第十八章
早朝の光は淡く、眠る少女の白い頬に、繊細な指先を当てる。
窓の隙間から紛れ込んだ柔らかな風が、白いレースのカーテンを二度持ち上げ、ゆるりと止まった。
時刻は、直に午前七時といったところだろうか。優香は今、夢の中にいる。
『はい。それじゃあ野村さん、起立してテキストの三ページを読んで下さい』
壇上に立った英語教師が言う。
ここは学校。優香の所属する1-Cの教室で間違いないようだ。
優香の手元には、開かれた教科書。周囲の生徒の視線に僅かに緊張し、背筋を伸ばすと、優香はゆっくりと立ち上がった。
『ディスイズ ア ペン』
中学一年生の英語教科書。初歩中の初歩であるこの一文を丁寧に読みあげる。
これに対し、教師は「よろしい」と一言。優香に席に着くよう指示を出した。
『はい。"これは、ペンです"の英文ですね。
これくらいの英語、今時、皆さんくらいの年齢で、知らない人の方が少ないと思いますが・・・』
そう話しつつ、教師は生徒たちに背中を向け、「THIS IS A PEN」と板書した。
『はい!せんせぇ。こんな簡単な英文、今更習わなくても知ってます。もっと先のほう授業してください』
不意に、前の席の生徒が挙手し、笑い交じりでそんなことを言う。
それを受けて、何名かの生徒が無言で頷いているのが見えた。
すっかり困った顔をした教師には悪いと思うが、優香もこれらの生徒たちと同意見だった。
特に、入院生活中に教科書を読破してしまった身からすれば、こんな初歩的な授業、退屈で仕方がない。
『・・・うーん。そうは言ってもねぇ。この簡単な英文こそが、英文法の基礎なわけだから。
ここをしっかり理解しておかないと、二年生になってからの複雑な英文についていけなくなるんだよ』
ぽりぽりと頭を書いて、教師はそう宥める。不意に、優香の好奇心が疼いた。
『はい、先生。二年生になって習う英文ってどんなのですか?』
一年で習う内容を押さえてしまった優香だからこその興味である。折角だからこの際、1ランク上の英文というのを知りたかったのだ。
そして、そんな優香の質問に、教師は笑顔で答える。
『二年生で習う英文・・・それはね。"ディス イズ ア しゃーあああっぷぺんすぅぃいいいいる"』
満面の笑みを浮かべた壇上の人は、途端、教師から一転。現役二年生の黒沢カヅキその人に変化していた。
英文の後半部分など、完全なるシャウトである。
――え?複雑になるのって、その部分だけ?
衝撃の余り、開いてしまった瞼。自室の天井が視界に入ると同時に、優香は自分の意識が急速に覚醒していくのを感じる。
「・・・・っ!・・・せんぱい?」
瞬間、優香は気づいた。先程の夢、どうやら最後の方だけは現実だったらしい。
完全に目を覚ましたはずの今もなお、優香の耳にはカヅキのシャウトが聞こえていたのだ。
慌ててベッドを飛び降り、優香は窓枠にかじりつく。見えるのは朝闇に包まれた長閑な風景。
見慣れた筈の朝の景色の中に、憧れの先輩の姿があるのではないかと視線を躍らせた優香の目は、
次の瞬間には予想外の影を捉えていた。
薄暗い空の下、優香の家の前の道路を、猛烈な勢いで駆け抜けて行く、クリーム色の固まり。
「あ・・・あれは・・・白貴族アルフィー?」
優香が見間違えてしまうのも仕方がないのかもしれない。
巨大なテディベア、アルフィーを背負ったカヅキの姿は、高い所から見下ろした時点で、歩くテディベアにしか見えなくなるのだ。
「え・・・え?どういうことです??」
混乱に頭を押さえつつ、優香は精一杯叫ぶ。
「あなた・・・!本当は動けるくせに、今まで私を騙していたんですね!あんまりですっ!」
そして混乱のあまり、優香、ついに妄想モード突入である。
「・・・はっ!わかりましたよ。黒沢先輩のピンチなんですね!さっきの悲鳴(?)といい間違いなさそうです!
白貴族アルフィーは今や黒沢先輩の僕ですから、主人を助けるために、玩具の世界の禁忌を破って動き出したんですね!?
かぁああっこいいですっ!!」
薄暗い部屋の中でぎゅっと拳を握りしめ、耳まで真っ赤に染めての熱演説。どうやらこの少女、暴走するのは人前に限らないらしい。
「そうとわかったら、私もこうしてはいられないです。先輩のためにも、アルフィーの後を追わねば!」
優香は決心し、きょろきょろと自室を見渡す。壁に掛けてある学生服に目が行った途端、優香は迷わずそれに袖を通した。
普通の同世代よりも、学生生活に対して強い憧れを抱いている優香にとって、学生服とは即ち勝負服なのであった。
これを着ると、弱弱しい自分の姿も、多少立派に見えるような気がしているのだ。
「待ってて下さい、先輩。野村優香、今いきます!」
髪を結い、赤いリボンタイをきゅっと締めれば、そこに昨晩までのか弱い少女の面影はない。
スケッチブックの入った学生鞄を手に取り、優香は家を出た。
家族はまだ眠っている様子で、誰一人として彼女を引きとめる人間はいない。
少し冷たい朝の空気は、若干の心細さと一緒に、優香の肺に流れ込んでくる。
深く深呼吸、優香は誰もいない道路を歩き始めた。
アルフィーの走って行った方向を考えれば、彼の行きつく先は恐らく、学校の正門あたりになるだろう。
「もしかしたら・・・先輩は爆弾魔と遭遇してしまったのでは・・・?」
空想に不安を陰らせつつ、優香は呟く。
「だとしたら大変。せ・・・先輩が絶体絶命に!」
勝手な予想を膨らませる優香の足取りは、自然速足に。
元々体力のない優香にとっては、これだけでも結構しんどいようで、直ぐに息も切れ切れである。
「は・・・っはっ・・・っくぅ」
いや、切れ切れどころではない。その顔面は既に蒼白だ。
「あ・・・あぁ。私としたことが・・・朝の薬を・・・忘れていました・・・」
震える唇から、力のない声が溢れ出す。心臓の病が元で、優香は血圧に問題がある。
寝起きに急激な運動をするなど、ほぼ自殺行為だったのだ。
後悔してももう遅く、優香は酷い吐き気と頭痛に襲われていた。
苦痛の波は収まることがなく、このままでは意識を失うのも時間の問題だろう。
「う・・・は・・・ぁ」
倒れるのなら、せめて人の迷惑にならないところで。
酸素の薄くなった脳みそをフル回転させ、優香はそんなことを考える。
自分のせいで、騒ぎがおきるのは嫌なのだ。
――・・・大丈夫。これくらい、少し寝てれば、良くなるんだから。
自らの意識にそう囁きかけ、優香はブロック塀に手をつき、歩く。
ブロック塀が途切れた先に、小さな公園を確認し、ほっと一息。
あとはもう何も考えず。
優香は小さなベンチの上に倒れ込んだ。
「黒沢・・・先輩」
そして、少女の意識が途切れる間際に零したその名前の主。
黒沢カヅキは今、目の前に倒れ込んだ少女を前に、息を呑むしかなかった。