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セミロングに優雅なカールがかかった少し茶色い髪と、きつめの化粧が特徴的な保健室の先生は、金縁の眼鏡を人差し指でクイと持ち上げ、組んでいた足を解くと、ベッドの縁まで歩み寄り、膝を落とした。
この保健室の先生――名は柊 明日香(ヒイラギ アスカ)と言う――は、香那女先生とは大学での同窓生であり、同い年ではあったが、見た目、香那女先生よりも少し年上っぽい貫禄と色気を持ち合わせていて、『保健室の先生』と言うブランドと、その強い色気のせい? で一部の男子生徒から絶大な人気を博している。今日に限ってはそうでも無いけど、具合も悪くないのに保健室へ来る男子生徒は少なくない。
まぁ、そんな事はどうでも良いとして、柊先生と香那女先生は一言二言会話を交わし、少し考えた後、遠慮なく、脛と踝(くるぶし)の辺りを手で触れる。香那女先生は苦痛に顔を歪ませた。
「あーやっぱりね、これ、折れてるわ……何やってんのアンタは……」
柊先生は呆れたようにため息を付き、それ以上何も言わず立ち上がると、椅子にかけたファー付きのダウンジャケットを羽織る。
「ちょっと横になってて。今、車取ってくるから、それとセツナ君、見ててちょうだい。この人、多分教室に戻ろうとするから、そうなったら押さえつけて」
「え……ちょ……ちょっと、アスカ……」
慌てる香那女先生を尻目に、保健室を後にした。
こ……これは、気まずすぎる。僕は今になって後先考えない自分の行動を反省する。っていうか、さっき――国語の時間――も反省をしたばかりなのに、今日は反省事が多い一日だ。
「ふぅ……参ったわね……これしきの怪我で授業を遅れさせてしまうなんて……」
「何言ってるんですか。さっきも聞いたじゃないですか……折れてるって。それにあれだけ高いハイヒールじゃ何時転んでもおかしくないですよ」
「セツナ君。もう良いですから教室へ戻って下さい。私も直ぐに戻りますから」
「だめですって。保健の先生にも言われたけど、ここから動かすわけにはいかないです」
僕はいつもと立場が違う事に少し戸惑う。この先生の授業への執着心は、言葉の端から何か焦りの様な物から来ている雰囲気を感じた。
「こんな……この程度の怪我で……情けない……」
「先生……そんな事無いですよ。クラス委員もきちんと先生の後を繋いでいるみたいでしたし、代理の先生も直ぐ来るだろうし」
「そういう問題じゃないのよ……」
珍しく悔しそうな声で先生はそう言い、それから深い沈黙が訪れた。一秒がとても長かった。待てども待てども柊先生が来る気配は無く、僕と先生の拷問の様な沈黙の時間はまさに永遠に近いと思えるほどだ。何時、僕への粗出しが出るのか、そればかりが気になって、先生が身動ぎする度、ビクビクする僕がそこにいた。
「絵……」
唐突に先生が口を開く。
沈黙に耐えかねたのはどうやら僕だけじゃ無かったらしい……
「え? 」
「え? じゃなくて、絵、とても上手でした」
唐突に、ましてこの先生に褒められると、僕としてもどうして良いか分からずに一瞬固まってしまう。
「あれは……あの、何て言うか、スイマセンでした……」
「いいの……本来なら、褒めるなりして、才能を伸ばしてあげるのが教師の勤めなのですが……みなさんの居る手前、それをする事は出来ませんでした」
「いや、でも国語の時間ですから……」
「他の先生なら、私よりももっと上手く対応が出来たのでしょう……でも、ごめんなさい。私にはこれしかできないの……こういうやり方しか……」
その瞬間、この人は僕と同じ人種なのかも知れないと思った。他の手段では上手く行かなくて、だから、自分が出来るやり方で、成そうとする事を大切にこなして行きたい気持ちと、自分が出来るやり方でやろうとすると、周りが上手くついてきてくれない。この、出来る事とやりたい事の間にある、深い溝に何時も苦しんでいる感じは、僕にも覚えがある。もっとも、この人は僕より崇高な目的で動いていて、僕よりも情熱を持って教師という役割にあたっていると思うと、僕がしている事と比べるのはおこがましいとすら思える。
「セツナ君が私の事を煙たがっているのはよく知っています。でもね、私は、それでも私が教えたい事、伝えたい事を私のやり方でしか通せないの。こう言う性格で本当、申し訳ないと思っているわ。もし、国語の授業が嫌いになったら、それは間違いなく私のせいですね……」
「そんな……」
「いいのです。去年、貴方達の担任を任せられていた時、貴方が面談に来なかった事で何となくそれを知りましたから」
「ああっ……と、あの時は本当に申し訳ありませんでした……」
寂しそうな表情を見せた先生に対して僕はただ、頭を下げる事しか出来なかった。
あの後、先生が夜まで僕を待っていた事を知って居ただけに、面談の時の話をされると良心が痛む。正直言って、この先生の顔を今までまともに見れなかったのは、そう言う事もあってなのだけど、一年越しに謝れた事に、少し気が楽になった気がした。それと共に、何と言うか……片意地を張っていた自分の事が、とても子供っぽく感じられて、恥ずかしくも思えて来たのだった。
「でも、ようやくこうやって話す事が出来ました。少し、聞いても良いでしょうか? 」
「あ……え、と」
「今日は、将来とかそんな堅苦しい事は聞きません。ただ、貴方の事を少しでも知りたいのです」
「僕の事ですか……うーん、何から言えばいいんだろ」
「そうですね……セツナ君、貴方の好きな事は何ですか? 」
「僕……ですか……僕は多分、絵を描くのが好きなんだと思います。それに、僕にはそれしか無くって」
そう言って苦笑いをした。
「そうね。貴方には絵の才能があるわ。今日だってあの教科書の、私の絵。ここだけの話ですが、正直とても嬉しかったんです。あなた方には私がどういう風に見えているのか、自分で自分のやり方を知って居るだけに、考えるだけでも時々怖くなります。それなのに、あんな風に綺麗に描いて貰えるとは思っても見ませんでした」
そう言って顔を伏せ、僕から目を反らす。
「な……何というか、恥ずかしいと言うか、て……照れますね。ああいう風に描いて貰うのは。でも、教師を勤めて初めてです……こんなに嬉しいと思ったのは」
そう言って眼鏡を外し、目頭を押さえて小さくため息をつく。骨が折れた為に熱が上がってきたのだろう。
それよりもこんな時に言うのもアレなのだが、眼鏡を外した先生の顔は、想像よりも少し若くて、甘い雰囲気の優しい顔をしていた事に少し驚く。どことなく、ハカナに似ている気がした。
「ありがとう……こんな私でも、見てくれている人が居たと言うだけで、それだけで力が沸いてきます。でもセツナ君、教科書に落書きをしちゃダメですよ? 」
「あ……はい。それはもう、しません」
思ったより素直に謝る事が出来た。と言うか勝手に口から出た。普段から見かけだけは可愛いとは思っていたが、こういう状況で、女性の、か弱い面を見せられると尚更魅力的に見える物なのか、僕から謝罪の言葉を引き出すには思ったよりも簡単な事だったんだなと、自分で自分を改めて再発見させられる。
いずれにしても僕は他の男子が知らない、この先生の一面を知った事に、何故か、ほんの少しの優越感を覚えた。
「そう言えば、露庵君は今日も屋上ですか? 」
「あれ? 先生、知ってたの? 」
「知ってるも何も、何時もあそこに居ますからね……あの子は本当に読書が好きで、知識だけなら相当な物をため込んでるはずなのですが……」
「確かに、僕と話す時も時々、こんな知識何処から仕入れたんだろうって思う事ありますね」
「しかしですね、あの子の本への要求は勉学のそれよりも何か、そうですね……何かにせき立てられて居るような雰囲気があるんです。そこら辺、セツナ君は何か知っているでしょうか? 」
「うーん……先生はロースケの家の事知ってますよね? 」
「はい。お寺の住職さんの子供と言う事で、その事で家の人と一悶着あったとは聞いています」
「うん。その頃からなんですよね……その頃って言うか、一悶着あった時辺りから本の嗜好が変わったって言うか、読書に対しての姿勢とかが変わったのもその頃だったような……」
僕はロースケが読む本の傾向が変わった事と、それに伴って周りから孤立していった事が心配だと言う事を始めて先生に打ち明ける。先生は意外にもロースケの気持ちが分かるらしく、真摯にそれを受け止めてくれた。多分、この事をロースケに言ったら「余計な事言うなよ、馬鹿」とか言われそうだけど、先生が聞き上手な事と、何故か信頼出来そうな気がして、思ったより僕は口が軽くなっていたのかも知れない。
「そうですね……私もセツナ君の意見はその通りだと思います。しかし……困りましたね……だからと言ってあまり授業に出ないのを黙認する訳にもいきませんし……」
「でもまぁ、授業にはなるべく出るように言っておきますよ。アイツ、香那女先生の事も好みのタイプだって言ってたし、聞いたら直ぐに来るようになるかも」
「まぁ……そう言われるのも初めてですね」
そう言って先生は照れくさそうに、初めての笑い顔を僕に見せた。
「おーまーたーせー」
パタパタと柊先生が、冬の冷えた空気と共に保健室へ駆け込んで来た。余程急いでいたのか、肩の雪は払われていたが、頭に乗った雪はそのままにして忘れていたらしく、解け始めた雪の雫に気づくと、ようやく頭の雪を落とし、少し濡れた髪を気にしながら言った。
「カナ、アンタ歩ける? 肩貸すからさ、車までがんばってきてよ」
「ダメよ。授業が……」
「ばっか、この期に及んでまだそんな事言うの? あんたさ、骨折してんだよ? こ・っ・せ・つ!それにもう他の先生に話し、つけて来たんだし、さっさと行くよ!」
「先生!僕からもお願いします。もう先生の授業サボらないし、ロースケにもちゃんと言っておきますし……」
それに、その怪我は僕の責任ですから……と、言えなかった。言ったとしても信じて貰える事は無いだろうし、いや、そう言う事はどうでも良かった。
それよりも、あまりに無茶な先生を見ていられなかったのだ。
「お願いします先生。病院に行って下さい」
他に言える言葉も見つからず、ただただ同じ言葉で、何度も何度も頼まれた先生はとうとう折れたのか、深々とため息をつき、少しあきれた風にして僕を見た。
「ふぅ……分かりました。それでは私からもセツナ君にお願いをします……もう私の授業をサボらないでください。ね? 」
「それはもう、もちろんです。そんな事当然ですし、それで先生が病院行ってくれるなら……それに加えて補習でも何でも幾らでも受けますから!」
「わかりました……約束ですよ? 」
「ほら、いい加減行くよ……」
柊先生が香那女先生の横に腰を下ろし、脇に手を回すと持ち上げるようにして立ち上がろうとする。痛そうな顔をしながら、それでも何とか立ち上がろうとする香那女先生をみて、思わず僕は口走った。
「ぼ……僕も手伝います。手伝わせて下さい!」
「セツナ君、今約束したわよね? 授業をサボらないと……ですから今すぐ教室へ戻りなさい。そろそろ代わりの先生が来ている頃でしょうから……」
「で……でも……」
「いいから行きなさい」
「スイマセン。でも今は『先生』の授業時間じゃないんです。失礼します!」
まどろっこしくなり、僕は香那女先生の横に陣取り、僕は重そうにしていた柊先生から香那女先生を奪うように抱きかかえる。
「へぇ、やっぱ男の子はこう言う時頼りになるよねぇ」
「あっ!コラッ。ダメですセツナ君」
何故か顔を赤くして香那女先生は怒っては見た物の、下手に体を動かすと足が痛むのか、体の自由が効かずに、僕の腕の中でわめき散らす。それを見た柊先生は何がおかしいのか笑っていた。
「全く……カナのこう言う所、滅多に見られないよねぇ」
尚も笑いながらそう言うと、香那女先生はプックリと膨れてしまい、言葉を失う。
「じゃあ柊先生、お願いします」
「はいよっ。じゃあ職員玄関の前に止めてある赤い車に乗せておいて。病院の方に連絡入れたら直ぐ行くから」
「分かりました」
そう言って僕は保健室を出た。強がりを言っていたが、服の上からでも熱があるのが分かるほど体が熱い。よくもまぁ、体調が優れないはずの人がこれだけ元気そうに振舞えるなと、むしろ僕の勉強が遅れる事を心配する等、力が有り余っています的な振る舞いに少し感心する。いや、むしろ、これが教師の本来の姿なのだろうか?
生徒に弱いところを全く見せず、何時も通り淡々と立ち振舞う。それが意図せず出来ていると言うのなら、この先生は間違いなくプロと言ってもいい。知らないうちに嫌っていた先生に、いつしか尊敬の念を感じる様になっていたことに、僕自身気づき始めていた。
「もぅ。セツナ君は思ったよりも頑固なのですね……」
あきれ顔で言う先生の表情は、授業中には絶対に見せる事のない、多分、日常の表情で、それは普通の女性その物だった。
「そんな事無いです。ただ、さっき先生と話して少し先生の事を分かった気がしました。何て言うか、僕、先生の気も知らずにサボったり……その、面談の時逃げ出したりして……そのお詫びと言いますか……」
「良いんです。私はそんな事よりも授業を受けてくれた方が嬉しいのですが……」
「そうじゃ……無いんです。その、今言わないとダメだと思ったんで、その、今まですいませんでした。どうしても謝りたかったんですが、他の人が居るとどうしても……その、なんていうか……言いづらくって……」
香那女先生は何も言わず微笑んで首を振った。
最近ではそれ程珍しく無くなったリフト式の助手席を降ろし、慎重に先生を椅子へ乗せる。台に足を乗せる時少し痛そうな顔をしたが、車の中へシートを収め、少し背もたれを倒すと、なるべく衝撃が伝わらないようにドアをそっと閉める。程なくして保健の先生が香那女先生のコートを持って現れた。
急ぎ足で車に向かいながら、携帯電話で誰かと話している様で、聞こえてきた内容から何処かの病院の先生とやり取りをしているようだった。車に乗り込むと香那女先生にコートを預け、アクセルを吹かす。と、その時、香那女先生は柊先生を止め、窓を開けた。
「ありがとう。明日には戻りますから予習はしっかりしておいて下さいね」
「ええ? ゆっくりしてきてもいいのに……」
僕は悪びれずそう言う。
「ほら……貴方のような生徒が居る内は、そうそうに休む事もままならない物なのよ」
悪戯っぽい微笑みを浮かべながら言った。
「ありがとう。あなたと話せて嬉しかったです。さぁ、風邪をひくまえに校舎へ戻りなさい。私は大丈夫ですから」
割って入るように柊先生が横から口を出す。
「んじゃあ行くから。セツナ君、ちょっとアタシが帰るまで保健室を見ててちょうだい」
「え……」
そう言うなり、柊先生は運転席から助手席の窓を閉めると、ギアをドライブに入れた。慎重に赤い車が走り出す。車が去り際に、車内へ再び目をやると、香那女先生は柊先生に何か怒ったようにして話している。大体内容は想像がつく。
全く……この先生は、少し位自分の事を心配してくれる人の気持ちを考えても良いと思うのだが……
早く校舎へ戻りなさいと言う香那女先生の言い付けを忘れ、僕は車が見えなくなるまで見送った。




