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雨が降っている。か細い銀の線が音もなく静かに天井と地上をつないでいる。低くたちこめた雨の正罪、煙り霞む視界とむせかえるような土の泥くさい臭いだけが世界を一瞬支配して静寂へ押し込めている。沈黙のまま流れる時間、ちらりと空を裂く雷光、だが音はしない。遠いのだ。
今夜は月がなく、星もない。暗い闇を時折稲妻が照らすが、瞬きするほどの間、光なき世界に恩寵を与え給うには決定的に足りぬ。どこまでも続く暗黒の闇に、ただ雨が、降っている……
クロウはやれやれと大きくため息をついて首の付け根を鞘の平で叩いた。膠着というならまだましだ。これは恐らく、最も恐れていた事態というものでないのか。だが元凶ともいうべき上官がその失策を悟って青冷めたままでうなだれているのを見ると殊更に責めたてる気は起こらなかった。
もちろんそうしてもいい。そうするだけの権利はクロウを含めたこの分隊全員が所持しているはずだったが、誰も実行に移さない。グラッシア=ディディアールが初陣で、文人肌で、本人にとっては実に間の悪いことには中原の雄フィルカス帝国の3将軍の内の一人ヤリオ=ディディアールを父に持っており、クロウたちがディディアール将軍に仕える騎士であり、そして気が進まないまでも父の名誉を損なうことを惜しんでこの会戦に参加を申し出た経緯上、出来得る限りのことをしてやりたかった。
グラッシアは愚かではない。どちらかといえば優しさとの区別のつかぬ気弱さに満ちており、部下であるはずのクロウたちにも居丈高に接したりはしない。ただこの場合命を預けるにはやはり足りぬものの方が多かった。
クロウがまた微かに息をはいた時、隣にまだ若い騎士が立つのが分かった。かわす視線は苦笑に満ちている。仕方がない、とお互いに分かっているのだった。
「よく降りますね」
そんなことを呟いて騎士は草を伝ってしだたる水滴を手のひらに受ける。まぁな、と曖昧な事を答えてクロウは鬱蒼とした木々の向こうを透かしてみるように目を細めた。
敵は人だけではない。降り止まぬこの雨でさえ、望まぬ事項の一つだ。夏が近いとはいえ冷たい水は容赦なく体温を奪い、体力を摩耗させる。一人でならクロウはこの野山を抜けてどうにか本陣のある平原までたどり着けるだろうが、この分隊全員でとなると。だが分割してグラッシアの護衛が少なくなった所へ襲われればただではすまない。頼りなかろうが力不足、役者不足だろうが、彼こそが玉なのだった。
後ろから呼ばれてクロウは振り返った。その上官が組んでいた膝を解いてようやく立ち上がる所だった。まだ顔色は良くないがそれでも決意のきざしが表情に見える。
横に並んでグラッシアは先ほどの騎士と同じように雨に手を差し出した。その横顔はまだ若い。そして彼は上流にしては人の言葉に耳を傾ける姿勢を持っている。根が素直なのだ。
「山を下りよう、雨が止んだら」
「経路は」
「南の沢を越えて、岡の嶺を。部隊を分けて別々に。その方が危険を回避する率が高そうだ」
それはクロウが既に達していた結論と同じだった。彼も必死に考えたのだと思うとついぬるい笑みになった。グラッシアはそんな彼の表情に何を思っているのかを感づいたようで、お前は人が悪いな、と苦笑した。
年をとると悪くなるんですよ、と返しながらクロウは山中に開いた洞窟に座り込んでいる分隊の人数を目で確認する。全てを捨ててこの主人だけを優先するならば他にも方法はあるが、とりあえずはそれを考えまい。グラッシアが声をかけて適当に人数をよりわけていくのを聞き流しながら、クロウはまた雨を見上げる。
降り続く、雨を。
隣でグラッシアが両手をこすり合わせている。吐く息が白い。気温は少しも上がる気配さえ見せない。やはり雨のせいだ。隊を分裂して将軍のいる本隊に合流する道のりを打ち合わせたとは言え、出発は雨が止み次第だ。食料もまともなものはもう3日も口にしていない。携行食はもう殆どを口に入れてしまった。敵と遭遇する危険を見切れないのか、グラッシアは食料を探しに行けとは言わない。
ただこのままじっとここで座り込んでいるだけならせめて食料を調達しに自分だけでもいかせて欲しいものだった。クロウは剣の腕には自信がある。市民階級の最低限の豊かさを享受する家庭に育ったが、剣の道が彼にはあってもいた。姉が家業である靴屋を職人を婿に迎えて続ける意志があったのも幸いだった。義兄も悪い人間ではなかったが、夫婦の家に居候を決め込むのも気がひけて軍隊へ入った。それももう、10年以上前のことだ。
軍隊に入って沢山の戦役に参加して、その期間をクロウはどうにか生き延びてきた。それは生き抜いてきた、ということとは少し違う。そう着飾ってしまうには沢山の裏切りも卑怯も寛容してきた。泥をすすり無力を叫びながら他人の犠牲の上に自分が生きている。
(何故……クロ……)
クロウは不意に浮き上がろうとしたその言葉の記憶から目を背けた。
過去の清算はまだするべき時ではない。それよりも今、この現実を乗り切ることの方が優先だ。
食料を探しに行かなくてはと言うと、グラッシアは迷ったようにうつむいた。敵の目を逃れて深い山中へ入ったとはいえ、周辺は敵の勢力下だ。部下を失いたくないが体力も限界が見え始めているというところだろうか。
優しい方だとクロウは内心で苦笑になる。この優しさはこの時点では現実役に立たないが、それをいうならそも芸術というもの自体人には要らぬものだ。不必要なものをこんな時にでさえ持っている育ちの良さが嫌いになれない。
私が行きます、というとグラッシアは僅かに視線を落とした。それが何故なのかも分かる。彼はクロウの剣の腕前を知っているが、それを以って大丈夫だろうという可能性の高さを鑑みた上で自分がそれを計算したことに微かな嫌悪を覚えている。グラッシアの考えていることは良く解る。まるで旧来の友人のように。
大丈夫ですからと念を押すと、グラッシアはやっと頷いた。敵にあったら逃げてもいいのだと肩を叩かれてクロウは笑って見せる。一人で洞窟を出てゆるく獣道を下っていく。
鎧の肩あてにさみだれる雨が、金属の澄んだ音を立てている。
それは絶望ではなく、激しい憎しみでも怒りでもなかった。ただ一度しばたいた瞳があまりに無邪気な疑問に満ちていた。何が起こったのかを理解していない、死ぬ直前の獣の目だ。
(何故?)
悲鳴でもなくどす黒い問いかけですらなかった。
(何故?)
それに答えなかった。ぽかんとした表情はひどく間が抜けており酷く苛立たしかった。
(何故?)
その最期の言葉にしては決定的に危機感に欠けた声が抜けない。じくじくと降る雨の湿りが足を浸すたびに、水が遡及するように記憶の底からよじ登ってくる……
運が良ければ山菜の類か、もしくは野兎、土竜、そんなものを捕まえることが出来るだろうと思っていたクロウだったが、現実はやはり厳しい。口を慰める程度の量なら何とかなるが、全員の腹を満たすことなど到底無理だ。いくつか小動物用の罠も見かけたがかかっている獣はいなかった。
クロウはそれでも山菜や木の実をかき集めた。から手で帰るのも良くなかったし、少しでも口に入れる事でまた何かが変わることも良くあることだった。鳥の卵に蛇の肉、そんなものでもあればまだましだ。雨のお蔭で獣たちの出足は鈍い。降り続く雨をこれほど憎らしいと思うとは。だが天候は人の範疇ではない。魔導なる怪しげなものでさえ、その幻を生み出すので精いっぱいだ。実は人に出来得ることはとても少ないのだ。
人は、自身を守る牙も爪も毒さえ持たない弱い獣だ。弱いからこそ生き残るために必死で思考することを選んだに過ぎない。その弱さ故に地上を席巻し、その挙げ句にひしめきあい、無様に押し退けあうのが人だ。そして自分も。
クロウは苦い笑みを唇に浮かべた。何に対しての言い訳が欲しいのだろうかと視線を伏せる。雨の日の戦場は、遠く霞んだ記憶を沼の底から引き上げる……
不意に体が勝手に震えた。雨に打たれてやはり寒さが増してきたのだった。足元は不如意だ。濡れた土壌と朽ち葉に足をとられてともすれば転倒しそうになる。それを耐えながらクロウはもう少し食料を探そうとゆっくり茂みをかき分けていく。動きが緩慢なのは確かに水に打たれて芯から冷えていることもあるし、敵の耳を引き付けたくないからだ。戦場で本隊と離れてしまってから既に4日、この辺りはおそらく完全に敵の制圧下のはずだ。
それに……クロウ達の抱えている掌中の玉こそが功績となるに相応しい名を持っている。正確にはその父が、だが。だが主君であるグラッシア=ディディアールは十分人質としても取引の材料としても、あるいは見せしめの為の公開処刑の目玉としても価値がある。あまり追い詰められるとその選択を言い出す者がいないとも限らない。結局のところ、クロウはグラッシアを甘いとも多方面に渡って力不足だとも思いながら、見切ってしまうには至らないのだ。
……もっとせっぱ詰まれば……自信が、ない……
その囁きにクロウは僅かに目を細めた。余裕のない時のことをあれこれ空想するのはそうしておけば実際に罠に落ちてもまだ動揺を押し殺せるだろうと期待しているからか。
クロウは首を振る。今は最悪のことを想定するのをやめたかった。何よりグラッシアが向けてくるクロウに対する混じり気のない信頼と淡い尊敬の眼差しを裏切りたくない。裏切りの卑怯で苦い果実の味を舌の上に噛み殺したくないのだ。
……雨は、投げ捨てた記憶の瓶を満ち潮にのせて河口を登らせる……
異変に気づいたのは長年の勘のようなものだった。生き物の気配がする。それも特に濃厚な。クロウは集めた食料を衣嚢へ納めると目立つ木の下へ埋めた。姿勢を低くして、獲物を定める狼のようにじりじりと近づいていく。獣だとしても雨で臭いは判別しがたくなっているだろう。
前を睨む眼窪が痛い。視線が焼き付くほどに真剣に前へ向かっている。音を立てないように気配の背後へ回ってそっと草むらから覗いた。
最初に見えたのは投げ出された鎧のすねあての部分だった。それが敵の証である朱に塗られている。それを見た瞬間、ぴりりとした緊張がこめかみをひきつらせた。クロウは一層姿勢を低くして、自分を落ち着かせるためにゆっくり瞬きした。
よく見ればだらりとした姿勢で木にもたれきっている。意識はあるようだった。頻りと吐き出されている呼吸の白い拡散に時折意味不明の言葉が混じるからだ。何かを呟いて騎士が身じろぎしたとき、恐らくは膝か股に放置されていた手が滑って土を叩いた。指先がぴくぴく痙攣しているが腕は少しも動かなかった。
……死期が近い。クロウは見切りをつけた。怪我と、そしてこの遣らずの雨に降られて体力を奪われて緩慢な死に至る過程なのだ。そんな状態の戦士を幾人も見てきたから間違いない。
クロウは立ち上がった。その瞬間にがさりと草が揺れたがそれには構わなくて良かった。事実、騎士は振り返らなかった。
ゆっくりその前に立つと騎士は視線だけをあげてクロウを認めたようだった。クロウは騎士の風体をみる。まだ若い。だが若すぎるということはなさそうだ。血で汚れた顔は憔悴しきっており眼光だけが鋭い。その目の光だけが異様でクロウは僅かに怯む。恐怖というよりは淡い嫌悪だった。
「名前は」
大陸の基準語となっているクーリ語で声を掛けても返答は無かった。騎士は僅かに唇をわななかせたがそこからは何の言葉も洩れてこなかった。返事をそれほど期待していなかったから、クロウは淡々と続けた。
「どうやらお前様はもうすぐ死ぬ。名前を教えてくれれば形見を預かろう」
生きて帰ることがあれば自軍の捕虜にでも渡してやれば済むことだったし、それは騎士同士では一種の礼儀として遇されていたからクロウも従った。騎士は頷き、凍えているような口を動かして名乗った。その名を復唱してやりながら、クロウは彼の前に膝をついた。先ほどの厭な眼光は既に力を失いつつあった。
形見をとクロウは騎士の持ち物へ視線をやり、初めてそれに気づいた。
……それは一振りの剣だった。落日を抜いたように赤い。はばたく鳥の意匠とその周囲に咲き誇る蘭の花が彫り込まれている。刀身は細めにやや反り返っているのが鋭利な印象だ。そのぎらぎらした抜き身の輝きが鮮やかだった。
良い剣だった。騎士が握り締めているのをゆっくりはがしてやろうとすると首を振られた。大事なものなのか、とクロウは分かったと頷いて見せる。形見にしてやると誓う、と言うと騎士はそれにも首を振った。何故と聞いても彼にはもう力が残っていないだろうとクロウは判断し、解ったと肩をすくめて彼の首に残った銀の紋章飾りを取った。これでいいかと視線で問うと、騎士はようやく頷いた。
とどめをさしてやるかどうかを迷ったがクロウは結局騎士の身なりをある程度整えてやってから背を返した。結局の所、クロウが手を下さなくても今日の日没には彼の魂は地上を去っているだろう。
騎士の名を脳裏に刻みながら2、3歩進んだその時だった。
急な殺気にクロウは反射的に振り返り、突き出された剣を手甲の部分でなぎ払った。雨に濡れた葉が足を絡める。均衡を崩してよろめくと、更に銀の光が弧を描くのを認めた。
クロウはもう一度その斬撃を手甲で払った。切れ味の鋭い軌跡に反して力は弱く、眼前から簡単に転がり落ちた敵にクロウは眉をしかめた。それは、彼がたった今形見を預かったばかりの騎士であった。
「お前っ」
叫んでみても返答はない。いやそれよりもらんらんと輝く目の光の方が異様だ。怯気を覚えてクロウは後ずさった。なぎ払って一度は崩れ落ちた体を騎士は剣で支えてよろめきながらクロウへ一撃をくれようと手を振り上げる。クロウはやめろ、と低く制止しながら剣に手をかけた。
眼前をよぎる剣の鮮やかに滑る線。
のけぞった首の後ろへかかる負荷。
濡れ葉を踏んで曖昧に不安な足元。
睨みあげてくる視線の焦点の無我。
吐く息が白く残る常緑樹の黒い森。
そして、物言わぬ獣の魂切る叫び。
雨は、静かに、一切を、流して、消して、癒す。
雨は、静かに、全てを、癒して、消して、還す……
クロウはようやく深い呼吸をはいて、じっとりと汗ばんだ額を拭った。濡れそぼる雨の水滴も肌にはりついているが、汗はねっとり絡みつくように指に残った。
顔を歪める。何を口にしていいのかわからないままにくそ、とだけを呟いた。何が起こったのか一瞬分からなかった。振り返った瞬間は本能で危険を避けたが、だが。
クロウは足元で動きを止めた肉塊へと視線を落とした。動かなくなるまで徹底的に叩き潰さねばならなかった。直視していて気分の良くなる光景ではない。たった一つの救いは雨のせいで血の臭いがそれほど濃厚でないことだ。肩を割って斬り下げても足の肉がそげて骨までを覗かせても彼はこちらへ向かってくることを止めなかった。戦歴の長さの反射で頚動脈を叩き斬っても血を噴き出しよろめきながら剣をあげてかかってきた。
クロウはもう一度顔をしかめた。彼は瀕死に見えた。いや、事実そうだった。殆ど口も利けなかったでないか。ではあれは何だったのだ。傷という次元の問題ではない。通常なら動くどころか声さえ発するのも苦しいだろうに....いや。
クロウは騎士の元は悪くなかっただろう顔に一点、強烈な違和感と共に咲いていたぎらつく眼光の鋭さを思い返す。それを脳裏に浮かべた途端に背中がぞくりと粟立った。恐怖というならたしかだった。
クロウはため息をついた。何度目かも分からなかった。足で素早く騎士の体に草をかき集めて掛け伏したのはこの尋常でない死に方をしている遺体を隠さなくてはと思ったからだった。いずれ発見されるなり獣の口に入るなりするだろうが、今はまだ時期としては良くはない。
それが終わるとクロウはその場から足早に立ち去ろうとした。その足にこつんと堅いものが触れた。落ち葉の墓標から僅かに見えている赤い鞘が目に入る。クロウは一瞬迷ってからそれを取り上げた。騎士の握り締めていた剣だった。
名のある剣に違いない。刀身には鋭利に張り詰めた緊張感が漂っている。鞘に彫り込まれている鳥は、どうやら漢氏様の様式を持っている。若干異文化めいた情があった。咲き誇る花は蘭、か。高貴な花だ。クロウは上流とやらの風習には興味がなかったがそれでも蘭が上流で格別好まれる花であるとは知っている。
騎士はそれなりの家の者だったのだろうか。だがそれにしては護衛が一人もいなかったのはおかしいし、第一この剣を形見にと申し出た時彼は拒否した。家の物であるならばそれは不自然というべきだった。
鳥の羽音が急に頭上をよぎった。クロウははっと上を見上げ、それから薄苦い唇だけの笑みを浮かべた。もう戻らなくてはいけない。あまり遅いと上官はそれだけでまた青くなっているかもしれない。努めて自分の置かれている状況へ思考を押しやり、クロウは手にした剣を見た。見れば見るほどに、良い剣だった。
クロウは足元の、落ち葉の死床に軽く一礼した。彼がこの剣を家族へ遺すのを拒んだのなら貰っていってもいいはずだった。クロウは神の聖句を口に乗せ、ゆるく背を返して歩きはじめた。
まさにその瞬間だった。
「へぇ……拾っていくんだ」
後ろから、声がしたのは。
そこに立っていたのは20代の半ばだろう、黒髪の青年だった。不意に開いた双瞳の金がめら立つ炎に似て目に痛い。クロウは誰だ、と低くいった。ほっそりした肢体に雨が跳ねて水の皮膜を作っているように、その空間から浮き立っている。体重がないような軽い動きで青年はゆっくり近くの常緑樹へもたれ、腕を組んでクロウを見た。
「君が新しい主人ってわけか。ふぅん……まぁせいぜい長生きすることだね」
誰だ、とクロウはもう一度言ったが青年は答える気はなさそうだった。肩をすくめてにやにやと薄く笑っている。それからちらりとクロウの埋めた騎士の辺りを見てそいつは、と言った。
「少なくとも心中するほどには勇気があった、というべきかな。ふふふ、単に頭が悪かっただけかも知れないね」
何を言っている、とクロウは遮った。青年はやはり答えなかった。額に張り付く髪をゆらりとよせてくつくつと喉を鳴らして笑った。
「君が全くの外れだってことはわかってるんだよ。必然的にね。だから後は」
ちらりと投げた視線は騎士へ一瞬あたり、それからすっと上にあがってクロウに当たった。クロウは眉をしかめた。何かが酷く苛立っていて怒りの衝動のようなものが吹きあげてくる。
「君が蛮勇を誇って野垂れ死ぬ愚か者か、恐くなって逃げる卑怯者か、どちらになるのか見物を決め込むこととさせてもらうさ。毎回本当に面白いからね」
腹の中で溜めていたものがふっと切れた。クロウは拾った剣に手をかけて青年目掛けてうち下ろした。距離も速さもその不意打さも万全だったはずだった。
だが青年には当たらなかった。涙に滲むように姿が一瞬薄れ、クロウから10歩ほど離れた位置にまた姿を現した。クロウは魔導士か、と目を見張った。魔導自体、一般化はしていない。魔導という才能の要る科学を人が使うようになったのはたかだか150年ほど前、しかもその大系を握っているシタルキア皇国が徹底した秘密主義に事を運んでいるせいで、シタルキア以外の諸国では国に一人いるかいないかだ。
こんな場所にたった一人でいるはずがない。
「残念だね、僕は魔導士ではない」
そんなクロウの思惑を見透かしたように青年が言った。クロウは顔を歪めた。青年はクロウの手にした剣に視線を投げ、やれやれという調子で肩をすくめた。
「それを手にした奴は例外なく僕を斬りたがる」
そんな言葉を吐いて青年はまた笑っている。クロウはお前、と強い声を出した。
「お前は、一体」
「外れには関係ないさ」
青年はぴしゃりと言葉を遮り、片手を上げた。別れの挨拶なのだとクロウは気付いた。待て、という言葉をやはり青年は鼻で笑った。その姿が不意にぼやけて薄くなり、黒く続ける常緑樹の木々を透かして消えた。
クロウはその場に暫し立ち尽くした。葉を叩く雨の温い音だけが深い森に満ちている……
雨が続いている。
しだるる水が体を伝って下へ行く度に、記憶の沼をかき回して底に溜まった泥を澄んだ水に無理に含ませようとする。
(何故)
その言葉が遡ってくる予感を連れて雨は降る。
(何故)
答えるはずがないとわかっていても。