生を受けた理由、生きる意味
雨戸から差し込む僅かな光が筋となり、まだ青い畳の上を横切る。まばゆいほどの晴れの日差しが作り出した漆黒の中から布が擦れる音を立てて何者かの影が光の帯を横切った。
時間は正午を迎え、愛桜は胸の奥から絞り出す様な咳をしながらも、布団をのけて何とか体を起こす。昨晩の発作から、咳のせいでまともな睡眠を取る事すらままならなず、憔悴しきった様に見えたその表情は、戦場の匂いを色濃く纏った気配を前にすると、一瞬にして戦いへ赴く者の顔へと変わった。殺気は感じられない。しかし、闇に隠れ潜む者が歴戦の兵であれば尚のこと、殺気を隠すなど容易い事だ。愛桜は高まる緊張感の中、微かな衣擦れの音を聞き逃さぬよう息を潜め、暗闇に目が馴れるのを待ちながら、枕元で鎮座する剣の鞘へと手をにじり寄らせる。やがて闇の中に部屋の輪郭が浮かび上がり、ぼんやりと部屋の片隅で蹲る影が浮かび上がる。剣を握ると、それを傍らに置き、正座を組んで部屋の隅に佇む気配の方へと視線を向けた。
「貴方……だれ?何者……」
暗闇の中に佇む者は、愛桜の方を向かず、場の張り詰めた空気を飲み込むように息を飲み込み、頭を下げた。
「カイ……に、ございます……」
名前を告げたとき、その男の声が一瞬震える。愛桜はその低く良く通る声に何処か懐かしさを感じると同時に、敵意が無い事を悟ると、小さなため息を吐いた。
「何時までもそこに居ないで、前に来たらどうかしら」
一瞬ハッとした仕草をみせたが、すぐに気を取り直すと立ち上がり、ふすま伝いに音もなく歩いて愛桜の正面へと立つ。杖を持った右手を後ろ手に構えながら再び膝をつき、畳を傷つけないようにそっと杖を置く。カラン……と杖の装飾が音を立てた。右手は立てた膝の上に軽く置き、左手は親指を隠しながら拳を握り、掌を下にして地面へ置くと、再び深々と頭を下げる。愛桜は彼の奇妙な行動に、始めは何をしているのか全く理解出来なかったが、よく見ると、直ぐに攻撃の体勢へは移れない様に自ら動きずらい体勢をとった事に、これは彼が住まう土地の作法か何かなのだろうと感じ取った。と言っても、愛桜の知識ではこのような作法など聞いた事は無く、単純に、そう思ったに過ぎない。その者が人の形を成していない様に見えたのは大きなマントを羽織っていたからだと、闇に馴れた目でようやく理解する。更に深々と下げた頭を上げると、その者は杖を置き去りに一歩前へ出てフードを上げる。ローブを羽織った男は愛桜に自分の顔が見える様に、しかし、視線は下に、膝を降ろし、静かな口調で言った。
「まずは、寝室に忍び込む無礼、お詫びを申し上げたい」
「詫びなどいりません……その姿勢、恐らくはその命を私に委ねていると言う事なのでしょう。それだけの覚悟をもってここに来たと言う事は、貴方にとってそれ程重要な事なのでしょうから……」
愛桜はそう言って、改めてカイと名乗った男の顔を見る。端正な面立ち、切れ長の瞼の奥には何処か寂しそうに、ガラスの様な蒼い瞳が輝いていた。
「それで……貴方は、何者なのかしら。お話を伺う前に、貴方の素状が知りたいわ」
「かつて、騎士として貴方の元に仕えておりました」
全く予想していなかった答えに、愛桜は返事に困った。が、表情を見るに、嘘を語っている様にも思えなかった愛桜は、取り敢えず彼の話を聞いてみようと思う程度には興味を示した。
「どうしてここへ。申し訳ないのですが、私はあなたを知りませんし、その様子から言って……恐らくあなたも私を知らないのでしょう」
「そうです。私はあなたを知らない。私が知っているのは貴方の中にある魂の欠片、それは私の主だった者の一部。あまりにも長い旅路に……久しく感じることの無かった気配に……失礼とは存知ながら居ても立っても居られずこうして……伺わずにはいられず……」
愛桜には何のことなのかさっぱり分からなかったが、彼を見ていると何処か懐かしい気持ちになった。本当に申し訳なさそうにしているカイの美しい顔に思わず毒気を抜かれた愛桜は、緊張が緩んでしまったからか、思わず気の抜けた返事を返す。
「えっ……と、はぁ……」
困惑を隠しきれない愛桜に、カイは少し考えた後に、口を開いた。
「そうですね……前世……と言う言葉を使った方が分かりやすかったでしょうか」
「前世……ですか」
鬼頭の家系は特に宗教等には関わり合いをもっていなかったが、知識はそこそこあった。あらゆる宗教の禁忌や基本理念等を軽くさらう程度、所謂、広く浅くである。それは表面上、護りの剣として存在していた鬼頭の家系を争いから遠ざける為の知恵でもあった。『前世』とはその知識を得る過程で覚えた言葉の一つにしか過ぎなかったのだが、カイがその言葉を口にした事で、彼に対して感じた懐かしさに、愛桜は何となく納得した様子だった。
「それにしても、私の事はともかくとして……貴方は誰かの生まれ変わりと言う風にも感じられないのですが……そう、たとえて言うなら……今なお当時の姿を残す亡霊か……それとも……」
――目の前の人は……人……なのかなぁ……まるで人形のような……
愛桜は漠然とそう思った。と言うのも、まるで人としての精気がこの目の前の男から感じられなかったからだ。人……と言うよりも、彼の佇まいの美しさはまるで人形のようだと。
「そうですね……今は後者のそれに近い状態だと思います」
語っても居ない事に対して答えられた事に、愛桜は少しばかり驚いた表情を見せた。
「いえ、すいません。人の考えてる事を読むのが癖だったものだったので」
「いいよ……でも、こうやってお話するのは何となく懐かしい感覚がするね。もしかしたら貴方の言う通り、その時の私がまだ、心のどこかで生きているのかも……」
微笑みを浮かべている愛桜の砕けた物言いに、カイの強張っていた表情が不意に緩んだ。
「はい……生きておりますとも。貴方のその立ち居振る舞い、そして、そのお姿は、かつて私が仕えていた……いや、今も仕えていると思っている主そのもの……その魂を受け継ぐ者にこうしてお目にかかれるとは……」
カイはおもむろに懐から、布に包まれ、大切にしまわれていた捻れたマドラーの様な物を取り出すと、愛桜の元へ差し出す。暗闇の中にあっても、それは僅かな光源から光りを受けて輪郭を輝かせ、幾重にも捻れた巧妙なガラス細工の様な姿を浮かび上がらせた。
「私と貴方の全てはここから……貴方の献身を忘れまいと何時もこの貝殻を肌身離さず持ち歩いておりました」
「貝殻……」
愛桜は差し出された貝殻の名残に恐る恐る手を伸べる。指先が触れた瞬間、香るはずのない潮風の香りが鼻先を掠め、知るはずの無い記憶と景色が次々と頭をよぎる。天に届きそうな程の巨大な樹、大きな銀色の狼を横に従えた自分に似た少女の足下にカイと呼ばれる石の傀儡が跪いた。この、人の魂が封じ込められた石の傀儡を起動する為の触媒の一つ、それを手にする為に奔走した記憶が特に鮮明に浮かび上がる。
「えっ?これ……は……?」
「はい……それは貴方の魂の記憶。この世界線とは違う世界線での出来事。この貝に刻まれた記憶は恐らく私と貴方が出会ったばかりの頃の事を記憶していたのでしょう。さぁ、その貝からもう手を離して。今の貴方には少し負担がきつすぎるはずだ」
カイがそう言い終わるか終わらないかの内に、愛桜の体は力尽きたように傾いた。カイは「失礼」といいつつ前に出ると、愛桜の体を抱きかかえて支える。
「やはり……近づくべきではなかったか……すまない……」
カイがそう言って優しく愛桜を横にしようとした時の事だった。不意に愛桜の口元に笑みが浮かぶ。
「うううん、まだ大丈夫……それよりも、貴方がここに来た理由、本当は違うんじゃないかしら」
愛桜の声質の変化にカイは思わず顔を上げる。茫漠と広がる世界線を彷徨って幾星霜、その余りの永き時に、薄れる自我と崩壊しかける精神をつなぎ止めていた声だ。かつて、カイが心酔していた、強く、気高く、美しかった主の声に、カイは震え、感極まって今では流れ出る事のないはずの涙腺を抑える為、瞳をきつく閉じた。
「ごきげんよう……随分久しぶりね。相変わらずの様で安心したわ。でも、どんな理由があっても婦女子の寝室に忍び込むのはどうかと思うの……」
愛桜が悪戯っぽく笑う。
「『アイラ』……なのだな……」
「そう、少しの間この人の体を借りたわ。でも、あまり無理はさせられないの。この人はもう……」
「なるほど……分かった。しかし、それなら話は早い。あの、虚ろの落とし子達に近づくのを止めさせる事は出来ないだろうか」
「虚ろの落とし子達?」
「世綱と葉華那の事だ」
「うーん、どうしてかな?あの子達、あんなに可愛いのに」
とぼけたような口調で愛桜は試すように言った。
「あの眷属は……危険だ」
「知ってるわ。かつて彼の大国の皇女と私が立ち会った事を貴方は知らない訳では無いでしょう。神に見捨てられし眷属……世のあらゆる祝福を受ける事無く、孤独にして孤高。誰かが言っていたわ。皇女は神ならざる神……神殺しの神、ある意味、最も神に近しい存在、もしくは、神そのもの……と」
「まさしく、皇女と同じ力を持つ者なのだぞ……」
「知ってるわ……」
「なればこそ!」
「でも、そうね……彼女は敵だったけど、かけがえの無い親友だった。私と唯一、剣で語り合えるのは彼女だけ。そして、彼女もまた、私と同じ思いだった。どうしても惹かれてしまうのよ……私達は、互いが互いの半身を求める様に……。この人の中にもきっと、私と同じ思いが受け継がれているのね」
「どうにかならないものなのか」
「カイ、彼女の身を案じてくれる貴方の気持ちは嬉しいわ。でも、そうね、彼女は見かけに似合わず頑固なのよ。私がどうこうしようとして、どうなるものでもないわ。それに、彼女の本音は……言わなくてもあなたは分かっているのでしょう?」
そう言って微笑んだアイラの顔を見てカイは言葉を失った。それは『アイラ』の性格を良く知っていただけに、もうこれ以上何を言っても無駄だと悟ったからだった。遙か昔に思いを馳せ、あの時もそうだったと思い出す。自分を含め、十人に満たない自国民を守る為、無謀だと止める声を聞かず、皇女が率いる万に届く大軍を一人でそれを打ち破った神のごとき所行を成した時の事を。それと同時に、時を越え、セカイを移っても主の魂が尊敬すべき武人の面影を強く残していてくれた事に、何時も憧れていた姿がそのままだった事に、嬉しさを隠せなかった。何時しかカイは噛みしめていた下唇を緩め、諦めの溜め息をこぼしながら口元を綻ばせる。アイラはそれをみて再びカイへ静かに微笑みを向けた。
「それにしても貴方達夫婦の絆の深さは測りきれない……まさか、こんな地獄の底……いや、最果てのセカイでまで一緒に居るとは……」
「ふふ……私はあの人の側にずっと居たいの。魂だけになったって、求められたら何処にだって行くよ。例えそこが地獄の底でも、そう決めたから」
「ふっ……貴方がそう言うのなら、あの緑の者も恐らくは同じ事を言うのだろうな……」
「そうよ」
アイラは何の迷いも無くそう答えた。
「それよりもカイは何でここにいるの?」
カイはそれを聞かれたくなかったのか、一瞬、眉間にしわを寄せた。
「ふ……まぁ、君達亡きあと、君達の墓守をして何百年もそこに『存在』しているのに飽きたのだよ。だから、もっと広い世界を見ようと思ってね……まぁ、来てしまった以上、とりあえず今はこのセカイを堪能している……魔素が薄いのは少々きつくはあるが……」
カイは取り繕うように言い切ってしまうと、それ以上は語らなかったが、アイラにはカイが確固たる覚悟で何かを成す為、このセカイに降り立った事を表情から感じ取っていた。アイラはしかし、それでも、かつての片腕が一瞬見せた切実な表情に、何も出来ない自分が少し悔しく感じられた。
「そっか……でも、何も手伝う事が出来なくてゴメンね」
「いや、これは私の問題だ。気にする必要など無い。私はただ、世界を見て歩いているだけだ。『答え』を探す旅の途中にね……私に付けられた名前の意味の通りに……その途中に立ち寄っただけなのだから」
「ふふっ……わたし、カイのそう言う所好きよ……でも、ごめんなさい、私の時間はそろそろ終わりだから……」
「そうか……」
「さようなら。また何処かで会えると良いね……」
その言葉を最後に、アイラの気配は彼女の瞼が降りるに連れて薄れ、張り詰めた空気は次第にその重みを失っていった。消えゆくアイラの気配を前に、カイはかつてそうしていた様に、主に対して深い礼をしたまま、彼女を送った。
「『答え』を見つける旅の果てに辿り着いたここが……私達の死に場所に相応しいからだ、と言ったら君は、きっと怒ったのだろうな……」
かつての主の気配が完全に消えた後、カイは誰にも聞こえないような小さな声で、そうつぶやいた。
「薄々、気が付いていました……」
その声にカイは一つ溜め息を付いて、垂れた頭をあげたが、視線は愛桜を避けた。顔を背けるのは失礼だと感じてはいたが、もしかしたら、自分が緩い表情になってしまったのでは無いかと思うと、別人だとしても、かつての主に似た目の前の他人にそれを見られたくは無かったからだ。
「すまない。私はもしかしたら、貴方の為にならない事をしてしまったのかも知れない」
「そんな事、無いよ。最後の最後に私は、この世に生を与えられた理由の一つを知る事が出来たわ。どんなに小さな物だったとしても……それは多分、他の人よりほんの少し幸せな事なのかも……って……」
「ふ……貴方も彼女の様な事を言うのだな……」
「ふふっ……だって私は彼女で、彼女は私だから……そうでしょ?」
「そうか……そうだな……それと一つ……聞きたい事があるのだが……」
「なにかな?」
「……いや……やはり止めておこう。それよりも貴方は少し休んだ方が良い。依り代になるのはかなりの消耗を伴うはずだ。また折を見て伺わせて貰う」
愛桜が頷くのを見届けるとカイはおもむろに立ち上がり、そのまま音も無く杖の側まで下がると暗闇の中へ、その姿を消していった。闇の中で一人残された愛桜はカイが置いていった貝殻を拾い上げ、僅かに漏れてきた光にかざす。透明な貝殻に愛桜の姿は映らない。貝殻が映すのは、愛桜の背後に置かれていた剣だけであった。鏡やガラスに映らない自らの姿に、改めて仮初めの命だった事を思い出す。
もう、随分昔の事だ。病床で命を落としかけ、春瀬は虚神家から盗み出した禁忌とされている、継魂の秘法で、完全にとは行かないまでも愛桜の命をつなぎ止めた。その春瀬の想いに応える為、こうして今日まで命を永らえてきたが、それも、もう、終わりに近い事を悟っていた。
「私の産まれた理由……」
愛桜は一言そう呟き、剣の傍らに貝殻を置いた。今更になって自分がこの世に生を受けた理由を思い返し、深くため息をつく。カイにはああ言った物の、生を受けた理由が与えられた物だけだったことを思ってのため息だった。自ら生きる理由を、自らが生み出すことが出来なかった、結局自分は与えられるだけで誰にも何も与えてはいないのだと思うと、又一つ大きくため息をついた。
――ちがう
アイラの頭の中に一人の少女の姿が思い浮かぶ。
そうして再び自らの剣を手に取った。
――この巡り合わせはきっと……
アイラは手に持った剣をゆっくりと引き抜くと、ふすまから差し込む光に剣をかざす。
――このまま、床に伏せて死を待つより私は……そして、伝えなければ……
決意の表情だった。一点の曇りも無い剣を鞘に収めると、アイラは床を出て立ち上がる。その姿はさっきまでの弱々しさと打って変わって、武人のごとき凛々しさを、かつての『剣の皇 アイラ』を思わせるほどだった。




