良い嫁の条件
真吾のお母さん視点のお話です。リクエストをいただいてからずいぶん時間がかかりましたが…軽い気持ちでお楽しみいただけたら(^_^)
――良い嫁の条件って何かしら。
紀子さんとお茶をしていたら、そんな話になった。
紀子さんは私の夫の弟のお嫁さん。
わかりにくいけど、つまり私たちは倉持家の嫁同士ってこと。
そして、わたくし倉持真里子と倉持紀子さんは仲良く午後のお茶を楽しんでいる。
嫁同士って言ってももうお互いにいい年したおばさんだし、
午後のお茶って言ってももう夕方も過ぎちゃったけど。
同居している夫の両親はクイーンなんとかっていう豪華客船で世界旅行中だし、夫たちはどうせ仕事で遅くなるのだろうし、紀子さんの娘の茜ちゃんから今日は晩ご飯いらないっていう連絡が入っているしで、暇なおばさん二人組のお茶会はずるずるとのびていた。
話題の中心は、紀子さんの息子(つまるところ私の甥っこ)の貴俊と、うちのドラ息子の真吾
……の、お嫁さん。
姑による嫁談義ってとこかしら。
貴俊のお嫁さんは美咲ちゃんといって、明るくてとっても家庭的。
真吾のお嫁さんはハルカちゃんといって、こちらも明るくかていて……うん、まぁ、その、家庭的の定義って難しいわよね。
そんな話をしている最中に、どちらの口からともなくぽろりと零れた言葉がこれ。
――良い嫁の条件って何かしら。
「難しいわね」
「そうねぇ」
「やっぱり、性格がいいことかしら」
「でも性格が良いっていうのも難しいわよね」
「たしかに」
「ハルカちゃんも美咲ちゃんも良い子だし、良いお嫁さんよね。美咲ちゃんはすごく家事が得意でお料理も上手だし、ハルカちゃんも……ハルカちゃんは……」
言ったものの、言葉に詰まってしまった。
あ、念のため言っておくと、息子のお嫁さんのハルカちゃんはとっても良い子。ただ、どうやら家事が全般的に苦手らしいということが最近発覚。真吾曰く「散らかし魔でめんどくさがり屋で味音痴」とか。でも、だからといって悪い嫁ってことにはならない。人には得手不得手があるもの。ただし、いまのところハルカちゃんの手料理をいただくというイベントは何となく回避している。
「まぁ夫婦なんてバランスだから。家事なんて得意な方がやればいいのよ。特にあの子たち、二人とも働いてるんだし」
私が言うと、紀子さんはうんうんと頷いた。
「そうよねぇ。私たちのときとは時代も環境も違うもんねぇ。何より、真吾くんも貴俊も幸せそうだし」
「今のところ嫁姑問題も起きてないしね」
「ねぇ、どうする? 嫁姑戦争なんか起きちゃったら」
紀子さんはくふふ、と笑いながら言った。
「ああ、それよ、それ。真吾がね、結婚前に真顔で『悪いけど、母さんとハルカの仲がこじれたら俺は絶対にハルカの側につくから』って言ってきたの。だから言ってやったのよ。『じゃあ夫婦げんかの時は私はハルカちゃんにつくからね』って」
「あら、世の夫に聞かせてやりたい台詞ねぇ。さすが真吾くん。うちの貴俊にもそれくらいの気概があればいいけど、あの子が私にそんなことを言ってくることはないなぁ」
紀子さんと貴俊には血のつながりがないせいか、貴俊はほんの少しだけ紀子さんに遠慮している。まぁ、貴俊はすごく優しいから、実のお母さんだとしてもそんなこと言わないだろうけど。
「真吾の場合は過去に色々ありすぎだから、よっぽどお嫁さんを大事にしないと逃げられちゃうって自分でもわかってるんじゃない? ハルカちゃん、真吾みたいなタイプはもともと嫌いみたいだし」
「あら、なぁに? それ、初耳」
「真吾が言ってたんだけどね、ハルカちゃんの理想の人は卑屈系ビンボーなんですって」
「そ、それはずいぶん特殊な好みね……」
「まぁさすがにそれは冗談だと思うけど、とにかく真吾みたいなタイプは苦手らしいのよ。なんていうのかなぁ。あの、ナルシーな感じ。そりゃあそうよね、ハルカちゃんは真面目に育った女の子って感じだし。それなのにナルシーな真吾と結婚してくれたじゃない? だから真吾は感謝してるんですって」
あら、ナルシーってもう死語かしら。
まあいいわ。
あの神話のナルキッソスのことよ。
子育てをしながら、自分の息子がいつか水仙になっちゃうんじゃないかっておびえてたのは広い世界を探してもわたしくらいのものじゃないかしらね。
「あの真吾くんがそんなこと言ったの?」
「そうなのよ。信じられないでしょ?」
「人って本当に恋愛で変わるものなのねぇ。真吾くん、ブレない感じなのに」
やっぱりそう思うわよね。
真吾は典っ型的なドラ息子だった。
暴力沙汰とか犯罪とかそういうのに関わるようなタイプではなかったけど、何せ自分が大好きな上に女性関係が派手で派手で、一体誰に似たのかしらと随分物議の種になった。
まぁ間違いなく夫の家系だと思うけど。
ありとあらゆる反射物を鏡代わりに使うし、イケメンだねって褒められたら「だろ?」って言うし……一度、街中のショーウインドウに映りこんだ自分の姿を見ながら髪の毛を整えて満足げに笑う姿を目にしたときはあまりの情けなさに泣きそうになったわ。
その上生意気に中学生のころから彼女なんか作っちゃって、それからずっととっかえひっかえしていたみたいだし。親のネットワークですぐに私の耳にも入るんだけど、あまりにも数が多すぎるから、恥ずかしくてしょうがなかった。そのくせ初恋の幼馴染の伊織ちゃんに対する気持ちはしつこく大人になるまで持ち続け、伊織ちゃんが婚約したと知るや焦って『伊織と結婚させてくれ』なんて言い出す始末。誰一人として反対はしなかったけど、伊織ちゃんにその気が全くなかったので残念ながら真吾の想いは叶わず。
本当の意味でひどかったのは、それから。
健康的なただの女好きだったのが、ほんとに……あぁ、もう思い出すだけで胃がキリキリしてきた。
「あのころの真吾はどこに向かってるかわからなかったわね」
私が言うと、紀子さんは苦笑しながらうなずいた。
「そうね」
あのころ、というだけで紀子さんに通じてしまうくらい、本当にひどい有り様だった。
伊織ちゃんを忘れようとでも思ったのか、次から次へといろんな女の子と付き合っては……いや、付き合ってはいなかったのかなぁ。よくわからないけど、とにかく女性の出入りがものすごく激しかった。一人暮らしをしているマンションにたまに掃除に行ってくれるお手伝いさんの斉木さんが「また別の女の子でした」と報告してくれたり、噂で耳に入ったり、あとは実家であるこの場所まで押し掛けてくる女の子がいたり……もともときれい好きで割ときっちりしてたのに、部屋も荒れ放題になっていって。生活の乱れが顔にも出てしまっていた。
一度面と向かって「あんた、お付き合いしてる人はいるの?」と聞いたら「日替わり定食」と言われ、情けなくて涙が出た。
「まぁ、真吾くんは本当にモテてたわよね」
紀子さんがフォローするように言ってくれたけど、あれはモテるとはちょっと違うんじゃないかしらね。
本当にこのままいくと一生結婚しないか、するとしてもできちゃった婚――今は授かり婚というんだったかしら?――になるんじゃないかと思ってビクビクしてた。最近は授かり婚とやらも珍しくないみたいだし、別にそれはそれで一つの形だけど……親の気持ちとしては正直複雑。日替わり定食の相手と「妊娠がなければ結婚はしなかっただろう」っていう中途半端な想いで結婚して大丈夫なのかしら、という心配もあったりして。
「ハルカちゃんと付き合ってるって聞いたときは本当に安心したわよね」
「そうね」
美咲ちゃんと貴俊の結婚までの流れが特殊だったせいで、ハルカちゃんと私達は真吾とハルカちゃんが付き合い始める前から面識があった。だから息子が「ハルカちゃんと付き合うことになったから」って言ったときは、あら案外見る目あるんじゃないのドラ息子、と思うと同時に、ハルカちゃん純粋そうなのにドラ息子につかまっちゃったのね、という思いもあって、嬉しいのと申し訳ないのが入り混じっていた。
「真吾くんが彼女を家族に紹介なんてびっくりしたけど。あれから真吾くん、目に見えて落ち着いたわよね」
紀子さんのしみじみとした言葉に大きく頷く。
本当に、その通り。
派手だった夜の付き合いがなくなり、斉木さんに後始末や片づけを頼んでくることがなくなった。夫によると、仕事に対する姿勢も変わったのだとか。貴俊と美咲ちゃんとの結婚式の準備だとかでバタバタしてて、女遊びをする時間がなかったのもよかったのかも。
そして婚約までこじつけ、入籍した。
「ハルカと結婚するから」って言われて「あら、早いわね」と言ったら「はやくねぇ。もう追いかけっこはこりごりだ」と苦笑いされたのは、いい思い出。追いかけっこって何のことか知らないけど、ハルカちゃんは運動大好きみたいだから二人で追いかけっこでもしてたのかしらね。
ハルカちゃんが一体どんな魔法をかけてドラ息子をまともにしてくれたのか本当に不思議なくらいにあっさりと決まり、「婚約期間が長すぎると真吾さん浮気しそうなので」というハルカちゃんの一言に一家全員が大きくうなずいて、すぐに入籍っていう流れになったのも面白かったわね。
「ハルカちゃんは本当に良い子だけど、どうして真吾があれほど変わったのかは結局謎のままよね」
「うん。これまで真吾くんが付き合った女の子にはきっと良い子もたくさんいただろうに、ハルカちゃんはその女の子たちともどこか違ってたってことなんだものね」
「そういうのを運命の出会いって言うのかしらねぇ」
「そうかも。なんだかロマンチックねぇ」
「それにしても……真吾には死ぬほど似合わないわね……運命……」
「『運命なんて言葉で片付けるんじゃねぇ』とか言いそうよね、真吾くん」
「背筋が寒くなるわね。わが息子ながら」
ああ、水仙になる前にお嫁さんが見つかってよかった。
ピンポーン
二人の身震いを遮るように、訪問者があった。
あら、何てタイミング。
噂をすれば何とやら。
インターホンのカメラに映っていたのは真吾のお嫁さんのハルカちゃんだった。
「あらあらあらあらあらあらあらあらハルカちゃん。どうしたの?」
一緒に玄関まで迎えに出た紀子さんが言う。
無意識なんだろうけど、この人昔っから「あら」と「まぁ」が多いのよね。それも半端なく。ずーっと昔に「紀子さん、『あら』って言うの口癖だよね」と言ったら「あら、そう?」と返されて以来、指摘したことはないけど。
「あ、貴俊さんのお母さん。こんばんは」
「まぁまぁハルカちゃん、どうしたの?」
「お義母さん。ごめんなさい、突然お邪魔して」
「全然構わないけど、どうしたの? 何かあった?」
「あの、前にお邪魔した時に……」
もしかして忘れ物かな?
一瞬そう思ったけど、ハルカちゃんは手に持っていた紙袋をずいと差し出してにっこりした。
何かしら。
「あの、お義母さんが食べたいっておっしゃってた人気爆発売り切れ御免のお取り寄せスイーツがですね、偶然手に入りまして」
「え?」
「北海道に住んでる友達に聞いてみたら、店舗販売ならお取り寄せより手に入りやすいっていうので、その友達に頼んで送ってもらったんです」
それって全然偶然ではないんじゃあ。
「あらま、ありがとう。ごめんね。それにわざわざ届けてくれて……さぁさぁ、上がって?」
私が家に上がるように進めると、ハルカちゃんは玄関先でもじもじした。
「あの、でも私はこれで失礼して……」
「用事が特にないなら、せっかくだし一緒に食べましょうよ」
ああでも、こういうときって無理やり誘っちゃいけないもの?
かといって、届けてもらってハイサヨナラっていうのもおかしいわよね。
ナルホド、ここで相手の心をうまく読まないと親切の押し売りになるのね。
そしてそれが溜まり溜まって嫁姑戦争になる、と。
メカニズムがわかったわ。
ここは慎重にいかないと。
どっちかしら。ハルカちゃんの真意は……
どうにかしてその心の内を読み取ろうとハルカちゃんの顔を凝視していると、ハルカちゃんはいたずらっ子みたいな笑みを浮かべた。
やだ、この表情ちょっと真吾に似てる。毒されてるわよ、ハルカちゃん。
「いいんですか? お義母さんの取り分、減っちゃいますよ?」
息子に似たニヤリという笑みを浮かべ、ハルカちゃんが言った。
取り分、と来たか。
「そうねぇ。実は、私も紀子さんも最近お腹周りを気にしてるのよ。だから減った方がいいのよね、取り分。それに、死なばもろともっていうじゃない? 姑だけで太るくらいなら、嫁も巻き込みたいところよね」
そう言うと、ハルカちゃんは声を上げて笑った。
「じゃあ、もろともします!」
「さ、どうぞどうぞ上がって」
それにしても、テレビ番組を見ながら「おいしそうねぇ、これ」って言っただけなのにわざわざお友達に頼んでくれるなんて。
変に気を遣わせたのなら申し訳ないことをしたわね。
これからは発言に気をつけないと。
ああ、でも、あんまり気を遣いすぎるのもよくないのよね。
あれこれ気を遣いすぎて疲れて爆発するくらいなら、何も考えない方がマシだし……
他人同士が家族になるって、本当に難しいわね。
まぁ、当然か。
新米の嫁と、新米の姑。ペーペー同士なんだものね。
「何だかごめんね。気を遣わせちゃったみたいで。そんなつもりで言ったわけじゃなかったのよ。もちろんすごくありがたいんだけど」
考えあぐねてそう言ったら、ハルカちゃんはぶんぶんと首を振った。
「あの、これ賄賂ですから」
「賄賂?」
「お義母さんを味方につけておけば、何かあっても真吾さんが踏みとどまってくれるかなあと思って」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
何ていうか、この子の一番いいところはきっとここね。
これがドラ息子をまともにした魔法なのかも。
明るくてまっすぐで、そしてちょっとだけ、まっすぐの方向がズレてる。
だからとっても予想外。
それでいて正直だから、心の中を探る必要がない。
楽しくて、疲れないのね、一緒にいると。この年齢になってつくづく思うけど、一緒にいて安らげる人って実はそう多くない。だからこれはすごく大事なこと。息子がそういう人と出会えてよかった。うん、うん。
ハルカちゃんは仕事が終わって家に帰ったらこのスイーツが届いていたからと、すぐにうちまで届けに来てくれたようだった。
ハルカちゃんの分の紅茶を入れるついでに、とっくに空っぽだった私たちのカップも満たし、スイーツを頬張りながら3人で他愛もない話をする。
さすがにさっきまでの話を再開はできなかったけど、昔のアルバムを引っ張り出してきて真吾と貴俊の小さい頃の話なんかをしていたら、あっという間に辺りはとっぷりと暗くなっていた。
「あ、もうこんな時間。随分引き留めちゃったけど、平気だった?」
壁の時計を見てすでに20時を回っていることに気づいた私が声を掛けると、ハルカちゃんはいそいそと立ち上がった。
「すっかり長居してしまってすみません。そろそろお暇しますね」
「ああ、うちは全然いいのよ。ハルカちゃんが平気なら。もう遅いし、仕事帰りに真吾に迎えに来てもらう? あの子、最近はそんなに夜遅くまで働いてないんでしょ? なんならうちでご飯食べて行ってもいいし」
そう言うと、ハルカちゃんは一瞬動きを止め、それからいえいえ、と笑った。
「真吾さんは出張、で、今、いないんです」
あら、出張中だったのね。
夫の出張中なんて家事もテキトーに手を抜いてカウチポテトして過ごすものだと勝手に思ってたけど、そんなときにわざわざ夫の実家に届け物をしてくれるなんて。
ありがたいやら申し訳ないやら。
ハルカちゃんは自分が使っていたティーカップを片づけようと持ち上げる。
「ああ、いいのよ、置いといて」
というか、真吾が出張ならなおさら、うちで晩ご飯食べて行かない?
そう提案しようとした瞬間、今日再びの、ピンポーン。
やってきたのは、貴俊と美咲ちゃんだった。
「やっぱり母さんこっちにいたか。電話しても出ないから、きっとここにいるだろうと思ったんだ」
そう言って貴俊はいそいそと靴を脱いで上り込んでくる。
紀子さん一家はこの母屋の隣にあるおうちに住んでいるけど、同じ敷地の中に立ってることもあって境目はとってもテキトーで、どっちが自分の家だかよくわからないくらい頻繁に行き来がある。だから貴俊にとってはここは実家同然。でも美咲ちゃんの方はそういうわけにはいかないらしく、少し緊張の面持ちで貴俊の後ろに立っていた。
「ちょうどよかったわ。今ハルカちゃんも来てるのよ」
みんなで晩ごはん食べましょう、と言おうとした私の耳に、がちゃんという固い音が飛び込んできた。
――あら?
「ご、ごめんなさいっ」
続いてハルカちゃんの声が聞こえ、あわてて居間に戻ると、ハルカちゃんは床に落ちて粉々になったティーカップを前にあたふたあたふたとしていた。
「あれ? ハルカ」
玄関から私の後に続いてリビングに入ってきた美咲ちゃんが意外そうな声を上げ、貴俊も「おや?」という感じの声を上げた。
「真吾さん、もういいの?」
美咲ちゃんのその声に、ハルカちゃんがうめき声をあげた。
何か、状況がつかめないわね。
「真吾さん、もう具合よくなったの?」
ハルカちゃんから返事がないので、美咲ちゃんがもう一度言った。
え? 具合?
ハルカちゃんはわかりやすいくらい目を泳がせていて、何だかそれ以上聞くのがかわいそうになってくるほど。
それにしても、本当にわけがわからなくなってきたわね。
「えーっと、貴俊、美咲ちゃん、とりあえず座って? 紀子さんに会いに来たんでしょう?」
「ああ、うん。そうなんだけど。ハルカちゃん? 大丈夫?」
そう言いながら貴俊は美咲ちゃんをソファに座らせ、ハルカちゃんに心配そうな視線を投げた。
「あの、はい、えっと。はい。いえ、あの、その、全然、はい」
これは大丈夫じゃないわね。
私は粉々のカップの前にしゃがみ込んだハルカちゃんをとりあえず立たせ、怪我がないかざっとチェックしてから椅子にそっと腰かけるように促した。
「ハルカちゃん、真吾の具合って?」
「あの、私は、その、何も、知らなくて」
「え? 真吾、家で寝てるんじゃないの?」
貴俊の問いかけに、ハルカちゃんはブンブンと首を振った。
「出張だって、私には。昨日から」
「え?」
貴俊の顔色がさっと変わった。
「ちょっと貴俊。どういうこと?」
私が問うと、貴俊はゆっくりと言った。その視線の先に、ハルカちゃんをとらえたまま。
「会社には病欠の連絡が入ってるはずだ。昨日も今日も」
えーっと、状況を整理しましょう。
というか、私の頭の中を。
つまり、あのバカは病気だと嘘をついて会社を休みつつ、奥さんには出張だと嘘をついてどこかをほっつき歩いていると。
「まさか真吾……浮気……」
貴俊の口からこぼれた言葉に、私も紀子さんも美咲ちゃんも、言葉が見つからなかった。
まぁ、それが一番最初に思い浮かぶ言葉よね。
浮気。
浮気?
真吾なら、やりかねない?
悪びれもせずに「日替わり定食」と言ってた昔の真吾なら。
でも、今の真吾も?
ハルカちゃんをからかって遊んだり、ハルカちゃんがピアノ弾いてるところにちょっかい出したり、ハルカちゃんの手料理の失敗作の写真を見せびらかしたりして、すごく幸せそうにしてたのに。
そう思ったところで家の電話が鳴り響いた。
「あ、ちょっと待って」
そう言って電話を取ろうと近寄ると、ディスプレイには「真吾携帯」と出ている。
むむっ。このタイミングで。
受話器を取る手に力が入って、血管が浮き出していた。
ガチャ
「はい、倉持でございます」
相手がわかっているので別に名乗らなくてもいいのだけど、いつもの癖でそう言って電話に出ると息子が焦った様子でまくしたてた。
『母さん、今どこ?』
「どこって、これ家の電話なんだから家にいるに決まってるじゃない。それより私には、あんたに言ってやりたいことが……」
『ハルカどこにいるか知らないか』
息子の口からハルカちゃんの名前が出て、思わず受話器を握りつぶしそうになった。
「しってる」
力を込めて言うと、息子は情けない声を上げた。安堵したような、なんかふにゃふにゃした声だった。
『もしかして一緒にいる?』
「ええ、ええ、いますとも。ハルカちゃんなら今ちょうどうちでワイルドストロベリーを粉砕してたとこです」
背後で申し訳なさそうなうめき声が聞こえた。
あら、冗談のつもりだったけど、気にさせちゃったかしら。
電話の向こうでは安堵したようなため息。
『よかった……悪いけど、ハルカに俺が行くまでそっちに居ろって伝えて』
「俺が行くまでって、あんた今どこに居るのよ」
『東京駅』
「出張?」
『いや……』
「ああら、出張じゃないの?」
厭味ったらしく言ってやったら、電話の向こうで息子が息を呑んだ。
『いや……着いたら話す』
そう言った声は奇妙に上ずっていて、明らかに何かを隠しているって感じ。
まったく。ドラ息子には、何か説明できないことがあるらしい。
『とりあえず、すぐ行くから。絶対にハルカ帰さないで』
「わかったわよ」
『頼む』
プツっと一方的に切れた電話のプープー音を聞きながら、しばし考える。
これは何かただ事じゃなさそうね。
どうしたものかしら。
受話器をそっと置いて振り向くと、床に散らばった破片を拾おうとしているハルカちゃんを紀子さんが「危ないから」と止めていた。
「ハルカちゃん、箒持ってくるから触らなくていいわよ。怪我したら大変」
そう言って床に四つん這いになっているハルカちゃんの顔を覗きこんだ。
あれ、泣いてる?
ハルカちゃんが、泣いてる。
真吾にどんなにからかわれても、いっつも楽しそうに笑っていたハルカちゃんが?
どうやら本格的に、ただ事ではないみたい。
「カップのことなら気にしなくていいわよ。これ、人からよく貰うやつだから。同じのがたくさんあるの。一セットくらい割れても全然平気なのよ」
そう言うと、ハルカちゃんは「ごめんなさい……」と言って唇を噛んだ。
そして、その目からポロリと涙が一粒、零れ落ちた。
これは違うわね。
カップのせいで泣いてるわけではない。
「真吾と何かあったの?」
そう言うと、ハルカちゃんはただ首を横に振った。
「わからない……んです」
「とりあえず座って」
そう言って促すと、ハルカちゃんは抵抗せずにゆっくりと椅子に腰かけた。美咲ちゃんと貴俊も心配そうな表情でハルカちゃんを見つめている。
「あの、本当に私は何も知らなくて……ただ、私は大阪に出張って聞いてて……でもその……」
そう言ってハルカちゃんは一瞬美咲ちゃんに視線を送った。
美咲ちゃんがそれを受け取って、口を開いた。
「あの、私は貴俊さんから真吾さんが病欠って言うのを聞いてたので、今日会社でハルカに会った時に聞いたんです。『真吾さんの具合は平気そう?』って。たぶんそれで……」
なるほどね。
それじゃあ、ハルカちゃんは知ってたのね。
貴俊と美咲ちゃんがここに来る前から、知ってたのね。
真吾に嘘をつかれたってことを。
「でもたぶん浮気ではないと思うんです。真吾さん浮気はしないと思います」
ハルカちゃんは、力のこもった声で言った。
たぶんハルカちゃんを除く誰もの心の中に浮かんだその単語。
それを、ハルカちゃんは打ち消す。
無理に強がっている様子ではなく、本当にそう信じているっていう表情で。
「何かもっと大変なことなんじゃないかなって……でも、私には何も思いつかなくて」
ああ、だから今日この子はここへ来たんだわ。
ふいに、そう思った。
「あの、ごめんなさい」
「何が?」
謝るのはこっちなんだけど。息子があんなでごめんって。
「美咲に会社で言われた後、ぐるぐる考えながら家に帰ったらちょうどスイーツが届いてて。その……ちょうどいいなって思って。明日になるまで一人でずっと真吾さんの帰りを待つのはちょっとしんどいかなって思って、それで、ここに。ごめんなさい」
「ハルカちゃんが謝るようなことじゃないわよ。真吾が嘘ついたのがいけないんだし。おいしかったし。あれを食べた以上、私はハルカちゃんの味方よ」
別にスイーツなんてなくても、この一件で嘘つき息子の味方なんてしないけど。
それにしても、あのバカ。
『必ずハルカの味方をする』とまで言ったくせに、なんで自ら苦しめるような真似をするのかしら。やっとのことで落ち着いてくれたと思ったのに、また昔に戻るのかしら。ああ、情けない。
紀子さんは真吾のことを悪く言うのも憚られるのか、おろおろとハルカちゃんにハンカチを渡したり、床に散らばった破片を掃いてくれたりと動き回ることで動揺を殺そうとしているみたい。
私は腕を組んだままじっとしているだけで精一杯だった。
あのバカを、どうしてくれよう。
それからドラ息子が息を切らして家に飛び込んでくるまで30分以上はかかったはずだけど、その間5人ともほとんど言葉を交わさないまま椅子に座ってじっとしていた。
紀子さんと美咲ちゃんはオロオロ、貴俊はウロウロ、私はイライラ、ハルカちゃんは一人、しゅんとして。
「ハルカ!」
息子は、ものすごい物音と共に駆け込んできた。
ドア、壊れてないわよね。
それで、誰よ、これは。
一瞬別人かと思った。
高校時代に部活でぐちゃぐちゃに汚れて帰って来たときでも、もうちょっと爽やかだった気がする。
髪の毛はあらゆる方向になびいてファイヤーな感じになってるし、
マフラーらしきものが一筋首に巻きついて締め上げてるし、
コートの襟元は思いっきり崩れてそこからネクタイが飛び出てるし、
息がものすごく荒れてるし、
靴、履いたままだし。
――え?
「ちょっと、靴くらい脱ぎなさいよ」
そう言ったら息子は自分の足元を見て、初めて気づいたように慌てて靴を脱いだ。そしてそれを床に放り投げる。
ああ、泥が……この絨毯クリーニングするの大変なのに。主人がトルコ出張のお土産に買ってきてくれたとっておきなのに。
真吾はドラ息子だけど、野蛮だったことはない。野獣だったことはあるかもしれないけど。
さすがに土足で家に入ったことはなかったと思う。
それだけ急いでたってことかしら。
こんな姿は初めて見たわ。
そして、ハルカちゃんにとってもこんな姿を見るのは初めてだったらしい。
「あの……真吾さん、どうしたの?」
「ああ……無事で……よかった……」
真吾が脱力したように言った。
「え、それどういう……ぶわっ」
最後まで言い切る前に真吾がハルカちゃんを抱きしめたので、ハルカちゃんは中途半端な声を出した。
「あらあらあらあらあらあらあらあらあら」
紀子さんが口元に手を当てて嬉しそうに声を上げる。
うーん、浮気、ねぇ。
ハルカちゃんの言うとおり、その線は薄いかも。表現しがたい感情に襲われながら顔を上げたら、愉快そうに微笑んでいる美咲ちゃんと目があった。
参ったわね。こんなアツアツを見せつけられちゃって。
そういうメッセージを込めて口角を少しねじって見せたら、美咲ちゃんは小さく声をあげて笑った。
「母さん、今日こっち泊まってもいいか」
顔を上げた息子がハルカちゃんを腕の中に閉じ込めたままそう言ったので、私は何も言わずに目を細めて息子を睨みつけた。
「何だよ」
「その前に、言うことないの」
このバカはその腕の中に居る子が声を殺して泣いていることに、気付いているのだろうか。
「別に私に説明する必要はないけど、ハルカちゃんにはちゃんと話しなさいよ」
「何を」
「あんたが嘘をついた理由」
あ、顔色が変わった。
いったい何がしたいのよ。
息子はハルカちゃんを離し、その顔を覗きこんだ。
「あんたバカでしょ。ここに貴俊がいるって時点であんたの嘘はバレてるのよ。夫婦のことに口出しする気はないけど、ハルカちゃんが何でここに来たのかちょっと考えてみることね」
真吾が嘘をついているって気づいたとき、ハルカちゃんには他の選択肢があったはず。
夫が昔一度だけ(かどうかわからないけど私が把握しているのはその一度だけ)浮気をしたとき、私は迷わず幼い真吾を連れて自分の実家に帰った。連れ戻しに来た夫を実家の両親と共に糾弾し、土下座するまで許さなかった。
でもハルカちゃんはここへ来た。
一人で真吾を待つ間心細いからと、お取り寄せスイーツを口実に、真吾の実家であるこの場所へ。そして、私たちに事情を話すでもなくスイーツを頬張って笑っていた。ちょうど美咲ちゃんと貴俊がここに来なければ、ハルカちゃんはきっと何も告げずに一人で家に帰ったのだろう。
何て健気。
うちのドラ息子との違いといったら。
ああ、情けなくて涙が出そう。
「馬鹿じゃないの。何が嫁姑戦争のときは嫁の味方する、よ」
自分が凶悪な顔をしている自覚はある。
だって、腹が立つんだもの。
こンの、バカ息子が。
「嫁と親なら嫁を取るってくらいに、大事なんじゃないの? 偉そうなこと言ったくせに自分で泣かすなんて何してんのよ。ウソっていうのはね、泥棒のはじまりなんだからね!」
子どもに言うみたいな言葉を吐き出しながら、イライラがどんどん増幅していく。
「まぁまぁ……」紀子さんがおろおろと間に入るけどその声には覇気がなくて、その代わりに真吾を見つめる目には棘があった。
ふん。嫁姑戦争でなく、嫁姑同盟よ。
「会社には病欠の知らせ、奥さんには出張って嘘。美咲ちゃんとハルカちゃんが仲良しだって知ってて、よくそんなバレバレな嘘ついたわね」
「ああ……」
「馬鹿じゃないの」
本当に。
「馬鹿じゃないの」
もう一度言うと、真吾は深く項垂れた。
「ちがう、ハルカが泣くようなことじゃ……」
「私に言い訳してどうすんのよ。ハルカちゃんに説明しなさい。許してもらえなくても、私は知らないから。おいしいケーキもらっちゃったから」
「ケーキ?」
真吾が間抜けな表情を見せたけど、思いっきり顔をそむけて無視してやった。
本当においしかったのよ、ケーキ。
「ハルカ。ごめん、落ち着いたらちゃんと説明しようと……」
そう言って真吾がハルカちゃんの肩を掴んで顔を覗きこむ。
その困った顔がまた苛立ちを募らせる。
こンの、バカむす……
「馬鹿たれっ!」
私の心の内を代弁するように、高い怒鳴り声が上がった。
「ど、どれだけ心配したと……帰ってこないかと……思って……馬鹿っ」
あまりの剣幕に息子がたじろいでいる。
こんなに小さな体のどこからそんな声が出るんだろうって言うくらい、ハルカちゃんの声は大きかった。飾り棚のガラスが割れるんじゃないかと思うくらい。
「ごめんハルカ、ちが……」
「あの人なの? 年末の」
「……え?」
「電話、家の電話に、何回も何回も、私の携帯にも」
ハルカちゃんの後ろ姿しか見えないのに、その目から涙が飛び散るのが見えた。それからハルカちゃんはぷるぷると震えている。
『年末に会ったあの人』
つまり、やっぱり、浮気なの?
「ハルカ」
「真吾さんは……真吾さんは……」
ぷるぷるするハルカちゃんを前に、息子は何やら焦った様子でそれを宥めにかかる。
「落ち着いて。説明させて。やばいから」
何がやばいっていうのよ。ヤバいのはあんたのそのチャラさよ。
そう思った次の瞬間には、真吾の言葉の意味を理解した。ハルカちゃんの体がぐらりと傾ぎ、真吾がそれをすっと掬い上げるように抱き止めたから。
「ハ、ハルカちゃ……」
一瞬何が起こったのかわからないまま私が慌てて手を伸ばすと、息子はゆっくりと首を振った。
「大丈夫だよ。すぐに意識戻るから」
小柄なハルカちゃんを易々と抱き上げ、居間のソファに横たえる。
「……どういうこと?」
「いっぱいいっぱいになると気を失うんだ」
なにそれ。そんなの聞いたことないんだけど。
「極度のストレスとかで気が遠くなるって、よく小説とかドラマとかにあるだろ」
「あれって本当なの」
古い洋画でたおやかな女性がよよよと倒れて、気付けにウイスキーを飲まされてるシーンならたしかに見たことあるけど。
「本当なんだよ。ハルカは特にそれがひどい。だから、落ち着くまで言わないでおこうって」
「何を」
「ここんとこ色々重なって……まさか、自宅に電話までしてくるとは思わなかったし……なんでうちの電話番号知ってるんだ。ハルカの携帯も」
真吾はハルカちゃんの横にしゃがみこんだ。
「何があったのよ」
「……ストーカー」
それは、衝撃の告白だった。
「ストーカー? ハルカちゃんがストーカーされてたの?」
「いや、俺」
「どういうことよ」
「俺がストーカーに遭ってた」
「誰から」
「元カノ」
「いつの」
「もう覚えてない。たぶん三年くらい前か……もっと前に、一週間だけ付き合った子」
一週間。
ああ、クラクラしてきた。
三年前っていうと、まだ真吾が荒れてた頃ね。
「名前すら、すぐには出てこなかった。どこで出会って、どうやって付き合って、どんな風に別れたのかも覚えてない」
「……最低」
「わかってる」
そう言った真吾の拳がぎゅっと握られていて、どうやら息子に対して不甲斐なさを感じているのは私だけではないってことがわかった。
「で、なんでストーカーに? 前から?」
「いや。別れた後も別に連絡先も変わってないから時々メールとか電話とかはあったんだ。ハルカと付き合い始めた後にも何度か会いたいって連絡があったけど全部断った。でも、どこかで俺が結婚したって聞いたらしくて……年末ハルカと出かけた先の店で話しかけてきたんだ。明らかに偶然じゃない感じで。値踏みするみたいにハルカを見てて、何か嫌な感じだなと思ったんだよ」
「なるほど」
「それから連絡が毎日来るようになって。電話もメールも鳴り止まないし、会社にもときどき姿を現すし」
「それをハルカちゃんに話せばよかったんじゃないの」
「そうだけど……巻き込みたくなかった。相手が明らかに尋常じゃない様子だったから」
「はぁ」
ため息が出る。
何かっこつけてんだか。
「だから極力ハルカと一緒に帰るようにしたりして、ハルカに危害が及ばないように気をつけてたんだけど……」
「それ、逆効果だったんじゃないの」
「……そうかもしれない」
「で、大阪も、それ絡みなの?」
「一回だけ大阪に会いに来てくれたらもう二度と付き纏わないって言われたから、指定された場所に会いに行った」
「そんなの信じるなんてバカじゃないの」
「でも、他に方法が見つからなかったんだよ。参ってたん」
「……それで?」
「いなかった。代わりに電話があって『ようやく引き離せた』って。それで、あわてて大阪からとんぼ返りしてきたんだ。ハルカにオニ電しても出ないし……会社に電話したらとっくに帰ったって言うけど家の電話には反応ないし……」
オニ電が何かわからないけど、この流れでいくと電話をかけまくるってことかしらね。
そう思いながらふと視線をやった先にある息子の手がブルブル震えていた。そうか、それで、うちに電話してきたときあんなに動揺してる感じだったのね。ハルカちゃんに何かあったんじゃないかと。
「浮気かと思ったわ」
私が言うと、息子は軽く頭を振った。
「浮気なんかしない」
「お父さんも同じこと言ってたわよ」
でも、浮気、したし。
男の「浮気しない」が信頼に値するものじゃないことは、長い人生でよくわかっている。それで壊れてしまった夫婦だって、身の回りにいるのだから。
「俺はまじでしない」
「なんで」
「約束したから」
「誰と」
「ハルカの姉ちゃん」
「……おねえさん?」
結納のときに会ったハルカちゃんのお姉さんは、たしかすごく背が高くてシャープな感じの女性だった。よくわかんないけど、おねえさんとの約束を守るらしい。
息子の思考回路、謎。
「ん……」ハルカちゃんが小さく息を吐き出して、睫毛がふるりと揺れた。
「ハルカ。ごめん」
普段は邪魔なくらいデカイ息子が小さく丸まってハルカちゃんの前にしゃがみこんでいる。
「うわき?」
ハルカちゃんが小さな声で問う。
「違う。マジで違う」
息子がそう言ったら、ハルカちゃんはヘラッと笑った。
「知ってる。だってあの女の人、真吾さんのタイプじゃないもん」
「え……」
「真吾さんのタイプは、鼻が低くて胸が小さい人だから」
あら、言うじゃない、嫁。
それ、ハルカちゃん自身のことだものね。
あれ、失礼かしら。
かわいいと思ってるけど。小さな鼻に、小さな胸。新婚旅行はリゾート地がいいと言った息子を相手に、水着は絶対に着ないと強硬に主張し、結局二人はフランスに行った。そんな話の流れで、ハルカちゃんの悩みを知っていた。
それにしても、私たちここに居ていいのかしら。
二人の間に流れ出した微妙に甘やかな雰囲気に、さてどうしたものかと紀子さんの様子をうかがった。
ああ、ダメだ。紀子さん完全に楽しんでる。美咲ちゃんも。貴俊、あんたまで。カエサルの叫びが頭の中を流れ飛んで行った。
紀子さんは二人の会話を一言一句聞き逃すまいと耳を傾けて、その目は爛々と輝いていた。
「でも、話してくれなきゃわかんない。真吾さんが家の中でも携帯を手放さなくなって、その携帯がひっきりなしに鳴ってて、それにときどきものすごく低い声で電話で誰かと話してて……どんなに考えても、わからなかった。何も言わないってことは私が知らない方がいいことなのかなって思って聞かないでおいたけど、やっぱり気にはなるよ。嘘かれたことが分かった後、家にかかってきた電話を取ったら『私と一緒にいるの。わかったでしょう?』って言われて。悲しくなった。電話が鳴るのも怖くて」
それで、家に居たくなくてここに来たのね。
正直で心の中を探る必要がないって言ったの、撤回。
明るくて正直で何でも話すように見えるけど、肝心なことだけ我慢しちゃうのね。
これは良くないわね。
でも、不安を隠して笑っていたその気持ちが痛いほどよくわかる。私も夫の浮気がわかるまで、不安をずっと殺してたもの。まぁ、浮気が分かった途端にぶちギレしてさっさと実家に帰ったけど。
ああ、姑が嫁を抱きしめたくなるっていうのは普通のことなのかしら。
私、結構今、本気で検討中なんだけど。
「ごめん」
「バカたれ」
「ごめん、ハルカ。ごめん」
「バカたれ」
しかし、こう何度も息子をバカ呼ばわりされると何となくモヤっとしてくるものね。いや、息子が悪いんだけど。私の育て方が悪かったことを指摘されているような気持ちに……
ちょっと待って。ちがうちがう、悪いのは息子。
ダメダメ、姑根性がむくむくと生まれて来てるわよ、私。
自分を叱咤していると、息子はしなしなにしょぼくれて項垂れた。
「電話はたぶん嘘だろうなって思った。ただ、何も話してくれないのが辛かった。そんなに頼りにならないかなって思って」
「ごめん。違うんだ。まじで。あれ、元彼女で。今はストーカーで。でも、言えなかったんだ。自分の蒔いた種だってわかってるからこそ、ハルカに呆れられそうで」
「何をいまさら」
ハルカちゃんはぺちんと軽く真吾の肩を叩いた。
「50人も元カノいて、ワンナイト含めると100人もいる人と結婚したんだよ。ストーカーくらい、屁でもないよ」
息子よ。
100人って。
誰か嘘だと言って。
いっそ水仙になってくれた方がよかったんじゃないかしら。
「そうか」
「うん。でも怖いから、明日一緒に警察に相談しに行こう?」
「うん」
はーい、これにて一件落着。
目の前の二人がちょっとおアツイ雰囲気になって来たので、続きは二階でやって頂戴と言ってリビングを追い出した。
ふう。
その後、ストーカー問題は結局警察に相談して、警察からの口頭注意で収まったらしい。というか、死力を尽くしても引き裂けないことがわかったってとこなのかしらね。ストーカーの気持ちなんてわかんないけど。
もちろん真吾は嘘をついて仕事を休んだことで夫から大目玉を食らい、「従業員兼務の取締役の身で何をふざけたことをしてるんだこのバカヤロー!」という怒号に、近くにいたハルカちゃんが震え上がって気を失うという出来事まで待ち受けていた。
良い嫁の条件って難しいけど、間違いなく言えることが一つ。
あの息子を元カノの人数込みで受け入れてくれたってだけで、万歳。
次回の更新までかなり時間が空きますので、いったん完結とします。