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降り続いた雨がふと止んだ。曇天は相変わらず低く立ちこめて雨の気配は遠くないが、それでも安堵した空気が流れたのは事実だ。隣のグラッシアも微かに緊張をほぐした顔つきで天を見上げている。難儀なのはこれからで勿論それを理解してもいるだろうが、何よりもあの押し込められるような蔚な雨が一先ず去った事で吉兆としたいのだろう。
クロウは止みましたね、と声をかけた。グラッシアは振り返って頷き、それからふとゆるい笑みをもらした。
「山を、降りなくてはね。父上の本陣は恐らく」
グラッシアは言いながら鬱蒼と繁る木々の合間を抜けるように目を細めた。
「あちらの山を越えて平原を渡った奥という所だろう。人の足で……そうだな、二日と少しという辺りでないだろうか」
その概算にクロウは頷いた。雨の止まぬ間グラッシアはその事をずっと考えていたに違いなかった。
よいお方だ、とクロウは単純に思う。自分の責任を生真面目に果たそうとしている。決して投げやりにならず、倦まずたゆまずに自分の成せる事を考えようとしている。その生真面目さ、逆を返していうなら融通の利かなさがクロウ達をこの山中へ逃げ込まざるを得なくさせたのだが、それで開き直ったり腐ったりするよりは遥かにましというものだった。
簡単に道筋を確認した後、クロウ達は前もっての打ち合わせの通りに2手に別れた。グラッシアにはこの分隊の中で一番の歴戦の戦士であり隊長格であるクロウが付き従っているが、他はくじを引いた。正直何かあればクロウはグラッシアしか優先する気がない。同行者が誰であろうと関係がないのだ。グラッシアはそれをわかっているのだろう。目を伏せたまま何も言おうとしない。
クロウはその甘ささえを苦く見切れない。グラッシアがこちらへ向けてくる素直な賞賛と尊崇の眼差しを憎くは思えないのだ。結局の所は。
それは要するに好意だ。素直を誉めすぎというなら単純とも言いかえて良い。好意を裏切り残るのは卑怯という名の果実、その味は苦く、酸く、そして生々しいえぐさに満ちている。いつまでも舌の奥端に残ってじくじくと存在を主張する。それは二度と消えない罪の刺青、何度言い訳をしても仕方がなかったのだと言い聞かせても目をやればそこに罪の証があるようなものだ。
罪人よ。
お前の犯した罪に真実罰を与えるのならそれはお前の心だと。
クロウは一瞬目を閉じた。嫌な雨があがったことでその水と同じくその囁きが天へ吸い込まれて消えてしまえばいい。だが忘れようとした胸を嘲笑うように、記憶は遡って自分をいつか捕らえる。捕らわれるだろうという自覚がある。
あの、虚ろな雨……
ふと落としたため息にグラッシアが不安そうに目を伏せた。その仕草にクロウは我に返り、苦笑しながら何でもありませんよと若い主人の肩を叩いた。実際これはグラッシアには関係がないことだった。クロウは殊更に微笑んだ。グラッシアの顔に微かに赤味が指す。彼はクロウよりも14の年下だが、亡くなった優しく堅実な兄と偉大な父の長所を寄り合わせたものに似た感情を父の護衛としての側近であるクロウに感じているのは明白だった。
それはクロウにとっても悪い感情は呼び起こさなかった。身分は遠く隔たっているがグラッシアの父であるディディアール将軍の信頼を得ているクロウに対して彼もまた、素直に信頼をよせている。視線のまっすぐに向かう淀みない光を見る度に、それが自分にも当てられているのを受け入れることが嬉しい。クロウには弟がいないが、きっといるとするならこんな風なのだろうか。疑似兄弟のような空気は嫌いではなかった。
だから守ってやりたい。少なくとも、今は本気でそう思っている。クロウは腰に差したあの紅剣に触れる。鞘に触れる度にどこか薄ら寒いおぞけを背中に覚える。……だが、良い剣だ。
(蛮勇を誇って野垂れ死ぬ)
未来の予言など、信じぬ。
(怖くなって逃げ出す卑怯者)
俺は、どちらにもならない。……今度こそ。
クロウはその言葉を振り切るようにもう一度グラッシアの肩を軽く叩き押していきましょう、と促した。
何故、と彼は言った。
鮮烈なのはその目だった。きょとんとした眼差しで彼は目をしばたいた。自分の身に何が起こったのかを理解していない様子だった。それは相手に対する全幅の信頼を土壌にした善意的な心霊に満ちており、故に尚更強烈な罪を突き付けてくる。
「何故」
彼はまた言った。その言葉さえ暫くの沈黙の後であり、その沈黙は重く沈んだものですらなかった。ただ本当に分からなかったのだろう、自分が今、何をされているのかさえ。
何故、ともう一度声がした時、自分が薄い微笑みさえ浮かべているのに気付いた。可笑しくはなかった。笑いたかっただけだ。こういう時、人は笑うことしか出来ないのかも知れなかった。彼はもう一度何故、と言った。
それに答える気など、なかった。
温い雨が通り過ぎていく。その問いは二度と彼の口から出ることはないだろう。
黙って立ち尽くして見つめ下ろす、泥にまみれて落ちた悲鳴。それはしだれる雨に凍り付き、大地に吸い込まれるように消えていった、あの日の、温く濃厚な、雨……
ぬかるんだ足元が気になるのかグラッシアはずっと下を見てばかりいる。馬は山中に逃げ込んだ時に手放さざるを得なかったから全員が徒歩だが、明らかに彼だけが土壌を歩き慣れていない。文句を言ったりしない分彼が忍耐を強いられているのが分かってしまうのは、やはりグラッシア自身が気付かぬ内に放っている育ちの良さの香りなのだろう。
クロウ、と呼ばれて周囲の気配を探ることを一瞬中断させ、主人の顔を見ると、それでも疲れがやや滲んだ色がそこにあった。
「また降りそうだ、嫌なものだね」
雑談か、とクロウは苦笑になる。そんなことでもしていなければ神経が緊張の持続に耐えられないのだろう。クロウは曖昧に頷いて天空を見上げた。グラッシアの言う通り、曇天は低い。濃厚な土の匂いが立ちこめていて、頬に当たる空気の湿り気がべたべたとまとわりついてくる。
天候は神のものですから、とクロウは短く答える。巡り合わせは仕方がない。自分とてそれを望んでいる訳ではない。ただ人にはどうにもならないことがある。それだけのことだ。
グラッシアは薄い苦笑を浮かべた。彼にも彼自身の臆病さ、世慣れぬ不器用さが分かっているのだろう。きっと、自分を置いて見捨ててゆくならクロウを含めた何名かはとっくに本陣へ辿り着くだけの力量があるということも。
クロウはそれでようやくぬるんだ笑みになった。それを思った瞬間に、自分もまた押し殺した緊張を撫で回していたのにも気付いたからだ。グラッシアの気遣いを素直に受けて、クロウは降らないと良いのですがと話を合わせた。グラッシアがほっとしたような表情で頷き返した。クロウはそれに自身つい緩んだ笑みになりながら若、と言いかけてふと声を潜めた。
何か……おかしい。背中の方向やや斜め右の後ろから突き刺さるような気配がする。感じる圧迫は……視線?
クロウは思わず振り返った。何かと目があった。
剣に手をかけるのと敵が飛び出してくるのがほぼ同時だった。クロウはグラッシアの肩を軽く突き飛ばし、その剣を抜いた。強く掴むと僅かに痺れに似たものが背を走った。それが何かを分からないままクロウは柄の冷たい感触を握り込み、敵に向かって振りかざした。
背をびりびりと走ってくる快楽に似た痺れがある。それはあっと言う間に脳髄へと直接上がってクロウは微かに声をあげそうになった。目を見開くと自分の腕が既に反射の速度で剣を操り敵の首筋へと一撃を叩き込むのが見えた。
次の瞬間、吹き上がった血が霧のように視界を満たした。掻き切った喉の傷口の線と同じ角度に血飛沫が飛んだ。それが最初の天からの一滴と同じような唐突さで頬にかかったとき、クロウは再び強い快楽を背に覚えた。
血がとろりと頬を滑り落ちた。
まるでそれは雨のように、優しく、ぬるかった。
最後の兵士を倒してクロウはようやく震える手を直視することが出来た。驚愕というよりはどこかに暗いものを抱える怯みに似た諦観が一時クロウの全身を支配している。剣を握り締めた自分の右手はまだ微かに痙攣していた。それは恐怖ではない。他人を斬る度に遠く耳奥に吠えるような歓喜の雄叫びを聞いた。
ぞっとするほど、自分は今、静かな興奮の中にいる。それが分かる。肉の手応えを骨に当たるきしみを腕に感じるたびに背をぞくぞくと駆け上がってきたあの涼ろやかな興奮を、それを手が覚え込もうとして震えている。
良い剣だ、とクロウは呟いた。あれだけ人を斬って、一振りで血油が剥落し、白銀の抜身の輝かしさを取り戻している。刃こぼれもない。クロウの力のある打撃にもびくともしなかった。
クロウはその剣を眼前に掲げてしみじみと見た。細い刀身はやや反りが入っている。大昔に滅びてしまった漢氏という民族があるが、伝えられている漢氏様の剣にその姿の鋭利さが良く似ている。彼らの風俗は特殊だったから見ただけで判別はつくのだ。どちらかというならば女物だろうか。細く、軽い。だが切れ味の見事なことも鞘滑りの良いことも、飛び抜けていた。
……そして、とクロウはやっと痙攣が治まってきた手を開き、刀身を左手で支えた。雲を透かした弱い陽光が一瞬反射して目の奥をぎらり灼いた。
柄に、何か入っているのだろうか。剣を振る度にたぷんとしたものが中を移動している感触が手のひらに残る。それが神経をぞろ動く毎に何かがクロウの中に押し殺された凶暴な部分を掻き回して追い立てようとする……
「クロウ、大丈夫なのか……?」
その声に、クロウははっとした。我に返って振り向けば、彼の年若い主人が微かに眉をよせて彼を見つめていた。その瞳の奥に彼に対する不安を嗅ぎとって、クロウは何でもありません、と素早く言った。グラッシアはやっと吐息を下ろすようなぬるんだ笑みになったが、その奥に隠れた恐れをクロウは見た気がした。
グラッシアが、自分を恐がっている。あるいは怖れている。ただそのクロウの行為が自分を救うという名分のもとの暴行だから何も言えずに優しい沈黙を弄んでいるのだ。
何でもありません、と再びクロウは言った。グラッシアは首を振った。それは拒否や否定のものではなかったが、それ故にグラッシアの心をよく伝えてくる気がした。彼は気に入らないのだ。クロウが敵兵を皆切り捨てたことが。確固たる敵であるならともかく逃げようとした者までをクロウは追い打った。それは必要だった。不用意に情けを出してこちらの人数や人相や風体までを報告されては生き残る確率は一段低くなる。人倫を説いている場合ではないのだ。
いや、クロウはまだそれでもいい。ただグラッシアを守るためにこちらも必死であるからには、それ以上を言わせてはならなかった。自身の中のあの悲鳴のような歓喜愉悦はともかく、他の騎士達の手前は主君であることを思い出させなければならぬ。年若いことは関係ない。それが彼の道であるからだ、これから先、幾千幾万の累々重なる屍の上に立つべき身であるということが。本人の資質に取っては恐らく不幸なことに。
「お怪我はありませんね」
クロウは出来るだけゆっくり、静かに言った。グラッシアは僅かに視線を外した。クロウの言葉の意味を分かったようだった。その覚悟が足らぬとしてもそれを自覚し心掛けようとする辺りは確かにグラッシアの美徳と言うべきであった。
グラッシアは頷き、皆ありがとうと小さく言った。何を求められているのかを考えてくれるだけ有り難かった。
「ここがまだ戦場であれば、そこで敵に遭遇することもお互いに運命であると思います」
それが如何に理不尽に見えても、出会った瞬間に殺し合うことしか出来ないこともある。それはもう個人の意志の範疇を越える。ただもう運命であるという言い方しか出来ぬものだ。
グラッシアは頷いた。……懸命に、頷こうとしているように見えた。
じりじりと人数は減っていった。一日が過ぎるのが異常に遅く感じられた。邪悪な罠に掛かったように時折敵は現れては戦闘を強いた。あるいは獣の音に驚いてこちらが神経を逆立てることも多々であった。グラッシアは既に殆ど口をきかぬ。それは疲労からくる自棄なのか、神経が過敏になっている証なのか。寡黙であっても不機嫌を部下に八つ当たりはしないが、その押し殺した顔の下にあるのが今にも焼き切れそうなか細い苛立ちであるのは一目瞭然というべきだった。
この広大な野山にはまだ相当数の敵が残っているとクロウは結論せざるを得ない。そうでなければ遭遇の機会が過多である。グラッシアを中核にしたクロウ達がまだ完全には戦場を離脱できていないことや、グラッシア自身の人相、こちらの人数に特徴などが敵に知れているのか否かは分からないが、そうでないという反証がない限りは悪い方へ想定することが慎重というものであった。
敵にこちらの情報を与えないという理由においての滅殺に既にグラッシアは何も言おうとはしない。ただ辛そうに目を伏せてこちらに気付かれぬように小さく震えている。その心を分かっていながらクロウは気付かぬふりで通した。
優先すべきはグラッシア本人の生命だった。それを守るためには何もかもを注ぎ込んで良いはずだ……いや。
クロウは微かに首筋に残る快楽の残り香を追って目を閉じた。
……確かに、何かが、決定的に、おかしい。こんなに人の血は甘かったか。人の肉は優しく軟らかだったか。上がる悲鳴は耳に美しかったか。肉を剥ぐ感触が剣を通して手に伝わる毎、骨を絶ち折る衝撃が刀身を伝って腕を震わせる毎、絶命の叫びが鼓膜に直接息吹をあててくる毎、快楽よりももっと強い何かが背を這い上がり身に絡みつきながら脳髄へと痺れ込んでくる。目の前が血飛沫の色に淡く煙って滅生の絶景へと転化する。
それは絶対快楽だった。
グラッシアの為にという理由がどこかへ吹き飛んでいきそうな強烈な麻薬に似た何かが確かにクロウの中に潜んでいるものを追い立て、引き回し、そして凶暴な獣性へと鞭を打ち下ろしてくる。それに痛みを覚えない。寧ろ、喜々として待っている瞬間なのかも知れなかった。
その銀の輝きに肉が弾ける度に嫌悪でも恐怖でもないものがクロウの背をぞくりと粟立たせる。ぴりりという痺れが脳幹を駆け上がり頭の中を根を張るように犯してくる。こめかみを見えぬ触手がぞろ這い回っているような感触がする。それすら、圧倒的に……至悦。
そして、それは命が散華する瞬間に最も鮮やかだった。命の火が消える瞬間が見える気さえした。喉で喘ぎそうになる。今まで抱いたどんな女よりも快感という意味において突き抜けている。絶対至福、目の前が白くなるほどの絶頂感。興奮などという言葉では最早追い付かない。
剣を振り上げる刹那強い意志がクロウにそっと侵入してくる。それは声ではないが、声よりよりもその望みをはっきりと伝えてくる。
もっと、もっと、強く、雄々しく、鮮やかに、圧倒的に、前を見て、前だけを見て、更に、更に、前へ、前へ、前へ前へ前へ前へ前へ!
突き動かされる衝動が、高らかに吠えたてている。敵の脅えた視線に僅かに怯みかけるとそれは明らかにクロウの脳裏へと直接吹きかけてくる。
もっと、もっと。更なる極みを見たくないか? 強い刺激を欲しくないか?
それは声ではない。だが声より鮮やかで声より強烈な呪縛に満ちていた。欲しい。クロウの何も考えていない部分、本能に近いものが応えているのが分かる。振り下ろせ、命をその身に吸い上げて自らの愉悦にすればいい。微かに上げた声は悦歓の喘ぎであるだろう。生温い血が頬に掛かる度にそれが真実命の味であるというぞくぞくするほどの悦楽が快感を吠えている……
「クロウ……」
不意打ちのように聞こえた声がクロウをはっとさせた。弱々しい声はあの雨の日に打ち捨てた時の声音に良く似ていた。似ていると思った瞬間、それが過去のことであるともクロウは思い出し、過去だという認識が現実を急速に知覚させた。
済みません、と対象の曖昧な謝罪を口にしてクロウは大地に縫いつけたままにしていた剣を引き抜いた。倒れた騎士の喉からそれがずるりと抜かれると、傷跡からぬるやかに血が溢れ、やがて泥中の涌き水のような穏やかな噴出へ変わり、それもすぐに止まった。
クロウは軽く血糊を払って剣を鞘に納めた。柄から手を離した途端にようやく周囲の現実という事象が目に入ったような気がした。クロウは小さくため息になった。……何かは、確かにおかしかった。
グラッシアがクロウ、と再び言った。何を言われるのかを分かっていた。自分は何か掛け違えた釦のようにずれている。
「私は……お前は甘いと言うだろうし、多分今の状況においてはお前の言うことが絶対に正しいとも思うけれど……でも、無駄に命を散らすことは決してお前の為にもならないと思うよ」
クロウは沈黙する。グラッシアの言うことは確かに甘い。だがそれは以前からのことでもあり、その若い詰めの利かない部分でさえ仕方ないという苦笑と共に許容してきた。……今になってその言葉に強い不服を訴えている部分がある。
危険を犯しているのはグラッシアの為だ。何よりも彼の命を優先する為だ。その為に万全を敷くことが何故いけない。今の現実がその価値観に合っていないことが分かっていない。生き長らえるためには何もかもを仕方ないと受け入れざるを得ない瞬間があると何故未だに分からない。理解しない。
クロウが黙っていると、グラッシアはゆるく首を振った。
「お前は、私がとても箱入だと思っているのだね」
大地に斬り捨てられた兵士や騎士達の死屍が積み重なるのを見ないようにグラッシアは視線をあらぬ方向へやりがながら呟いた。その声が思いの他に落ち着いているのを認めてクロウはまっすぐに主人を見た。グラッシアは寂しげな薄い笑みを口元へと浮かべていた。諦観というべき顔だった。
「それは事実だ、クロウ。今更出生を偽ることは出来ないし、私はそれをすべきでない。人倫がどう、とかではないんだ。私は、君が……どこかおかしいように見えて仕方がない」
「おかしい、と……」
「いや、戯れ言だよ。今言うことでもなかっただろうか。ただね……私は、君が君らしくあるために、私の為に何かをねじ曲げる必要はないと、そう思うんだ」
そう呟いて、グラッシアはいいんだ、と自らの言葉を忘れるようにと笑った。
クロウは申し訳ないと低く言った。
その瞬間に、しばらく止んでいた雨の最初の一滴が頬をなぞったのが分かった。
何故、と聞かれて一番辛いのは?
それは、自分自身にもその衝動の泉がどこにあったのかを分からない時? それとも、自身に理由に見えるものがなかった時? それとも……理由に見える尤もらしいものが全て言い訳でしかないと分かっている時?
(違う……)
その答は全て間違っている。
一番辛いのは……
雷鳴が夜を裂いて落ちた。額に張り付く髪をかき寄せてクロウはじっと身動きせずに目の前の草の揺れだけを注視している。その動きに不自然はないか。誰か潜んでいやしないか。まさしく、文字通り命を懸けて睨み続けている。降りしきる雨がつうっと髪の中を滑っておちるむず痒さにクロウは目を細める。呼吸は一瞬たりとも乱さない。その乱れが草を揺らした瞬間に、向こうに敵がいたら。
眼前の川を越えればすぐに第三国との国境の緩衝地帯へ入る。クロウはもう長い間黙っている。隣には主君と若い騎士の二人きりだ。
(どうやら人数は確認されているようです)
度重なる襲撃の末に瀕死の兵士から聞き出した情報において、クロウは自分たちがまだ戦場を離脱していないことが敵に知れているのだという確信を得た。戦闘の後始末を悠長に行っている余裕はなかった。そのせいできっと減った人数までを数えられているのだろう。残党狩りというには丁寧だ。きっと分割したもう片方の一隊は駄目だったに違いない。彼らの口から洩れたと考えるのが自然だ。
(喋ったか……)
それは、非難されるべきではない。騎士道というものに照らせば違うものだが、個人としての生命を優先すればグラッシアは特別に感化力に優れているわけではなかった。
だが、それがクロウ達を窮地へとじりじり追い込んだのは確かだ。人数が知れている以上、その通りに律儀に行動するのは目立ちすぎる。未だにこの周辺にはクロウ達以外の敗残兵がいるはずだ。いっそ細かく人数を割って分散しなくては、固まっていては目印を教えるようなものだった。
クロウは雨に紛れてゆっくり息を吐いた。冷たい水滴は容赦なく地上から、そして体から温度を奪い去る。気を抜くと奥歯が鳴り始めようとするのをクロウは柔らかく舌で懐柔しながらじっと前を見ている。敵がいるかいないか、そんな二者択一を楽観的に信じる気にはならなかった。
実際、クロウは待っているのだ。偶然という天の好意を。
喉を震わせない囁きがクロウ、と言った。ゆっくりした仕草でクロウは聞こえたのを示すために頷く。若い騎士の声だった。グラッシアは口数が極端に減ってきた。無理もない。いつかこの脱出行のことが彼の中に苦い記憶として根付くなら、それは将軍となるべき身としては悪いことではなかった。そんな希望めいたもので自分を誤魔化せるほどに大人になればいい。若いことが言い訳にして成長出来るなら好運だ。
夜が明ける、と騎士が言った。東の空は丁度クロウの背を向けた側だった。雨はかなり強い。一時激しく鳴っていた雷鳴は今はもうなりを潜めているが、降り止む気配はなかった。クロウにも分かるほどに空が明るくなり始める兆しを見せた頃、それに気づいた。
草波の一角が不意に風とは逆に揺れた。誰かいる。
一人か。多人数か。いや、潜んでいるというのならそれは敵の可能性が高い。この川を越えればクロウ達がようやく緊張から逃れられるのと同じく、彼らにとってはここを逃しては失策となるだろう。敵との遭遇の位置関係を脳裏の地図に書き起こしてクロウはそうだろうと内心頷く。自分たちはこの待ち伏せの罠へ追い遣られてきたのだ。上手い方法だと唇だけで苦笑した。
夜明けを知った鳥が離れた草むらから飛んだ。また、その草が揺れた。間違いがない。クロウは一瞬目を閉じる。
決断、というよりも見切る瞬間だった。
お前と一緒で良かったよ、と彼は言った。それには答えなかった。その時は既に決意を固めていたからだった。どうした、と彼は気楽に笑った。もうすぐ国境だ、生きて帰るというのはいいね。お前も早く結婚しろよ、自分を待ってくれる人がいるというのは本当にいいもんだ。
彼は目を細めて笑っていた。
その瞬間まで。
では、と視線を交わして頷き合った後、騎士がグラッシアにも一礼してそろそろと草むらを離れた。時折この川を越えようとする敗残兵を、待ち伏せていた残党狩りが追っていく。騒ぎはぽつりぽつりと五月雨のように間隔をおいてあった。
(我々はもっと川下へ降りる)
クロウは騎士にそう言った。
(若は俺が守る。君はもう行きなさい。国境はそこだ)
同じ陣営の兵が川を渡ればそちらへ追っ手の目が向く。その隙に川を渡るようにと言い含めてクロウは騎士の肩を叩いた。実際その方法で危険を分散しているのだろう。似た意匠の紋を付けた騎士や兵士たちが一斉に川を渡っていく。そうすると何人かは逃げおおせるのだった。
騎士の背に向かってグラッシアが好運を祈る為の印を切っている。それが終わるのを待って、クロウはグラッシアに鎧を脱ぐように言った。
「あくまでも一般の兵士を装った方が宜しい。確率を高くするならディディアール家の紋章のことなどはお忘れ下さい」
グラッシアは頷いた。実際彼の首には家の格式と序列を証明する紋章飾りが下がっているが、それはこの河岸に置いてゆく方が良い。クロウは外された紋章飾りを草むらへ投げ捨てた。
鎧を脱いでからお前はいいのか、とグラッシアはクロウに聞いた。クロウはゆるい笑みになって見せる。
「私は何かあった時の盾というものですから」
そう囁き、川上の方向を見た。次の騒ぎが連鎖的に広がっていくのが聞こえる。人数は少なくはない、程度だ。だがクロウはその中に浅い川を走る別れた騎士の姿を見つけた。
若、とクロウは低く言った。
「絶対に動かないで下さい。私がいいと言ったらまっすぐに走って、国境を越えるんです」
「クロウ……?」
グラッシアの目が怪訝に見上げてくる。動かないで、とクロウは念を押した。戸惑いながら主人が頷いた。クロウはゆっくり立ち上がった。降りしだれる雨の音に負けないように大きく息を吸って、先を行く騎士に怒鳴った。
「若様!」
はっとしてグラッシアが身じろぎした。その瞬間にクロウが何をしようとしているのか悟ったのだった。
クロウ、と叱責が入るのを無視してクロウは再び声を上げた。
「グラッシア様! お一人では危険です!」
騎士が思わずというように振り返った。それは呼ばれたことに反応したのでなく、自らの義務であったことを完全には見捨てられなかった習性というべきだった。
……だが振り返ったという事実がその瞬間、彼を功績を約束する残党狩りの特別の客、「グラッシア=ディディアール」であると断定した。
殺到していく鎧の鳴り音がクロウと、その足元にかがんだグラッシアの側を駆け抜けていった。
「何故、何故クロウ?! 彼は仲間だろう?! 私の為に彼を使い捨てるなんてどうしてそんなことが出来る?!」
グラッシアが叫んだ。それは金切り声と言って良かった。クロウはそれを無視して敵兵の殺到していく先、必死で逃げていく騎士に向かってもう一度、逃げて下さいと叫んだ。
「クロウ!」
グラッシアが歪んだ顔で怒鳴った。
「何てことを、お前は、何故、何てことを、何故、」
狼狽と驚愕と激しい怒りに表情を染め替えながらグラッシアは叫んだ。それから首の紋章飾りに手をやって、唇を噛む。それを外させたのもクロウだったからだ。
「お前、最初から……」
言いかけてその真実をグラッシアはようやく気づいたようだった。震える手がクロウの服の裾を掴んだ。
「私とお前に加えて彼を選んだのは、私と年や髪の色が似ているからか!」
「背格好も、です」
付け加えることでクロウはそれを肯定した。グラッシアは蒼白になり、何かを呻きながら頭を抱えて嗚咽をこぼした。若、とクロウはそれに構わずに言った。
「走って、若。今なら安全ですから」
騎士を追って、川上では凄まじい騒ぎになっている。それを見越してこの瞬間に川を越えていく者たちは顧みられていない。それはそうだ、一般兵を一人捕虜にするよりもグラッシアの持つ「ディディアール」の姓の方が余程功績になる。
グラッシアは首を振った。クロウは舌打ちした。若、とその腕を掴む。グラッシアは嫌だと叫んだ。
「私は卑怯者にはなりたくない! クロウ、彼を」
「いけません」
「嫌だ、彼の犠牲の上でどうして生きていける?!」
「生きていくんです、それがあなたの義務だ。今から参じたところで彼の命を拾うのは無理だ、あなたは彼の死を犬死にになさるおつもりか。あなたが生きていなくては意味がない」
グラッシアは喉で返答を詰まらせた。ここで飛び出していっても最早それは遅い加勢であるのはグラッシアにさえ分かる。多勢に無勢の言葉通りのことが起きるだけだ。
グラッシアは唸りながら首を振ったが、それは事実を直視出来ぬ時の仕草であって、拒否ではなかった。
「走りなさい、まっすぐに」
クロウはグラッシアの肩を押した。グラッシアはクロウ、と弱い声を出した。それが何であるのかをクロウは理解し、グラッシアに低く囁いた。
「彼は、自ら志願してくれたんです。あなたに負担になるから教えないでくれと言われました……」
その言い訳が必要な時があるのだ。自分の中の生き汚い部分を直視出来ぬ場合には。グラッシアは頷き、何か意味のない叫びをあげながら国境の川へ走り出した。
クロウはグラッシアを追う敵の姿がないことを確認すると剣の柄を握り締めた。興奮というには酷く残酷な衝動が吹き上がってくる。騎士がよってたかってなぶり殺されているのを助けに行くという名目の元の血の宴が今、始まろうとしている。
もっと、もっと。
背を押す囁きがけたたましい歓喜を歌っている。
更なる極みを知りたくないか?
もっと強い刺激を欲しくないか?
答は、とクロウは剣を抜き放ちながらうっすらと笑った。
答は、この戦闘が終わった時に体に残る快楽だけが、知っている。