11月28日-1
僕が通う『私立雄烏鈎高校』(みんなは、『おーまがり』と言うが正確には『おうまがり』と読む)は今年で創立百十周年を迎えた。商店街と住宅街の狭間に堂々と陣取り、十年前に立て替えた校舎は今でも新しさを損なう事無く、かつ、威厳を醸し出している。ちなみに、学校のランクとしては上の下。一応進学校であったが、部活動もそこそこ盛んな、まぁ言ってみなくても普通の高校だ。
そんな学校の生徒である僕は今現在、自分の教室をスルーして学校の屋上にて、手に熱々の缶コーヒーを握りしめ、一時限が終わるのをひたすら待っていた。本来ならば冬期間は安全性に配慮し、屋上は閉鎖されて然るべき物のはずだ。この学校も名目上、一応は立ち入り禁止にして居たが、実際の所、鍵が壊れて使い物にならなくなっていた為、冬でも屋上に上がる人は少なくない。休み時間になれば雪だるまを作る女子生徒も見られ、今年は既に三体目の雪だるまが風除室の横で鎮座している。
まぁ、そんな事はどうでもいいとして、今日の一時限目は国語。僕が嫌いな教師が担当している科目だった。今から授業に出席してもいいのだが、恐らくは僕が今更教室へ入ってきたところでこれ見よがしに怒鳴りつけ、結局は教室から追い払われる事だろう事は想像に容易い。見た目は可愛らしく若い女教師なのだが、いかんせん性格が悪いのだ。もう少し、他の生徒並に僕を扱ってくれても悪くは無いと思うのだが……ソレを親友のロースケに言ったら被害妄想だって笑われたっけ……
そんなこんなで、この寒空の元、コーヒー片手に、金網の向こうに見える白く染まった町をまるで刑事ドラマの重鎮の様な眼差しで見下ろしていた。
静かだ……
こんな時は何時も目を背けていた事が首をもたげる。
漠然とした不安、何か足りない気がする日常。このセカイからは何かが乖離してしまっている気がした。それが分からない分、僕は、知り得ない、あり得ないはずの本来の何かとのギャップを埋める為に、常に何かを探している気にさせられ、苛立ちだけが募っていく。滑稽な話かもしれないけど、僕にとってあり得るはずの無いソレは、とても切実な事の様なそんな気がする。でも、その感情すら本物なのかどうかすら分からない、と、考える自分も何処かにいて、最近では、半ば諦めがちに納得行かないセカイを受け入れるしか無いとも思い始めていた。
背後で静かに戸の閉まる音が聞こえた。屋上へ来るなり、いきなり怒鳴る声が聞こえないと言う事は他の学生が来たのだろう。それから少しして雪を踏む音が近づいてきて、僕の数歩後ろでそれは止まった。
「せっちゃん、ねぇ、せっちゃん? 」
少女は小さく、しかし良く通る声で僕を呼ぶ。『せっちゃん』一見この女の子を呼ぶ時に使われるような言い方、僕はその呼ばれ方がとても嫌いだった。小さい頃、体が弱く引きこもりがちな所もあって、それでそう呼ばれる度、良く女の子みたいだって馬鹿にされてた。だから、僕はその呼び方で呼ばれた時は、なるべく返事を返さない様にしていた。そして、そう呼ばれる度、世綱(セツナ)と名付けた祖父を恨めしく思った。
「せっちゃん……風邪、ひくよ? 」
僕より頭一つとちょっと背の低い少女が僕のマフラーの端をおずおずと何度か引っ張った。一つ大きなため息を吐くと、気配がする方向へゆっくり振り向く。
「その言い方……せめて学校ではその呼び方で僕を呼ぶの止めてく……ぶっ!」
ズブリ……と音がするかと思う程、頬に何かが刺さった。よく見ると、毛糸で編まれたミトンの手袋は人差し指だけ突き出され、それが僕の頬へ深々と突き刺さっていたのだ。とてつもなく古典的な罠に引っかかったと言う訳だ。我ながら情けなくなって言葉を失った。それとは対照的に少女はプルプル震えながら笑いを堪えている。
「せっちゃん……ひっかかったぁ」
「葉華那(ハカナ)……いい加減、その呼び方止めてよ」
指が突き刺さったままの僕の顔をみて堪えきれなくなったのかついに笑い出してしまった。高校生にしては少し幼い面立ちに、肩にかかった黒く艶のあるお下げが揺れる。ハカナは聞いているこっちの耳がこそばゆくなる程に、控えめに、声を押し殺すようにして笑った。どうしてだろう、彼女の笑い方がとても寂しく見えるのは。その笑い方は別に嫌いでは無かった。ただ、とても寂しそうに見える笑い方は度々僕の胸を酷く締め付けた。
「どうでも良いけどさ……ハカナ、授業どうしたの? まだ一時限の途中だろ」
「せっちゃんが窓から見えたから、保健室に行くって嘘付いて出てきちゃった」
ハカナは悪戯な表情で、まだ少し笑いの余韻が残る大きな目で僕を見つめながら、頬にかかった髪を掻き上げる。僕はため息をつきながら、つま先で踏み固められた雪を削りながら、今朝から不機嫌な理由の解をハカナに求める。
「それはそうと、どうして起こしてくれなかったんだよ……」
「だって、あんまり声かけるとせっちゃん怒るし……お父さんだって放っておけーって」
「うーん、もう怒らないからさ、明日からまた頼むよ……」
「もー、しょうがないなぁ、いいよ。明日からまた起こしたげる、怒ったら嫌だよ? 」
そう言いながら、柵の上に降り積もった雪を払い落とし、僕の隣で手摺に肘をついて一緒に町を見下ろした。風はもうすっかり治まり、雪は何者にも邪魔される事無く、ただまっすぐに僕達の上へ落ちてくる。
ハカナは僕の兄姉だ。二卵性双生児と言う奴らしく、まぁ双子でも似てない方の双子だった。間抜けな事に、うちの両親はどっちが先に産まれてきたのか分からなくなったらしく、どっちがお兄ちゃんとか、どっちがお姉ちゃんとか、そう言うのを決められずに、僕達もいつの間にか互いを名前で呼ぶようになっていた。僕としても、誰かが自分の上に立つ事をあまり快く思わない方だったし、かといって自分が誰かの上に立つとかと言う事も考えられなかったので、今のイーブンな兄姉関係は悪く無く感じる。
「ねぇ……せっちゃん……」
唐突にハカナは言った。
「もし……ね? もしも、この世界に私以外誰も居なくて、みんな……せっちゃんも、なるみも、お父さんもお母さんも実は私が作り出した幻で、それで、それに気付いてしまったとしたら私、どうしたら良いのかなぁ……」
ハカナは時々突拍子もない事を言う。中学に上がった頃からだろうか? その頃からハカナは頻繁に今の様な感じの疑問を僕に投げつける。明確に人生の指標や、自分なりの哲学を全く持たない僕は、はっきり言って彼女の問いに答える事は不可能だ。だから、全てを悟ったかの様な表情をしながら、それっぽい事の中に、何となくそれらしい理由を入れて毎回ごまかす事になる。
「あり得ない事を考えるもんだね……例えば、親父が仕事してお金を家に入れて、それで僕達が生活してるわけでしょ? 仮に親父が幻だったとして生活費はどうするの? お金なんて沸いてくるもんじゃないんだよ。今こうして生きてるのだって、誰かが僕達をささえているからなんだし、それが全部幻だったとして、その場合、幻に気付いたハカナも幻って事になるんじゃないかな? だから、数学で言うと『0』だよ。それは無いって事」
「あ、ああー……そうだね。うんうん」
我ながらよく分からない理屈であったが、ハカナは納得したらしい。でも何となく彼女の不安は分からないでも無かった。僕達がこれから歩む未来、世界は今のところお世辞にもあまり先が明るいといった状況では無いからだ。ニュースを見ると誰も彼もがネガティブな事ばかりを言っている。
言っておくと、僕の様な怠惰な高校生でも一応朝食時や夕食時に、居間のテレビで流れているニュース位は嫌でも目に飛び込んでくるし耳にも入る。別にアクション映画とかバラエティとかそう言うのばかりを見ている訳では無いのだ。
いずれにしても、何とも言えない不安をハカナは独自の解釈をし、こんな謎かけみたいな言葉で僕に問うのだ。まぁ、他の人がこれを聞いたらどう思うか分からないが、僕は何時も何となくハカナの言いたい事が分かっていた。
「何か雪を見てると色々考えちゃうって言うか……思いついちゃうね」
「うん、僕も少しばかりハカナみたいに哲学的な考えを披露したくなっちゃう所だった」
「ええー? 哲学的? そうかなぁ」
僕の言葉にハカナは興味を示したのか、少し笑って続きを促した。
「そうね、たとえば哲学的ってどんな? 」
「そうだね、例えば……何故缶コーヒーはこんなに美味いのか、とか? 」
あまりにも下らない僕の『哲学』にハカナは目を丸くしたまま固まっていた。
コーヒーのプルタブを起こすと、プシュッと言う、空気を吸い込んだのか、はたまた熱で膨張した空気を吐き出したのかは分からないが、開放的な音と共に、コーヒーの甘い香りが辺りに立ちこめた。こんなに体が冷えている時は何時もより缶コーヒーが美味そうに見える。たまらず僕は喉を鳴らして一口飲み込んだ。
「ああっ!いいなぁ!私にも一口!一口!」
「ええ? ったく、しょうがないな……」
僕は渋々ハカナに缶コーヒーを渡す。嬉しそうに両手で缶コーヒーを持ち、暫くその暖かさを堪能しているようだった。ようやくハカナは火傷をしないようにゆっくりと、躊躇いがちに飲み口を小さな唇へ寄せる。僕と違い、リップクリームをこまめにつけているハカナの唇はツヤツヤに潤っていて、桜を思わせるような色をしていた。飲み口が口につけられ、彼女が喉を鳴らすまでの数秒間、僕はその唇から目を離せないでいた。
はぁ……とハカナが幸せそうなため息を漏らす。それを見て僕は少し頬をゆるませた。
「ん? どうしたの? 」
ハカナは首をかしげ、不思議そうに僕を見つめる。
「いや、何か缶コーヒー一本で幸せそうな顔になれるなんて、安い幸せかなって……」
「でも、美味しいんだもん。仕方ないよ」
そう言って笑った。
「あっ、それよりせっちゃんの唇荒れてるよ」
ハカナはポケットに手をいれ、リップスティックを取り出すと、クルクルと宙空に二つ円を描き、塗る仕草をする。
「はい!コーヒーのお礼。リップクリーム塗ってあげる」
「い……いいよ……この位……」
「駄目だよ。今の時期、パックリ行ったら痛いんだから」
リップスティックを構え、ハカナは僕の頬に手を当てて、半ば強引にリップクリームを唇に這わせる。やたら真剣になって僕の唇にリップを塗っている顔を見ると、嫌だからと顔を背ける訳にもいかず、そのままハカナのなすがままとなってしまっていた。
「はい!終わり。これでこうやって唇をモグモグしてみて」
僕はハカナの真似をして唇を動かす。馴れない仕草なので妙にぎこちなくなってしまう。
「うん。大体そんな感じかな」
「あのさぁ……やっぱ恥ずかしいから、その、何て言うか学校でこう言うの止めようよ」
「そう? 私は全然平気だけど」
きっぱり言い切るハカナの表情に迷いは微塵も感じられない。僕はこんなにも恥ずかしいのに。何というか、どうして女兄姉はこうも世話を焼きたがるのだろうか……
「う……でも、僕たち兄姉なんだよ? 」
「いいでしょ? 兄姉なんだし、その位みんなしてるって。なるみもそうしてるって言ってたもん」
「うーん……そういう物なのか? 」
「やだなぁ、せっちゃん。そう言う物なんだって」
「そうか。そう言う物なのか」
ハカナは嬉しそうにしてウンウンと頷くとコーヒーを再び一口飲んだ。
「ごちそうさま!じゃあ私そろそろ戻るから。後でせっちゃんも、ちゃんと教室に戻って来るんだよ」
差し出されたコーヒーを受け取ると、ハカナは左手の時計に目をやった。
「じゃっ、先行ってるね」
そう言って踵を返し、髪と、制服に積もった僅かな雪を払って、風除室へと駆け込んだ。最後にもう一度、ひょっこりと風除室から顔を出し「ちゃんと教室に来るんだよ」と釘をさし、ようやく校舎へと消えていった。全く、僕はそんなにサボり癖が有るように見えるのだろうか……
ため息をつきながら、まだ温もりの残るコーヒーを口に運ぶ。何だろう、この釈然としない感じは……なんか色々上手く丸め込まれた気がする、敗北感にも似たような気持ちのまま、再び町を見下ろした。
ハカナは飛び切り可愛いとか美人とかそう言うのでは無くて、ルックスで言えばごく普通の、何処にでも居る女子高生……だと思う。成績は中くらいだし、強いて彼女の魅力を挙げるとすれば、少し垂れ目っぽいからか、何故か守りたくなるような雰囲気、仕草、優しそうな面持ち。そんな所位だろうか。まぁ、もっと言えば家事が良く出来て、趣味は編み物だったりと、とことん家庭的な所。又、それらとは裏腹に剣道の全国大会で圧倒的な実力差を見せつけ優勝したり、出稽古で無敗だったり、陸上短距離走の県内記録保持者だったり……兎に角、数え切れない程、沢山の実績がある。何でその才能の欠片が、兄姉である僕に無いのかと思うくらい剣道に限らず運動が得意だった。
片割れの僕はと言うと……趣味はゲームで、得意な事は絵を書く事位しか思いつかない。絵を描くと言ってもそんな大層な物を書いたりは出来ない。僕に描けるのは風景画だけだ。人物画を描けないと言う事は無い。寧ろ描きたい対象はあるのだけど、何故か僕が描いた人は体を壊す。その事に気付いてから僕は人物画を描かなくなった。祖父が言うには僕には変な力があって、この世に居ない人を見たり気配を感じたり、人を描くとその人の精気を奪ったりしてしまったりするらしい。いずれにしても、ハカナに比べて何ともぱっとしなかった。あまりの残念さに深くため息をこぼす。
絵ばっかり描いててもあれだし、取り敢えず……どうやって時間を潰すか……だな。
そこから教科書を取り出し、風除室で次の時間の予習……とは行かず、少し考えた後、僕はポケットからメモ帳を取り出す。グルグル巻に巻いたティッシュを開くと、使い込んで手のひらに収まる程短くなった4Bの鉛筆を真っ白なページに走らせた。時々メモ帳に降り落ちる雪を息で吹き払いながら、眼下に見える真っ白な町を、真っ白なページに写し取っていく。
結局、これだから僕の成績は今一奮わないんだよなぁ……
そんな事を考えなら集中力を高めていく。今年に入ってからこの風景を描いたページは合計8枚にもなっていた。それは春先の、まだ桜がちらほら見える頃から始まり、梅雨時の分厚い雲に覆われた町やら、アカシアが咲き始める初夏等、同じ景色でも季節毎に違った表情を描いていき、後から見返すのはある種の趣があった。それは、この町を描き続けている僕だけの特権であり、楽しみでもある。
あれ? あの店……看板おろしたんだ……
知らない間に町は少しずつ姿を変える。四季が巡ろうとも、看板を下ろした店はもう開く事はないだろう。気がつくと新しく建て直された建物が所々に目につき、最初にこの町を描き始めた時とは少し、根本的に風景が変わってしまったのだ……そう思うと少し寂しい気がした。