ep.06【漆黒の少女Ⅱ】
白い三日月が天の頂点に昇り、夜も更ける頃。
人気のないグラウンドに、ゲノムは立っていた。
身体を覆う黒いマントはもう無い。前回ぶっ倒れたのを教訓に、そこら辺に捨ててきたのだ。
月明かりの下、明らかになったその姿を妨害するものは、今や何一つ無くなった。
年の頃は五~六歳といったところだろうか。
ゲノムの細く白い四肢は、幼いながらも繊細なラインを見せ、ある種の完成された美しさを感じさせる。
艶やかな黒髪は、頭のかなり高いところから二つに結い分けられており、髪の先端は見事なまでの縦巻きカールだ。
ツインテールと表するよりも、角や触覚と表現したほうがしっくりくる髪型かもしれない。
「・・・しつこい奴じゃの」
大きな水色の瞳を凛々しく細めて、ゲノムは言った。
視線の先にあるのは虚空・・・否、月明かりの下、長く伸びた自身の影である。
それは一見すれば、何の変哲もない影に感じられるだろう。
しかし、その違和感は、周囲に散らばる他の影、校舎や、木々の落とす影の方向を見れば明らかだった。
ゲノムの影だけ、伸びる向きが違う。
・・・つまり、これはただの影ではない。
『ドコだ。パンドラ・・・オマエはパンドラをドコにカクした・・・?』
「知らぬわ」
ゲノムの影は、地面から紅く開いた口で語る歪な声で問う。
そこで冷たく言い返したゲノムに憤ったのか、次の瞬間、影の様子が変化した。
『ウソをつけ!カエせ、カエすのだ。パンドラはワレらがアルジのモノ!』
「グン・・・ッ」と奇妙な音を立て、影は地面に散らばる砂粒ごと、ゲノムの前に立ちはだかった。
姿を持った影は校舎の二階部分にまで届く程に巨大で、どす黒い。
顔面部分の中央で開く真っ赤な口と、黒目がちな丸い眼球は、とてつもなく邪悪だった。
「知らぬ」
そんな恐怖の姿を目前にしても、相変わらずゲノムの声は静かだった。
この人間離れした雰囲気を持つ幼女は、この程度のイレギュラーに驚きもしないのだ・・・と、余裕をかまして見えた次の瞬間。
「ほ・・・ッヒック・・ほんとうにっ・・・知らないんじゃもんっ」
ゲノムは泣いた。凛々しい面影も台無しに、力強く幼児泣き。
「・・・ふぇっ・・・だいたい、パンドラってなんじゃいっ・・・わしゃ知らぬ。
お前のようなおそろしーやつも知らぬっ。なんでしつこく追っかけて来るのじゃっ!」
しゃくり上げ、小さな拳をブンブン振り回し、ゲノムは訴える。
この場に第三者の人間がいたら、思わず抱き締めてやりたくなるほどの可愛らしさだ。
『・・・フザけてるのか?”アシアト殺し”のキサマがナニをイう』
しかし、残念ながら美幼女の魅力は、不気味な影に伝わらない。
影は覇気を失ったゲノムを前に、ニヤリと紅い口を歪めた。
「ふざけてなどおらぬわ!本当にわからぬと言っておるに・・・なぜ信じぬ!?」
わんわん泣いた次の瞬間には突然の大激怒。もうすっかり、ただの幼児である。
・・・さて、そんなゲノムの名誉を守るために、ここで事実を一つ明らかにしよう。
―― ゲノムは今、記憶喪失なのである。
原因は、先日の炎天下だ。
極度の脱水症状と、高熱により意識を失ったゲノムは、目を覚ますと同時に全ての記憶を失っていた。
・・・まぁ、あのまま死ぬことにならなかっただけでも、幸運だったのだが、
そうして助かった命も、只今の現状では危ぶまれてしまうだろう。
『・・・キサマのアソびになどツきあってられぬ。パンドラのアリカをハかぬのなら、それまでダ・・・!』
瞬間、風の唸るような音を繰り出し伸びる黒い腕。
影の腕はゲノムの頬を数ミリ掠め、地面に突き刺さり・・・
「っひぃ・・・っ!」
頬から僅かに血液を零したゲノムは悲鳴を上げて仰け反った。
――・・・逃げなくてはっ・・・!
回らない頭で、唯一思いつくことといったらそれくらい。
くるりと影に背を向けたゲノムは、猛烈な勢いで走り始めた。
『・・・またニげるのかっ!キサマ・・・いつまでこのワタシをカラカウつもりだっ!』
再び伸びた黒い腕が、ゲノムの頭上を掠め、前方の地面に突き刺さる。
「・・・っつ!」
咄嗟に右上へと跳ね、攻撃を回避したゲノムは、巻きあがる砂煙に僅かに堰き込み、叫んだ。
「もう嫌じゃっ!!誰か助けてくれっ!」
心からの声である。
目尻から迸る涙が数滴、月明かりに煌めいて風の中に消えて行った。
――この校舎に、自分を助けてくれる人物がいる。
記憶を失ったゲノムだったが、何故かそのことだけは覚えていた。
その人物というのが誰なのか、どうやって自分を助けてくれるのか・・・などといった内容は、全く持ってわからないのだが。
とりあえず、この誰かを見つけなければ、自分はこの得体のしれない何かに殺されてしまう。
息を切らせ、ゲノムは走る。
大地をけり上げ、柵を登り、屋根を走り、壁を走り、時に宙を駆ける。
・・・当人無自覚だが、果てしなく人間離れした運動能力である。記憶はなくとも、流石神がかりといったところであろうか。
巨大になった影は、思いのほか鈍足だったらしく、ゲノムが走れば走るほど、その姿は遠のいて行った。
「・・・そうじゃっ・・・どこかに・・・っ・・・隠れるんじゃっ!」
影の姿が見えないことに安心したのか、強張ってたゲノムの思考回路が、僅かに復活した。
・・・そう。流石のゲノムでも、逃げてばかりいては体力も持たない。
どこかに隠れて、休息を取りつつ、影の目をごまかし、やり過ごす方が良いだろう。
そう考えたゲノムが目をとめたのは、校舎の隣に鎮座する体育館の裏手側。
煤けた白い壁で作られた外付けのトイレだった。
中の個室で息を潜めていれば、巨大に見つかることはまずないだろうと踏んだのだ。
ゲノムは走っていた塀から飛び降り、トイレに駆け込むと、
一番奥の個室、「故障中」と札を付けられた扉に手をかけ・・・
「・・・っと。すまぬ。先客がいたか」
洋式便所に腰かけるその姿に、思わず謝罪。
薄闇の中にぼんやりと浮かび上がる白っぽい巻き毛。
ふわっふわの四肢と、黒くつぶらな瞳を持ったこの方のプライバシーを、
ゲノムは失礼にも侵害してしまったようだ。
個室の扉をそっと閉め、隣の個室に入り直そうと、ちらり視線を動かしたゲノムは・・・
「・・・っつ!」
トイレの出入り口からこちらに向けて、虚ろな視線を送る巨大な影を見た。
「うわああああああ!!!」
本能的に、一度閉じた扉を開け、個室に入るゲノム。
洋式便所に座るふわふわ氏と再会したゲノムは、何度も頭を下げながら言った。
「すまぬ・・・すまぬ!巻き込んでしまってすまぬ!でもわしももう、どうすればいいのかわからな・・・・っ」
瞬間、個室の扉を突き破ってくる黒い腕。
激しい破壊音に、命の終わりを覚悟したゲノムは、強く瞼を閉じ、
そして、ゆっくりとその瞼を開き、息を呑んだ。
「そ・・・そんなっ!初対面なのにっ!」
ゲノムが見たのは、自らの身を盾にゲノムを守る、ふわふわ氏の姿。
実はこれ、生き物の形をしたものを自在に操ることができるゲノムの能力が、本能的に出てしまった結果だったりもするのだが、
当の本人にその自覚はない。
ふわふわ氏はその胴体を黒い腕に貫かれると、背後の壁に激しく叩きつけられ、そのまま地面に崩れ落ちた。
「し・・・初対面のかたーーーっ!」
目の前の無残な光景に息を呑み、ゲノムは地面に落ちたクマのぬいぐるみに駆け寄る。
「しっかり・・・っ!しっかりするんじゃ!こんなことで死んではダメぞっ!」
クタリと力無く横たわるクマさんの姿に、ゲノムは戸惑い、激しくふわっふわの肩を揺する。
しかし何ということだろう。目の前の恩人は、ゲノムが幾度呼びかけても返事すらしない。
「貴様・・・よくも・・・」
無自覚に低くなる声。恩人の肩から離れたゲノムの手が、小さく震え、拳を作る。
「よくも・・・初対面の親切なかたをっ!」
次の瞬間、影はゲノムの瞳に変化が起きるのを見た。
つい先程まで、臆病に震えていた水色の瞳に、突如差し込む金色の光。
それはゲノムの瞳の中でどんどん拡大していき・・・
「関係のない民間人を巻き込むとは・・・言語道断。その罪、死を持って償え!」
ただの幼女と化していた先程の醜態とは、まるで別人。
ゲノムは威厳高々に影に向き合った。
光り輝くその姿。「アシアト殺し」としての正体を現したゲノムに、影は僅かに後ずさる。
『フ・・ック・・・パンドラを・・・パンドラをカエすのダ!』
それでも虚勢を張り、影は紅い口を歪める。
目の前の光に、命の危険を感じた影は、本能的にその身体を膨らませ、トイレの壁を天井を圧迫する。
―――・・・ズッパアアアアン
夜の校舎に、とてつもない音が響き渡った。
影の膨張に耐え切れず、トイレが壁ごと吹き飛んだのだ。
辺り吹き荒れる爆風、舞い上がる破片。砕けた水道管から立ち上がる水柱。
傍から見たら悲鳴を上げたくなるこの光景の真ん中には、動じる素振りも見せない一人の美幼女。
その胸にはおっきなテディベアを抱き抱えているこの様子には、
辺りを包む雰囲気も、殺伐とすればいいのかほのぼのすればいいのかわからず、迷子になりそうだ。
「いい加減・・・しつこいと言っておろうが!」
凛々しく低い声で、ゲノムは言い放つ。
目の前には巨大な影。
ただし、その巨大っぷりは、先程の倍以上と言っても過言ではない。
それにも関らず、ゲノムは恐怖を感じなかった。
不思議なくらい冷めた思考の中で、ゲノムは計算を始める。
それはつまり、目の前の木偶の坊を消滅させるための数式だ。
「解けたぞっ!」
「ぴっぴっぴっ・・・チーン♪」という効果音を脳内再生させた後、ゲノムは告げる。
途端現れる、赤と黒の二つの球体。ピンポン玉サイズのそれは、ゲノムの周りをぐるり回転し、
巨大な影の中央に吸い込まれるように消えて行った。
そしてその数瞬後、影から上がる悲鳴。
『グ・・・グワアアアアアアーーーーっ!!』
夜空に響き渡るそれは、校舎の壁に、木立に幾重にも反響し・・・
その全ての音が鳴りやむ頃、そこに巨大な影の姿はなかった。
あるのは打って変わった平和な夜だけ。
ゲノムはその視線を、星空瞬く夜空から、自らの足元へ下ろし、そこにあるいつも通りの小さな影を確認すると、
「・・・っふぅ」
ため息と共に、自らを覆う神がかりなオーラを解いた。
瞳の色も元通りの水色だ。
「・・・怖かったのじゃ・・・」
そして呟く本心。
一瞬本来の力を取りもどせたようだが、所詮は記憶喪失のままである。
自分が何者なのかもわかってないのだ。
「そうじゃ。この親切な方には本当に悪いことをしてしまった」
そう言って、ゲノムは腕の中のクマさんに目をやった。
未だにこのぬいぐるみが死んだのだと信じているゲノムのこの頭の悪さは、
元々なのか、記憶喪失だからなのか、判別がしがたいところである。
「お詫びにお主のこの遺体を、身内の方に届けて差し上げることにしよう。
どれ・・・何か手掛かりになるものは・・・」
そう言って、モサモサの毛皮に手を突っ込んでみるゲノム。
その小さな指先は、不意に一枚の封筒に触れた。
「・・・っむ・・・これは手紙か」
中から取り出したのは可愛らしいピンクの便箋。
他人に宛てられた手紙を読むなんて悪趣味なことであるが、
これがこの恩人の身元を知るための唯一の手掛かりなのだから仕方がない。
女子中学生特有の丸文字で綴られたその内容に目を通し終える頃。
ゲノムはこの”白貴族アルフィー”の悲運な生涯を知った。
「そうか・・・取引の道具として見受けされるとは。
ぬしも苦労しておったのじゃな・・・」
同情に濡れた瞳で、ゲノムは言う。
「・・・このわしが、ぬしをぬしの主君の元へ届けよう。必ずだ!」
そう力強く言い切ったその瞬間、この状況のシュールさとは裏腹に、運命の歯車はくるくると回り出し、”出会い”という仕組みが動き出す。
当の本人らにとっては自覚のしようもないことではあるが、
今、何かが変わろうとしていた。