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序章

 自分が眠っていたことに、目を開けて初めて気が付いた。ぼんやりとした頭を覚まそうと瞬きを二回する。

(どうしてこんなに眩しいんだろう)

 いつもの朝の目覚めかとも思ったが、それとは違うと直ぐに思い出す。にわかに鼓動が速まる。辺りを満たすのは湿った土と草の匂い。目の前にはどこまでも高い青い空が広がり、風に吹かれて揺れる草の先が頬をくすぐっていた。

(あんなに高いところから落ちたのか)

 どれくらいの時間気を失っていたのかは判らないが、いつまでもこのままではいられない。まずは起き上がってからだ、と力を入れた途端、全身に経験したことのない激痛が走った。その痛みは息を吐くだけでも増し、普段は意識もしない呼吸に、生まれて初めて恐怖を感じた。

(大丈夫。この痛みは生きている証拠だ)

 少し休めばいつものように家に帰れるはずだ、と自分に言い聞かせた。


 この山にはこれまで何度も登ってきた。一番初めはただ歩いているだけでも簡単に転んでしまうような幼い頃で、山道でつまずく度に手を引いてくれていた祖父が転ばないように体を引き上げてくれた。そのときの浮遊感を、何故か未だに覚えている。

 雪のない期間は三日に一度くらいの頻度で山に入っていた祖父は、いつも大きな荷物を背負っていた。日もちする食料、水筒、着替え、暖かい毛皮、火を熾す道具と鉈。そして、首からは小さな笛を下げていた。

 ──この笛かい? もともとは熊避けだが、怪我で動けなくなったときには笛の音で見つけてもらうんだよ。

 ──熊が出るの? 怖いよ、じぃじ。

 ──出るかもしれないな。けど、じぃじはこの山で熊に遭ったことは一度も無いよ。

 祖父が山にいるのは一日にせいぜい数時間で、空が明るくなってから登り始め、暗くなる前には必ず家に戻っていた。祖父の頭の中にはこの山の崩れやすい場所や、わき水や果樹の位置などが全て入っていたはずだが、年齢を重ねて直ぐに息を切らすようになっても荷物を減らすことは無かった。

 ──山の機嫌はころころ変わる。昨日と今日が同じだと思っていては駄目だ。だから、いつ機嫌が悪くなってもいいように、備えは必要なんだ。

 その眼差しはとても真剣で、怒鳴っていたわけでもない祖父を、幼かったわたしは怖いと思ってしまった。

 ──まぁ、ばぁばと一緒だな。

 わたしの恐怖に気付いたのか、祖父は笑いながらそう付け足した。祖母は感情の起伏が割と激しい人で、菓子や酒を片手に機嫌取りをしている祖父の姿を度々見かけた。それを思い出して吹き出したわたしの頭を、祖父は日に焼けた、ふしくれだった手で力強く撫でてくれた。

 その日は朝から天気が良かった。気温も山を登るのにはちょうど良いくらいで、わたしは山に入る準備を鼻歌を歌いながらしていた。けれど、祖父は作業場で仕事を始め、今日は山には行かないと言った。

 ──少し体がだるいんだ。おまえも、ほんの少しでも体調が悪いと思ったら山に入ってはいけないよ。そんなことをしたら山に怒られてしまうからな。


 祖父はちゃんと教えてくれていた。山は決して優しくはない。人を拒みはしないが、完全に受け入れもしないのだ、と。

 昨夜は雷雨が激しかった。稲妻が何度も闇夜を青白く染め、屋根に穴を穿ちそうな程に雨が打ち付けていた。深夜に一度だけ家の壁を揺らすほどの大きな音がしたとき、どこか近くに落ちたな、と他人事のように思っていた。

 わたしが今日持っていたのは、摘んだ草を入れるための、小さな籠だけだった。もっとも、それも今は手から離れて何処かに行ってしまい、装いも少しの間だけだから問題ないだろうと、あまり動きやすいとは言えない普段着だった。

 そして、気軽に登り始めた山道の途中、落雷で倒れた木を見つけ、ここだったかと跨いで避けたが、草に隠れていた枝に裾をとられて体勢を崩してしまった。咄嗟に転ばないようにと片足を大きく前に出したけれど、その足が濡れた草で滑り、脇の崖から転げ落ちた。

(まるで喜劇だ)

 恐る恐る呼吸を繰り返していると、痛みが少し和らいできた。しかし、今度はめまいと吐き気が酷くて目を開けていられない。その上、昨夜の雨で濡れた地面に横になっているせいか、寒さで体が震えている。

 不意に、葉擦れの音がした。

 風は今、止んでいる。震える体を抑えようと、息を止めて奥歯を噛みしめる。音の原因が人なら良い。兔や鹿でも、助けてはもらえないが殺されることもないだろう。最悪なのは、山犬の群れや熊だった場合だ。

 耳をそばだてた。葉音と共に聞こえる足音は規則的で、迷わずこちらに向かって来る。音の間隔や重さからして、兔や山犬ではなさそうだ。大きな雄鹿か、あるいは。

 いよいよ、足音が直ぐ側まで来てしまった。どれだけ奥歯を噛みしめても、震えはもう治まらない。覚悟を決めて目を開け、足音の主を確認したが、視界がぼやけていてその輪郭しか判らなかった。

 人だ。それもしっかりとした体格の男。この男だったら自分を担いでいても、恐らく山を下りられるだろう。安堵で涙がにじんできた。

 男はゆっくりと、わたしの肩の辺りに片膝を着いた。その動きがやたらと美しく、思わず見惚れてしまった。

「動けるか」

 無理だ、と答えたつもりだったが声になっていなかった。男はわたしの頭を片手でひょいと持ち上げ、持っていた水筒から水を飲ませてくれた。

「しばらくそのままでいろ」

 何だか愛想は良くないが、声は悪くない。低いが深い響きがあって、こもらずによく通る。再び目を閉じ間近で見た男の姿を脳裏に浮かべる。

 年は自分よりも少し上くらいか。長い前髪で片方しか見えなかったが目付きは鋭く、なかなかの美丈夫だ。鍛えられた体は健康そうで、身長もかなり高い。初めて会った男だが不思議と安心できたのは、彼の髪の焦げ茶色と目の深緑色が、この山の色合いと似ていたからだろうか。

「もう話せるだろう。おまえはどうしたい」

 言われてみれば痛みはすっかり無くなり、他の不調も治まっていた。けれど、起き上がろうとしても体は少しも動かず、頭の奥がぼんやりとしていた。心と体の間に隔たりがあるような奇妙な感じがする。

「家族が待っているんです。いかないと」

 自分の声が遠い。他人が話しているのを、水の中で聞いているような感じだった。

「わかった。送ってやろう」

 その返事に安心したせいか、先程から感じていた隔たりが大きくなってきた。このまま眠ってしまっても、約束通りこの男は連れていってくれるだろうか。

 そういえば、彼はどうしてこの山にいるのだろう。それに、水筒以外に荷物らしい荷物を持っていない。

 気にはなるが、もう限界だった。わたしは息を一つして、意識を手放した。


◇◇◇◇◇

 男は長着の懐から小さな巾着袋を取り出した。男の持ち物にしては可愛らしい花模様の赤い巾着には、小指の爪の半分の大きさも無い、硝子玉のようなものが数個入っていた。長い指で中の一粒を慎重に取り出す。男の眼下で眠っているのは、今日初めて会った名も知らぬ人だ。

 小さな玉をその人の口の中に落とし、唇を湿らす程度の水も含ませる。そして、男は何かを呟きながら、水筒の水の残り全てを横たえられた体の上に適当に掛けた。

 水に濡れた体をざっと確認し、男は最後に左手の指輪に視線を止めた。薬指から銀色の指輪を雑に抜き取り、再び何かを呟いて男は口元を緩ませる。

「家族、か」

 男は立ち上がって膝を軽く払うと、青空を見上げて目を細めた。

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