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最果てのセカイ  作者: 喪須田 範太
巻ノ壱 鈍銀(にびぎん)の杖を抱える者
20/38

12月2日-2-から12月3日

「おっかえりー」


 僕が家に戻ると夏音は、しっちゃかめっちゃかになった灰色の毛糸の固まりと、編み棒を両手に、スルメのゲソを咥えながら僕を迎えた。

 それを見て僕は、つい先程までの緊張の糸が嘘のように解れていく。


「あ、来てたんだ? ただいま」


 僕がそう言うと、夏音は電話の方へ顔をクイッと向けた。


「はっち、何か今チョット長電話中だよ。お爺さんからだって」

「ああ……」

「どうしたの? アルバイト疲れた? 」

「いや……ちょっとね。取り敢えず着替えてくるよ」


 そう言って部屋に戻り、学生服を脱ぐ。

 チクリと胸の痣が痛んだ。カイが付けた痣が昨日から赤みと熱を帯び始めたのは、呪いが効果を現し始めたのか……それとも予兆なのか……僅かな時間とは言え、一人になると、知らない間に心細くなっている事に気付く。


「せっちゃーん。ご飯出来てるから降りておいでー」


 階段の下からハカナが僕を呼ぶ。正直、食欲は余りない。それでも食べなければ。食べて、少しでも災いに抗う力を身につけなければ。時間を稼げば稼ぐだけハカナは安全に逃げられる。そう自分に言い聞かせ、階段を下りる。

 キッチンカウンターには小さな鍋に入ったままのロールキャベツ、少し少なめに盛られたご飯、そしてぬか漬けが添えられていた。


「あれ? ぬか漬け、またはじめたの? 」

「うん。今日ね、お婆ちゃんに糠を駄目にしちゃった事話したら分けてくれて、ついでにせっちゃんがそろそろ食べたいんじゃないかって思って、浸かってた大根1本貰って来ちゃった」

「ええ? 爺ちゃんとかが食べる分は大丈夫なのかなぁ? 」

「うん。ニンジンと、あと何かもう一つ入ってたし、大丈夫だって言ってたよ」

「ええ? せっちゃんぬか漬けとかさ、ジジー臭くない? 」

「あっ!カノ、そう言う事言って良いのかな? どうせロクに食べた事も無いくせにさ」

「あ~っ。ダメダメ!あたしあの匂いどうしても駄目でさ……」


 夏音は顔をしかめながら、拒絶する。


「ほらっ!カノちゃん、よそ見しちゃ駄目だって……それでね、お爺さんがお風呂に手摺りを付けたいから、せっちゃんに明日手伝いに来て欲しいって、さっき電話あったの」

「ああ、分かったよ。そう言う事なら明日にでもちょっと行ってみようかな……」

「うん、そうしてあげて……あっ、カノちゃんそこ一つずれてる……」


 僕は椅子に座ると、お婆ちゃんが漬けたぬか漬けを早速一切れ口に入れる。

 ハカナもぬか漬けは作るが、やはり婆ちゃんには適わないな……とか思いつつ、ようやく食欲に火が付き、ご飯を口へと運んだ。


「カノは、そうやって苦戦してどの位経つの? 」

「苦戦なんて失礼ね。これは家でチョット予習してみただけでさ、んまぁ、本格的に始めたのは、せっちゃんが家に来る少し前かな」

「あれ? そうだったんだ? 」

「うん、なんかさー、学校帰りに手芸屋で毛糸とか、編み棒選んでたらさぁ、すっごい遅くなっちゃってー」

「ええ? どの位いたの? 」

「学校終わってからだから三時間近く? 二時間半位かなぁ」


 僕はロールキャベツのスープを吹きそうになった。


「そんで帰ってきてから、ママがご飯作ってる間色々試してみたらこうなったわけ……」

「そのロールキャベツ、カノちゃんのママが作ったんだよ? 」


 嬉しそうにハカナは言った。そう言えば母親の料理なんてずっと食べる事がなかったから、それが幼なじみの母親が作った物でも、余程嬉しかったのだろう。


「カノちゃんのママ、お料理上手だもんねぇ……」

「あたしはさ、何時も食べてるから分からないけど……そうかな? 」


 夏音は気恥ずかしいのか、頬を赤らめながらも、嬉しそうな表情を浮かべている。


「うん。そうだ、今度カノちゃんのママにお料理習いに行こうかなぁ? 」

「はははっ、何時でも暇そうにしてるからさぁ、いっといてあげるよ。ママ、はっちの事お気に入りだし喜ぶよぉ、きっと」


 ハカナと夏音の会話はこんなとりとめの無い話が果てしなく続く。僕は、良く飽きもせず、次から次へと話題を探し出す物だと、二人を見ながら関心しつつ、食事が終わると直ぐに自分の部屋へと戻る。

 何となく一人は心細かったのだが、まぁ、ハカナは良いとして、夏音に絡まれたくないと言う気持ちが強かった。今は良いのだが、夜が更けてくるとテンションがやたら高くなる夏音を一度でも見たら、誰だってそうするに違いない。

 結局その日は夜遅くまで夏音とハカナは頑張っていたみたいだった。ハカナの部屋の扉が開いた音が大体深夜2時頃で、それからも暫く賑やかだった。少なくとも僕が睡眠に落ちるまでは彼女達は起きていたと思う。




 朝、七時半を回る頃には既に目を開いていたが、何となく勿体ないような気がして八時まで布団に潜っていた。

 ドアを開けると、何時もの朝食の匂いの代わりに、冷やされた空気の、例えるなら冷凍庫のような匂いがしてくる。その匂いで改めて今日は日曜日だと実感すると、妙に嬉しくなった。不本意に早起きしてしまった事も直ぐに忘れ、取り敢えずは朝食を……と思い、僕は部屋を出る。昨日あれだけ頑張っていた二人を起こすのは忍びないと思い、静かに階段を下り、久しぶりに朝一でカーテンを開いた。


「おはよ、せっちゃん」

「ああ、おはよう。起きて大丈夫? 」


 いつの間にか居間の入り口に立っていた寝間着姿のハカナは、しきりに階段の上を気にしながらキッチンへ入ってくる。少し眠そうな目を擦りながら、朝食の準備を進める僕の隣に立って一緒に冷蔵庫を覗いた。


「うん。何かお腹すいちゃって……」

「分かった。そこ座っててよ。今日は僕が何か作るからさ、ハカナは何が食べたい? ご飯なら冷凍のやつ、まだ残ってるみたいだけど」


 と言っても、僕のレシピは、ごく限られている。目玉焼き、卵焼き、スクランブルエッグ、この焼き卵シリーズだけは少し自信がある。まぁ、正直言ってハカナの方が美味いのだけど、今日は僕が作りたい気分だった。


「パンが良いなぁ、バターたっぷりで、あと目玉焼きはチョット硬めがいいかも」

「りょーかい、ハムとかはどうする? 」

「んーん。いいよ……あ、それとミルクも温かいの飲みたいなぁ。砂糖は入れなくていいよ」

「おーけー!カノの分はどうする? 」

「カノちゃんのは……うーん、カノちゃんが起きたら私が作るからいいよ」

「うん、じゃあそっちは頼むね」


 熱の通ったフライパンに卵を割る。コップに僅かばかり水を取り、フライパンの中で踊っている卵の周りに軽く流し込み、素早く蓋を閉める。そうするとフライパンの中は一層賑やかになり、真っ白に濃い湯気が辺りに立ちこめ、同時に、パンの表面が焼ける香ばしい香りがトースターから漂ってくる。コーヒーメーカーはコポコポと音を立て、ようやく部屋に生活感が戻ってきた。勢いよくトースターからパンが飛び出し、僕はすかさず熱いうちにバターを幾重にも塗る。ハカナが好きなパンの食べ方だ。こうすると、パンを噛んだ時、口の中にジュワッと広がるバターの味と香りが堪らないのだとか。


「あっ、せっちゃん!やっぱりジャムも欲しいかなー……とか……へへっ」

「うん。そう言うと思って用意しといたよ」


 バターを塗っている間に目玉焼きが焼き上がり、塩とペッパーミルをカウンターに並べる。ミルクも丁度良い具合に温まってきたようだ。目玉焼きについては、色々思う所もあるが、我が虚神家は塩と胡椒が定番だ。ちなみに夏音はこだわりのソース派で、それ以外を出すと怒られる。


「そう言えばさ、昨日何時まで起きてたの? 」

「んー、昨日って言うか、4時頃あたりまでかな? カノちゃん凄い頑張ってたんだよ? 」

「へぇ……」

「クリスマスにさ、パパとママにプレゼントしたいんだって言ってたよ」

「なるほど、間に合いそうなの? 」

「うん、何とか間に合うと思うよ……いただきまーす」


 話しながらも、目の前に漂う香ばしい誘惑に負けたのか、溶けたバターがしみ出る程塗り込まれたトーストを手に取る。サクリ……ハカナがパンに噛みつくと、僕が立っている所まで音が聞こえた。


「おいしー」


 ハカナは幸せそうにパンをほおばった。




 祖父の家へ向かう為に、家を出たのは十時半を大分過ぎた辺りだった。夏音は未だに爆睡しているみたいで、家を出る時に鉢合わせた夏音の母親に、まだ寝てるみたいですと言ったら苦笑していた。

 駅前のステーションからバスに乗り、二つ程町を抜け、山の袂にある集落の外れまで揺られ続ける。祖父の自宅前が、このバスの終着駅なのだ。

 それから、うんざりする程長い石の階段を上り、今では閉まるかどうか分からない、開け放たれた大きな門の扉をくぐる。すると、石畳の両脇に、雪の帽子をかぶった灯籠が出迎えてくれる。通路は、シルバー人材派遣の人が除雪をしてくれたのか、思ったよりも綺麗に雪が払われていた。

 古い佇まいではあるが、どことなく威厳のある家屋、そして周りを囲む垣根は相変わらず良く手入れされていて、垣根の角の柿の木の上の方には取り切れなかった柿が雪を被りながらもまだ残っている。

 正門からは入らず、裏口を回って土間を横切るとガラス戸越しに、のど自慢のテレビ番組がやってるのを見る事ができた。土間の奥で祖母がお代わりの味噌汁をお椀につぐと、美味しそうな湯気が立ち上る。祖母に軽く挨拶をし、まだそれ程お腹が空いていなかったので、荷物を置くと昼食はさておき、手の付けられていない、道場近辺の雪かきを始めた。

 此方の方では昨日も随分降ったらしく、山間部ならではの、サラサラしたスコップではまとめづらい雪を大きな木のヘラで根気よく脇へと寄せていく。ようやく通路から裏口まで人が歩ける程度に雪を払い終わる頃、祖父が道場の入り口から出てきた。


「おー!こりゃ助かるわい。まぁ、雪かきはそこまでにして、茶ぁでも飲んで一服ついたらええ」


 久しぶりに会った祖父は相変わらずの笑顔で僕を迎えてくれた。

 祖母は一端座ると、立ち上がる迄に時間を要する様になってて、少し足を動かそうとすると、一瞬、痛そうに顔をしかめては何度かに分けて少しずつ足を伸ばした。それに何だか少し背が小さくなった気がする。腰が曲がってきたからなのかは分からないが、酷く頼りなさげにみえた。


「ハカナちゃんは、今日はお留守番かい? 」

「うん。向かいのカノがさ泊まりに来てて、だから今日はハカナが留守番だよ」

「ああ、カノって夏音ちゃんかい? あの子は器量が良くてセツナのお嫁さんにピッタリだと思うんだけどねぇ……」

「ええ? 怖い事いわないでよ。幾らお婆ちゃんが言ってもカノだけはゴメンかなぁ……」

「何言ってるのさ。あのくらいしっかりした娘、今じゃ中々見つからないと思うよ? 」


 そのしっかりしすぎて居るのが疲れるんだよなぁ……


「おお、セツナ。これこれ、これを付けて欲しいんじゃが……」


 そう言って、袋に入った風呂用のプラスチック製・手摺りキットを持ってくる。


「どうにも長時間腰をかがめて作業をするのがおっくうでの……すまんが頼まれてくれんか? 」

「うん。そのために来たんだし、まぁ今晩はゆっくりお風呂に浸かれるようにやっとくよ。あっ、お婆ちゃん、茶碗、僕、持って行くからいいよ、ゆっくりしててよ」


 お盆を受け取り、流し台に置かれている水が張られた鍋へ、茶碗を一つずつ沈めていく。古びた蛇口を捻ると、流し台の下からモーターの回る音が聞こえ、それからようやく水が蛇口から流れ出した。

 一通り片付け終わり、土間の床下から工具を取り出す。小さい頃、何度も悪戯して工具をいじっていたので、その在処と使い勝手はよく知っていた。改めて手摺キットを持つと、その見た目とは裏腹に、しっかりした作りというか、無暗に頑丈な事が伺える。取り合えずはキットを小脇に挟み、工具箱を持って風呂へ向かった。

 土間から更に奥へ入り、曇りガラスの古びた木の戸を開ける。懐かしい匂いがした。木と、石けんと、少ししめったコンクリートの匂い。小さい頃、両親が忙しい時は必ずこの風呂を使って、そして仏間の手前の部屋で蚊帳を張り、若しくは湯たんぽを忍び込ませ、樟脳の匂いがする布団に潜り込んだものだ。

 コンクリートにすのこを敷いただけの脱衣室を抜け、浴室へと入る。流石に素足では冷たかったが、作業を始めるとそれも直ぐに気にならなくなった。檜で作られた浴槽へ一端体を沈めてみて、大体の目星を付けると、ねじで目印を付け、曲がらないように気を付けながら手摺りを取り付けていく。物の一時間程で作業は終わり、その頃には祖父が髭を愛でながら僕の仕事の様子を見ていた。


「うむ……やはりセツナは手先が器用じゃのぅ。いやはや、頼んで良かったわい」


 満足そうな表情を浮かべていた。


「片付けが終わったら道場に来てくれんかのう? 少しワシの話に付き合って欲しいのじゃが……」

「うん? いいよ……」


 祖父は久しぶりに僕を道場へと誘った。多分、力の事についてだろう。

 僕が先日、先生の絵を描いて大怪我をさせてしまった事を、多分、ハカナから聞いたと言う事は想像していたし、その事について咎められても仕方ないと思っていた。むしろ、今はその事を理解し、咎めていてくれる人が居ると言う事が、僕の唯一の救いの様にも感じられる。

 道場は想像していた通りに寒く、そんな中で祖父は平然と膝を組み、神棚の下で僕が来るのを待っていた。背筋を伸ばし、瞑想している姿は年老いても尚、凄味のような物を感じさせる威厳がある。


「来たか。そこへ座りなさい……」


 僕は差し出された座布団へ正座で座った。祖父は、もう一度目を瞑り、ため息混じりの息を吐く。


「端的に言う。ハカナより、お前が力を振るった事、聞き及んでおるのだが……詳しい話を聞いてはおらぬ。何れ、お前から直に聞きたいと思ってな……」

「あ……あれはさ、僕さ、人を傷つけようとして描いたのが、何故か先生の絵にすり替わってて……」


 祖父は、僕の表情を見て何かを察したのか、傍らにあったお茶を一口飲む。


「セツナよ……それは聞き捨てならぬな……力を持つ物は、それを自覚し、無碍に振るう事ならぬと、前にも言ったはずじゃ」


 そう言って凄味のきいた目で僕を睨んだ。その眼光は僕をすくみ上がらせるのに十分過ぎる程に迫力がある。口調は穏やかではあったが、一つ一つの言葉に力が込められ、僕を戒めた。


「うん。僕も浅はかだったって、心底痛感してるよ……その報いが国語の先生に向いてしまった事も、本当は僕がここに来た理由もそれなんだ。僕さ、これからどうしたらいいかな? 先生にどうやって謝ったら良いんだろ……」

「ふむ……いや、言わんでええ……お前の力は普通の者では理解しえない物じゃ。下手に言ったら言ったで、お前達、いや、周りの者達を巻き込んで平穏な生活が崩されるやもしれぬ……その事は誰にも言わんでええ。それよりセツナよ……お前、何故、人を傷つけようと思った? ワシで良ければ話にのっても良いのじゃが」

「実は……いや……大丈夫。大丈夫だよ。僕さ、この力は安易に使ったらいけないって良く分かったし、それにもう、あんな思い……したくないよ……」

「ふむ……お前がそれで良いのならもうワシは言わん。しかし……」


 祖父は少し何かを考えていた。多分、僕の言葉を吟味し、そこから何かを感じ取ったのは間違い無かった。何れ、僕がその事に関して口を開くまで待つ。祖父はそう言う人だ。


「うむ、ワシはお前を信じておる。じゃが、この先何かあったとしたらワシにも相談してくれぃ。老いぼれたとてまだまだお前達の力にはなれるはずじゃろうて」

「うん……そうだね」


 言っては見た物の、その力を振るう原因を言い出せないでいた。胸の痣は確かにある事から、カイは存在している事に間違いは無いのだが、何が起こるか、どうなるのか想像がつかない。僕に対して直接何かしらのアクションがあったなら相談のしようもあるのだけど、あれから数日経った今、周りに不思議な事件が起こった位で、それ以外に変わった事が無いため、自分で言うのも何だが、何処かでまだ事態を軽く見ている節はあったかもしれない。

 いずれにしても、それを相談するにしても、何を相談すれば良いのかが分からないし、その為の言葉も思い浮かばなかった。


「ふむ……それと実は、じゃな……セツナに渡したい物があるんじゃよ」


 そう言って祖父は背後から桐の木箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。

 箱の中には黒い毛の、立派な一号程と思われる大筆が、巻き付けられた御札で封印されていて、それは明らかに曰く付きの物だという事は一目で分かった。


「これはな……シイの妖筆じゃ……」


 そう言って僕の元へそれを差し出す。


「妖筆と言っても悪さをする物ではない。物々しい封印はされておるが、それは筆から絶えず墨が溢れ出るのでな、それを押さえる為の物じゃ」

「どうして僕にこれを? 」

「うむ、簡単に言うと、お守りの様な物じゃな。最近はお前達の街も物騒な話が絶えず、ワシとしても心配なのじゃ」

「でも、筆ってのはどうしてかな? 」

「絵を描く力を持つお前にちなんで選んだのじゃが……はて、気にいらんかったかな? 」

「いや、なんかさ、凄く高そうだったから……筆って高いのだと天井知らずみたいな事、何処かで聞いた様な気がするし」

「これは金では買えぬ代物じゃ。お前の命もまたしかり、そう言う事じゃな」

「じいちゃん……」


 僕はこの時、祖父の言った言葉の意味をもっと深く捕らえるべきだった。


「一つ、注意する事がある。もし、その筆を使う事になったらば、筆には逆らうでない。それが描き出すはお前が望んだ物、自らの心に背く事はすなわち、自らを傷つける事になる」

「筆に逆らう? 」

「そうじゃ。筆が身を預けている内は、お前が好きな様に使えばいい。じゃが、筆が自ら動く時は黙って手を貸してやるのじゃ。力を抜き、筆に身を任せる」

「逆らったら……」

「うむ、筆の毛は逆立ち、持ち主を傷つける事になるじゃろう……」

「ちょ……ちょっと怖いな……僕で大丈夫なのかな? 」

「なに、心配する程の事ではない。肩の力を抜いて黙って身を任せればいいのじゃよ。それにまぁ、あくまで言い伝えじゃ。ワシも何度か使ったが、墨の要らない便利な筆程度のもんじゃったよ」

「ならいいんだけど、うん。大事に使わせて貰うよ。今、アルバイト始めたばっかりでさ、休むわけには行かないんだけど、時間が空いたら爺ちゃんに水墨画、習いに来て良いかな? 」

「うむ。ワシはかまわんよ」

「よかった……最近、鉛筆以外の物でも絵を描いて見たかったんだよね。水墨画の風景画とか、なんか凄く惹き付けられててさ」

「フフッ……ワシはちょいと厳しいぞ? 」

「願ったり適ったりだよ。やるとなったらやっぱり良い物描きたいしね」

「そうかそうか……」


 祖父はそう言って満足そうにして笑う。筆の箱を閉め、改めて僕へと手渡してくれた。




 帰りのバスの中、久しぶりに体を動かして疲れたせいか、気付かない間に眠ってしまっていた。


――夢を見ていた。


 それは僕の記憶では無く、誰の記憶かも定かでは無かった。


 獣が辛うじて目を開くと、優しそうな男は、赤子を抱えたその妻とおぼしき人と一緒に、獣に向かって微笑む。米を水で煮て薄めて薄めて、水か粥か分からないほど薄い粥を笹の葉ですくい、獣の口元へと持って来た。

 始め、それが何だか分からなかったのか、何度か匂いを嗅ぎ、警戒しながらも空腹だったその獣は意図せず舌を出し、何度かそれを舐めて、ようやく大丈夫な事が分かると、体をふらつかせながら何度も何度も、笹の葉で掬われた粥を舐めた。


 それから暫くすると、その獣は元気に家の周りを駆け回っていた。家は小高い丘にあり、周りは柵で囲まれ、その中に数頭の牛が居た。

 助けてくれた男の息子は四つを数え、いつの間にか獣はその子よりも大きくなってしまっていた。

 一緒に走ったり、木に登っては獣が体を差しだし、布団になって一緒に眠ったりもした。

 自分が何者か深く考えもせず、ただただ毎日訪れる幸せを貪っていた。


 気がついたら血みどろになっていた。


 赤子の泣き声がけたたましく辺りへ響く。

 その時、獣は己が何者かを悟った……


 暴れて此方に向かってくる牛を止めるだけのつもりだった。

 牛にはじき飛ばされた獣は、身を守る為に呼び起こされた本来の力で牛を八つ裂きにし、気がついたら……獣と何時も一緒に走っていたあの子が冷たい骸となっていた。

 助けてくれた男の人も、その妻も、巻き添えになって、血みどろになって酷い有様で家の前で骸になっていた。

 それが自分のせいだと分かった時、生き残った赤子を籠に入れ、村一番の庄屋さんの前へ置いた。

 カゴの汚れを舐めて、少しでも綺麗にして、獣はしっぽを噛み千切り、赤子の枕元に置き、庄屋の人間を呼び出そうと何度も吠えた。

 声を聞いた庄屋の女将が何事かと駆けつけ、獣の足下の籠に入れられた赤子を見ると、初め、その獣が何処からか、さらってきたのだと思ったのだが、赤子の枕元に添えられた毛の固まりを見て、この獣の尾だと言う事に気付くと、なにやらただならない決意で獣はこの子を託したのだと思った。

 女将は獣に、大切に育てる事を約束すると、獣は音もなく、風の様にその場から消え去り、子供に恵まれなかった庄屋はその子を大切に抱きかかえ、屋敷へと戻った。


 獣は生きる気力を失い、気がつくと助けられた、あの崖の端へ立っていた。

 人でもなく、動物でもなく、自分がただの化け物だったと、それなのに何故あの夫婦は自分を助けたのか?

 それを思うと、ただただ悲しみは深くなっていくばかりだった。

 そして、その獣は命が尽きるまで、弔いの遠吠えを続けた――




 バスが大きく揺れた。車内アナウンスが流れ、ようやく自分の街へ戻った事を知る。

 眠気はまだ少し残っていて、記憶ははっきりしなかったが、どうやら先程まで見ていた夢は筆の毛の持ち主の物らしい事は何となく分かった。


 僕も先生を傷つけるつもりはなかったんだ……


 多分、そんな後悔に引かれてこの筆は僕の元に来たんだなと思った。

 バスを降りると排気ガスの匂いが鼻を突く。昨日と同じく随分と冷え込んでいて、何気に空を見上げると今日も夕焼けが鮮やかだ。駅からは、けたたましいベルの音が風向きのせいか、ずいぶん近く聞こえた。

 目の前の大きな電光掲示板が時報と共に、日曜日の終わりを告げるアニメーションが流れ始める。なぜかそのアニメーションを見ると、やたら明日が憎らしく思えるのが不思議でならない。

 僕は電光掲示板のアニメをなるべく見ないように、少しかじかんだ手を息で温めながら帰路へとついた。

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