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最果てのセカイ  作者: 喪須田 範太
巻ノ壱 鈍銀(にびぎん)の杖を抱える者
30/38

冬華

 金属がぶつかり合う様な鋭い音が辺りに響く。

 振り下ろしたナイフの先に冬華さんは居なかった。

 顔を上げると三メートル程離れた所で冬華さんだった人は静かに立ち上がり、感情の欠片も見あたらない表情と、何処を見ているのか分からない虚ろな目で僕の方へ顔を向けた。

 何とかナイフを落とさずにいることは出来たのだが、左手に激しい痺れを感じる。それでも僕はナイフの切っ先を『彼女』に向けながら、腕を伸ばす。が、ナイフは刃元から綺麗に折られていて、使い物にならなくなってしまっていた。


「くそっ!」


 再び『彼女』の方へ目を向けると、僕は折れて使い物にならなくなったナイフを投げつけた。が、ナイフは当たる寸前に赤い妖気に阻まれ、『彼女』へ届く事無く地面へ落ちる。

 その瞬間に『彼女』は動いた。

 遙か後方に雪煙だけを残し、獣の様な構えをして目前に迫る。弓を引き絞る様に力を溜めていた手は皮膚が硬質化し、樹皮の様になった拳は溜めた力を解放する様に放たれた。辛うじて躱す事に成功するも、風圧で顔が歪む。

 僕の背後に着地した『彼女』はすぐさま地面を蹴りつけ、飛び上がる。空へ手を伸ばすと、その手元には妖気があの杖の形をとって具現化し、杖を基点に空で体を捻り、逆さまになりながらその先端を僕に向け、弾き金を弾いた。


 やられた!


 そう思った瞬間、銃弾が僕の頬を掠め、鋭い刃に付けられたような傷を残し、背後で爆発音と雪煙を上げながら着弾した。この距離では弾道を見極める事ができたとして、体がそれに追いつかない事を改めて思い知る。


 弾道がずれて助かった……いや、今のはわざとだ、わざと外した……のか……?


 確証が得られないまま、僕の遙か頭上を飛び越えた『彼女』の着地点を予測しながら振り向く。が、『彼女』の姿は何処にも無い。地面の上にも、空にも『彼女』の姿が見あたらない。

 緊張感を漲らせ、研ぎ澄ました感覚を張り巡らす。背後に感じる僅かな風の動きが止まった。躊躇いもなく目の前へ転がり込むと、僅かに遅れて背後で大きな音が響き、雪煙が舞い上がる。この前と同じ攻撃パターンだったが、威力とスピードは格段に増していて、その気になれば今の一撃で僕は頭から潰されているはずだった。


 やはりそうだ……『彼女』は明らかに手を抜いている。


 何処かで冬華さんの意識が生きていて、それが攻撃の手を緩めさせているのだろうか。いや……そんな都合の良い考えは棄てなければ。『彼女』にすれば遊びの続きをせがむ様な物なのだろう。ネズミを喰い飽きた猫がその骸を転がして遊ぶ様な物だ。

 しかし、手を抜いている今なら勝ち目は有るかも知れない……が……そう考えながら左手に目を落とし、何度か握ってみる。やはり思った通り力が入らない。僕は大きく溜め息をつき、『彼女』に向き合う。

 『彼女』は銃をゆっくり抱え上げ、僕は木箱の封を切った。木箱から筆が転がり落ち、右手でそれを握り締める。本来なら左手で書いた方が早いのだけど、怪我が治りきっていない今は、扱いにくいが右手を使うしか無かった。


 全く……こんな強敵にハンデ戦をしなければならないとは……死ぬ前に一つ位、良い事あっても良さそうなものなんだけどな……


 墨がしたたり落ちる。この前よりも黒く、まるで『彼女』の妖気に呼応するかのように濃く地面を染めていく。『彼女』はこの筆の威力を警戒してか、慎重にこちらの様子を伺いながら、威嚇をする様に銃口を揺らす。

 どれくらい睨み合っていただろうか。


 傍観者だったカラスが静寂に耐えきれず飛び上がった。


 『彼女』がそれに気を取られた一瞬を見逃さず、筆は『縛』の字を中空に描く。

墨が鎖のように『彼女』の体に絡みつく。間髪入れずに僕は『彼女』を目がけ、筆を大きく振り下ろす。放たれた黒く巨大な刃が地面を這いながら、墨の縛鎖もろとも『彼女』を切り落とした……かに見えたその瞬間、『彼女』を確かに捕らえたはずの刃はその軌道をそらし、『彼女』の遙か後方にある雪山を爆音と共に粉砕する。


 しまった!


 一瞬の優位に勝ちを焦った自分を呪った。『彼女』の足下から地面の下を何かがうねりながらやって来るのが目に入る。バランスを崩しかけた僕の顔を狙う様に、地面から氷の槍が勢い良く突き上げ、僕は踏み込んだ足に更に力を入れると、辛うじて体を後方に反らす。が、突き上げた氷の槍から筆に向かって更にもう一本の槍が飛び出し、目にも止まらぬ早さで僕の右手を跳ね上げる。筆は僕の後方へとはじき飛ばされ、目が無意識に筆がはじき飛ばされた方向に誘(いざな)われていく。


 まずいっ!


 『彼女』を縛る鎖への集中が途切れさせられた事に気付き、筆を追いかけていた視線を再び『彼女』に戻す。が、既に墨の縛鎖は解かれ、ライフルを構える姿が目に入ってきた。指は弾き金にかかっている。


 銃口と目が合ったその瞬間、『彼女』が指に力を込め弾き金を弾いた。

 僕は弾かれた右手の僅かな推力に身を預け、少しでも早く体を地面へ伏せようと試みる。強烈な炸裂音が辺りへ響いたその瞬間、脇に鋭い痛みが突き抜け、あばらをサポートしていたコルセットの接合部を根本から引き千切り、勢いを失わない弾丸の衝撃に引っ張られ、足が地面を離れた。

 気が付くと僕は雪の上を転がっていた。

 上下すら分からなくなる状況と、痛みで吹き飛びそうな意識を強引に引き戻し、膝を突く。体を起こそうと左手をつくとあばらに激痛が走る。直ぐに次の攻撃が来る……こうしては居られないはずなのに、筆を使って消費した精神的疲労が、痛みに蝕まれた体を起こす事を拒絶した。

 どうやら左腕の傷も再び開いてしまったらしい。地面についた手を伝い、雪を赤く染めた。痛い……胸も、腕も、ほんの僅か一瞬で僕の体がボロボロにされてしまった……分かっていたとは言え、力の差がありすぎて勝負にすらならない……そう悟った時、僕は絶望に心が折れてしまった。


 僕は終わるのだろうか……


 ハカナは今頃何処にいるだろう?


 時間的にはそろそろ別荘について、掃除でもしているのかな?


 夕ご飯は何を食べるのだろう。


 ロースケは、まだ冬華さんを探しているのかな?


 悪い、僕、冬華さんを止められなかったよ……


 色々な想いが頭を駆け巡る。結局、最後の最後まで僕は何も成し遂げる事は出来なかった。誰にも報いる事が出来なかった。その事が悔しくて、でも、どうしようも無くて、最後に出来るのは顔を見上げ、『彼女』を睨み付ける事くらいしかできなかった。我ながら無様な最期だと、自らを皮肉った。

 『彼女』は先程の場所から微動だにせず、機械の様に再び銃を構える。無表情ではあったが、あまりに無感情なその顔は逆に勝ち誇っているかのようにも見えた。僕は気持ちだけでも負けないつもりでいたが、『彼女』の敗者に向ける冷ややかな視線に負け、目を反らし、頭を垂らした。虚勢を張る事すら出来ない程、僕は打ちのめされていた。


 急に辺りが冷え込み、雲一つ無い空から雪が降って来る。空が赤いから対照的にそう見えるのか、はたまた、それが本来の美しさなのか、羽毛の様に純白で柔らかな雪が頬を掠め、その形は刹那の瞬きすら許さない程、あっという間に溶けて消えた。


 僕は目を閉じ、覚悟を決める。


 暗闇の中で、最後に見た雪を瞼の裏に思い描いた。


 遠くで乾いた発砲音が聞こえる。それと同時にあたりの空気が更に冷え込んだ。


 幻聴か、誰かが僕の名を呼んだ気がした。


 空気を引き裂く音が直ぐそこまで近づいてきたその瞬間、僕は想像していた方向とは全く別の方向へ体ごと吹き飛ばされる。


 意識がまだ繋がっていた。


 僕達はそのままゾウの形をしたオブジェクトの影に転がり込む。胸と腕の痛みに耐えながら、転がったせいで平衡感覚を失った目をようやく開き、状況を確認する。誰かが背後に居る事は分かったが、『彼女』で無い事は気配からも良く分かった。僕の腹部あたりに制服の袖が見え、そこから伸びる両手の白い指が絡み合い僕を優しく抱きしめ、背中に懐かしい温もりが伝わってくる。


「ばかっ……」


 聞き覚えのある声。少し涙声混じりの甘い声はそう言った。少女は僕の背中に額をコツンとぶつけた。混濁と混乱する意識の中で声の主が誰か、願望と、そうでない事を望む気持ちが入り交じった気持ちの中、視界の中に飛び出した背中を見て確信する。


 ハカナが……どうして……


 そう思った瞬間、再び『彼女』がライフルの弾き金を弾いた。ハカナはそれをいとも簡単に躱し、あっという間に間合いを詰め、『彼女』の前に立ちふさがる。


「ふーちゃんっ!!!」


 叫びにも似た声。しかし、ハカナの声は悲しみを堪えて震えていた。

 唇を噛みしめ、左手に握られた白鞘を若干前へ尽き出し、右手で柄を握ると刃をほんの少し引き抜く。赤く透明な刃が怪しく光り、鞘の口から迸(ほとばし)る猛烈な冷気は、冷えた空気すら凍える程に冷たく、大気に漂う水分を残らず凍らせ、夕日を受けて辺り一面の空気が輝き始める。


 ハカナは最後に涙を一粒落とした。


 頬を伝い、流れ落ちるまでにそれは氷の固まりとなり、柔らかな地面へと穴を穿つ。『覚悟』を決めたハカナは刀を勢いよく収め、鯉口の金具を鳴らした。硬質な音が辺りへ響く。それを合図に『彼女』は銃を逆手に持ち替えハカナへ殴りかかり、同時に、地面からは僕を襲った時とは比べ物にならない程無数の氷の槍がハカナを狙い、襲いかかる。が……それらはハカナを貫くことなく、寸での所で先端から砂が崩れる様にその形を失った。


 『彼女』が杖を振り下ろす。ハカナはそれに合わせて腰を落とし、足腰に溜めを作り、柄を握る手に力を込めると、手元から赤い軌跡が弧を描いて、夕焼けの光に剣筋が消え、それより一瞬遅れて金属が擦れる鋭い音が辺りに響いた。


 『彼女』は杖を弾き上げられはしたものの、躊躇う様子を全く見せず、その勢いを殺す様に体を捻りながら杖を銃に持ち替え、ハカナへ銃口を向けると、殺しきれない勢いが残った体幹を強引にその場へ押し留め、間髪入れずに発砲する。


 ハカナが僅かに腰を捻ると、何時の間にか鞘に収まっていた刀に右手が触れたか触れないかの間に再び二人の間に赤い軌跡が一筋、閃光の様に駆け抜け、真っ二つにされた弾丸は、ハカナの両脇で爆音と雪煙を上げながら地面に突き刺さった。


 『彼女』は発砲した反動を利用し後方へと跳ねていた。体を一ひねりさせてから優雅に着地するが、その胸には何時付けられたのか分からない、躱しきれなかった袈裟斬りの傷が、うっすらと血を滲ませていた。


 ハカナが振るう刀は早かった。『見る』事が得意な僕が目にする事の出来た物は夕日を受けた残光の軌跡のみ。その刀身を見る事は叶わなかった。とんでもない物を見てしまった……そんな気がして、僕の額に冷たい汗が流れる。


「見切った……」


 呟いたハカナは、刃を収めながら大きく息を吐いた。


「いま……終わるよ……だから、もう少し我慢してね……ふーちゃん……」


 そこに立っているハカナは僕の知っているハカナでは無かった。見かけこそ変わらないものの、緊張感に満ちた表情は今までに見せた事が無い程に張り詰める。剣の腕は素人目からも分かる程強く、そして早く、僕の知らない間にいくつもの修羅場をくぐり、勝ち残って来たと思われる貫禄すらも感じさせた。

 ハカナはさっきよりも僅かに前で刀を構え、右手の甲を空に向け、息を殺し、『彼女』をじっと見つめる。『彼女』もまた銃を構え、ハカナの様子を伺っていた。

 ハカナは息を整えると、『彼女』の呼吸に合わせ始める。場の空気が緊張感で痛くなる程に張り詰める。地面の感触を確かめるように少しずつ足をずらし、腰を沈めていく。


 終わる……予感がした……


 それから三呼吸目で息が止まる。

 銃声が響いた。

 同時にそれを打ち消す様に金属同士が擦れる音が響き、ハカナは一足飛びに『彼女』の前へ躍り出ていた。遙か後方では、弾丸が着弾したとは思えない程の爆音が爆風を伴って僕の耳に届く。

 始めて『彼女』が表情を崩し、喜びとも悲しみともとれない表情を見せた。ハカナの表情は尚も張り詰め、僅かに腰を回すと、次の瞬間には『彼女』の背面に立ち、その後を僅かに遅れて剣の軌跡が追った。鞘から姿を見せていた刀身がゆっくりと仕舞われていく。

 程なくして『彼女』は力なく銃を手放した。

 ハカナは目を瞑り、ゆっくりと振り返り、唇を噛みしめながら冬華さんの最期を見届ける為に涙を浮かべた瞳を少しずつ開く。


「ふうちゃん……」


 ハカナの肩が静かに震えていた。

 冬華さんは左目を閉じると、右目に咲いていた花が花びらを振りまきながら地面へと落ちた。冬華さんの頬に涙が輝いた気がした。ゆっくりと体が崩れるように無数の花びらをまき散らし、その姿が急激に失われていく。冬華さんがハカナへ振り返ると僅かに微笑んだ。微笑みながら消えていった……

 僕はその場で俯き、涙を流しているハカナの側へ向かう。

 重い体を何とか支えながら、ハカナの側へ……側へ行って、僕は何を言えば良いんだ……何て声を掛けてやれば良いのだろう……あの時と同じだ。母さんの時と同じく、再びハカナだけに悲しみを背負わせてしまった。ハカナに全てを背負わせてしまった自分が掛ける言葉は果たしてあるのか? 僕にその資格はあるのか?

 それを考えた時、僕は言葉を失い、足が止まる。自分の弱さを再び呪った。

 僕の気配に気付いたハカナは少しずつ顔を上げる。僕の顔を見た瞬間にハカナの表情は再び張り詰めた物になっていく。


「せっちゃん!近づいたら駄目っ!」


 ハカナが大声で叫び、近づくなと言わんばかりに手を述べる。

 僕はその言葉に辺りを警戒し、見回すがこれと言って変化は見あたらない。


「大丈夫……みたいだけど」


 そう言って再びハカナの方へ再び向かおうとしたその瞬間、あの銃の様な杖を手にし、僕に向けて口元を歪めるカイの姿を目にした。


 「かっ!!!!」


 言いかけた時、視界に入っているセカイが黒く塗りつぶされ、言いかけた言葉毎、僕は闇の世界へと突き落とされた。




――頭の奥に石でも詰められたような頭痛がしていた。

意識は朦朧として、感覚としては微睡みに近い物だった。


 何処からか聞こえる男の人のがなり声。

 草の匂いがする湿気を持った畳。

 ちゃぶ台がひっくり返る音。


 意識は僕であって、僕でなかった。誰かを中から見ている……それに気がついたのは、濡れた枕の気持ち悪さから逃れようとした時だった。逃れようと体に命令を送ったつもりになっては居たのだが、体は全くそれを受け付けようとしない。布団の感触、ふすまの隙間から漏れ出てくる煙草と酒の匂い、それらを感じる事は出来るのだが、体の自由だけは誰かの意志で動かされているようで、全く思い道理には行かない。加えて……例えて言うなら、壁一枚隔てて誰かが隣に居るような奇妙な感覚を覚えた。

 頬に流れ落ちる物を、小さい手が必死になって拭い、なるべく隣の部屋の音を聞かない様に布団を深く被った。陶器が割れる音が聞こえてくると、体の持ち主はびくりと体をこわばらせ、更に布団を強く体に押しつけた。

 何を恐れて居るんだろう……僕が誰へともなく問いかけると、まるでそれを自分が体験したかの様に、持ち得ないはずの記憶が思い出される。その記憶によれば、今、隣の部屋で両親が喧嘩をしていた。

 自分は誰なのだろう……再び問いかける。古びた記憶の中から鉛筆で自分の名前を練習している風景が浮かんだ。


 ふ……ゆ……ふゆか?


 上手く書けた事に母親が喜んでいるのか、笑顔で名前を呼びかけてくる。ふゆか……ふゆか……何度も呼びかけてくる。幸せそうに笑っている二人の後ろから、大きな手が頭を撫でた。ふゆか……は嬉しそうに大きな体に抱きつき、大きな手はいとも容易くその体を持ち上げる。母親が笑っていた。父親も笑っていた。

 僕はこれが冬華さんの記憶だと理解した。でもなぜ? 何故冬華さんは僕にこんな物を見せるのだろう?


 考える間も無く、頬に激痛が走った。この痛みは多分僕の物ではなく、冬華さんの物だった。

 恐る恐る目を開く。

 そこには血走った父親が冬華さんに馬乗りになり、何度も頬をはたいていた。後頭部には鈍い痛みと、顔をはたかれて頭を動かす度に後頭部の傷口から血が流れ出し、畳に広がり乾きかけた血はニチャリと音を立てる。ランドセルからぶちまけた教科書には六年生と書かれていた。暑い夏の夕暮れ時だった。

 父親はズボンのチャックを下ろし、冬華さんの股に割って入る。冬華さんの頭の中は嘘であって欲しいと言う願いと、これからされる事と、現実逃避の思考でぐちゃぐちゃになり、言葉を発する事が出来なくなっていた。

 父親が腰を沈める。下腹部に猛烈な痛みが走った。


「いたっ!」


 冬華さんがたまらず声を上げると、父親の拳がこめかみを捕らえ、視界が揺らぎ、意識が遠のく。荒い息づかいと、突き上げる父親の腰の動きと、始めて嗅ぐ生々しい匂いと……僕は目を反らしたくても、脳裏に浮かぶ冬華さんがされた事を黙って為す術無く見ているしかなかった。

 再び目が覚めた病院のベッドの上で、最初に見たのはおびただしい数の電子医療機器。母親が涙を流しながら喜んで居たようだったが、頬に張られた絆創膏と、瞼の上の青い痣、左手のギプス……冬華さんを助ける為につけられた傷だった。

 冬華さんは子供を産めない体になってしまったものの、一命を取り留めた事に感謝した。それは生きている事にではなく、父親に復讐するチャンスを与えてくれた事にだった。

 彼女の心はその日を境に暗い闇の中へ沈み、絵に描いたように堕ちていった。

 母親を大切にする気持ちは相変わらずだったが、周りの冬華さんを見る目が変わり、居場所を無くした冬華さんはホテル街に入り浸る様になると、転落は更に加速し、しまいには売春までするようになっていた。


 体を這う舌の不快な感触、嫌悪感を催すような醜悪な大人達の卑しい笑い顔。

 加齢臭と、ドロドロした吐き気をもよおすような汗と、変態的な性癖。


 何時まで経っても馴れる事は無かった。だから自分の心を殺していった。金が欲しい訳では無く、快楽を得られる訳でも無く、自傷行為に近い物だった。自分を穢して憎しみを得て、それだけを糧に自己の同一性を確立していた。それだけが生きる理由だった。

 冬華さんを買う人の中には若い人も居たが、基本的にそれが出来る人はそれなりにお金を持っていた人だったらしい。そして、男の人と寝る度、彼女の心は更に深く沈み込み、やがて父親への憎しみは、全ての男に対しての憎しみへと変わっていった。

 いずれ、誘いに乗って自分と寝た男を全て殺すつもりだった。


 そんな中で、ロースケと出会った。

 ロースケは売春の為にホテルへ向かう途中の冬華さんを見つけ、止めさせようとしたらしい。

 冬華さんはその日、計画を実行しようとしていた。

 そんな冬華さんの思惑を知るべくも無いロースケは、売春を止めに冬華さんとその連れに声をかけ、それが切っ掛けで争いが始まった。冬華さんは隙を見て、連れを刺そうとしたのだが、容易くナイフを奪われ、逆上した男に刺されそうになった所、それをかばって、ロースケは刺された。刺されながらも男をボコボコにしてその場から二人で逃げたのだ。


 初めて感じる男からの優しさに戸惑いはした物の、この時から冬華さんはロースケに惹かれたのだろう。今までしてきた事に負い目を感じながらも、そこからはロースケの事で段々頭が一杯になっていったみたいだ。父親への復讐心も薄れた様に見え、これからと言う時……そこで夢……の様な儚い物は終わり、僕は再び闇へと投げ出された――




「せっちゃん!!せっちゃん!」


 遠くでハカナが呼ぶ声がした。

 誰かが僕の頬を叩く。


「セツナが戻ってくるぞ。ハカナ、薬を出してくれぃ!」


 祖父が緊迫した声で何かを言っている。瞼を通して赤い光が目に入ってきた。


 そう言えば、さっきは夕暮れ時だった……っけ……


 少しずつ瞼を開く。


「セツナ!聞こえるか!? 」


 僕はその問いかけに一つ頷く。と、その瞬間、冬華さんが感じたと思われる不快な感覚が一気に駆け上がり、激しい嘔吐を覚えた。ハカナは心配そうに僕の背中をさすってくれる。祖父は小さな薬箱からハカナが時々飲んでいたと思われる丸薬を取り出し、僕に飲ませた。酷く苦く、青臭かったが、それでも随分体……というか、精神的に楽になった気がした。少し落ち着き、そこが僕の家だと気がつくまでに随分と時間がかかった。


「ハカナ? 」


 ハカナが心なしか悲しそうな表情をしている。いや、心配してくれているのだろう。ハカナの性格から言って、冬華さんを手に掛けた事は途轍もなく辛い事だったはずなのに、こんな時まで僕の心配をしてくれている。


 こんな僕なんかの事を……


 ふと、冬華さんの記憶が頭の中を掠める。何か成し遂げるべき事を残してしまっていた様だ。


「あの公園にさ……仕上げだけ出来てないマフラー落ちてなかったかな? 」

「うん。ふーちゃんの足下にあった……」

「そう……後で、ロースケに届けなきゃ……」

「せっちゃん……もう、ろーくんは……ふーちゃんの事は」

「ねぇハカナ? それ、最後の所、仕上げておいてくれないかな? どうかな……時間……かかりそうかな」


 僕はハカナの言葉の続きを聞くのが怖くて、遮る様に話題を続ける。ハカナはそれを理解した様で、少し下唇を噛んで、何かを我慢して、それからようやく口を開いた。


「直ぐ出来ると思うよ」

「そう……じゃあ、すぐ頼むよ……僕、その間にもう少し寝るからさ……」


 再び僕を襲う強烈な睡魔は、果たして言葉を最後まで伝えたか不安に成る程、あっという間に僕を眠りに引き込んで行った。

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