名も無きもの
かつて、大罪を犯した魔術師がいた。
魔術師は国を滅ぼし世界を焼き付くし、自身の体も滅びそうになる頃には、辺り一面何も無かったという。
やがて、傷ついた体は眠りについた。気づけばそこは牢獄の中だった。世の人々が、大罪犯した強大な魔力の持ち主である彼の体を傷付ける術は無かった。
魔術師はまだ少年だった…。
彼は疲れていた。
なぜなら牢獄を抜け出たから。
長年出来なかったものも、成長と共に容易くなる。
そして確かめたかった。
あのときの自分を動かした、他の誰かの存在を。
漆黒の闇を歩み、気がつけば、足が向いた先はスラム街だった。
人気の無いようであるような場所。
誰もが口を閉ざし空腹をしのぐ場所。
しかし、どこか懐かしい。
彼のいた世界は、彼の手によって滅ぼされた。
ーーー やめろ!!やめてくれ! ーーー
目の前で生きていた人が次の瞬間には動かなくなる。
その姿は血にまみれ、取り返しがつかない惨い(むごい)形。
ーーー違う…違う!!これは僕の体なのに…!! ーーー
彼が目にした自分の腕は彼のものではない赤に染まっていた。
意志があるのに体が自分とは別の力につき動かされる。
ーーー やめろぉぉお!! ーーー
心が叫べば叫ぶほど、未熟な体から溢れる魔力で周りの人々は気を失っていく。
自分の世界が自分の手で滅ぼされる様を見ることは、まだ幼い少年には、耐えがたい苦しみだった。
そんな過去を思い出してしまうのは、このスラム街が育ったあの街とどこか似ているからなのかもしれない。
貧しくも心だけは豊かだった。
仲間たちに囲まれ、時には悪さをし、駆け回る。小さな彼の世界の全てがそこにあった。
「これをどうぞ。」
突然目の前に差し出されたのは、一欠片のパン。どこかの没落貴族だろう。
服装は清楚とは言えないが、上品な生地だ。
長くおろした金色の髪と似合っている。
「ありがとう。」
ひとまず受け取った。口からは低い声がこぼれた。
いつの間にか顔を覗かせた太陽が、彼女の顔をひどく美しく照らした。
相反して緑の瞳には光が無い。
彼はまたもや自身の持つ膨大な魔力を恨んだ。彼女の心を察してしまう。
「貴方、脱獄者かしら?」
「それがなんだ?」
彼女がそう言うのも当然で、彼は犯罪者の証があった。右耳の後ろから胸元に向けての刻印。
「かくまってあげましょうか?」
彼女は歪んだ笑顔を見せた。
「断る。」
隠れているほど彼は暇ではなかった。匿うための家すら失った彼女の相手をしている暇は無い。
彼は受け取った物をその場に置くと立ち上がった。
気がつけば彼の後ろにはやせ細った男の子がいた。
彼が置いた物を拾い、全力で駆けていった。
「あっ!それは私がこの人に…」
「何でもいいだろ。優越感には浸れただろう?」
彼女の美しい顔が羞恥の赤に染まった。
「ごめんなさい。」
「別に謝ることでもない。些細なことだ。」
そう、それは彼が受けた仕打ちより遙かにどうでもいいこと。
顔を赤らめたまま、彼女の口が透き通った音を奏でた。
「あの、あなたの名前は?」
「名前……?」
考えてもみない質問だった。
顔も見たことのない親が付けた名など知らなかったからだ。
自らの手で滅ぼしたスラム街にいたころは、"ぼうす"で通っていた。
彼の知っている名前はただ一つ。
「……ルート。」
それは彼の愛した名。
あの街の名前。
彼は歩いていた。彼女を引き連れて。
いや、正しくは彼女はついてきただけ。
「ねぇ、ルート、私も連れていって!こんな町はもう嫌。」
彼は無視して歩く。
「お願い!!私は天涯孤独なの…。」
すがるように見つめる瞳。濁りが深くなっている。
「知るか。」
「なんて冷たいの?」
それは仕方の無いこと。
あの日以来、彼には温かい血は通っていない。
「ジュナス・リリック・マカード。」
突然彼が口から出した言葉は、さっき彼女が口にした名前。確かめたかった。何か違和感がある。
「ジュナでいいわ。」
柔らかな表情の彼女は歌声のような声を奏でた。
「一つ聞きたい。俺が牢獄にいた間何があった?」
彼女は青空を見上げた。
「そうね、貴方はいつから牢獄に?」
「"滅びの日"から。」
「そう。」
彼女から笑顔が消えた。もちろん彼は、それに動じることはなかった。
「答えろ。」
「唯一残ったこの国の王が世界を統一したわ。内乱はまだ至るところで続いているけど。」
「冗談だろ?」
彼の足が止まった。
「真実よ。」
彼女の顔には闇が映し出されていた。
「滅びの日…貴方が悲劇の被害者だったのね。」
彼女はまた何もない青だけを見つめた。
「被害者?」
「私は、あの日の真実を知ってるの。」
「詳しく教えろ。」
彼は灰色の瞳でそれを見つめた。
「私はあのころは、まだ一流貴族だった。日々が美しかった。平和で平和で、この世の中が狂うことなど無いと、信じて疑わなかったわ。」
「そんなことを聞いてるんじゃない!"滅びの日"の真実を教えろ!!」
彼は彼女の襟元を掴んだ。
驚きの悲鳴の後、彼女が口を開いた。
「あれは王が有能な魔術師に命じてやらせたのよ。世界征服のために他の国をすべて滅ぼすように…。」
彼女の襟から手が離れた。
「やらないとその魔術師の大切なものを奪うってね。でも世界を滅ぼすほどの力を持ち合わせてなかった彼は、より力のある他人を操ることにした。」
彼女の瞳か彼の瞳を捕らえた。
「それにはまだ幼くて未熟で、力に目覚めていない貴方が適任だったの。」
彼は悲しみに満ちた彼女の瞳を見た。
「それで、その魔術師は?大衆の命より、自分の思いを選んだ奴は?」
「死んだわ。」
「死んだ?どういうことだ?」
「貴方の想像を絶する力に翻弄されてね。本当は貴方が死ぬ予定だったのよ?力を使いきってね。」
「おまえ、異様に詳しいな?」
「だって、お父様の資料を勝手に読みあさったからね。他国にいた私の友達の死の理由をどうしても突き止めたかったのよ。」
彼の疑いの目に彼女は妙に冷静だった。
それはまるで人形のよう。
「なるほどな。」
彼は興味を示していないようす。
「貴方これからどうするの?」
彼はそうだな、と短めの黒髪をかきあげた。
前髪で隠れていた瞳は、光によって美しくキラキラと輝いた。
彼の心とは裏腹に。
「俺を操った奴に復讐でもしようかと思ったが、死んだんじゃできないな。」
「じゃあ王様でも殺せば?あの人は母様を葬ったのよ?それに…。」
彼女は、よほどのショックなのか、ハハッと笑って見せた。
「そうだな。」
彼は悲しみの笑みを浮かべた。
その時彼は、辺りに染み渡った自身の魔力によって全てを察してしまっていた。
「ここが王宮よ。」
気ままに王様の元へと来てみたが、彼は初めて見る立派な建築物に目が釘付けになった。
「早く王を殺しましょう。」
彼女は、もう色を失った瞳で門までの白い石畳を見つめた。
「嫌だね。」
彼は本当はもう人を殺めたくなかった。
自分の意志では無いにしろ、目の前で人が生き絶えていく様は二度と目にしたくなかった。
たとえそれが苦痛を与え、時間を奪った相手であろうとも。
答えはわかっていても、本人の口から聞いてみたかった。
「なぜそれほどまでに王を憎む?殺す必要があるのか?」
「早く…」
彼女はうつむいたまま。
「他人の命を奪った者は耐えがたい苦しみを伴う。苦しませておけばいいものを…。」
その途端、彼女は内側の怒りを露わにした。
「私が…私が王を殺さないと気が済まない!!」
握りしめた拳からは赤が滴っていた。
「くだらないな。」
ため息をついた彼の心は悲しみに満ちていた。
「何?」
美しさを捨てた彼女の醜く鋭い瞳は彼を見た。
「おまえは殺したいんじゃなくて殺して欲しいんだろ?」
何もいわず彼女は目を見開いた。
「俺は殺してはやらないがな。」
彼女はまた彼をにらんだ。
「殺せ!!」
「断る。」
「ならば死ね!!」
指先を鋭くとがらせ、まるで槍のように彼の顔めがけて突き進めた。
彼は風でも受けるかのように体をかわした。
腕が動く度、彼女の手のひらからこぼれた赤が、白の石畳を彩った。
「死ねぇ!!!」
「レット・ヒルド・マカード。」
「何っ?」
途端に、彼女の動きがぴたりと止んだ。
「おまえの名だろ?ジュナはお前の大事な娘だ。」
「なぜ分かった?」
「知るか。」
それは紛れもなく彼の魔力のせいだった。
彼自信、その大きさには気づいていなかったが…。
「貴様…殺す!!」
彼女、いや、レットの顔は歪んだ笑顔に満ちていた。
「言っておくが、俺はおまえを殺さない。たとえ俺を操った者だとしても。それに…俺はお前の苦しみを止めてやりたい。」
無我夢中で彼に腕の槍を突き刺そうとするレットを彼は涼しい顔でかわしていく。
「なぜだ!?ルート!私を殺せ!!」
歪んだ笑顔は消え、この世の者とは思えないほどの恐怖を浮かべていた。
「生きているのがそれほど苦痛か?」
「当たり前だ!!私は数え切れない人間を殺した!!お前を通してこの目で見た!肌で感じた!なぜだか分かるか?」
レットの声は枯れ、女性の物ではなくなっていた。
もちろんレットは女性ではない。
自らのすべての力を使って、あたかも少女のように見せていただけだった。
その少女の姿は正しく(まさしく)、レットが失ったの愛する娘だった。王は彼の大切な存在をも奪ってしまっていたのだ。彼はただ、娘をこの世界に存在させたかった。
「知らないね。」
「娘を…ジュナを殺されたんだ。卑劣にも目の前で…。だから殺した!!手にかけた奴を…他人を身内を!だが恨みは晴れなかった!結局は王の言いなりだ!世界は奴のものだ!お前のような力が欲しかった!そうすればジュナはっ…」
「そうか、それは残念だな。俺はこんな力は欲しくはなかった。」
レットの刺すような動きが止まった。
彼はその力で作り上げた、掴むことすらままならない幻影のナイフを、レットの首もとに当て、引き抜いた。
「結局俺もお前の言いなりだ。だが、これでお前は救われるのか?」
「あぁ、ルート、やっと私は…」
レットは力つきた。
体はぼろぼろに崩れ、砂のように消え去っていった。
その存在はただの未練だった。
レット・ヒルド・マカードは、もうすでにこの世を去っていたのだ。
残された彼は知っていた。
あの日の悲しみも、命の尊さも。
彼がかつて美しい花を愛で、人を愛おしく思っていたことも。
彼はいつかきっと、自分の"本当の名"を呼んでくれる人を探し出すだろう。
そしてきっと平和な世界を…
ありがとうございました。
2009年に執筆した際は、軽い気持ちで書いたのですが思いのほか感想をいただき、嬉しかった思い出があります。
そんな中、心残りがいくつかあったので、とても悩みましたが10年たった今、加筆させていただきました。
より鮮明に見えるようになっていれば幸いです。
津田花