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最果てのセカイ  作者: 喪須田 範太
巻ノ壱 鈍銀(にびぎん)の杖を抱える者
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11月29日-1

 階段をハカナが上ってくる。もう何度も聞いた足音……少し急いでいる風にして、軽い音を立てて登ってくる。廊下を歩く音……体重が軽いからか、多分僕のそれより少し軽く乾いた足音……

 結局まともな睡眠をとる事は出来なかった。辛うじて眠りに入ったとしても微妙にむず痒いような痛みが十数分、もしくは数十分後に僕の頭を覚醒させる。それは恐らく本能的に自分を守る行動で、眠ったら、朝、目を覚ましている保証が無いかもしれないという思いから来る物だとはっきり自覚していた。カイは今すぐにどうこうするつもりは無い、と言っていたが、果たしてそれが本当にそうなのか、油断をさせてその隙に……という事も考えられるのだ。


 風呂に入った後の記憶は定かでは無かった。夕食を食べ、早い内からベッドへ潜り込み、何度か微睡みと覚醒を繰り返し、ようやくまともな思考が可能になったのは、日が昇ってからだったように思える。

 始めに、新聞配達のカブがサイドスタンドを降ろし、少し雪の上を歩く音がザクザクと聞こえ、ポストの金具が擦れる音が聞こえた。次にスズメが鳴いた。多分、見た目よりも少し重そうであろう図体が、薄く張った屋根の根雪と薄い金属板の上を跳ねる音で、屋根の上を世話しなくうろついて居る様子がベッドの上からも分かった。隣の家の犬が吠えた。又、カブのサイドスタンドを降ろす音が聞こえ、少し乱暴にポストの金具が跳ねる音が聞こえ、先程よりも早くエンジンを吹かす音が聞こえた。それから、カラスがないた。三回ほど『カァカァカァ』と鳴いた。他に聞こえる音が無いと、カラスの羽ばたきの音はベッドの上の僕にもよく聞こえた。それから、カーテンの間から日が差した。親父が玄関のドアを閉めたと思われる音が聞こえ、それとすれ違いにハカナの部屋のドアが開いた。

 多分、うるさくして僕を起こさないように気を遣ったのだろう。僕の部屋の前で少しの間ハカナの足音が途絶えた。それから数十秒程して階段を下りる音が聞こえて来る。微かに、遠くでカーテンを開く音が聞こえた。

 部屋が暗い分、音だけは良く耳に入った。僕の日常の音、大切な家族、布団の中で延々とそんな事を考えていた。


 廊下の足音が僕の部屋の前で止まる。

 一呼吸置き、ドアをノックする音。僕はわざと眠そうな声で応えた。


「んーっ……起きてる。起きてるよ……」


 静かにドアを開けて、ハカナは心配そうに、暗い部屋の中の僕を覗き見た。小動物の様に少し怯えた表情をしている。僕の寝起きが良くないのもあったが、昨夜は自分でも分かる程、様子がおかしかった事に気を遣っての事なのだろう。薄目を悟られないように、その表情を観察する間も無く僕はゆっくりと目を開け、一つ大きなあくびをする。


「おはよう……」


 そう言って、少し笑って見せる。


「おはよう」


 僕の顔を見て安心したのか、ほっとした表情をした後、又、少し寂しげに笑った。


「ご飯、そろそろ出来るから……一緒に食べよ? 」

「うん……今、行くよ。ドア開けといて」


 その言葉にハカナは一つだけ頷くと、その場を立ち去った。トントントン……と、階段を降りる小気味のいい音と、部屋に流れ込む新鮮で冷たい空気が、心地よく僕の頭を少しずつ何時もとは違った日常へと引き戻していく。


 胸元の火傷の跡の様な痣だけが、痛みと言う、何時でも実感できる感覚で、彼が僕に触れたと言う事実だけを教える。昨夜の出来事、カイと話した事が、時間が経つ程に現実味を失っていくのは、あの場の風景、謎かけの様な言葉、どれを思い出しても、僕の中の常識には無い物が多すぎたからだろう。今は、痛みに紐付けられる様にして、辛うじて彼の言葉がぶら下がっているだけに過ぎない。


 僕は本当に死んでしまうのだろうか……


 もし僕がカイと対峙した場合、どうなるのだろう。ふと、そんな考えが頭をよぎる。おおよそ、魔法の様な存在し得ないはずの力を目の前にして、対処のしようなど、考えるのがいかに無駄な事かは昨夜の出来事で嫌と言う程理解している。半ば、開き直りと言った方が正しいかもしれない。なるようになる物は仕方ない、そういう前提に僕の考えは変わっていった。

 だったら、ハカナだけは守らなければ。まだ高校生の女の子だ。これから楽しい事も沢山有るだろう。僕もまだ高校生だけど、幸いな事に、自分にこれから起こるかも知れない楽しい事なんか、全く想像出来ない。改めてそう考えてみると、自分がどれだけつまらない人間なのかと、不意に可笑しくなり笑いがこみ上げる。


 カイの言う事に嘘が無ければ、僕はまだ少し生きられる。その間に準備を……


 そこまで考えて、気が緩んだのか、不意に腹の虫が鳴いた。取り敢えずは……御飯を食べる事から始めよう。寝不足の時ならば尚更、食事をしっかり摂らなければ。

 死ぬかも知れない状況に立たされながらも、追い詰められている実感が少ないからか、自分が図太く居られる、と言うか、順応出来ている事に、割と驚いていた。


 いや……そう言えばこんな感覚……前にもあったかもしれない。

 あれは……そう……僕達の母さんが死んだ日だったっけ……


「せっちゃーん!お味噌汁冷めるから。早く早く!」


 階段の下からハカナが僕を呼びつける。僕は温もりが残った布団に名残を惜しみつつ、ベッドから体を起こすと冷え切ったスリッパに足を通した。

 食卓に着く頃には、すっかり緊張感と焦燥感らしき感覚が消え、今はただ夜の間に寝ておかなかった事を後悔するばかりだった。




「せっちゃん……ねぇ……せっちゃんてばぁ!」

「ん……? あ……ああ」


 玄関の、取っ手の前で呆然と立ちつくす僕の背をしきりにハカナがポンポンと叩いた。どうも寝不足が二日も続いた性か、気を抜くと頭が意志とは無関係に活動を停止してしまう。今日の授業は大丈夫なのだろうか……


「早くしないと学校、遅れるよぉ」

「う……うん……ごめん」


 僕はドアの取っ手を握り、ゆっくりと回す。目の前には少し前から降り始めた雪がすでに踵の上辺りまでに達していて、今尚、勢いは衰える事無く雪は降り続いていた。ハカナは、僕が取り忘れた靴棚の上の鍵を握りしめ、僕に続いて玄関を後にする。


「ちょっと、さ……昔の事思い出してたんだよ」

「ええ? そう言えば昨日も何か様子、変だったよ。何かあったの? 」

「うん……ちょっと……ね」


 ハカナは家の錠を掛け、ドアノブを回し、改めて鍵がかかった事を確認してから、毛糸のミトンが僕に鍵を手渡した。振り向き、夏音の家の前に目をやると、どうやら既に登校したらしく、まだ辛うじて玄関から続く学校への道にそれらしい窪みを見る事ができた。


「カノちゃん今日も早いね」


 僕はその声に返事をする事も無く、何となく昔の事を切り出す。


「ねぇ、ハカナ……母さんが死んでから今年で何年目か知ってる? 」

「うん……6年目……だね……」


 そう言ってハカナは家を見上げた。雪がハカナの額や頬に舞い落ちる。それを気にする様子も無く、その当時の事をゆっくりと思い出すように視線を降ろし、僕へと振り向いた。


「早いね……」


 どこか母さんを思い出されるような口調と、微笑み、そう……ハカナがこの笑い方になったのは……母さんが死んだ時辺りだった……

 あの時、泣きじゃくるハカナを前に、僕は泣く事を止めた。何故かは解らないが守らなければと思った。僕等の親父の様に、気丈に、人前では悲しい顔をせず、それが経験から生み出された物だと知らなかった僕は、ただひたすらに、湧き出る悲しみと言う感情を殺し続け、涙を堪えた。ハカナが寂しくて悲しんでいる時、僕も胸が痛かったけど我慢した。我慢してハカナをギュッと抱きしめた。少しでも悲しみと寂しさを忘れさせようと、僕が昔、母さんにそうして貰ったように、ハカナを抱きしめた。そうして暫くするとハカナはもうすぐ中学生になるのにも関わらず、泣き疲れて眠ってしまっていた。僕はそう言うハカナを年下の妹みたく可愛いと思ったし、そうする事で自分の中の寂しさとか、悲しさとかが薄らぐ気がした。


 ――それから一ヶ月後、僕達の母さんの後を追うように猫のミーニャが死んだ。僕等はとてもかわいがっていた……はずだった。ハカナは又泣いた。けれど、あれほどかわいがっていたミーニャの骸を手に取っても僕は何の感情も浮かばなかった……

 戸惑っている僕を見てハカナは言った。


「このこ……ミーニャだよ? わかる? せっちゃん……ねぇ? せっちゃん? 」


 涙ながらに訴えるハカナに、僕は、こう応えるしかなかった。


「ゴメン……ミーニャ……ハカナ……僕、解らなくなっちゃったんだ。ごめん……」


 悲しく無い事は無かったと思う。けど、以前の様にそれは感情としてではなく、過去の記憶や、そう言った物にまつわる事柄からの思い出や、それらを取り巻く環境、状況の変化に少しばかりの……そう……物足りなさみたいな物に近い感覚だったと思った。呆然とただそれらを見守っているだけの僕を見て、ハカナはハッとした顔をして尚更泣いた。


「ゴメン……ゴメンね……せっちゃん……ごめん……なさい」


 何がゴメンなさいか、僕には解らなかった。

 僕は変わったかもしれない。少しだけの強さを得る為に、多分、その代償として何かを無くした。ハカナを守れるなら、そんな事は些細な事だ。代償なら幾らでも払って良い。でも、それから日を追うに従ってハカナの笑い顔は僕の心と対照的に少しずつ寂しい雰囲気を纏って行った。

 最近、とみに思う。ハカナがこんな笑い方をするのは自分が弱かったからだと。

 まぁ、結局の所、ハカナがしっかりしているおかげで僕達の生活は破綻せず、栄養も偏らず、割と……と言うか、今はとてもまともな生活を謳歌していて、堕落しきった自分自身を見る度、あの時と誓いは何処へ行った物やら……と言う話になるのだが……


「あの時ね……お母さんが亡くなった時……良く覚えているよ……雪……凄かったからね……私、泣く事しか出来無くって……」

「女の子だもん、それが普通なんだよ」

「でも、あの時ね……せっちゃんに、私……甘えてばっかりで……その……」


 何か言いずらそうにしているハカナの言葉を遮るように僕は言った。


「いいんだよ。僕、男だしさ……」


 僕はそう言って笑いかけると、ハカナは言葉をかみ砕き、飲み込むようにして少し間を置き、微笑み返した。


「ねぇねぇ……せっちゃん、そんな事より」


 制服の袖をハカナがおずおずと何度か引っ張る。


「コートと手袋どうしたの? 」

「あっ!」


 そう言えば昨日、カノと冬華さんに貸したのを忘れていて、今日はマフラー一本だったのをようやく思い出す。


「ああ~そういえば手袋はカノに貸して、えっと、コートは冬華さんに貸したって言うか……その……持って行かれた……っていうか」

「ええーせっちゃん……どうするの? あれしかもって無いじゃない……ゲームばっかり買ってさぁ……もう少し格好いい服とか、そう言うの買いなよぉ」

「ハカナぁ……それは、言わない約束だって。ゲームは僕のライフワークなんだからさ」

「私にはわかんないよ……ライフなんとかって、何? 寒かったら風邪とかひいちゃうんだよ? 」

「分かった!わかったよ……バイト代入ったらさ、何か買うよ」

「えっ? バイト……始めるの? 」

「あれ? 昨日言わなかったっけ? 」

「もぅ……そんな事言ってないよ……ちゃんと言ってくれなきゃ嫌だなぁ……嫌な感じだよぉ」


 珍しくハカナは少し拗ねた顔を見せる。女子の、ぷっくりとふくれた頬を見ると、やたらにつまんでみたくなるのは、僕だけでは無いはずだ。


「何時もさ、ハカナばっかり剣道とか茶道とかやっててさ、僕だけ一人家に居るのもどうかなって……きっかけはね、スプリング・ベルのマスターに誘われた事だけど、何かやってみたいと思ったんだよね。それに、バイト代入ったらハカナにも何か買ってあげれるかもね? 」

「ええ~私はいいよぉ……でも、何か新しい事を始めるのは良い事だよね……で、そのお店何処にあるの? 」

「うん。丁度ハカナの帰り道の途中から一本裏に入った所かな……時間が合えば一緒に帰る事もできるよ」

「あっ、それなら帰りにスーパーで一緒に夕食の献立も建てれるね!」

「うんうん……って、そろそろ学校、いこうよ」


 すっかり足が家の前で止まってしまった僕等はそう促すと、ハカナは手袋の右手を外して僕に渡す。


「じゃあ、手袋だけ、半分だけ、貸してあげるよ」

「え……ええ? いいよ。僕がその手袋使ったら伸びちゃうし、第一ハカナの右手はどうするんだよ? 」

「う……うーん、そこまでは考えてなかったよ……」


 少しの間ハカナは考え、何かを思いついたかの様に言った。


「久しぶりにさ、昔みたいに、あの時みたいに、手、つないで歩こうよ……」


 そう言って僕の左手をハカナが取った。ハカナの右手の柔らかくて、暖かな感触が、冷えた僕の左手を少しずつ暖めていく。ハカナが言う、『あの時』は僕達が手をつないだ最後の日、母さんが亡くなった日だというのは何となく分かった。


「だっ……駄目だよ!はずかしいって!僕達もう高校生なんだしさ!」


 僕はハカナの手の心地よさに、一瞬、躊躇いながらも手をふりほどく。


「大丈夫だって。なるみも良くそうしてるって言ってたし、そう言う物なんだって」

「え……そうなの? んー、やっぱり漫画とかの読み過ぎかなぁ……僕、こういうの変に過剰反応しちゃうんだよね」

「やだなぁ……そう言う物なんだって。みんなもそうしてるって言ってたし」

「ああ、じゃあ、まぁ、ちょっと恥ずかしい気もするけど……う……うーん。まぁ、そう言う物なら仕方ないね」


 僕は恥ずかしさがまだ残っていて、指がハカナの手のひらに触れる度、指が絡まりそうになる度、何度か躊躇した。それから更に何度か躊躇した時、ゆっくりとハカナは柔らかく僕の手を握った。さっきよりも少し暖かみが増しているようだった柔らかい手を僕はそっと握り返す。


 そうして、あの時と同じ様に、二人だけの雪道に足跡を残して歩く。

 今度こそはハカナを守りたいと思った。

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