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最果てのセカイ  作者: 喪須田 範太
巻ノ壱 鈍銀(にびぎん)の杖を抱える者
13/38

-6-

 ――黒く大きい対流式のストーブが発する過剰な熱気、僅かに漂う消毒液の匂い、退屈な時間……。保健室という空間では眠くなる要素は数え切れない程そこかしこに散らばっている。

 暇をもてあまし人体の解剖図を眺め、胃は何処にあるのか、あるいは毛細血管を迷路に見立てて指でなぞり、指先から心臓までの距離を測ったり、視力検査のCを何処まで遠くから見分ける事が出来るかチャレンジしたり、そんな事で暇つぶしをした所で十分と持たなかった。

 授業が終わるまでまだ二十分程残っている。いくら保健の先生の言い付けとは言え、香那女先生と約束した手前、無意味に国語の時間をつぶすのは何か気が引ける思いだ。ああ、せめてあのベッドに横になれたら、それだけで二十分と言わず何時間でもつぶす事は可能だろうに……ふとポケットに手をやったが、描くべき……と言うよりも描きたい素材が見あたらない。今のところ出来ると事と言えば、保健の先生が使っている椅子に座り、ストーブにとりつけられた窓から赤く燃えさかる炎の様子を覗くくらいだ。

 それから程なくして入り口を誰かがノックした。


「は~い。あいてますよ~」


 僕は眠気の混じった気のない返事を返す。

 冷えた空気と共に、先にほんのり香る香水の匂いを押しのけ、煙草の香りが流れ込んでくる。まぁ、この時間帯に来るような人は大体そんな物なんだろうと思いながら、極力事務的に、かつ刺激をしないように振る舞う事にした。


「あ? 誰かいんの? 先生は? 」


 けだるそうな女子の、聞き覚えのある声が入り口から聞こえる。それが誰かは深く考えず、とりあえず今は保健の先生が居ない事を伝え、退屈な時間に少々の刺激をくれた事に感謝しつつ、面倒事を持ち込まれない内にお引き取り願おうと考えていた。


「あー、今保健の先生、出かけちゃっていないんですよね……」

「ああ、そう。んじゃアタシ具合悪いから寝るわ……って、セツナ、あんたここで何してんの」

「げ」


よりにもよって来客は冬華さんだった。


「んーアンタ保健委員とかそういうののわけ? 」

「いや、そう言う訳じゃないんですけど、国語の先生がちょっと怪我をしたんで、保健室の先生が病院に連れて行ったんですよ。それで居合わせた僕が留守番する事になっちゃって……」

「ふーん」

「それよりも、ロースケと一緒だったんじゃ? 」

「ああ、露庵君なら寒いからって校舎に戻ったよ。アタシは別に寒くは無かったんだけどさ、流石に一人で屋上ってのもアレっしょ」

「いやぁ、僕は好きですけどね」

「ははっ。まぁ人それぞれだからね」

「それよりさ、ちょっと寝るから手を出さないでよね。流石にアンタじゃそこまでの度胸無いと思うけどさ、一応? アタシも? なんつーの? 髪を黒くした事によって、おしとやかで可憐なヴィジュアルに、アンタも獣になり得ない状況にあるかと思ってさ、一応釘を刺しておかざるをえなき状況にあるみたいな」

「何言ってるのか分かんないですけど……ロースケの本見たんですね……」

「ちょっとさ、露庵君に読み聞かせしてもらっただけだけどさ、いやぁ。勉強になると言うか、これらの言葉は私の血となり肉となると思わば、果て無く堪え忍ぶ時も苦にならざるもやむなしっ!て感じってやつだよ」


 なんと言う事だ……冬華さんはとても感化されやすい人間だったことがよく分かった。それと同時に、ロースケが何の本を読んでいたのかが気になる所だ。


「冬華さん……無理して聞いた言葉真似しなくてもいいんですよ……ロースケそう言うの凄く嫌がりますし……」

「ええ? そうなの? 」

「何て言うか、冬華さんは何時もの冬華さんで良いんじゃないですかね。ロースケは見た目とか言葉で人を判断するような人間じゃないし、冬華さんが何時もと違う言葉とか使ったりしたら、ロースケも冬華さんの事、読み違えて凄く付き合いづらくなると思うんですよ」

「んー、そっか。そうだよね。折角友達になったのにさ、互いの事誤解して付き合いづらくなるとか、もったいない気もするしね。取り敢えずアンタの忠告、聞いといてあげるわ」


 そう言って冬華さんはよっぽど眠かったのか、遠慮無く大きなあくびをする。


「やっべ。眠すぎて目眩してきた。悪いけど本格的に寝るわ」


 目を擦りながら僕の横を通り過ぎ、昨日僕が貸したコートを我が物顔で椅子の上に置き、ベッドに入った。


「あ……そのコート持って行って良いよ。ちょっとさ、裏に細工したけどアタシからの感謝の気持ちだから、遠慮無く受け取って。それとさ、アタシの匂い付きだけど、いくら良い匂いだからってスーハーしながら変な事したら、アタシとしてもあまりいい気はしないね。別途料金発生するから」

「しない!しませんってば。だから寝て下さい」

「はははっ。おこんなくていいって。冗談に決まってんじゃん。んじゃあ昼休みになったら起こしてね」

「分かりました。まぁ、昼休みまで居る保証は無いですが」


 僕がそう言うより早く冬華さんは夢の世界へと旅立っていってしまったようだった。

 裏に細工をしたと聞いて、えらく興味を引かれた僕は、早速コートを広げて裏を確認する。なんと言えば良いのだろう……心の底から得体の知れない感情が沸き上がってくる。僕の目の前に広がる風景、殺伐としたはずの裏生地が無暗に賑やかでファンシーに変貌を遂げていた。具体的にどういう事かと言うと、やたら可愛らしいアップリケが彼方此方に縫いつけられ、そこだけおとぎ話の世界の様相を呈していたのだ。なんてこった……。

 これが、ハカナが着るような可愛らしいジャンパーとかだったなら話は別だが、僕のコートはどちらかと言うと地味で無骨なイメージだ――あくまで僕のイメージ――。僕自身も、そう言う所が気に入ってて――ハカナに言わせると地味すぎるらしいが――正直言って、良くもまぁやってくれた物だなと思った。タチの悪い事に、アップリケ達は異様な程頑丈に縫いつけられていて、取り外しが終わる頃には既にコートが要らない時期になっているんじゃないかと思うくらいだ。


 ふと、思った。


 これの為に冬華さんは寝不足だったのではないかと……

 そう思うと、何故かこれらのアップリケが愛おしく感じるではないか……。新手の嫌がらせとか思っていた自分が居たたまれなくなり、既に眠りに付いた冬華さんに悪いと思いつつも、ついつい声を掛けてしまう。


「あ……あの、ありがとうございます」


 僕がそう言うと、辛うじて現実の世界に意識が残っていた冬華さんは、返事を返す事すら面倒なのか僕に背を向けたまま手をヒラヒラさせた。勘違いかもしれない。でも、人の善意を踏みにじるような考えを持つ自分が大人気無かったと、反省するばかりであった。


 結局、退屈な保健室を出る事が出来たのは昼休み直前で、柊先生が帰ってきた時は異様な程にピリピリしていた。恐らくは、学校に戻ろうとする香那女先生との間に一悶着あったのは想像に容易かったのだが、どうしても様子を知りたかった僕は、恐る恐る香那女先生の様子を聞いてみる。


「入院!」


 鋭い口調で言い放つ。

 これ以上は聞くなと言わんばかりで、これ以上保健室にいると愚痴を聞かされるか、八つ当たりを受けそうな雰囲気だったので、僕は早々に保健室を出た。保健室を出た後に冬華さんを起こすと言う約束を思い出して戻ろうとしたが、ドアの向こうから伝わってくる、気が立った柊先生の気配が僕の踵を返させた。


 教室に戻ると、入院の事については他の先生から連絡があったようで、僕が戻った時には誰も先生の事を聞きに来る人など居なく、まぁ、もっとも、香那女先生に至っては、障らぬ神に祟り無し、と言わんばかりに誰も触れたがらないのは今に始まった事では無いのだが……取り敢えずはクラス委員に簡単な報告を済ませると、ようやく昼食にありついた。唯一ハカナだけは僕に先生の話題を振って来たのだが、兎に角、香那女先生が授業を続行させようとしていた事にハカナはしきりに関心しながらも、それを諫める柊先生の立場を思い、如何ともしがたい表情をしていた。


「大変だったねぇ……」


 ハカナはそう言って小さくため息をついた。


「あの……さ……」


 僕は、僕の能力の理解者の一人でもあるハカナに、話すべきかどうか正直迷ったのだが、何処にもやりようのない自分自身への憤りと良心の呵責が、その口を開けさせた。誰かに聞いて貰わない事には心苦しくて叶わなかった。


「僕、知らない内に……先生の絵……描いちゃったみたいで……さ……」

「えっ……!」


 少し驚いた顔をすると、僕へ真剣な眼差しを向ける。


「言い訳に聞こえるかもしれないけどさ……先生を描くつもりじゃなかったんだ……っていうか、他の人を描いたつもりだったんだ。それがこんな事に……僕、なんて先生にお詫びをしたらいいんだろ」

「せっちゃん!」


 珍しくハカナは怒った声で僕の名前を呼んだ。


「例えどんな事があっても人を傷つけるような事をしたらダメなんだよ? 先生以外の人を描いたにしても、その人を傷つける事になっちゃうんだよ? 」

「わかってるよ……わかってた、けど……」


 その人が僕だけじゃなくて、ハカナの命も狙ってるんだよ……って、僕はそれを言う事が出来なかった。言って、どうやって理解してもらえば良いというのか? 不思議な力? 僕にだってそれっぽい力はあるみたいだけど、本格的に魔法っていえばいいのかな? それで僕達はその魔法で命を狙われてるって言ってどうやって納得させるのかという話だ……

 そもそも下手に今、どうこう言って、いざハカナを逃がす時に、変な先入観で話を聞いて貰えない……そんな状況になってもまずい。

 そして何より容易く人を傷つける手段を行使した自分への反省。

 昔の僕のそれとは全く比べものにならない程に、明らかに力は格段に強くなっていて、こんな結果など、想像だにしていなかった。以前は時間をかけてゆっくりと気分が悪くなったり、具合が悪くなる程度だった物が、今は絵が完成してから対象に影響を及ぼす時間が圧倒的に短く、命を脅かす程の物になっているとは……。

 消しゴムを引くのが後一瞬遅ければ……そう思うと背筋に寒気が走る。


「ごめん……僕、確かに迂闊だったよ……先生にお詫びしたいけど、どうやって説明したら良いのか分からないし……」

「そうだよねぇ……ホント、その辺が多分一番むずかしいかもしれないね……」


 全く因果関係の無い出来事が繋がる、と、言う事を説明するのはとても難しい。

 魔法や、それに準ずる概念か何かが日常にあるなら兎も角、僕達が住んでいるこのセカイでそれを理解出来る人なんているのだろうか。


「何かさ、保健室で先生と話していたら、思ったより優しくってさ……それで余計に悪い気がして、僕どうしたらいいんだろ……」

「へ……へぇ……先生と? 」

「うん、二人っきりになっちゃってさ、去年の面談で、僕が行かなかったの気にしててくれてさ、僕だけ何か空回りしてるみたいで恥ずかしかったんだ……」

「ふ……二人っきりねぇ……まぁ、腹を割って話すってやつのかな? そう言うのもあって良いかもしれないね」

「うん。それにさ、眼鏡を取った先生の顔、思ったより幼くてさ、そのギャップっていうのかな、教壇であれだけ怖かった先生が、二人きりだとあんなになっちゃうんだもん。僕だって最初驚いたけど、必死なんだなって。僕達の為にがんばってくれてるんだな……って思ったら色々自然に話する事ができたよ」

「ふ……二人きりで、ああ……ああああああああんなになるって!せっちゃん不潔だってば」

「ん? ハカナ何か顔赤いけど、どうしたの? 」

「はっ!え……いや、なんでもないよ。なんでも……」

「何かさ、変な想像してたでしょ? 」

「え? してないよ。ちょっとね……」

「ちょっと? 何? 」

「ちょ……ちょっと保健室で綺麗な女教師と男子生徒とか、二人っきりとか、どうかって思っただけだもん」

「ないない!あり得ないから。いくら綺麗でも香那女先生はチョット……」


 そう言いかけた時、眼鏡を取った時に見た甘く優しい顔を思い出し、その後の言葉に少し困ってしまった。


「ほら、やっぱりせっちゃんだって香那女先生の事、綺麗だと思ってるんだ……」

「ええ? いいじゃない。その位思ったってさ」

「それは……そうなんだけどぉ……」

「それにさ、ハカナ数学の野村先生の事、知的で格好いいって言ってたじゃない。ああいうもんなんだって」


 野村先生とは若くて、そこそこ顔の良い数学教師なのだが、僕にしてみれば、あのスカした雰囲気がどうにも気に入らない。まぁ、嫌いな先生達の中の一人でもある。どうしてハカナがあんな先生を格好いいと思うのか、正直言って僕には理解出来ない。


「ええ? そうなのかなぁ」

「そうそう、そう言う物なんだって。多分ロースケもそう言うと思うよ? 」

「ろー君が言ってもあまり説得力ないねぇ……」


 ハカナはそう言って笑った。

 それにしても今日のハカナは様子がおかしい。

 この後も暫く僕達は話していたのだが、まるでラブロマンスを見終わった時の様に、やたら恋愛事というか、男女の関係に興味を示しているようで、切っ掛けさえあれば、直ぐに恋愛話へと結びつけたがっていた。何かあったかとよくよく思い返してみると、二時限目の休み時間辺りから様子が変わった事を思い出す。始めて出来た年上の知り合いの冬華さんと言う、まぁ、良くも悪くも魅力的な人が、一人の男相手に変わっていく様子をみて余程ショックを受けたのだろう。

 恋に憧れる事はあっても、恋をした事が無い。それがハカナの現状だ。そして、目の前で、ロマンスが展開されているとなると、気になって仕方ないだろうし、そう言う状況に憧れすら抱いているかも知れない。

 まぁ、正直、僕にとっては今の所どうでもいい話なのだが、取り敢えずハカナに恋人が出来たとしても、家事だけは忘れないで欲しいと願うばかりだ。仮に、僕と親父を放って置いて恋愛に夢中になられたとしたら、多分一週間後には餓死した親子のニュースが流れる事になるだろう。


 帰りのホームルームが終わり、ハカナと帰りにスプリング・ベルで待ち合わせる事にすると、ハカナは教室の前で待っていた剣道部の後輩に囲まれながら体育館へと向かう。僕は、改めて今日から初めてのアルバイトなのだと思うと、学校を出る前から少し緊張していたのだが、下駄箱の前で待ち伏せしていた夏音に、その事を話すと一笑に伏された。


「じゃあ、折角だからせっちゃんの初アルバイトを見に行ってあげようかな? かなぁ? 」


 夏音はそう言って断っても来る気満々の表情で僕の顔を覗き込む。何が「かなぁ? 」だよ、全く……


「はぁ……駄目だって言ってもどうせ付いてくるんだろ? 」

「へへっ。あったりー!」


 笑いながら軽やかに、僕の前へと大きく一歩踏み出た。今日は昨日の今頃と打って変わって底冷えするような寒さで、夏音が一歩踏み出す度に雪は軋む音を響かせ、空は青々と晴れて、暫くは雪の降る気配などはみじんも感じられないのだが、空気は肌を切るように冷たかった。

 この分だと、バイトを終えて帰る頃には、相当冷え込んでいそうだ。


「言っておくけどさ、僕がバイト始めても奢ったりはしないからね」

「わーかってるってぇ!」


 絶対わかってないだろ……


「取り敢えず肩の力抜こうよ。そんなに緊張する程の物じゃないしさぁ」

「そう言えばカノってさ、始めてバイトする時どんな感じだったの? 」

「あたしはさ、おじさんの顔ちょくちょく見てるし、何度か手伝いに行った事あったから、そんな、緊張とかなかったけどね」


 そう言えば、夏音のアルバイト先は親戚の花屋だったっけ……。夏音が入ってからは売り上げが随分伸びたらしく、特に男性客が多くなったとの事だ。男性客ばかりではなく、お年寄りにも人気があって、用が無くても夏音目当てに遊びに来てはついでに仏壇に上げる花を買っていったりと、まぁ、文字通り看板娘と言う訳らしい。とにかく人当たりの良さは天下一品だと、うちの祖母もしきりに褒めていた。


「せっちゃんさ、アルバイト先で上手くやっていく方法、レクチャーしてあげよっか? 」

「へぇ、なんかこつとかあるのかな? 」

「まぁね」


 そう言って夏音は手を差し出す。


「何? この手は……」

「情報一つにつき百円ね。アルバイト先で上手くやっていく為の情報は十個だから、特別にセット料金で千二百円でいいよ」

「いや、いらないし。っていうか、何で増えてるんだよ……カノは僕から幾ら搾り取るつもりなんだ……」

「あるだけ全部」

「こ……」


真顔であるだけ全部、と、あっさり言い切った夏音が僕は恐ろしかった。


「将来への投資だと思えば安い買い物だよ。カノさんに貢ぐと幸せになれるって、巷で評判なんだから」

「ないない……大体、昨日の出費で十二月はかなり切り詰めなきゃいけないんだ。僕にこれ以上たかっても埃すら出ないって……」

「冗談だって冗談!嫌だなぁせっちゃん。あっ!お金が無かったらバイト先に良い物があるじゃない。カノさんの為にさ、甘くてー……とろけるようなー……んふふふ~」

「あー、ダメダメ。大体まだ働いてもいないのにそんな約束出来ないって」

「あー……そう……。ふーん……そうなんだ……」


 全く……夏音は僕以外の人に対してはウケが良いけれど、その人達が本性を知ったらどう思う事やら……。大体、僕なんかよりずっとタカリ甲斐のある人は夏音の周りに沢山いるじゃないか。

 そんな事を思いながら、チラと夏音の方を見ると、思ったよりも凹んでいる様で、しょんぼりしながら肩を落として僕の後ろを付いてくる。僕は少し可愛そうになって、話しかけてみても夏音は「いいもん」の一点張りで、会話が続かなくなってしまった。変な罪悪感が胸の中に芽生え、すっかり困った僕はご機嫌を取る為の言葉をいくつか並べてみるのだが、何れも彼女の耳には届いていないようだ。単純な沈黙なら耐えられるというか、むしろ望んだり叶ったりなのだが、こういう沈黙は苦痛だ。夏音が男ならまだ良いのだが、実際は見た目が愛らしい女の子だ。だまされてはいけないと思いつつも、甘い言葉を言いたくなってしまうのは僕が甘いからだろうか? いや、きっと誰だって可愛い子にそうされたら、知っていても、だまされるに違いない。


 はてさて……甘んじてそれを受け入れるか……どうするか……


 額に青筋が浮き出る程悩んでいると、何処からかバッハのトッカータとフーガ ニ短調が流れてくる。携帯の音らしく、やたらと高音が強調された耳障りな音に、いったい誰がこんなセンスのないチョイスをしたのかと、しきりに辺りを見回す。

 ――時として、神様は救いの手を思わぬ所からさしのべてくれる物だ。

 不意に夏音は鞄に手を突っ込み携帯を取り出す。めずらしくイラッとした顔をしながら、しかし、出ないわけにはいかないらしく渋々通話ボタンを押した。


「はい。夏音……ですが……」


 棒読みで受話器の向こうへ返事をする。それは怒り意外の感情を一切持ち合わせていない、冷たく機械的な声だった。


「えぇ~っ!またですかぁ? はい……いえ……いいんですけどぉ……あたしも都合って物があるんですよぉ。店長わかります? 都合ですぅ。確かにそうですけどぉ……ええ? 神崎さんも居ないの? もぅ……分かりました。わー!かー!りー!まー!しー!た!行きます。行けば良いんでしょ!。はいはい。じゃあ切ります」

「カノ? 」

「せっちゃんゴメン!急にバイト入っちゃってさ、この埋め合わせはするから」


 むしろ埋め合わせさせられるのは僕の方じゃ……そんなつっこみを入れそうになるが、辛うじて堪える。夏音の表情が本当に残念そうで、埋め合わせの件は本当に他意の無い言葉なんだろう。


「いや良いよ。それよりさ、気を付けていくんだよ? 今日は滑るし」

「アリガト!んじゃっゴメン」


 急に何時もの夏音に戻ると、僕にパンと手を合わせ、今来た道を走って戻っていく。

 なんだかんだ言って夏音は自分のバイトが気に入ってるらしく、それは僕から離れていく後ろ姿と、遠ざかる速度を見て何となく分かった。

 それにしても、どうやら僕は余計な心配をしていたらしい。夏音が落ち込んだ風にみえたのも、僕からケーキやお金を引き出す策略だったのだ……全く、末恐ろしい娘だ……。でもまぁ、その内……いつ来るか、来ないか分からない何時か、僕がバイトに馴れて余裕が出来たら夏音にも何か奢ってあげようと思った。




やっぱり僕は甘いかも知れない……

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