犠牲になった婚約者
「今日の予定はキャンセルで」
この台詞を何度彼女に告げたのか、彼女に指摘されるまで考えたこともなかった。
◇◇◇
「この森にあるって聞いたんだけどな……」
俺は今、とある店を探している。
貴族の間で、密かに噂されていた。
そこは時計店で、時を戻すことが出来るというのだ。
そんな都合の良いことが出来る店があるなんて。
はじめは聞き流していたが、今の俺はその噂に縋らざるをえなかった。
どれくらい歩いただろうか。
すると、目の前に一軒の小屋が見えてきた。
「これ、か?」
おそるおそる中へと入る。
カランカラン。
ドアにかかっていたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
そこには一人の男が立っていた。
長い髪は一つに束ねられ、無精ひげが生えているものの、身なりはきれいで、その立ち姿も美しいものだった。
「あ、あの、ここは時計店、です、よね?」
そう言葉に詰まるには理由があった。
数多くの時計が飾られた店内。しかし、どの時計にも針がついていなかった。
「ええ。時計店です。ただし、針のない時計店です」
男の口から出た言葉に、あの噂の信憑性が増す。
こんなに特殊な状況はない。
「では、噂に聞いた、時を戻すことができるというのは本当でしょうか?」
その質問に男は口角をあげるとこう答えた。
「いつに戻りますか?」
「いつに?」
「ええ。戻りたい時点がおありでしょう?」
俺は婚約破棄がなかったことにしたかった。
ある日突然、婚約者から破棄を告げられたのだ。
――もう結構です。
その時ようやく気づいた。彼女はもう笑っていなかった。
いつから、彼女の笑顔を見ていなかっただろうか。
いや、彼女の顔すら見てなかったかもしれない。
だとすると、婚約破棄された日では遅すぎる。
俺は、彼女の顔が思い出される日に戻ろうと考えた。
「決まりましたか?」
「あ、はい」
「では、その時点に戻りましょう。強く念じてください」
男は懐中時計を手にすると、俺と同じように、強く念じ始めた。
◇◇◇
「……様、ダニエル様?」
俺は呼ばれた声にはっと顔を上げた。
目の前には心配そうにのぞき込むフレドリカがいた。
「ああ、フレドリカ……」
フレドリカは、俺が名前を呼ぶとほっと息をつき微笑んだ。
「ずっと一点を見つめて、お声かけにも反応がなかったものですから、少々心配いたしました」
「ああ、すまない」
「いえ、問題がないのなら良いのです」
すると、すっとフレドリカが立ち上がった。
「私はここで失礼しますね」
いったい、いつに戻ってきたのか。
彼女の顔が思い出される日を頭に浮かべたが、正式な日時がわからない。
婚約破棄より前であろうことは明らかだった。
ここは町のオープンカフェだが、町が花祭りの準備で賑わっていたからだ。
(そうだ。たしか、祭りに一緒に行こうと誘った日じゃなかったか?)
「あ、フレドリカ」
「?」
彼女は一歩進んだところで振り返った。
「君の屋敷に迎えに行くよ。待っていてくれ」
「……はい」
彼女は視線を戻すと、この場を後にした。
屋敷に戻り、日付を確認する。
(そうだ。あっているな。彼女を祭りに誘った日だ)
この日は婚約者のフレドリカが行きたがっていたカフェでお茶をする約束だった。
しかし、約束の時間には1時間も遅れてしまった。
迷子になっている子がいて、その親を探すのを手伝っていたのだ。
店では彼女が待っていてくれて、少しの時間だが一緒にいることができた。
彼女がずっと外を眺めていたものだから、気になるのかと思い、祭りに行かないかと誘った。
「しかし、あの時計店は本物だったのか……。本当に時間が戻っているとは……」
目の前にフレドリカがいて驚いた。
婚約破棄して以降、一度も顔を合わせることがなかったからだ。
何度もやり直したいと訴えたのだが、彼女が会ってくれることは二度となかった。
花祭りを翌日に控え、ダニエルは招待状を受け取った。
「私に?公爵家から?」
そこには、先日保護してあげた迷子が公子様だったこと、明日お礼に食事会を催すため来て欲しいというものだった。
「そうだったよ。まさか公子様だったとはと驚いたんだった」
ダニエルは出席の返事を出すよう指示した。
「あ、そうだ。ではフレドリカにも申し伝えないと」
ダニエルは、フレドリカには『予定はキャンセルする』と連絡するよう指示を出した。
(フレドリカに会えるはずだったのだが、こればかりは断れないし。あ、そうだ。また次の約束を取り付けなきゃ。花祭りに行けなかった代わりに、国立庭園に行こう)
そして、庭園に行く約束の日。
準備を進めていると、執事に呼び止められた。
「実はたった今、来客があるのですが、本日旦那様が体調を崩していらっしゃいまして、代わりにご対応願いますでしょうか?」
「来客?」
「はい。現在商談中の案件の……」
「ああ、あれか。確かにあれなら私でも対応できる。わかった」
話は順調にまとまり、大きな取引を終えることができた。
「では、この後は晩餐をいかがでしょう。今後の発展を記念して」
そこで、ふとダニエルは思い出した。
(あ、そうだった!フレドリカ!)
ダニエルは従者に伝言を指示した。
「今日、フレドリカと庭園で会うことになっていたんだ。きっと庭園にいると思うから、今日の予定はキャンセルでと伝えておいてくれないか?」
「え?本日お約束があったのですか?」
「ああ。だが、今日は行けなくなったから」
「それにしても、庭園にいると思うって……」
従者は窓の外を見た。一時間ほど前から雨が降り始めていた。
従者は急いで、庭園へと向かった。
「昨日は急遽すまなかったな、ダニエル。だが、商談がうまくまとまって良かった」
「ええ。私に対応できることでしたし、問題はありません」
「そうか。お前がいてくれて良かったよ。いつ私が退いても問題なさそうだ」
父に任されたことや、頼られたことが嬉しくて、この日はずっと心が昂っていた。
翌日、手紙が届いた。
そこには、フレドリカが体調を崩していることが書かれていた。
(最近は天気や気温の変化も大きいから、体調崩しやすいのだな……。これじゃしばらく会えなそうだ)
俺は手紙を引き出しにしまった。
この日は朝から母も体調を崩していた。
「体調はいかがですか?母上。父上は快癒しましたが、母上にうつってしまいましたかね?」
「情けないわね……。体調を崩すことはめったにないから、心細いのよ。ダニエル、少し側にいてくれるかしら?」
「ええ、お側にいましょう」
母が眠るまで側に寄り添い、母が一眠りしている間に花を摘んで、母を見舞った。
二度目の時間を繰り返しているが、自分が違う行動をとったことで、まさか両親が体調を崩すとは思っていなかった。
庭園に誘った出来事は一度目にはなかったことだ。
(フレドリカと久しぶりにデートする約束だったんだが……)
一度目の人生から考えても、久しくフレドリカと逢瀬を楽しんではいない。
時間が戻されたあの瞬間だけ、顔を合わすことが出来ていた。
(結局、花を見ることが出来なかったし、今度は外ではなく、観劇にしよう)
ダニエルはフレドリカの体調を考慮し、2週間先の鑑賞券を手に入れると観劇に誘った。
観劇を翌週に控え、ダニエルは鑑賞券を手に取り眺めていた。
(来週は観劇だ。そもそも婚約破棄にならないために戻りたいと願ったわけだから、フレドリカに会わないと)
執務をこなしていたダニエルは、突然の来客に驚いた。
「どうしたんだ?ブランドン」
「実は君にお願いしたいことがあるんだ」
ブランドンはダニエルの親友だ。半年ほど予約の取れない仕立て屋での衣装づくりの打ち合わせが明日に迫ったが、急遽仕事が入り行けそうにないため、ダニエルに変わりに行ってほしいとのことだった。
「なぜ行かなければならないんだ?婚約者が行くだけで十分ではないか?」
「私との衣装合わせでもあるんだ。背格好が君なら一緒だし、隣に立つだけでいいんだ。デザインや色はカロライナに任せればいい。私からは特に要望はないから」
「そういうことなら別に構わないが……。彼女はそれで構わないと?」
「ああ、カロライナにも許可は得ている」
翌日、仕立て屋に向かうと、ダニエルは見覚えのある店構えに、一度目の出来事を思い出した。
(そうだった。この店の前で急遽カロライナに呼び止められたんだっけ。隣に立つだけでいいからと)
一人で来てみたものの、どうしてもイメージできず隣に立ってほしいと頼まれたものだった。あの時のことかと理解したダニエルは、店内に入った。そこでは、ブランドンの婚約者であるカロライナが待っていた。
「突然のお願いにもかかわらず、受けてくださりありがとうございます」
「いえ、お役に立てるのなら」
ダニエルはブランドンの代わりにカロライナの横に立ち、数着衣装を合わせ、選んだ衣装をあらかじめ聞いていたブランドンのサイズで調整してもらうことにした。
衣装合わせが終わり店の外に出ると、少し先にフレドリカが馬車に乗り込んでいるところが見えた。
(あれ?フレドリカだ。なんでこんなところにいるんだろう)
馬車が立ち去り、その場所を確認すると、そこは婚姻衣装を依頼していた仕立て屋だった。
(あっ!)
「カロライナ嬢!今日は何日だったか!?」
カロライナに確認した日付は、自分たちの婚姻衣装の打ち合わせの日だった。
(まずい。忘れてた……。一度目の時はどうしたんだ?)
思い出そうとするが、フレドリカと衣装を合わせた記憶がない。
「ダニエル様。よろしければお茶をしませんか?お礼と言っては何ですが、評判の甘味処がございますの」
(……そうか。俺は、そもそも行ってないんだ……)
カロライナとケーキを食べた記憶はある。しかし、フレドリカとの衣装合わせは、無断で欠席をしていた。
──行けなくなってしまって済まなかった。問題はなかったか?
そう後日彼女に聞いた記憶が蘇った。
一度目は、仕立て屋に向かう途中でカロライナに呼び止められ、ブランドンの分の衣装合わせをした。
(じゃあ、俺の衣装はどうしたんだろう……)
一度目の時間で婚姻衣装は見ていない。作ったのかすらわからなかった。
結局婚約破棄となったのだから、使う場面はやってこなかったのだ。
(やり直しているはずなのに、やり直せてもいないじゃないか……)
「すまない、カロライナ嬢。用事があるので、ここで失礼するよ」
その足で仕立て屋に向かった。中に入ると店主は驚いていた。
「もうフレドリカ様はお帰りになりましたが」
「ああ。あの、衣装は……」
店主と店員は顔を見合わせて苦笑いしていた。
「また、日を改めてご予約をお願いできますでしょうか?」
「しかし、あとは私の分だけでは?」
「フレドリカ様もお作りにはなられてませんから」
「え?」
「必要になったら来ますと仰ってました」
その言葉に、声を失った。
(必要だろう?結婚するのだから。……しかしそれは本当か?だって、このあと婚約破棄されたんだぞ?)
店を出たものの、そこからは何をしたら正解なのかわからなかった。
とても、フレドリカに会える状態ではない。もし会ったら、今日にでも婚約破棄されるのではないか。
そう思うと、少しでも時間を稼ぎ、挽回せねばと思った。
1週間が経ち、観劇の日を迎えた。
フレドリカを迎えに屋敷に向かったが、フレドリカはすでに出ていると告げられた。
(そうか……迎えに行くとは言ってなかったかもしれない。直接向かっているのか?)
劇場に着くが、フレドリカは見当たらなかった。先にも来ておらず、待ち続けてもフレドリカが現れることはなかった。
(なぜ?今日だったはず。どうしたというのだろうか)
結局、上演は終わり、確認のためにフレドリカを訪ねて屋敷に向かった。
屋敷にはフレドリカがいた。執事に案内されると、久しぶりにフレドリカと顔を合わせた。
「よかった。いたのか。今日は観劇の日だったが、どこにいたのだ?迎えに来てもいないし、劇場で待っていても来ないし」
フレドリカは首を傾げた。
「今日はいらっしゃったのですか?どうせ今日もいらっしゃらないかと思っておりました」
「え?」
「一応、安否を心配してくださったのですか?それはご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。用件はそれだけでしょうか?私にもそれなりに予定がございますの。劇の日程もご相談いただきたかったものです」
「あ、何か予定があったのか?」
「ええ。ですが大したことはございませんでしたので、ご連絡差し上げなかったのは申し訳なかったと思います。用事を済ませれば劇には間に合うだろうとも思っていましたし。ただ、予想とは違い間に合いませんでしたので、劇場には行けませんでした」
「だとしたら、先に連絡くれれば違う日に調整したのに」
「それは申し訳ございませんでした。ですが本当に大した用事でもなかったので、わざわざ違う日の予定を確保するほどではと思いましたし」
「フレドリカにとって、私との逢瀬は重要ではないと?」
「それはあなたの方ではないのですか?何度『今日はキャンセルで』と告げられたことでしょう。ですから、今日もそのような連絡が来るものと思っておりました」
直接言葉にされて、初めて自分が今まで何をしてきたのかに気づかされた。
「しかし、それは、仕方なく……」
「ええ。ですので、私も何も申し上げませんでしたでしょう?もうよろしいでしょうか?本日は大変失礼しました。せっかくお誘いいただきました観劇に行くことができず、あなたの時間を無駄にしてしまったことお詫び申し上げます」
そう告げ、フレドリカは部屋を出て行ってしまった。
俺は何もできずに帰路へとついた。
──今日の予定はキャンセルで
何も考えずに使っていた言葉だった。
フレドリカが約束に現れなかったのは、今日が初めてのことだった。
待ち人が現れないというのは、とても不安になった。
(フレドリカはいつもこんな思いでいたのだろうか)
さらには、当日に急遽キャンセルされたらば、そのために空けていた時間がまるまる無駄になる。
そう考えると、毎度申し訳なかったと思うと共に、自分は彼女にそれをきちんと詫びたことがないということに気づいた。
予定されていた両家の食事会で、フレドリカ不在の中、婚約破棄の申し入れがあった。
「なぜです?何か問題が?」
両親は納得できず、俺もまた、避けられなかった婚約破棄に愕然とした。
「問題がなかったとお考えであることが問題なのですよ。何度フレドリカを蔑ろにすれば済むのでしょう。婚約期間中でこれです。結婚生活を不安に思うのも無理はない。娘を思うとそちらに嫁がせるわけには参りませんから、婚約を破棄していただきたく存じます」
「いえ、フレドリカ嬢を蔑ろにだなんて……」
俺は否定しようとしたが、はっきりとは告げられず、その言葉は尻すぼんだ。
「聞けば、ダニエル様は約束を全く守らないそうじゃないですか。最近では、お茶会も、庭園での待ち合わせも、婚姻衣装の打ち合わせにも現れなかったと聞いておりますよ」
さすがに、婚姻衣装の打ち合わせにも現れなかったと聞いては、両親も表情を険しくした。
「そうなのか?ダニエル」
父に問われた。
「ですが、それは急遽予定が入りまして」
「フレドリカ嬢を放置してまで優先させなければならなかったものなのか?」
「人助けをしていたら、遅れてしまったり、行けなくなってしまったものです。予定をキャンセルさせてもらって、改めて詫びをと予定を立てたのですが、それも同じように……。別にフレドリカを蔑ろにしようとしたわけでは、やむを得なかったものですから」
俺の言い訳に、母は援護した。
「ほら、ダニエルは優しい子なんです。困った人は放っておけないですし、助けてくれるのです。よく私たちも支えられておりまして」
「しかし、そのしわ寄せのために、誰が犠牲になっていたか考えたことはないようですね」
「え?」
「人を助けていたことはよいのです。その行いを責めているわけではありません。しかし、その裏で犠牲になったフレドリカに対してどれだけ配慮をしてくれたかということなのです。お茶会や花祭りの件は、そのお相手が公爵家だったと伺ってますから理解はできましょう。庭園を回る約束では、待ち合わせの時間を2時間も越えてようやく使いの者が現れたと聞いています。おかげで雨の中待ち続けたフレドリカは体調を崩しましたが、それを知らせてもダニエル様は見舞いにも現れませんでしたし」
それを聞いた両親は俺の方に顔を向けた。
「それは……いったい何を優先させたというのだ?」
「父上が体調を崩された日です。出かける直前に、急遽父上の代わりに商談をすることになり、終わり次第向かうつもりだったのですが、思いの外時間がかかったものですから、そこで使いを……まさか、それが原因で体調を崩していたとは……」
その話に父は頭を抱えた。
「いや、だとしたら、仕事の予定が入った時点で使いを送れば、彼女を2時間も待たせることはなかっただろう?それに、見舞いに行かないとはどういうことだ?」
「父上に次いで母上も体調を崩されておりましたから、側にいて欲しいとも言われておりましたし」
その話に、母が開いた口元に両手をあてた。
「え?それはどういうことなの?私の側にいたから、フレドリカ様を見舞わなかったということなの?そこは優先させるところが違うのではないかしら?彼女はあなたが待たせたせいで体調を崩していたのでしょう?」
「で、衣装合わせに行かなかったというのはどういうことだ?」
父は眉間に皺を寄せた。それに、俺からは答えられず、俯いた。
「フレドリカから聞いた話では、他の令嬢と他の仕立て屋で衣装合わせをしていたのを目撃したそうです。さすがにそれは……優しさなのでしょうか?自分と婚約者の婚姻の衣装合わせを差し置いて、衣装を合わせるお相手がいるなんて。フレドリカは衣装を作りませんでした。もうその時には心に決めたようでした。ご理解いただけますよね?」
両親は、深々と頭を下げていた。婚約破棄は、了承された。
(変わらなかった。時を戻してやり直しても、結末は変わらなかった)
◇◇◇
はっと気が付くと、そこは時計店だった。
「いかがでしたか?」
店主はちらりと視線をこちらに向けた。
「いかがでしたかって、なんでここに?私は、時を戻ったはずじゃなかったのか?」
「あなたは時戻りをしました。やり直したいとお考えの時間に時を戻し、選ばなかった未来を歩むことができたのです。さて、歩んだ先の結末はいかがでしたか?」
「変わり……ませんでした……」
店主の問いに、正直に答えた。
「そうでしたか。では、そういうことなのでしょう」
「え?」
「あなたの考え方や行動では、そのような未来にしかならないのでしょう。時戻りは、選ばなかった先を経験することができるだけなのです。その選択次第では、違う結末もあったことでしょう」
「では、あの戻った人生というのは……」
「もしもの世界です。さて、現実に戻りました。この先の未来はあなた次第ですよ。お代は特にいただきません。あなたの経験をお持ち帰りください」
店を出たダニエルは、しばらくその場に立ち尽くした。
社交界では、ダニエルとフレドリカの婚約破棄が話題となっていた。
「あんなにお優しいダニエル様とお別れになるなんて、フレドリカ様もどうかなさっているわね」
「私は馬車の車輪が壊れてしまったところをダニエル様に助けていただいたことがあるのよ。待ち合わせ場所に向かっている途中だったのだけれど、ダニエル様の馬車に乗せていただいて、わざわざ遠回りしてくださって送り届けてくださったの」
その会話が聞こえたダニエルは、言葉を失った。
客観的に聞き、状況を考えてみたらば、自分のしていることが必ずしも善ではないとわかったからだ。
今話題となっていたあの日のこと。
ダニエルはフレドリカと待ち合わせをしていた。その通り道で困っていたご令嬢にでくわしたのだ。遠回りした結果、フレドリカを1時間も待たせてしまった。
ご令嬢にとっては善い行いかもしれない。しかし、待ちぼうけをくらったフレドリカがダニエルに思うことはどんなことだろうか。
そして、それに対して言い訳はしたが、詫びをした記憶がない。
誰かを助けることも、家族を気遣うことも、仕事に責任を持つことも、それ自体は悪くない。
けれど、そのたびにフレドリカとの約束を後回しにして、彼女なら許してくれると思っていた。
(フレドリカとはこの先ずっと共にいる人だと思っていたから、今ではなくてもと思って……)
フレドリカとの未来を当然のものとして扱っていた。
だからこそ、今この瞬間に彼女を大切にしなくても、未来は続いていくと思っていた。
(その未来がくることはない。今のフレドリカを蔑ろにしたがために失ってしまった……)
婚約者への配慮の無さが、婚約破棄に繋がっていた。
そして今、再びフレドリカに向かい合うことは、もうできなかった。
フレドリカとやり直したいと思っていたのではなく、婚約破棄がなかったことにしたいとダニエルは時戻りをし、その結果、婚約者への配慮を怠ってしまったのだから。
(今から大切にするよなんて、虫のいい話はないな……)
遠くに見えるフレドリカから視線を逸らすと、ダニエルは小さくため息をついた。
◇◇◇
「……変わらなかった、か」
客の去った扉を見つめ、店主は小さく呟いた。
あの男は、やり直せなかったのではない。結果的に、同じ道を歩んだのだ。
原因を理解しないままでは、選択を変えることも難しかっただろう。
人は、失って初めて気づくことがある。
けれど、気づいたからといって、失ったものが戻ってくるわけではない。
店主はカウンターに目を落とした。
針のない懐中時計が、音もなくそこにあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は『針のない時計店』を舞台にした短編集の第一話です。
時計店を訪れる人々が経験する、選ばなかった人生と、その先にある選択を描いていく予定です。
また別のお話でお会いできましたら幸いです。
よろしければ、ブックマークや評価をいただけますと、今後の執筆の励みになります。
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【電子書籍のお知らせ】
『婚約破棄され傷物になった不遇な令嬢は、隣国の王子の静かな愛で満たされる』(LYR文庫)
現在、2巻まで刊行中です。
ご興味がありましたら、活動報告をご覧ください。




