私は初めて、怒りました
使者が来た。
ヴァルトシュタイン家の紋章をつけた馬車が、朝霧の中を屋敷の門前に止まった。中から降りてきたのは、実家の筆頭執事ハインリヒ。お父様の右腕と呼ばれる男だ。
私は応接間で出迎えた。クラウス様は執務中だったが、ヨハンが知らせに行ってくれた。
「お久しぶりでございます、セラフィーナ様」
ハインリヒは丁寧に一礼した。けれど、その目は値踏みするように私を見ていた。
「お元気そうで何よりです。——さて、単刀直入に申し上げます」
ハインリヒがテーブルに書状を置いた。
「旦那様より、セラフィーナ様にお帰りいただきたいとの仰せです。一時的に、でございます。ローザリンデ様の婚約披露に際し、ヴァルトシュタイン家の全員が揃う必要がございます」
「……帰る?」
「左様です。一週間ほど。夜会での振る舞い、ローザリンデ様の衣装選びの補佐、来賓への挨拶状の作成——セラフィーナ様のご能力が必要です」
能力。
その言葉の響きに、胸の奥がざわついた。
「加えて——先日のお返事について」
ハインリヒの声が低くなった。
「レーヴェンハルト公爵からの回答は、旦那様のお気に召しませんでした。鉱物資源の情報は、ヴァルトシュタイン家の正当な要請です。それを拒否するとは——セラフィーナ様の教育が行き届いていない証拠かと」
教育が行き届いていない。
つまり——あの返書は私の失敗だと。クラウス様が書いてくださったのに、罪は私に来る。
「セラフィーナ様。旦那様は申しておられます。『道具は正しく機能しなければ意味がない』と」
——道具。
また、その言葉。
お父様は私のことを、はっきりとそう呼んでいるのだ。
今までは気にならなかった。道具で構わないと思っていた。完璧に機能することが、私の存在意義だったから。
でも今は——
市場で林檎をくれた女性の顔が浮かんだ。「家族みたいなもの」と言ってくれた声。リーゼの「優しさがあるんです」という言葉。クラウス様の「道具として使うことを許可していない」という声。
道具。
道具。
道具として正しく機能しろ。
「——断ります」
自分の声が聞こえた。
ハインリヒの目が見開かれた。
「……何と仰いました?」
「断ります。帰りません」
心臓が早い。手が震えている。でも、声は止まらなかった。
「私はレーヴェンハルト家の人間です。ヴァルトシュタイン家の道具ではありません」
「セラフィーナ様——お立場をお忘れですか。あなたは公爵家の——」
「公爵家の長女です。道具ではありません」
声が——震えていた。けれど、大きかった。自分でも驚くほど大きな声だった。
怒っている。
私は、怒っている。
これが怒りなのだと、体が先に理解していた。胸が熱い。指先が冷たいのに、体の芯が燃えている。
テーブルの上の水差しが——凍った。
一瞬で、表面に霜が走り、水が固まった。冷気が広がって、窓ガラスに氷の花が咲いた。
ハインリヒが椅子から立ち上がった。怯えた顔で後ずさっている。
「な——何を——」
「大丈夫です。怪我はさせません」
自分でも驚くほど冷静な声だった。怒りと冷静が同時に存在している。初めての経験だった。
「ですが、お帰りください。お父様には——『セラフィーナは道具をやめました』とお伝えください」
◇
ハインリヒが帰った後、応接間に一人で残っていた。
凍った水差し。氷の花が咲いた窓。冷たい空気。
——やってしまった。
手を見ると、震えていた。怒りの余韻がまだ残っている。
完璧な令嬢は怒らない。感情を見せない。取り乱さない。
私は今、その全てを破った。
「セラフィーナ」
振り返ると、クラウス様が入口に立っていた。いつからいたのだろう。
「……聞いていらっしゃいましたか」
「途中から」
「……申し訳ありません。応接間を凍らせてしまいました」
「構わない。水差しは替えがある」
クラウス様が近づいてきた。凍った空気の中を、躊躇なく歩いてくる。
「窓も直せる。水差しも直せる。だが——」
目の前で、足が止まった。
「あなたが怒れたことは、直す必要がない」
「……え?」
「怒ることは、壊れることじゃない」
その言葉で——何かが決壊した。
目から涙が溢れた。声を上げて泣くことはできなかったけれど、涙だけが止まらなかった。
怒った。初めて怒った。家族に初めて「嫌だ」と言った。
それが正しかったのか、間違っていたのか、わからない。
でもクラウス様は「直す必要がない」と言った。
「少し——話してもいいですか」
「聞く」
クラウス様が椅子に座った。私も座った。凍った応接間で、二人だけで。
「……クラウス様は、怒ったことはありますか」
「ある」
「どんなときに?」
クラウス様は少し間を置いた。
「父が——先代の公爵が、この領地を荒廃させたとき。領民が飢え、母が病に倒れたとき。怒った。けれど、怒りだけでは何も変わらなかった」
「お母様は——」
「亡くなった。私が十五のときだ」
「……」
「父は社交と浪費に明け暮れ、領地を省みなかった。母は領民のために働き続けて、体を壊した。私が継いだとき、この領地は凍りついていた——文字通りに」
文字通り。
この霧と霜は——そういうことだったのか。
「魔力が関係しているのですか」
「この土地には古い魔力が根づいている。領主の心が荒めば土地も荒れる。父の無関心が、霧と霜を呼んだ。私が継いでから少しずつ治めているが——まだ足りない」
「だから庭に花がないのですね」
「ああ。春を呼ぶには、まだ時間がかかる」
クラウス様が窓の外を見た。凍った庭。花のない大地。
「だが——最近、変化がある」
「変化?」
「庭に芽が出た。三年ぶりだ。あの日——あなたが笑った日から」
あの日。ゲルダが膝に乗って、私が笑った日。あの芽は——
「あれは私の——」
「わからない。だが、この屋敷に新しい感情が生まれたことは確かだ。あなたの涙も、笑いも、今日の怒りも——この土地にとっては、春の兆しかもしれない」
私の感情が、春を呼ぶ。
凍った土地に、凍った令嬢の感情が——春を。
皮肉な話だ。けれど——嬉しかった。
嬉しい。
私は今、嬉しいと思っている。
応接間の窓の氷が、ほんの少しだけ溶けて、雫が一筋流れた。
「……クラウス様」
「何だ」
「私、今日——初めて怒りました」
「ああ」
「怖かったです。でも——悪くなかったです」
クラウス様が、あの微かな口角の上がりを見せた。
「悪くない。——上出来だ」
凍った応接間で、私たちは向かい合って座っていた。
外では、庭の泉の氷にひび割れが入っていた。ゆっくりと、確実に。
何かが溶け始めている。
この土地も。
私も。




