三章 その肆
その日は朝から風が冷たかった。サツキとサヨには家の中で遊ばせ、スオウは、大きな盥を庭に出して洗濯に励んでいた。きれいに筋肉の付いた下膊をたすき掛けでさらし、洗濯板と格闘している。
「サツキ、水を汲んできてくれ」
その場で立ち上がり、丸まっていた背中と腰を伸ばす。洗濯を終えたら何をしようかと腕組みして考えていると、サツキがおぼつかない足取りでやって来た。彼の直ぐ後ろにはコハクの姿も見える。コハクは日中何処かに行っていないことが多かったが、今日は肌寒いせいか朝から縁側で座り込んでいた。
コハクがスオウを見てニヤリと笑った。嫌な予感がする。しかし、サツキに声を掛けようとしたときには既に遅かった。
サツキの膝の裏を、コハクの黒い前足が押す。自分が持つ、水が満杯の桶しか見ていなかったサツキは見事に体勢を崩し、そのまま前方に倒れていった。
一歩踏み出し、サツキの右手首をつかんだスオウに、なみなみと水の入った桶が飛んできた。避けることよりもサツキを助けることを優先した結果、スオウは全身ずぶ濡れになった。手のひらで顔を拭ってサツキを見ると、両膝は地面に着いていたが腹の下にコハクが潜り込んでいて、どちらも目立った怪我は無いようだった。
「コォハァクー!」
怒りと寒さに震えたスオウがコハクを追いかけ回す。しかし、相手は狼の血が入った大型犬だ、追い付くはずがない。怒りがさほど持続しないスオウは鬼ごっこを早々に切り上げた。走り回っていたのはほんの数分だが、風の冷たさもあって体の芯まで冷えてしまっていた。こんなことは予想していなかったので、着替えは宿にしかない。脱いだ着物と洋袴を絞って干し、サツキが宿まで着替えを取りに行っている間、シオリの亡くなった夫の着物を借りることになった。しかし、背が高くて体つきがしっかりしているスオウには着物の丈や裄が足りず、サツキが帰るまでかなり情けない姿で待つことになった。
三十分もあれば往復できるはずだが、サツキが戻ってきたのは一時間後だった。話好きの主人を上手くかわせなかった、と半泣きのサツキを宥めながらスオウは着替えを済ませた。それからしばらくは掃除をしたりサヨとお手玉で遊んだりしていたのだが、結局スオウは頭痛と倦怠感を訴えて、大事を取って宿へと帰ることになった。その足取りは彼らしくなく弱々しかった。
「さすがにやり過ぎですよ、コハク」
サツキに叱られたコハクも珍しく肩を落とし、足取り重く宿へと向かう。
「コハクは、おとななの? こどもなの?」
純粋に疑問に思ってのことだろうが、サツキはサヨに責められているような気がして言葉を返せなかった。
夕食をサヨと済ませ、サツキは一人で宿に戻ってきた。風呂に入り、明日の準備をして布団に潜る。これをしておかないと、朝の支度に時間が掛かってスオウたちを待たせてしまうことになる。
戸の向こうから他の客の声がまだ聞こえていた。
旅人が多く集まる街の宿では格安料金で泊まれる大部屋もあるが、人の気配に敏感なスオウは他人と雑魚寝をするくらいなら野宿を選ぶ。サツキは良く知らないが彼の懐具合は悪くないようなので、今のところ大部屋に泊まったことはない。サツキとは旅を始めた頃から一つの部屋でも眠れたようだが、コハクが言うにはそれは珍しいことらしい。しかし、一人で眠った方が疲れは取れると言うので、宿が混んでいない限りは部屋は二つ借りる。そうした場合、コハクはその日の気分でどちらで眠るか選ぶが、今晩はスオウを選んだようだ。
いつもより早めに床に就いたせいか、真夜中に目が覚めた。宿の従業員も当然休んでいて、風の音くらいしか聞こえない静けさだった。
(スオウは大丈夫でしょうか)
ゆっくり体を休めたほうが良いだろうと、宿に戻ってからスオウの部屋には一度も近付いていない。でも、やはり気になる。寝間着の上から肩掛けを羽織り、サツキは静かに部屋を出た。
起こさないように慎重に戸を引く。音を立てぬよう少しずつ。片目で覗けるくらいの隙間ができたとき、サツキはほっと息を吐き室内を窺った。
スオウは一人ではなかった。蝋燭の揺らぐ明かりの中、布団の上で横座りをしている女性の太ももに頭を乗せ、ぐっすりと眠っている。女性は汗で濡れるスオウの前髪を優しい手つきで撫で上げていた。顔を覆うものを全て外したスオウは、いつもより幼く見えた。
うつむいていた女性が、ふと顔を上げた。ゆるく波打つ肩までの漆黒の髪。切れ上がった目尻。色素の薄い虹彩。細い鼻筋に、ふっくらした唇。体は女性らしい丸みを帯びていて、袖と裾を短く切った着物から、腕と足が大胆に晒されていた。
サツキは驚きと同時に、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を感じた。共に過ごすようになって二年。スオウが女性と親密に触れ合っている姿を見たことはなかった。しかし、十八ともなれば結婚していてもおかしくない歳だ。サツキの知らないところで、こういうことが今までもあったのかもしれない。
(邪魔をしてはいけない)
戸を閉めるのも忘れ、サツキは足音を立てないことだけに集中して自室へと帰った。
サツキが自分の布団に潜り込んだ頃、スオウにひざ枕をしている黒髪の女は戸の隙間を見やり、声を潜めて笑っていた。