第十九章
――どうしよう・・・
これは困ったぞ。と、僕は自分の頬に手を当てる。
公園にある時計は、既に七時半を回っていた。
ゲノムとの連携を取るためにも、僕は今、学校沿いから離れるわけにはいかない。
だがしかし、人通りが増えてくるこの時間、無意味にそこらをうろついているのも変に見られてしまうだろう。
そう考えた僕は、学校の裏手にある小さな公園に目を付け、そこを待機場所として利用することにした。
砂地に長く影を落とす滑り台の裏、飲料メーカーのロゴの入ったベンチへと歩みより、僕は座り込む。
足元にまとわりついていた影は、遊具の落とす影に隠され、今はもう見えない。
その事実に、僕はなんとなく安堵。息をついて、軽く目を伏せた。
「ふぁ・・・」
不意に、欠伸が漏れる。そういえば今日は随分と早起きをしたのだ。
成長期真っ盛りの僕にとって、八時間以下の睡眠は少々ハード。ここらで少し、居眠りでもしてしまおうか。
そんなことを考え、うつらうつらと舟をこぎ出したその時である。
僕は自分の膝に圧し掛かる重みと、鼻孔をくすぐるようなふんわりと甘い香りに気づいた。
閉じかけた瞼を戻し、そして僕は唖然とする。
「・・・の・・・野村さん!?」
打ち寄せた波が引くように、僕の意識もサァーっと音を立てて覚醒する。
そう、何がどうなっているのかわからないが、気が付けば僕の目の前に、野村さんが倒れていたのだ。
・・つまり、僕の膝ON野村さんの頭部。ビコーズ膝枕。
驚くと同時に、正直ちょっと恥ずかしい。
「え・・・?なんで野村さんがここに・・・ていうかなんで制服・・・?」
学校指定のジャージ姿の自分を棚に上げるようで悪いが、
登校日でもないこの日、この時間に、学生服で外にいるなんて、奇妙この上ない。
しかも、突然僕の膝に倒れこんでくるなんて何事だろう?
過剰なボディタッチを好む鴬谷さんならともかく、野村さんがふざけてこういうことをするとは到底思えない。
「・・・うぅ・・・くろさわ・・・先輩」
不意に名前を呼ばれ、僕は反射的に野村さんの薄い肩に触れる。
軽く揺すってみるが、反応なし。呼吸も浅く、額に触れれば、じっとりと汗ばんでいることがわかる。
良く見れば顔色は普段以上に悪くて、唇の色が青い。
僕の名前を呼んだのはただのうわ言だったのか、どうやら既に意識はないようだ。
ここにきて、僕はようやく現実を直視する。
何はともあれ、野村さんの様子が異常であることは明らかだ。
こういう時はとにかく、救急車を呼ぶべき・・・否、野村さんの家族に知らせる方が先決だろう。
「まいったな・・・僕がケータイ持ってたら良かったんだけど・・・」
そう呟き、僕は周囲に視線を巡らせる。携帯電話の普及に伴い、この辺一体の公衆電話の数は激減している。
僕のようなケータイ非所持の人間にとってみれば、随分生活しづらい時代になったものだ。
こういう緊急事態に、連絡を取る集団がないなんて困る。
「いや・・・仮に電話できたとしても、僕、野村さんちの電話番号知らないんだから、意味ないか・・・」
更にそう呟き、うーんと唸る。
野村さんを背負って、彼女の家まで送ってあげるという手もあるのだが、
いかんせん、僕自身、いつ敵に狙われるのか定かではない身分なのだ。
下手なことをすれば、野村さんごと闘いに巻き込まれることになりかねない。
それはそれで、大変危険といえるだろう。
「あー・・・どうしよう。とりあえず、誰か人を呼んで・・・」
そして僕がそう思考を巡らせながら頭を押さえ、視線を下ろしたその時だ。
僕は足元からこちらを見つめる、暗い二つの瞳に気づいた。
「・・・っげ!」
キタコレ。アシアトである。
何故今の今まで、影のふりをして大人しくしていたのか謎だが、よりにもよってこのタイミングで姿を現してしまったようだ。
「か・・・勘弁してよっ!こっちには病人がいて、それどころじゃないんだからっ!」
攻撃を仕掛けられる前に、先手を打っての拒否である。
膝の上に野村さんがいるので、逃げるにも逃げられない。ひたすら声と表情だけで威嚇してみるが、結局こういう努力は空回り。
アシアトは影に果てていた自らの身体を、のそり持ち上げ、僕の膝すれすれまでその身を伸ばす。
黒い指先が、野村さんの青白い頬に触れるのを見て、僕は生きた心地を忘れた。
「やめろ!!」
・・・こいつら、野村さんまでも巻き込むつもりなのか?
だとしたら、僕は闘わなくてはいけない。今の僕には、野村さんを守る責任があるのだ。
僕がそう身構える視界の中で、アシアトの黒い指は野村さんの身体をゆっくりとなぞり・・・
そしてついには、彼女の手に握りしめられている鞄へと触れた。
『カヅキ・・・この中』
「・・・へ?」
突然話しかけてきたその声に、僕は間抜けに口を開く。
『ボーっとしてないで、鞄の中を探すの!』
暗い眼に睨まれ、僕は慌てて指示に従う。
震える手で、通学用の鞄を手繰りよせ、中を改めてみれば、
そこにあるのは、教科書とノートが数冊ずつと、スケッチブックが一冊。そして・・・
「あ・・・ケータイ」
鉱石のストラップをつけた、真っ白な携帯電話が一機、確かにそこに存在していた。
「そ・・・そっか。これで野村さんちに連絡すればいいんだ!」
それに気づいた僕に、アシアトは満足げに頷く。
そうなのだ、中流家庭以下の僕ならともかく、深層の令嬢である野村さんがケータイを所持していない筈がなかった。
僕も随分パニックに陥っていたのだろう。こんな簡単なことに気づけないでいたなんて恥ずかしい。
折りたたみ式のケータイを開き、メニュー画面から電話帳の機能を呼びだす。
"お母様"の名称で登録された番号を発見。これで間違いないだろう。
発信ボタンを押し、通話音を聞く。
アシアトは、落ち着かないのか、僕がケータイを操作する様子を、ソワソワと覗きこんでいた。
――・・・なんだこいつ。喋り方どころか、性格まで変わってないか?
先程までの、歪な口調と、敵意に満ちた態度が嘘のよう。
今のアシアトは・・・なんというか、人間くさいような気がする。
『も・・・もしもし!?優香、今どこに居るのですか!?』
不意に通話音は途切れ、聞こえてきたのは鬼気迫る女性の声。野村さんのお母さんで間違いないだろう。
どうも、野村さんは家族に内緒で朝から家を出てしまったようで、
娘の不在に気づいた野村家は今、大パニックに陥っている模様。
「あ・・・もしもし、すみません、僕、昨日お世話になった黒沢です」
『・・・え・・・あら?くろさわ・・・さん?優香は?』
とりあえず丁寧に名乗る僕。途端、野村さんのお母さんは声のトーンを下げた。
きっと、今彼女の頭は疑問符でいっぱいなのだろう。
僕はなるべく解る範囲で、現状を説明してみる。
学校近くの公園で野村さんが倒れたということ。
今、意識を失ってしまっているということ。
『そ・・・そうなのですか。優香は多分、朝の薬を飲んでいませんから、原因はそれですね。
では、直ぐに迎えに参りますので・・・申し訳ございませんが、それまで優香を宜しくお願いします。』
「は・・・はい」
お母さんの判断の速さから察するに、野村さんにとっては、こうして倒れることも日常的なことなのだろう。
切れたケータイを折り畳み、僕は改めて野村さんを見る。
健康だけが取り柄の僕にとって、病気の人というのは未知だった。
触れかたが分からない。どう接すればいいのかもわからない。
昨日、普通に話していた筈の野村さんと、目の前で死んだように眠っている野村さんの姿が一致しなくて、
何故だか寒気がする。
「野村さん・・・もう直ぐお迎え来るっんだって・・・大丈夫だから・・・」
たどたどしく話しかけつつ、僕は指先で野村さんの髪を梳く
当初香った甘い香りは、野村さんの使っているシャンプーの香りだったようだ。
なんだろうな・・・これは桃の匂い?
『平気か?カヅキ、その女の子は平気か?助かるのか?』
名前を呼ばれ、僕は顔を上げる。
黒目がちな瞳と真っ赤な口。見た目だけなら、先程襲いかかって来たアシアトと何一つ変わらないのに、なんなんだろう、こいつは。
「あ・・あぁ。おかげで、大丈夫みたいだよ。ありがとうな」
『そう・・・それなら・・・よかった』
呟き、ほんのりと目を細めるアシアト。
・・・うーん。これは調子が狂ってしまう。
「あのさ・・・お前、なんなの?」
ぽりぽりと頭を掻き、僕は耐え切れず疑問を爆発させる。
「さっきまでパンドラのためなら僕を殺すって・・・悪魔みたいな声だして追いかけてきた癖にさ。
いきなり僕を助けてくれるし、普通に野村さんのこと心配してるし・・・まるで別人じゃん?」
『別人?』
僕の言葉に目を見開き、そう返したアシアトは、その数瞬後、愉快そうに声を立て、笑いだした。
『あははっ。そりゃそうだ。僕は確かにアシアトに違いないけど、ゲノムに憑いてるわけじゃないからね』
「・・・へ?」
意味が解らず、聞き返す僕。
アシアトは目を細めたまま、僕に向かってその黒い手を差し出してきた。
『僕は・・・カヅキ、君のアシアトなんだよ』
アシアトから差し出された手は、陽炎のように揺れて見えた。
「・・・僕の・・・アシアト?」
確かに、目の前にいるこいつは、先程僕を追いかけてきたアシアトとは違う。
穏やかで中性的な声。それに加えて、僕が親しみやすい雰囲気を持ってるような・・・
「説得力は・・・あるね」
そう頷いて、僕はアシアトから差し出された手を取った。
それは意味のない、ただの握手にすぎない。少なくとも、僕はそのつもりだった。
・・・なのに。
気が付けば僕のいる世界は、僕のアシアトごと一緒に、反転してしまっていた。