そしてどこへ向かうのか
今日は快晴。
どこまでも広がる雲一つない青い空。
穏やかな風が窓から入り込み、カーテンがひらひらと揺れる。
黒板には少し前に終わった数学の授業の内容が、所狭しと書き連ねてある。
私にとっては可もなく不可もなく、そんな難易度だった。
「なぁ」
突然隣から声をかけられる。
隣の彼は学年でもトップクラスの秀才。
でもどことなく近寄りがたい雰囲気で、加えて口数も少ない。
席替えで初めて隣になった私も、未だにまともに会話した覚えなど、まだ数えるほどしかない。
「何?」
「極限を取ると限りなく0に近づくのに、実際そうなる確率が1なものって思い当たるか?」
「え?」
「なんか思いついたら教えてくれ」
ぶっきらぼうに言うと、彼は窓の外に広がる青空に目をやる。
何を突然……と思いつつも、私は少し考えを巡らす。
その確率の極限を取ると0に近づくのだから、分母→∞か分子→0
でも、実際は確率が1である……?
「ねぇ」
「思いついたのか?早いな」
「いえ……。それってありえないじゃない?」
「どうしてそう思う?」
「だって、極限をとって0なら分母が無限大か分子が0でなきゃいけないのに、実際の値は1になるんでしょ?」
「ああ」
「もちろん前提として、その求める確率に対する問題は同じ問題なのよね?」
「当然」
「それなら確率が1になる条件である、分子と分母が1に収束するということに反しているはず」
「そうだな」
「これは答えにはならないの?」
「いや、その説明に間違いはない」
とは言いつつも、彼の横顔はどことなく不満そうに見える。
「不満そうね」
「不満……ではないけどな」
「じゃあ一体何?」
「そうだな……」
そういいながら、彼は青空の遠くを眺める。
グラウンドでは他の学年の生徒が体育の準備をしながら騒いでいて、そんな騒ぎ声が私達のいる教室まで聞こえてくる。
「少なくとも数学においては、間違ってはいない」
「私も間違ってはいないと思う」
そう言うと、彼は黙ってしまった。
やはり彼はよく分からない人だ。
その日の放課後。
清掃を終えて教室へ戻る。
教室内の窓は全て閉じられ、カーテンも束ねられており、黒板はチョークの後がうっすら残る程度に綺麗にされていた。
窓を見れば夕日が沈んでいくのが見える。
そんな夕焼けの赤に彩られた教室に、たった一人で外を眺めている人がいた。
彼だった。
「また昼の悩み事でもしてるの?」
「そんなところ」
「どう?答えは出た?」
「答えは見つかった」
彼は外をぼんやりと眺めながら、そう答えた。
外では夕焼けの中で野球部やサッカー部が、昼とはまた違った騒がしさで練習を重ねている。
「教えてくれないの?」
「すまないが、教えられない」
「結構ケチな人だったのね」
人の解答に文句付けた癖に、自分の解答は教えないなんて。
そう思いながら、皮肉をこめてそう言った。
彼は変わらず外を眺めている。
「じゃあ、私そろそろ帰るから」
そう言って鞄を取って外へ出ようとする。
夕焼けの赤は少しずつ紫へと変わり始めていた。
「一つだけ言うのなら」
教室の扉を出る直前、彼は私の方を向きながら、いつもより少し大きい声で言葉を発した。
思わず私は彼の方を振り返った。
「俺のその確率は1なのかもしれない」
そう言った彼の顔は、外の紫の影のせいか、少しだけ悲しそうに見えた。
私にはやはり彼がよく分からなかった。
それから数日、彼の出した問題が頭を離れなかった。
私が即興で出した解答は、間違えてはいない。
それは彼も認めたことである。
では何故彼は納得がいかなかったのだろうか?
何故答えを教えてくれなかったのだろうか?
最後に言った、彼にとってその確率が1であるというのは、一体何なのか?
そして、何故かこれらのことが心の隅でちらちらと私の方を見ている気がして、どことなく気持ち悪かった。
でも、直接彼に聞くこともできなかった。
教えてくれる気配もなかったし、なんとなく聞くのが躊躇われたからだった。
時間は経ち、季節は巡る。
そんなことがあったということも、徐々に記憶の彼方へ追いやって風化させていく。
学期は変わり、学年も変わる。
それは必然に起こることであり、誰も何も気にすることなどない。
――そう、どこにも間違いなどない――
高校生活も残り半月程度となったある日、また席替えで彼と隣になった。
彼はあの時と同じように、外を眺めていた。
風の噂では、最難関の大学を受験するらしい。
秀才の彼なら、きっと受かるだろうとみんな言っていた。
一方私は、成績も中程度、受験する大学も中程度と、ごくありふれた人のうちの一人だった。
「また一緒の席になったわね」
「そうだな」
「口数の少なさは相変わらず?」
「そう思ってくれていいんじゃないかな」
私は妙に懐かしい気分になった。
そして何故だかは分からないが、少しだけ彼が以前より近い所にいるように感じた。
「ところで風の噂で聞いたんだけど」
「何?」
「あの大学を受験するって噂、本当なの?」
「ああ」
「やっぱり凄いのね」
彼はまた黙ってしまった。逆鱗にでも触れてしまったのだろうか。
だが、横目には怒っていないようにも見える。
少しだけ沈黙が重い。
「ごめん、何か気に障った?」
「いや、気にしなくていい」
彼はあの時と同じように、ぶっきらぼうに答えた。
そして受験期間へと時は進んでいく。
もう授業はほとんどないと言っても良く、各々がそれぞれ自分の力を発揮して、試験へ挑んでいく。
私は少し上を狙った大学は落ちてしまったものの、自分の学力で入れるそこそこの大学へと進学が決定した。
そんな受験期間のある日、私は特にすることもないので、暇潰しがてら高校へと足を運んだ。
教室の扉を開くと、外を眺めている彼が一人。
あの時と違うのは、外から騒がしい声が聞こえないことだろうか。
「また外眺めてたの?」
「ああ」
他に教室に誰もいなかったからか、それとも彼の人柄が以前よりも少し分かっていたからなのだろうか。
私は彼に少しだけ踏み込んでみたい、そう思った。
「答え」
「ん?」
「あの時の答え、教えてくれないの?」
また彼は黙った。
無言の教室で、時計の針を刻む音がいつもより大きく聞こえた。
「答え、気になるのか?」
「気になるわ」
「どうして?」
「間違えてないと自分で言ったのに、納得いかない顔したじゃない」
「そういやそうだったな」
彼は少しだけ笑ったような気がした。
「で、教えてくれる気は?」
「どうせ最後だし、いいよ」
その反応は、少しだけ意外だった。
一呼吸おいて、彼は続けた。
「今この時から考えられる可能性は無限大。誰がどこで何をし何を考えて、それこそ指の角度や肩の開き具合、歩幅の広さや空間における位置に至るまでの全ての組み合わせの可能性。それは過去についても同様で、それを総合した組み合わせが『全事象』だと考えられる」
「そして意識的無意識的にかかわらず、その中のたった一つを選んで今ここまで歩んできた。それは全ての可能性の中のたった一つの事象。そう考えると、今俺達がここでこうしている確率は1/∞であり、これは限りなく0に近づく」
「でも仮にパラレルワールドが存在しない、つまり、『そこでそうする以外に選択肢がなかった』とすると、俺達がここでこうしているのは、たった一本の過去と今の線、つまり、『この過去以外の線あるいは点は存在しない』ということになる」
「そうするなら、俺達がここでこうしている確率は1/1、つまり確率は1である。逆に考えると今辿ってきた過去は、『その過去』以外の経験はないのだから、これも間違っていないと考えられる。『こうなっていたかもしれない』という想像の事象は、実際の過去ではなく、『その時そう考えただけの行動』であって、実際に選択した過去ではなく、またパラレルワールドでもない。なぜなら、パラレルワールドの存在を自分の目で確かめて初めて、その事象が存在すると確認できるからだ。従って確率は1より小さくなることはありえない」
確かに言ってることは間違っていないように感じる。
「じゃあ、パラレルワールドが存在したとすると?」
「存在するなら前者のように確率は1/∞だな」
「まぁ…確かにそうね」
「納得いってないって感じだな」
「ええ」
「いつぞやの俺と同じだな」
そう言って、今度は普通に笑った。
「君は、どっちを支持する?」
「私は、前者かな」
そう答えると、彼は笑いながら、「そっか、それはよかった」と言った。
「貴方はどうなの?」
「俺か?」
彼は窓の外を見た。
大きな雲が空に浮いていた。
「全ての組み合わせの可能性と考えるのが1/∞、それ以外の選択肢がないと考えるのが1とするなら」
「今の俺なら完全な0を探してみたいと思うよ」
そういうことだったのか。
なんとなく、彼のことが以前より分かった気がした。
「ひねくれ者なのね」
「自分でもそう思う」
閲覧頂きありがとうございました。
この作品は筆者が大学4年になる少し前に書いたものです。
穏やかな中にも変化していく人の心や生き方、在り方などを描いてみたかった、ような気がします。
さすがにそこそこ前なので具体的には覚えてないですがw
執筆時間は4時間程度、真夜中にふと思い立って書いた覚えがあります。
自分の作品は、こういった「何かを投げかける」ような、「心象や内面に入っていく」作品が多いです。
ちょっとブラック目なものもあったりするので、人を選ぶかもしれません。
忌憚なき率直な感想、お待ちしています。