額を指で弾かれた。予想以上の打撃の強さに、涙が浮かぶ。
山犬がまた鳴いた。
「男どもが山を出たようだ」
サヨを見つけたときには合図の花火を鳴らすことになっていた。それが聞こえないということは、捜索を断念したということだ。
「コハク。サヨはここにいると思うか?」
「いるだろうね。山犬どもがまだ落ち着かない。縄張りに何かが入り込んでいるせいだ。狩りはするなと言ってあるから命は大丈夫だろうさ」
「それでも急いだ方がいいな。見つけたら合図をしてそれぞれ山を下りよう。それでいいな?」
頷き合って二手に分かれた。何故か気になって振り返ると、右手に提灯を持ったスオウが足場を選びながら登っていた。左手で時折木や草を掴んでいるが、その足が止まることはない。サツキは彼の背中からなかなか視線を外せなかった。




