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授業は退屈だ。
何のために僕達は勉強をするのか、勉強して良い成績をとって、そしてその後はどうなるのか。人生の『先』を知っている大人の人達は「あの時勉強しておけばよかった」だの、「もっと勉強をしなさい」だの……その時にならなければ分からない事を僕達に押しつける。何が何だか分からないまま僕達はその流れに乗せられ、何の疑いもなく学校に行って、目的も無く、ただ偏差値が高い学校へ行く事を強いられ、もしくは偏差値が高いだけで学校を選んで、知りたい事も、やりたい事もいつの間にか見失っていく。
僕にしてみれば義務教育が終わったら働いても良いとすら考えていた。特にやりたい事も、目指す物も、何もない虚ろな僕の将来。それだったらいっそ今すぐにでも働いて、そう……例えば人一倍苦労する仕事だっていい。とにかく流されて、自分という物が何なのか分からなくなるよりも、そうやってお金を稼いで、少しでもみんなを楽にしてやる事が出来れば、それは自己満足でも、僕の存在意義になる。
そう考えていたのに、現実はこの有様……無駄に時間だけを費やしていく日々。
つい先程、香那女先生に当てられ、答え損ねた……と言うよりも、全く理解していなかった古文の一節に赤ペンで線を引く。まぁ、そんなこんなで、こっぴどく叱られた後の僕は、酷く腐っていた訳だった。
深くため息を付き、腐ってもどうにもならない事を悟り、再び教科書の赤い線を読み返す。が、頭に入ってこない。授業に身が入らないもう一つの理由、昨日の晩の事が何だかんだ言って気になっていたからだ。
『年を越すまでに』カイに宣告された時まで、まだ少し時間的余裕はある。ハッタリか、本気か、未だによく分からない。そうして、時間が経つに連れて彼の言葉は現実味を失っていき、今では彼の声を思い出す事も難しい。胸に付けられた烙印が無かったら、完全に忘れている所だった。
ハカナの方をチラリと見る。少し疲れているのか教科書を見ながらも、時々瞼が閉じそうになるのを必死に堪えているのが分かった。昨日だって心配させてしまった様だったし、家事全般を受け持って、それで部活と剣道の稽古も欠かさずやっている。僕はハカナに頼りっぱなしだと、改めて思い返す。
僕はハカナを守れる程強く無い。カイが話した事は何処までが本当かは分からない。だけど、こうして烙印が残っていると言う事は、彼が僕に何かを仕掛けようとしている事は明白。取り敢えず、事が済むまでは何とかして、少しの間だけでも、ハカナを安全な所に逃がさないと……それまでにどうやって説得するか……金銭的な問題より、それが一番難しい。そこまで考えると、逃がした後はどうするのかが頭に浮かぶ。
ハカナを逃がして、僕も逃げるか? でも、僕が逃げた先でも何かが起こるって言ってたし……何より魔術師と言う事なら、刻印に僕の居場所を逐一知らせる、何かを仕掛けていたとしても不思議はない……というか、間違い無くそうした仕込みはしているはずだ。だったらどうするか……僕はペンを剣に見立ててブンブンと指先で振り回す。戦うにしても、相手の手が読めないのだ、対応を考える前から行き詰まってしまっていた。
ペンを見ていてふと、僕が人物画を描く事によっておこる奇妙な現象はどうか? と思いつくと、早速、教科書の隅にそれとなくカイの顔を思い浮かべる。半ば冗談半分のつもりであったが、自分が絵を描く事によって誰かを傷つけてしまう事に罪悪感を感じると共に手が震えた。それでも意を決し、一本目の線を引く。思ったよりもペンが軽い。少し手が震えるけどやってみようと言う気になり、取り敢えずは輪郭をなぞり始めた。線が震えるとその度に消しては一から書き直し、ようやく久しぶりに描く人物画に手が馴染んでくる。程なくして何とかそれらしい形になった。
「ふぅ……できた……」
なんとか思った通りの線でカイの胸から上を教科書の余白に描き終え、ほっと安堵のため息をつく。思ったよりも集中していたためか、暖房のせいか、額にはうっすらと汗がにじみ出ていた。久しぶりに描いたのでどうなる事かと思ったのだが、改めて見るとこれがなかなか、思ったよりもいい出来だった事に満足とまでは行かなかったが、それでもかなりの出来映えに満足感を覚えた。
「何が出来たのかしら? 」
穏やかな、それでいて怒りが籠もった口調は、彼女がどれほど切れているか、顔を見上げなくても分かった。恐らく、片目をぴくつかせ、その額には青筋が立っている事は想像に容易く、充実の汗は恐怖からの冷や汗となっていく。今更になって、授業に集中してなかった事を心底悔やんだ。
「いえ……その……」
「いいですかセツナさん。今は授業中なのですよ? 私がこうして貴方を注意する事によって、皆さんの大切な授業時間が削られていく事になるのです。貴方は遅れた分の時間をどうやって責任取るつもりなのかしら? 」
人を見下したようなその態度でわざとらしく大声を上げ注意をする。僕がこの先生を嫌いな理由の一つだ。どうやら僕の描いていた絵に気付いたのか、眼鏡がギラリと冷たく光った。慌てて両手で隠した物の、時、既に遅しだ。
「何を描いていたのかしら? ちょっと私に見せてみなさい」
そう言って、おもむろに僕の教科書を取り上げる。
「まったく……高校生にもなって、教科書に悪戯書きをするなんて……」
そこまで言って言葉を失っていた。いつもは気にならない沈黙の時間が、この先生にかかればまるで別物のように辛い時間へと変わる。あまりに重い沈黙に耐えかね、僕はちらりと周りを気付かれない様に盗み見る。誰もが無難にこの沈黙をやり過ごしたいからか、誰も先生の方を見ようとはしない。こうなったら自分で確認するしかない。僕は恐る恐る先生の顔を見上げてみる。何時もと様子が違う様だった。
先生の目は教科書に描かれた絵に釘付けだ。化粧のせいか、はっきりとは分からなかったが、何故か、心なしか頬がほんのり赤くなっているようだった。確かにさっき描いた絵の出来については自信があったけど、魅入る程、素晴らしい物では無い事は自分がよく知っている。余程気を損ねたか、或いは、元々絵を見ている訳では無く、僕がさっき引いた赤線が見当違いな場所を引いていて、それで怒っているのではないか。そんな事を考えながら、再び机に視線を落とし、教科書が帰ってくるのをひたすら待った。
「まったく……絵を描く時は美術の時間になさい……今は国語の時間ですよ? 」
あきれた風な声でそう言い、閉じた教科書でパスッと僕の頭を軽く叩いた。先生の顔は微妙に戸惑っているような表情を浮かべていたけど、努めてそうしているのか、僕の視線に気付くと何時もの表情へと戻ってしまう。
「コホン……でもまぁ、悪い気はしません」
ぼそっと何か言った様だったが、正直、この先生の必殺技二段叩き(一端軽く叩いて終わったと思わせ、油断した所に教科書の角で強烈な一撃を与える)を警戒していて、今はそれどころでは無かった。そして、先生が取り上げた教科書はそのまま、いとも簡単に僕の手に戻ってきた。まさに虚をつかれた気分という奴だろうか。
「では次!ハカナさん。さっきの下り、その一行前からもう一度お願いして良いかしら? 」
何事も無く授業を続行する。正直言って何事も無かった事の方が僕には怖かった。後で呼び出しを喰らうのか、それとも執拗なまでに難しい質問を僕にぶつけてくるのか。戸惑っている間にも、ハカナは時々詰まりそうになりながら、古文を何とか読み進め、僕は僕で取り敢えずハカナに追いつく為に急いでさっきのページを開いた。
あれ?
再びページをめくり直し、ついさっき落書きをしたページである事を確認する。全く持って意味不明だった。描いたはずのカイのバストアップが、事もあろうに香那女先生の物にすり替わっていたのだ。これは確かに僕の教科書で、この筆跡は間違いなく僕の物だった。そして僕は間違いなくカイをこの空白に思い浮かべ、そして描いたはずだった。
「はい!よろしい。では、今ハカナさんが読んだ所について考えてみようと思います」
先生がそう言って教卓へ戻ろうとした時、カクンと膝が落ちた。
「あっ!」
そう言った時には既に遅く、香那女先生のハイヒールが折れ、そのまま倒れ込みそうになる。体を支えようと教卓に手を突くが、何故か教卓の足が音を立てて折れ、そのまま教卓から手を滑らせ、教壇へ、したたかに体を打ち付けた。教卓の端に置かれていた、刃をむき出しにしたままのカッターナイフが、坂道となった教卓の上を徐々に加速しながら滑り落ちる。それに気付いた僕は、瞬間的にそのカッターが先生の首筋に向かっている事に気付いた。
描かれた先生の絵が、異様な気配を発し始める。それは僕が最後に人物画を描いた時より比べ物にならない強く、そして気配が紫色の煙の様な物として僕が視認出来る程、濃かった。
まずいと思った僕は綺麗に絵を消している時間は無いと考え、取り急ぎ絵の真ん中に消しゴムを走らせる。それが効を奏してか、カッターは更に勢いよく教卓を飛び出し、壁に突き当たる。軽い金属音と共に刃は折れ、その場に落ちた。幸いな事に先生を傷付ける事は避けられたと思った。
「いたたたたっ……」
先生はその場に腰を下ろし、今、どういう事が起こりかけたのか、何も知らずに右足首をさすっている。取り敢えずは大事に至らなくてホッとしたのだが、何時まで経っても立ち上がる事が出来ない先生の様子を見て、おかしいと思い始めていた。
クラスの皆は、多分、落ち着いたらまた授業を再開するだろう、程度に思っているか、若しくは、下手に声を掛けてとばっちりを喰らうのを嫌ってか、その両方だろうが、いずれにしても誰も声を掛ける事は無かった。でも、痛がり方が普通では無い様な気がして、僕は、そのとばっちりを覚悟で先生の側へ駆け寄り、膝を降ろす。
「大丈夫ですか? 」
「セツナ君、授業中ですよ。私は大丈夫ですから直ぐ席にっ……つつつっ……」
遠くからは分からなかったが、近くへよると額に脂汗が滲み、顔が痛みからか少し青ざめて見えた。どう見ても普通の痛がり方では無いのと、この期に及んで、誰も心配する様子を見せなかった事に苛立ちを覚え、後で怒られるとかそう言う事を考えるより先に、気が付いたら僕は行動を起こしていた。
「ハカナ!僕、先生を保健室へ連れて行くから、背負うのをちょっと手伝って!」
緊迫した声を上げたからか、不意に教室のあちこちでざわつき始め、席を立とうとする者まで現れる。
「こらっ!静かになさい!今は授業中です」
先生が声を上げると、再び静まりかえる。流石は、『調』教師の異名を取るだけあって、僕等のクラスメートも調教され尽くしていたようだ。
ひそひそ話す者はそれでも後を絶たなかったが、一見して教室は落ち着きを取り戻したように見え、ハカナが寄ってくると僕はすぐさま背を差し出す。が、先生はそれを拒むので、僕は半ば強引に抱え上げた。
「待ちなさい!セツナ君!まだ授業中です!」
有無も言わさず僕は教室を後にする。僕が教室を出るとハカナは教室の入り口を閉め、ようやくクラス委員が教室の指揮を執り始める声が、遠くで聞こえた。
「ダメです!返して下さい!」
尚も暴れる先生を僕は動けないように、更に強く体に引き寄せて抱きかかえる。おんぶならもう少し暴れられても、全く構わない位、楽なのだが、こうしてお姫様の様にして抱えている所を暴れられては結構きつい物がある。
「セツナ君……」
あきらめたのか急にシオらしくなり、僕は再び無言で階段を下りた。
先生の体は驚く程軽かった。僕より頭一つと半分も小さい身長をハイヒールでごまかし、堂々と教鞭を執っていた姿とは裏腹に、実に弱々しく、頼りなさげに見えた。相当痛いのか、さっきよりも脂汗が酷く、僕にしがみつくようにして目を閉じひたすら耐えているように見える。
どれほどの書類に、どれだけの文字を書き込んだかは分からないが、先生からは紙とインクの匂いがした。申し訳程度に香水の香りがしたけど、このまま職務を続けたら一日、いや、半日とて持つ事は無いだろう。何となく今までの事を思い出す。罪悪感で申し訳ない表情になった自分の顔を、この先生には見られたくは無かった。だから、僕は腕を少し動かして、先生の頭の位置を僕の顔が見えない場所へ、そっと動かす。
「もう少しだから……我慢して下さい」
先生は力なく頷く。
僕は足早に保健室へと向かった。




