第二十章
もう一度瞼を持ちあげた時、そこには極彩色があった。
僕の右目が赤くなってる。それは、自分の姿を見たわけでもないのに、確信できた。
風を切るような音がする。大勢の人間が、一斉にこちらに向かってくるような振動音。
これは現実?それとも幻想?
判別ができず、吐き気がする。頭の中で危険の文字が躍る。
――ここはどこだ?
極彩色に目が慣れたころ、僕はようやく周囲を観察し始める。
どうやら、僕は極彩色の宙に浮かんでいるようだ。
この極彩色の空間はどこか宇宙染みていて、広さの概念を掴みきれない。
様々な色が、コントラストが、視界のなかでぶつかり、歪み、拡大する。気が狂いそうだ。
否、僕は既に正気ではないのかもしれない。巨大な天使が見える。
途方もなく広がる極彩色の世界に浮かび上がる真っ白な天使。
どこかの帝国の軍隊ごと包みこんでしまえそうな白鳥の羽根に、波打つ黄金の髪。
裸の身体を隠すよう、身を丸めているせいで、顔を確認することができないが、美しい。
それは狂気の世界に蹲る、神聖そのものだった。
――あなたは・・・ダレ?
僕はそう問いかけるのだが、声が出ない。声帯ごと奪われてしまったかのようだ。
『僕はカヅキのアシアトだよ』
なのに天使は、顔を伏せたまま、僕の問いに答えてくれた。
――アシアト・・・?天使じゃないの?
『そうだね。人間の作った神話の世界の中では、天使と呼ばれることもあるよ』
顔を見せることなく、アシアトは答える。
自分は天使であり、魂の記録なのだと。
『僕たちアシアトは、この地球に存在する全てに宿る・・・無意識の集合なんだ。
僕はカヅキの魂の一部。カヅキが築き上げてきた命の証。
だからこそ、僕たちは自らをアシアトと名乗る』
――ここは・・・どこなの?
再度、僕は問う。極彩色のせいで、思考がまとまらない。眠気のような気だるさが、明確な意識を奪っていく。
一刻も早く、この場所から脱出したいと思うのだが、同時に奇妙な心地よさも感じる。ようは、身体の自由が利かないのだ。
『ここはね・・・カヅキの無意識の世界だよ』
――無意識?
耐え切れず、僕は瞳を閉じた。赤くなった右目から強い熱が放出し、それが身体全体にじんわりと広がって行くようだ。
『カヅキがゲノムのアシアトに触れた衝撃で、意識と無意識の境界が歪んでしまったようなんだ。
本来アシアトは、対象の無意識から出ることはないんだけど・・・境界さえ消えてしまえば話は別』
アシアトは本来、対象との邂逅を強く望む習性があるのだという。
『会いたかったんだよ。カヅキ。君に警告しなくてはいけないことが山ほどあるんだ』
――・・・警告?
『そう、警告。カヅキは今、神様に逆らう行いをしようとしている。気付いてた?』
――まさか・・・
瞳を伏せたまま、僕はゆるゆると頭を振る。
僕は平凡に、健全に生きているだけのはずである。
僕はどちらかと言えば無神論者だったのだが、それでも神様を怒らせるような生き方はしてないと断言できる。
『うん。ゲノムに会うまではね』
――ゲノム・・・?
『カヅキ、記憶を失ったゲノムは確かに、警戒する必要もないように見えるかもしれない。
でも忘れないで。あいつは神様の家からパンドラを奪い、自分のアシアトを殺した』
――アシアト・・・殺し?
『そう。カヅキも見ただろう。宿り主に手をかけられたアシアトの成れの果てを。
おぞましく、浅はかに墜ちた化け物を』
怒りなのだろうか。そう語る声は僅かに震えていた。
『これ以上ゲノムに・・・アシアト殺しに加担するな。
幸い、カヅキはキボウツキの力を得た。ゲノムより早くパンドラを手に入れ・・・
そしてそれを神様の元に返却するんだ』
そうすれば・・・
僕のアシアトは言葉を続ける。
『すれば、この世界を襲う災厄は防げるのだ』と。
――・・・そんな。待ってよ、それってつまり・・・
敵は、僕の本当の敵は、ゲノムだっていうの?
あの、ひたすらに暢気な幼児を警戒しろと、僕のアシアトはそう言っているのだ。
『敵とまでは言わないよ。ただ、ゲノムをあまり信じちゃだめ。
アレは間違いなく、この世界の悪なのだから』
そう言って、アシアトはその翼で、そっと僕を包みこんだ。
柔らかで、心地よい感覚。もう耐えきれない。僕は眠りに落ちて行く。
――待って・・・どういうことなの?
消えゆく意識の中で、僕は無謀にも問いかけ続ける。
――あなたはゲノムの何を知ってるの?キボウツキって何なの・・・パンドラって・・・?
『・・・それはね』
アシアトは答える。だがしかし、保てない意識の中で遠のいて行く声を、僕はもう聞き取ることができなかった。
―――ヴォオオオン・・・
遠くから、何かが近づいてくる音がする。
―――オォオオオオオン・・・
聞きなれた音。これは・・・車?
「・・・あ」
覚めた僕の視界に、既にアシアトはいなかった。
僕の影も、本来の唯一に収まっている様子だ。
僕は夢を見ていたのか。そういえば、どことなく頭がぼうっとしている。恐らく、今の僕は寝惚けているに違いない。
気が付けば、一台のクラウン車が公園に近づいてきていた。
「そうだ・・・野村さんのお迎えが来たんだ」
僕の膝の上で眠っている少女の呼吸を、改めて確かめてみる。
膝ごしに、野村さんの小さな心音が聞こえてきた。
倒れた当初よりかは、随分と落ち着いている様子である。
僕はほっと一息。
公園脇に停車したクラウン車を確かめ、僕は座ったまま腕を上げる。
車の助手席の扉が開き、そこから、青ざめた表情の美女が降りてきた。
野村さんのお母さんである。
「黒沢さん・・・!優香は!?」
慌てて駆けてくる彼女の様子に、僕は意を決して立ちあがる。
ちょっと恥ずかしいが、野村さんをお姫様だっこしてみたのだ。
一刻も早く娘の安否を知りたい筈のお母さんの元へ、野村さんを抱えたまま歩み寄って行く。
「・・・優香!」
僕の腕に縋りつくようにして、娘の顔を覗き込む母親の姿を前に、僕は僅かに視線を移動させる。
丁度その時、僕は、僕の肩から、大きな白い羽根が零れ落ちるのを見た。
――夢じゃ・・・ないのか?
誰にも気づかれないよう、僕はそっと息を呑む。
・・・あれが夢でないのなら、僕はこれから何をするべきなのだろう。
唯一の味方だと思っていたゲノムこそが、今度は僕の警戒すべき相手なのだと言う。
だがしかし、僕が今更、、簡単に信じられるわけはなかった。
既に僕とゲノムの間には、信頼感が芽生えているのだ。
確かにゲノムは、らない相手ではある。しかし、悪いやつでないことだけは確かだ。
――・・・僕は・・・ゲノムを信じたい。
心から、僕はそう思う。
・・・それでも、胸の中に渦巻く正反対の感情に翻弄される僕は、確かに存在しているのだった。