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昨日の朝、あの男『カイ』が立っていた場所を、僕は極力見ないように横断歩道を抜けた。少し早く登校の準備をして家を出るまでは良かった。だが、玄関先で無暗に時間を潰してしまった為、ここを通るのは昨日よりも随分遅くなってしまった。
途中、僕がハカナを急かすと、ハカナは笑って「もう間に合わないし、しょうがないよ。たまにはこんな事もあって良いじゃない」と返してきた。それでも僕は、まじめなハカナがそんな事を言い出すのはあまり快く思わなかった。その気持ちを察してか、手を引かれるまま、冬華さんの家の方へ向かうと、土手伝いにある電話ボックスまでわざわざ出向き、学校に電話をする。
「もしもし……はい。二年E組の虚神 葉華那(ウロガミ ハカナ)です。はい……」
最初は何処へ電話をするのか、何を話しているのか分からなかったのだが、途中途中に聞こえる声で、遅れる旨(むね)の電話を学校へしていた事は何となく理解した。
「これで、少しくらい遅れても大丈夫だよっ」
何を言って先生を納得させたのか聞く前に、ハカナは僕の手を引っぱり、少し回り道をして、何時もの通学路へ戻っていった。心なしかハカナは楽しそうにしていた。多分、こうして学校をサボり、街を歩くと言う体験が、とても新鮮な物だったのだろう。
いつもの僕達のペースより少し遅めの登校時間の為か、通勤や登校していると思われる人が殆ど居なく、代わりに街中では、主婦層と思われる人達が多く見受けられるようになっていた。一つ目のアーケードを抜け、二つ目のアーケードの半ば迄差し掛かっても、ハカナと僕はまだ手をつないだままだ。
僕達は、すれ違う人達にとって、良くあるカップル……だと思ってか、どうかは知らないけれど、まぁ意識にすら入らない、極々当たり前の風景の中のオブジェクトに過ぎない。
でも僕は違った。この状況を妙に意識というか……そう、小学校の頃、友達の妹が教室に来ると激しく怒っていた。多分、あの感情に凄く似たものなのだろう。何処か、ハカナに主導権を握られているような、子供扱いされているような、そんな妙な苛立ちと、照れくさささと、まだ、あの頃のように手を繋いでくれていると言う、ほんの少しの嬉しさが混じった奇妙な気分で、妙にぎこちないのは自分でもよく分かったが、そう言う時間は不思議と苦痛ではなく、むしろ僕は楽しんでいた。
途中で通りかかったパン屋の店員が、本日のおすすめを書いた黒板を店の前に出そうとドアを開ける。なかから香ばしい香りが溢れ出て、ハカナは否応なく香りがする方を向いた。遠目から中の様子を伺うと焼きたて、出来たて、と思われるパンがトレイにのせられ、店員が馴れた手つきで一気にショウケースへとそれらを押し込む。形から察するにクリームコロネらしいことは分かった。店員が黒板の位置を何度か調整し直しドアを閉めると、ハカナは名残惜しそうにドアが閉まるのを眺めていた。
「1個だけだからね? 」
その言葉にハカナは口端を少しゆるめてウンと頷いた……が……結局チョココロネも買ってしまった。まぁ、これは恥ずかしながら僕が誘惑に勝てなかったからであって、まぁ、こういう事もあるのだ。
買い物をしている間もハカナは手を離そうとせず、ハカナが左手でトレイを持ち、僕は右手でトングを握った。レジにいる中年の女性はそれを微笑ましく思ってなのか、始終ニコニコしながら僕達に接客してくれた。端から見たら僕達はどういう風に見えるのだろうか……ふと、そんな事が頭をよぎる。
「みんなから見たら、私たちどういう風に見えるのかなぁ? 仲の良い兄姉かな? ちょっとお姉さん離れ出来ない可愛い弟に、それを甘んじて受ける姉。友達……は……無いかな……友達ならこう言うふうにして歩かないし……あと……は、恋人……かな? 」
どうやら同じ事をハカナも考えていたようで、僕が口に出すより先に、ハカナが言った。でも、ハカナがお姉さんは心外だ。見かけだったら僕の方が、どちらかと言ったらハカナより年上に見えるだろうし、オットリしているハカナより、僕の方がしっかりしているように見えるはずだ。
いや、そうすると妹の手を引いて歩く、シスコンの兄と言う風にも見られる訳か。シスコンか……漫画の見過ぎとは言え、少し恥ずかしい気がする。まぁ、この件に関しては、後でゆっくり考え、兄か弟か、どちらかを選択しなければならないだろう。
後……は、恋人か。
「んー僕達、双子っていっても、そうだね……あんまり似てない方だし、どうなんだろう。もしかしたらそう思っている人もいるかもね? でも、なるみ? だっけ? そのこもそうしているらしいし、どういう風に見られても、まぁそう言う物なんじゃないかなって、僕も思うよ」
「あぁ……うん。そうだね。なるみもそう言ってたし。私もそうかなって……そう言う物なんだよね、きっと」
ハカナの言う所の『そう言う物』は、多分、『あるがまま、みたまま』に近い意味なのだろう。今の言葉からは殊更、それを強く感じた。
それからは妙な緊張感もほぐれ、いつもの様にハカナは『哲学』を語り、僕はそれに答えながら学校へと向かう。こうして兄姉で手を繋ぎ、歩くのも悪くないと思い始めていた。
しばらく歩いて、この先を曲がれば学校が見えると言う所まで来た時の事だ。
僕と同じ学校の制服を着て黒髪で清楚な感じの、それで居て、黒縁眼鏡が知的でちょっと大人びた感じの、文学少女らしき女子が、時計を覗きながら少しイライラした表情で辺りを見回していた。
その女子は僕達の方を見ると、誰かを見つけたのか大きく手を振って嬉しそうにしている。それは一見僕等へ向けての様に見えるが、過去の経験と言うか過ちから、こう言う時は大概、嬉々として手を振り替えすと、実は背後にその友人がいた……そう言うパターンだと直感的する。妙に意識している僕を、ハカナは不思議そうな顔をして見ていたが、目線を送り、僕達には関係の無い人だとさりげなく促す。それでも何か納得の行かないような表情で、ハカナは道すがら、その女子を見つめていた。僕は素知らぬふりをして、半ば強引に手を引き、女子の横を通り抜ける。どこかで見た事のあるようなコートを羽織っていたのだが、まぁ、何処にでもあると言えばある。そんなコートだったので、別段気にする事もなく僕達は角を曲がった。しかし、角を曲がってから二・三歩程歩いた辺りの出来事だ。
突然、背中に吹き飛ばされる程の衝撃と激痛が走った。しまった……そう思うより先に、やられた!そう思った。まさかこんな所でこんなに早く、こんな形で奇襲を喰らうとは……自分の間抜けさ加減にあきれながらも、辛うじて右足を踏ん張り、体重をなんとか支え、ハカナの無事を確認する。どうやらすんでの所で身を躱していたらしく、既に体勢を整え、何が起こったかを把握したようだった。
「こらっ!アタシの事を無視するんじゃないよ!むかつくんだよ。そういうのがさ!」
なんだか、聞き覚えのある声が僕等の方へ怒鳴りながら近づいてくる。
「あれ? もしかして……やっぱり、ふーちゃん!」
ハカナは嬉しそうに声を上げると、その黒髪の女性に大きく手を降った。
「おっすハッチ!悪いね驚かせて。でもこんな人情味の無い男、目茶苦茶むかつくんだよね」
「でも、私も声聞くまで分からなかったよ……ふーちゃん昨日と全然ちがうんだもの」
「ハッチは素直でよろしい!でもねセツナ!アンタ男の癖に女の顔忘れるなんてどういう事さ、幾ら昨日が初対面だからってアタシの事を無視したのはチョット許されないよ!」
見た目とは裏腹な言葉遣いと、目茶苦茶な言い分だった。確かによくよく見ると誰かに似ているような気がしたのだが、どうにも誰に似ているかが思い出せない。もどかしさに気持ち悪くなり、思い切って聞いてみる事にした。
「え? えーっと……ふーちゃん? て……どちらさまでしょうか……? 」
ふーちゃんと呼ばれた女性は不機嫌そうな顔を更に不機嫌にすると、手のひらで思い切り僕の肩を小突く。
「なんだよ!それって新手の嫌がらせ? 猛然とムカついてきたんデスケドー!」
そう言って僕の肩をもう一度、思い切り小突いた。
「ちょ……ちょっと待って下さい、落ち着いて!ぼ……僕何か悪い事したのかな? って、え……と……」
「せっちゃん、冬華さんだよ? 」
「そう!冬華さ……って……ええ!? 」
ようやく気付いた僕を睨み付ける。肩を怒らせ、腰に両手をついてつま先を何度も地面に叩き付ける様子から、まだそうとうイライラしている様だった。なるほど、落ち着いてみると確かにそこに立っているのは冬華さんだ。しかし、パッと見では分からない程変わっているのだ。どう考えても僕に非があるようには思えない。
それにしても残念だ。これで控えめな言動だったら僕的にはかなりの高評価だった物を……しかし、それはそれ、無い物を求めてもしょうがない。癪(しゃく)に障るが、これ以上話が拗(こじ)れては面倒な事になりかねない。今は謝っておいた方が良さそうだ。
「す……すいません……全然印象がちがって戸惑ったって言うか……その……」
「なんだよ!確かにこの格好地味だけどさ、一晩越した位でこのアタシの顔を忘れるわけ? アタシとアンタの仲はその程度の物だったの!? 」
よく分からないが、僕達はいつの間にかその程度以上の仲だったらしい。取り敢えず今は取り繕わなければ……
「いやぁ、何て言うか、昨日と印象が全然違ってたし、そう言うのに疎くて、あっ、でも眼鏡とかも似合ってたし……」
「ん? 似合ってたし? 」
不意に冬華さんの眉間から、しわが消える。直感的に、取り敢えず思いついた言葉で持ち上げる事を試みる。彼女の心の隙を突き、打開策を見いださねば。
「なに……もったい付けないでいってみなよ」
「は……はい。似合ってたし、こんな美人っていうか、そう言う人、僕、知り合いに居ないなって思って……それで……」
少々あからさまで、言ってる自分としても歯の浮く思いだけど、我慢しなければ。ほんの少しの我慢で、後の平穏が買えるなら安い物だ。
「ふむ……端的に言うと、アンタに女子の知り合いは居ないと、そう言う事か。まぁそうだろうね」
結構酷い言われ様だが、あながち間違いでは無い。しかし、流石にムカつく……
「そこまでは……」
そう言いかけて口をつぐんだ。
いけない、いけない……ここはグッと堪えて相手の出方を良く見なければいけない。折角機嫌が良くなってきて居るんだ。好きなだけ喋らせよう。ちょっと苦痛だけど、この面倒臭い女子から解放される為なのだから。
「いいって!まぁ今度からはアタシみたいな美人が知り合いになったんだからさ、もうチョット自信もちなって!」
そう言ってケタケタ笑いながら、僕の横へ来て肩をバンバン叩く。何時でも逃げられる様に、密かにじりじりと離れていたのだが、その苦労も空しく一瞬で間合いを詰められてしまった。僕は、この苦痛な時間がもう少し続く事に目眩を覚える。
疲れてきたのか、おもむろに僕の肩に肘を掛けた。顔が近すぎて僕は妙に意識する。ふと、冬華さんから昨日の様な、きつい香水の香りがしない事に気付く。今日は大人し目で、甘い香りがした。
「まぁね。アタシもあんまり気合い入れたらアンタ達が分からなくなるかも知れないと思ったんだけどさ」
だったら、もうチョット気を遣ってくれ……僕はそう思った。
「まぁまぁ、今日はチョット大事な用があるからね。こうして気合い入れてきた訳よ!ん? 用事? それはさ、秘密だね。ん? 何? 知りたいわけ? 」
聞いていないし、知りたくも無かった。肩に乗せられた肘さえ無ければ、僕はこの瞬間逃げ出していただろう。
「えーっ。何、何? ふーちゃんの用事って……分かった!男の人とデートとか? 」
ハカナは目を輝かせながら、冬華さんの誘いに乗って行った。確かに部活一辺倒の生活、暇さえあれば祖父の家に入り浸って稽古をしているハカナには縁遠い話で、そう言うのに興味があるのは分かる。だからと言って、イメージチェンジをした位で、安易に恋愛へと結びつけるのもどうかと思う。
「ふふ……どうしても知りたいってかぁ? しょうがない……教えてあげるよ。まぁね、ハッチが言うようなあれじゃないんだけどさ、バイト? 始めようと思ってさ。やっぱバイトっつったら、こー……何て言うか第一印象が大切なわけよ。わかる? んーまぁ、社会経験の浅そうなアンタ等に言ってもわかんないんだろうけどさ、用はだまくらかして、組織にもぐりこんじまったらコッチの勝ちなわけ。後は前の髪型にしようが何しようが大体は何とかなっちゃうんだよね。え? 何のバイトかって? 」
もったい付けるように僕達の顔を見回す。ハカナは興味津々といった感じでゆっくりと息を飲んだ。
僕はと言うと、ここで仮に『いらないです』とか言おう物なら……どうなる事か……想像するにおぞましかった……が、言ってみたい気もした。そして、気持ちの整理がつかない内に僕は何ともなくと言うか、口が滑ったと言うか、言ってしまっていた。
「いえ、いいです。学校に遅れますし」
そう言って振り返った僕を引き留める手は、半端じゃない握力で、指が肩にめり込み、突き刺さるのではないかと思うほどに力強く、そして殺気に満ちていた。顔は笑っていたが、恐らくそれを無視した途端に僕の人生は終わる……そんな気がした。
「いいって!そう無理しなくても。ホントは聞きたいんだろ? まぁ、遠慮しないで聞いていきなって。なんと、アタシは古本屋にバイトすると決めたんだ!どうよ? 普段、派手なアタシに地味な古本屋ってさ、何かグッとこない? くるよね? ね? 」
「うん!グッときた!来たよ、ふーちゃん!」
「ああ……はぁ……」
冬華さんも冬華さんならハカナもハカナだ。恐らくは助けて貰った事よりも、自分の知らない世界を沢山知っている冬華さんに憧れみたいな物を抱いているのだろうが、それは間違いだと教えてやりたい。後、何というか、取り敢えず冬華さんに間違った世界観を植え付けられる事だけは勘弁して欲しいと思った。
「おー!やっぱハッチは分かるか!このミスマッチが良いんだよ。しかも暇な時は漫画読んでても良いって言ってるしさ。時給はチョイしょぼいけどね。まぁ、仕事内容見たらそんな忙しそうでもないしさ、そんな沢山お金欲しいとかそう言うのじゃないしさ、晩飯作る時間までには帰れるし、それに……」
「えーっ!? それに? 」
「ふふ……ここから先は秘密だよ。女ってのは秘密の一つや二つ持ってた方が魅力的に見えるもんなんだよ。ハッチも覚えときなっ」
「はぃ!」
今日の冬華さんは、明らかに昨日よりも生き生きしていた。そう言う冬華さんは悪くない。悪くないと言っても口を開かなければの話だが……
昨晩、冬華さんは普通の高校生に憧れている様な事をこぼしていたが、多分彼女なりに努力しているのだろう。金髪から黒髪に変え、怠惰な生活からアルバイトを始め、自分の理想的な生活に環境を変化させていくと言うのは結構大変な事だ。大変な事だが、彼女を見る限り、とても楽しそうに思えた。
随分と遅れて僕達は教室へ入る。授業は既に後半で、先生は、今日のまとめに入っている所だった
ドアを開けると視線が一斉に此方を向く。僕はこの瞬間が一番苦手だ。先生は「大変だったな、早く座りなさい」とだけ言い、何事も無かったかの様に授業を再開した。これが僕だけの状況なら、多分、もう一言二言付け加えられるのだろう。それも、おしかりの言葉を……だ。
今後、遅刻した時の言い訳の参考にする為に、ハカナに電話の内容を聞いたら、
「昨日は祖父の家に泊まって、朝、バスで来ようとしたら、途中でバスが立ち往生して遅れた」
と言う事だった。事もあろうに、祖父ネタは僕が良く使う言い訳だったのだが、これでは参考にならない。いや、むしろ、この一件で先生方の、僕とハカナに対する信用の度合いには、大きな差がある事を思い知った。僕が祖父ネタを使うと、全く通用しないからだ。ほんの少し、罪悪感が僕の心をちくりと刺した。嘘をつかせてしまった事と、僕と一緒に居る事でその信用度を下げてしまったのでは無いかと言う懸念からだ。
チラと隣の席のハカナの方を向く。僕の視線に気付いたハカナは少し機嫌の良さそうな顔で、一つ頷く。人の事を言えた義理では無いが、僕は、これを機に、ハカナが悪い娘(こ)にならない事を唯々祈るばかりだった。