セカイの仕組み2
香那女先生の補習を受ける生徒は『非常に少なかった。』と、言えば幾らかは僕のプライドも保たれる。正直に言えば、彼女の補習を受けるのは僕とロースケの二人だけ。何とも情け無いものだ。厳しいだけでなく、教え方が上手いからだろうか、今回の現国でも古文でも赤点をとる人は(僕らも含めて)一人も居なく、足りない単位を埋めるだけの授業は何となく緊張感を欠いていた。それにしても、香那女先生が読み上げる古文は、以前はゲームで言う所の睡魔の呪文並みに良く効く魔法だったが、改めてこうして聞くと、歯切れの良く、澄んだ声は、綺麗な日本語を更に引き立て、僕はうっかり授業だと言う事を忘れ、少しの間、聞き惚れていた。
「セツナ君。いくら補習とは言え、緊張感が少し足りない様ですけど……」
先生の眼鏡が冷たく輝く。が、それとは裏腹に表情は緩く、威圧感が以前よりも薄れた様に感じられる。
「はい……スイマセンでした。あの……」
「何でしょうか?」
教壇からいつものように僕を見下ろす。だけど、言葉尻は心なしか穏やかだ。
「いえ……」
違和感に僕は思わず『あなたは本当に香那女先生ですか』と聞きそうになるが、言葉を飲み込む。最初は親近感からそう感じるのか、とも思った。だけど違う。何というか、仕草や言葉が板についていて、以前は先生がそうする事に微妙なぎこちなさ感じていたのだが。今はなんと言うか……そう、自然なのだ。ロースケはそれが以前からのものだったように振る舞っていて、多分、他の生徒も同じような反応を示すのだろうと思うと、まるで僕だけが知らないセカイに迷い込んだ様なそんな気がする。
疎外感の様な物、それが今の僕の気持ちを表すに相応しい言葉かもしれない。
「おい……オメー今日、まじで何かおかしくねぇか?」
ロースケが小声で僕に語りかける。
「露庵君!」
教卓を叩く音と同時に、先生の声がロースケを一喝する。流石に叱る時に上げる声は、ロースケの隣にいる僕をもすくみ上がらせる程、鋭く、迫力がある。変な話、僕はそんな先生を見て少しほっとした。だけど違和感を拭いきれない僕は、ハカナが少し前に言っていた『哲学』をふと、思い出した。
――もしも私以外誰も居なくて……
思い出すと頭からその言葉が離れなかった。冬華さんを犠牲にして、セカイが変わってゆく様をこの目で見てしまい、世界観が根底から覆されてしまった僕は、今ならその言葉の意味が少し理解出来た気がする。ハカナが見ているセカイは、僕が見ているセカイよりずっと寂しい。ハカナが寂しそうに笑う理由の一つを垣間見た。そんな気がした。そして、そんな大きな秘密を今まで一度たりとも口にしなかった祖父達に、どうしてと言う疑問がわき起こる。いや、正確には僕が覚えていないだけなのかも知れない。記憶を過去に遡れば遡るほど、急速に記憶が不鮮明になって行く事を今までは何の疑問も無く受け入れてきた。だけど、考えてみればどうにも不自然だ。ハカナが度々家を留守にしていた事だって、合宿か遠征程度にしか伝えられていなかったし、あれだけ鍛えているにも関わらず、憔悴しきって帰宅したハカナを見て疑問を抱かなかった僕も僕だけど、不自然な程、禍ツヒトから僕を遠ざけようとしていた事を、いや、少なからず何かを隠している事をいち早く気付くべきだった。
何故そんな事を……僕が弱いから?
僕が強かったら……ハカナに頼らなくても良い程に強かったら……
幾ら過去の事を思い返し歴史の修正を望んでも、それは不毛な行いにしか過ぎない事はよくよく思い知らされている。だけど、そう思わずにはいられない。考え始めたらきりが無かった。
「せーつーなー君!」
先生の声が僕を現実に引き戻す。
「はぁ……もう、あなた達……春休みだと言うのに……一体何の為にここに来ていると思っているのかしら?」
「すっ……すいません……」
おもむろにチャイムが鳴り響く。
「あぁ……もう……」
ため息混じりにそう言って、教科書を遡って今日、どれくらい進んだかを確認する。急ピッチで進められた授業内容は、教科書のページ数で言えば結構なものだった。先生は少し考えて「ま、いっか……」と小さく独り言をつぶやく。
「いいわ……貴方達に宿題を課します。今日読んだ部分の……んー……そうですね、自分なりの解釈を原稿用紙十枚程度にまとめて、明日までに書いてきてください。多少間違っていても構いません。授業を聞いていればおおよその内容は分かると思うので、それを元に書くと良いでしょう。」
どうやら性格がまるくなった分、他の方にしわ寄せが来たようだ。授業に殆ど身が入らなかった僕は、辛うじて覚えている先生の言葉を、忘れまいと頭の中で繰り返すが、無情にもそれは叶わなかった。一人で今日の分をやると思うと、ウンザリしたけど、家に帰ってから余計な事を考えなくても済むと思えば、それも悪く無いかもしれない。
「ええー? センセーそりゃないって。めんどくさいって……つーか、この程度なら本見なくたって空で言えんだぜ?勘弁してほしいッスよー」
ロースケが机に突っ伏しながら声を上げる。先生はだだっ子を見る様な目をしながら、ロースケの頭を教科書で軽く叩く。
「ヘヘッ……でも、センセーへの恋文とかなら幾らでもかけるけんスケド!」
ロースケが油断をして顔を上げたその時だった。先生の眼鏡が鋭く光り、その目つきは殺気で満たされている。
危険だ。この目は危険だ!
ししおどしが岩を打つ様な音が辺りに響き、ロースケは声を上げることなく、その場で意識を失った。
「セツナ君は……口答えなんかしませんよね?」
「そんな気は無いですよ。僕が悪かったのは確かですし……」
「そう……それならいいのですが……」
「先生?」
「何かしら?」
「あ……いえ……その、何でもないんです……すいません……」
何か言いあぐねている事を察して先生は、ふっ……と表情を緩め、微笑み、僕はその視線から目を反らした。
「何があったかは分かりませんが、私で良ければ何時でも相談して下さい。問題が解決すれば、授業にも集中出来る事でしょうし」
「すいません……折角の春休みに……」
「いいのです。生徒が学業に専念出来る環境を作るのも教師の役目ですからね」
そう言ってくれた。先生は厳しくて優しい。だけど、今の僕にその優しさは毒にしかならない。だから、僕に優しくしないで下さいと言いたかった。優しさを与えられる度、僕の心は罪悪感にえぐられ、優しさに応えられない自分を思う度、えぐられた心の傷は尚更爛れた。何時か、僕にかけられた呪いのせいで、僕に優しくしてくれた人を手にかけなければならなくなるかも知れない。それが怖かった。怖くて僕は、先生が教室を出るまで俯いた顔を上げることが出来なかった。
屋上の鉄柵に肘をつきながら鉛筆を走らせる。冬の重苦しい雲から解放された空は、何時もより広く、高く感じられた。暫く絵を描いていなかったせいか、香那女先生の事を思ってか、鉛筆が思う様に動いてくれない。それでも、時間をかけて紙に少しずつ街の輪郭が描き出されて行く。線はぶれ、人様に見せる事が恥ずかしい代物だけど、やっぱり僕は絵を描く事が好きだなと実感する。単純に楽しい。それが好きな理由だったと、自分の事ながら今更思い出していた。
「せっちゃん?ねぇ、せっちゃん?」
不意に僕を呼ぶ声だ。誰なのかは分かっていたけど、集中力が途切れるのを嫌って僕は、無視してそのまま鉛筆を走らせる。
「ねぇねぇ……」
ハカナがポンポンと僕の肩を叩く。反射的に手が止まり、叩かれた肩の方へ顔を向けようと思い、一瞬とどまった。以前、ハカナが悪戯で指を突き出していた時の事を思い出し、叩かれた肩とは反対の方向から振り返る。ハカナには悪いけど、そう何度も古典に引っかかってあげられる程、僕は優しくは無い。そして、ハカナの罠をかいくぐったことを、まるで意識しなかったかの様に振る舞う。それこそが僕の美学なのである。そんなことを考えながら、したり顔で振り向いた。
「んー……剣道ぶっ!」
僕の頬に、ハカナの指が深々と突き刺さる。
なんと言うことだ……ハカナは僕の考えを見越して、反対側に罠を仕掛けていたというのか……
ハカナの肩が小さく震える。声を押し殺す様に、控えめに、クスクスと耳がくすぐったくなる様な笑い方をする。ハカナがこうして、僕を笑ったのは正月以来、随分久しぶりで、それは相変わらず寂しそうな笑い方だったけど、僕の心の重荷はそれを見て幾分軽くなっていくのを感じた。なんだか少し、うれしかった。
「ふふっ……それよりお昼御飯食べたの?」
したり顔から一辺、仏頂面になった僕の顔を、まだ笑いが治まらないハカナが覗き込むようにしてそう言った。
「いや、まだ……何かあんまりお腹すかなくって……」
「えー?いい加減、何か食べなきゃ駄目だよ。私のオニギリ余ってるから食べる?」
余っていると言った物の、大きさから言って明らかに僕向けのサイズだ。最初から僕の為に準備していたのは間違い無いんだろうけど、そんな言い回しをするより……いや、多分、ハカナなりに気を遣っていてくれるのだろう。正月の事件からこのかた、ふさぎ込みがちだった僕は、まともな食事を殆どしなかった。無理にでも食べなければ体を壊すと思えば、無理にでも胃の中に詰め込んでいたのだが、胃が受け付けなくて食べたものを全部吐き出したりして、とうとう物を食べられなくなった僕は、ちょくちょく学校で倒れたりしていた。こうして、差し出された食べ物に手を伸ばすのは久しぶりで、その事を喜んでいるのかハカナの顔も不意に明るくなった。
「いいの?」
「うん」
「ごめんね……」
「んっ?……どうしたの?」
「いや……何か、色々さ……その……」
ハカナは何も言わずに首を振った。剣道着と言う勇ましい出で立ちとは裏腹に、少し幼い面立ちで空を仰ぐ。窮屈に感じたのか、お下げを結っていたゴムを解き、汗で少し湿った髪を風になびかせる。不意に見せるハカナの女性らしい仕草に、僕は兄妹である事を一瞬忘れ、思わずドキリとした。
「どうしたの?」
「いや……髪、少し伸びたのかなって……」
「うん。ようやくここまで伸びたんだよぉ……変……かなぁ?」
少し不安気に、伺うように、そう言って伸びた髪を指先でもて遊ぶ。
「いいや……そんなこと無いよ。ハカナのその……綺麗な黒髪はきっと、母さん譲りだよね。うん……似合ってると思う」
「そう?だったら嬉しいかも」
ハカナは、はにかみながら笑顔を浮かべた。ハカナは何処にでも居る普通の女子高生……より、少しだけ……ほんの少しだけ、可愛いかも知れない……と、最近は思う様になった。心境の変化とか、価値観の変化とかじゃなくて、以前は意識していた兄妹という仲が、改めて、ハカナが何度もマガツヒトと対峙し、生き残り、そして見てきた風景を思えば、身内とか以前に人として、彼女の事を考える事が出来る様になったからなのかもしれない。
要するに、少しは僕の視野が広がった、と言う事なのだろうか。冬華さんや夏音が少し前に、ハカナの事をかわいいとか色々言っていたが、今になって、なるほどと思う事は沢山ある。
「どうしたの?」
ハカナが不思議そうな顔で僕を見上げた。いつの間にか僕はハカナの横顔を凝視していたらしい。僕は何となく恥ずかしくなって、腕を組むと、右手を口に当てて何かを考えるふりをしながらフイと顔を背ける。僕は再びハカナが兄妹だと言う事を忘れて、不思議そうに見上げるハカナを一瞬だったけど、可愛いと思ってしまった。良くあることなのかもしれないけど、僕にはそれが酷く悪い事の様に感じられて、そんな僕の顔を見られたくなくて反射的にそうしてしまった。
「ん……いや……なんでもないよ……」
僕はぶっきらぼうにそう言いながら、鉄柵に背中を擦りながら地面へ腰を下ろし、オニギリのラップを解きながら、心地よい春の日差しに空を見上げる。視界の端からハカナが、何故か嬉しそうな表情を浮かべながら僕の顔を覗き込んだ。
「お茶、買ってくるね」
オニギリを口に含もうとした僕にそう言って、風除室の自動販売機へ小走りに向かう。僕はお茶を買いに行くハカナの背中を見ながら、また、戻してしまったらどうしようという不安に一瞬ためらいながらも、ようやく一口、オニギリを口に含んだ。ご飯の程良い塩気と、少ししんなりした、おにぎり全体を包み込む海苔の香り、そして、婆ちゃん特製の梅干しの酸味が、僕の胃を呼び起こす。
久しぶりに物を食べた気がした。そして、そんな僕を見て、ハカナが又、嬉しそうな顔をする。
「どうしたの?」
「ようやく美味しそうな顔、してくれたなって思って……」
久しぶりに食道を食べ物が落ちていく感覚が心地よくて、知らない間に表情が緩んでいたのだろう。以前なら煩わしさすら感じていた優しさは、僕から素直な言葉を引き出すに容易かった。きっと、それは僕が受けても許されるただ一つの純粋な『何か』だったからなのかもしれない。
「うん……美味しい……」
「ふふっ……良かった。やっぱりなるみの言うとおりだったみたい」
そう言いながらハカナは僕の横に腰を下ろすと僕の傍らに置いたメモ帳を手に取ると今書いてあるページから何枚か遡り、景色の移り変わりを懐かしむ様な表情で眺めながら一枚、又一枚とページをめくる。仄かに制汗スプレーの爽やかな香りがたっだよってくると、なんだか普通の女子(まぁハカナも一部を除いて普通の女子だけど)が僕の隣にいるようなきがして、そう思い始めたら意識してしまった僕は少しだけ下ろした腰をずらしてハカナから離れた。
「絵、又、描き始めたんだ……」
年明けのあの日以降、まったく描かなかった絵を再び描き始めた事に、ハカナは感慨めいた口調でそう言った。
「うん……」
「私ね、せっちゃんの絵、好きだよ」
「そう?」
「うん。なんかね、私が自分で見ている様な感じがするんだもん……んー、上手く言えないけど、私の視点……みたいな感じかなぁ?今日のは特にそう感じるよ」
「ん……まぁ、同じ様な環境で育ってきたし……」
「ちがうの。えーっと……そう、心象風景っていうのかなぁ」
「んー……」
「んー……私も分からなくなっちゃったよ……」
ハカナはそう言って苦笑いをする。
ハカナの視点。自分だけが知っていた、変わる前のセカイと変えてしまったセカイ。そして誰かを手にかけたと言う事以外、変わらない自分。僕が描いた誰も居ない街。冬華さんが居た冬の町並み、時間と共に少しだけ変わってしまった今の町並み。そしてそれを見るハカナと僕。ハカナの言わんとしていることは何となく理解出来た。
「前に、このセカイにわたし一人しかっ……て話したけど、やっぱりそれって間違ってたよ。違ってた」
「それは前にも言ったじゃ無いか」
「うううん。そうじゃないの」
妙に納得しながら話すハカナに僕はそれ以上何か言う必要は無いだろうと思って、
「ふーん」
そんな素っ気ない返事に、ハカナは僕のメモ帳を見ながら頷く。僕はその横顔を見ながら、何となく懐かしい気分に浸っていた。ずっと昔の事で、良くは覚えていないけれど、病気で伏しがちだった頃、何時も傍らにいてくれて、こんな時間を過ごしていた気がする。日に日に、自分でも分かる程細くなっていく腕、起きる事すら苦痛だった僕の側に視界の中にハカナはずっと居てくれたんだった。
何時からその事を忘れてたのか、最近は、ハカナが横にいることさえ煩わしく感じていたのだけど、なんだって僕はこうも自己中心的な考え方だったのだろうかと少し反省をする。反省をしながら僕は暫くハカナの横顔から目を離せずにいた。
どれ位経ったか分からないけど、それからハカナの後輩が向かえに来るまで、言葉も無く、僕は、ただ空を見上げ、ハカナは何が面白いのか、ずっと僕のメモ帳をめくったり戻ったりしながらずっと眺めていた。




